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「……ごめんねシェルちゃん、ちょっと物語にあてられちゃったみたい。苦しくなかった?」
私の気遣わし気な視線に気が付いていないはずもないのに、そう言って私を解放したレクス先輩の表情はすっかりいつも通りだった。さっき、その表情の下に抱え込んだものに確かに触れられた気がしたのに、まるでそれが夢か幻だったみたいに。
でもそれ以上踏み込むことを彼が拒んでいる気がして、私はただそっと首を横に振った。ゆっくりと室内が明るくなってくればそれが当然のようにレクス先輩が先に立ち上がって、ずっときつく抱きしめられていたせいか、なんだか寒々しく感じてしまう。
そんな私を見下ろして、彼は手を差し伸べるといつも通りの笑みを浮かべた。
「最後の方俺のせいでちゃんと観れなかったけどさ、新鮮で面白かったね。また一緒に観よっか」
「あ……はい、勿論です」
どうにか微かな笑みを浮かべながら、とても心の中までは平静を保つことができなくて、彼の手を取って立ち上がりながらも私の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
彼があの時言い掛けた言葉は、多分自惚れじゃなければ、私がずっと欲しいものだった気がするのに。結局口を噤んでしまった彼は、何だかすごく苦しそうで、辛そうで──ラン先輩の言葉が、今になって真実味を帯びて心に浮かび上がってきた。
『言わないのは偶然じゃなくて、多分レクスなりの理由があるんじゃないかな』
あの時はまだ懐疑的だったけれど、本当にそんな理由があって、あんなにレクス先輩が苦しそうにしていたのだとしたら……一体それは、どんなものだというのだろう。
彼の手を借りて段差を降りながらも、その事がずっとぐるぐる頭を回っていて、私はきっと見るからにぼんやりしていたと思う。だから彼に覗き込まれて、控えめに声を掛けられるまで、私は鏡面のすぐ傍まで来ていたことにすら気が付かなかった。
「……シェルちゃん、映像魔石回収していい? 返却遅れると当分借りれなくなっちゃうでしょ」
「え、……あっ、すいません、私やりますっ」
映像魔石を借りる時も、映像室の予約を取る時も、回収はしっかりするようにと念押しされていたというのに、そんなことすら忘れてしまうなんて。
ちゃんとしなきゃ、と自分を叱咤してから慌てて鏡に向き合えば、色鮮やかに物語の住人の生き様を映し出していた鏡面はすっかり平静を取り戻していて、相変わらず私とレクス先輩だけをその世界から弾き出している。
私が断りを入れてからそっと繋いでいた手を離して、嵌め込まれた映像魔石を回収しようと伸ばした腕だって、当然映ることはなくて、……そのはず、だったのに。
「……え、?」
ぐにゃ、と鏡面が歪んだのは、本当に一瞬のことだった。まるで水の入ったバケツに腕を入れて撹拌したみたいに荒々しく波打った鏡面は、映像室の像をうねらせて、その色彩を混ぜ合わせては構築し直していく。
そんなことあるわけないのに、鏡面に吸い込まれてしまうんじゃないかと思ってしまって咄嗟に後ずされば、そんな私にはお構いなしに鏡は目の前で新しい何かを組み立て始めた。
息を呑めば、どくりと思い出したみたいに心臓が跳ねて、背中を一筋汗が伝う。……それが、人の形を模り始めたことに気が付いてしまったから。
辛うじて人だと分かるくらいのシルエットだったはずのそれは、どんどん細部の色彩の補強がされて、精巧な像へと変わっていく。
あまりの驚きに声ひとつ出せないままの私の前で、鏡の中、さらりとその髪が揺れて、……その金色に、見覚えがあって。
「、……私……?」
肩辺りまで伸びた癖のない金髪に、それを彩る雫型の魔石。なんの変哲もないペリドットの瞳。
生まれてこの方嫌というほど向かい合ってきたその顔は確かに自分のもので、それなのにおかしな話だけれど、どこか余所余所しく感じた。
鏡に自分が映るなんて当たり前のことで、だから私が映し出されているだけなら、ただ映像室の鏡の不具合かもしれないと思うだけだっただろう。……でも。
鏡の中の私は、とても思い詰めたような悲しげな顔をしていて、俯くその頬には幾粒も涙が伝っていく。緑の瞳が溶け落ちてしまうんじゃないかと思うくらい、それはとめどなく滑り落ちて。
相手は自分なのに、見ていて酷く胸が痛くなるくらいに悲痛な色を浮かべたその瞳と視線が噛み合うことはなく、鏡の中の私はこちらをすり抜けて、どこかを見つめているようだった。
その唇が、一度強く噛み締められて、それから、……とても馴染みのある言葉が、そのわなないた唇で象られた。声は聞こえないのに、はっきりと。
『……レクス先輩』
「シェルちゃん」
ふと、視界が真っ暗になって。いつの間にか詰めていた息を一度吐き出せば、苦しさを思い出したみたいに呼吸が荒くなる。目元を覆う温かい何かがレクス先輩の掌だということに気が付いて漸く、私は現実に引き戻された。
深く息を吐けば、そっとその手は離れていって、そうして幾度か瞬きをして明るさに視界が慣れた頃にはもう、鏡は何事もなかったかのように映像室の像だけを結んでいた。でも、さっき見たものは瞼の裏に焼き付いて離れてはくれない。
まだ混乱したままに後ろを振り仰げば、レクス先輩が心配そうな表情を浮かべてこちらを見下ろしていた。
「……レクス、先輩」
縋るように彼の名前を呼べば、彼はうん、と頷いてそっと優しく私の頬を撫でた。普段は照れてしまうその仕草に、けれど今はその温もりが恋しくて仕方なくて、その手の上に自分のものを重ねて擦り寄ってしまう。
頭の奥の僅かな痛みも、そうしていれば段々遠のいていった。それに漸く少しだけ安心して、ほ、と息をつけば、酷く心配そうな声が降ってくる。
「シェルちゃん、大丈夫? 腕伸ばしたまま急に固まっちゃうから心配したよ。どうしたの?」
「……えっと、先輩は、何も、見えなかったんですか? 今……」
「何もって?」
何でもないように首を傾げたレクス先輩に、つい口籠ってしまう。声すら聞こえてしまいそうなくらいあんなに鮮明に見えていたのに、すぐ後ろにいた彼にだけ見えていなかったなんてこと、あるんだろうか。
どうしても、先日の逃げ出していった影のことを思い出さずにはいられない。あれが幻覚だったかもしれないなんて思いは日を追うごとに強まっていて、今さっきの出来事がそれに拍車を掛けた。
疲れているつもりはないけれど、こうも立て続けに不可思議なことが起こればそれも疑わしくて、どうしても言葉が出てこない。
……彼は私が言うことを、きっと信じてくれる。でも、全てが私の幻覚や妄想だったときに、彼に一体どう思われるのか想像がつかなくて、怖い。
そう思えば、臆病な私にはとても本当のことを伝える勇気なんて湧いてこなかった。
「……何でも、ないです。すいません、私も素敵な物語にあてられて、ちょっとぼーっとしてしまっていたみたいで」
苦笑を浮かべて軽くそう言ってから、返事を待たずにもう一度嵌め込まれた映像魔石に手を伸ばせば、今度は何も起こることなく、あっさりとそれは外れて私の手の中に収まった。
その透明な魔石を顔の横に掲げて、未だ物言いたげな顔をした彼に笑いかけてみせる。いつも通りに、彼といられて嬉しいのだと、それだけを受け取ってもらえるように。
「次は、レクス先輩のおすすめを一緒に観たいです」
意識的に明るい声を上げてみせれば、彼は少しだけ安心したように目尻を緩めた。上手く取り繕えたらしいことに私が内心で胸を撫で下ろしていれば、彼はふと腕を伸ばすと私の掲げた映像魔石をひょいと取り上げて、同じように顔の横に掲げて人懐こい笑みを浮かべてみせる。
「うん。じゃあ、シェルちゃんも好きそうな、いいやつ探しておくね」
「……楽しみに、してます」
その言葉に嘘はないのに、どうしても瞳が揺らいでしまう。彼に対して言えないことが、隠し事が増えていって、彼もきっと、私に隠している何かがある。後ろ手に隠した秘密を握りしめながら、向かい合って笑みを浮かべて、綺麗なものだけ相手に差し出して。……それって何だか、とても寂しい。
もっと彼に近付きたくて、その本心に触れたくて始めたはずの努力だったけれど、何だか彼との距離ばかり浮き彫りになっているような気がした。
さっき見たものは、本当にただの幻覚だったのかな。この間の影も?……確かに、あんなにはっきりと見えていたのに。どうしてもそれだけだとは思えなくて、それに彼が言葉を呑み込んだ時、あんなに辛そうにしていた理由も考えれば考えるほど分からなくて、もう頭の中は混乱しきりで滅茶苦茶だった。
それでも彼が促すままに足を進めれば、やがて物語の世界から帰るための扉へとたどり着く。
「映像魔石の返却、一緒に行こっか」
「あ、…はい」
言いながら映像室の扉をレクス先輩が押し開ければ、廊下の明かりが何だか目に眩しくて、無理に日常へと連れ戻されたような心地がした。まだ、心は非日常の真っ只中にあるのに。
けれど彼が扉の横の台、使用中を示す赤色の魔石に手を翳したのを見て、はっと我に返ると靄を払うように頭を振る。考えたいことは沢山あるけれど、それは後にするべきだ。ただでさえ彼は人の機微に敏いのに、彼といる間ずっとぼんやりしているわけにはいかない。気を取り直すように、私は明るい笑みを繕って声を上げた。
「レクス先輩っ、私がやります」
「ん? 別にいいのに」
「入る時もやってくださったので、出る時くらいは……」
何だかんだと扉も開けさせてしまったし、こうもして貰ってばかりだと気が咎めてしまうと言い募れば、彼はそこまで言うなら、と苦笑して譲ってくれた。
……あんまりせっかくの気遣いを固辞するのも、可愛げがなかったかな。彼に近付こうと思えば思うほど、好かれていたいと気を張るほど、空回ってばっかりだ。
今日の出来事もそうだけれど、最近色んなことがありすぎて、鈍くさい私はジェットコースターに乗ったみたいに振り回されてばかりで。せめて彼の隣では、今だけはいつも通りに振る舞わないとと自分に言い聞かせても、どうしても積み重なった疑問に心が引き摺られてしまう。
魔石に手を翳して、魔力を吸ったそれが緑へと変わっていくのをぼんやりと眺めながら、私はふと心の端に何かが引っかかったのを感じた。
……あれ、そういえば、どうして──
「……ちゃん、シェルちゃん、おーい」
「っ!? はいっ」
「わ、いい返事」
飛び上がって声を上げれば、私を覗き込むようにしていた彼の苦笑と相対して、思わず一歩後退してしまう。自分の手元が目に入れば、彼が声を掛けてきた理由は明白だった。すっかり緑に変化した魔石に、無意味に魔力を注ぎ続けていたのだから。
慌てて手を離しつつ、今だけでも普段通りに振る舞おうと思っていた矢先にこれで、思わず頭痛がしてくる。
「す、すいません……こんなことばっかりで」
「何にも謝ることじゃないよ。でも、疲れてるみたいなのは心配だな。ちゃんと最近眠れてる? また錬金薬の調合に夢中になって徹夜してるんじゃない?」
「うっ……いえ、そんなことは」
思わず言い淀んでしまったのは、今日のことではないとはいえ丁度先日のスカート丈事件の時に、まさしく彼の言う通り眠れない夜を調合に捧げてしまったからだ。私の反応から図星を悟ったのか、彼はちょっと呆れたような苦笑を浮かべた。
「頑張るのはいいけど、身体を壊したら元も子もないよ。次おんなじことしたら膝枕の刑ね」
「ひ、ひざまくら」
それは、する方だろうか、される方だろうか。どちらにしても考えるだけで頭が爆発してしまいそうだったので、私は壊れた玩具みたいにこくこくと首を縦に振った。
もう徹夜はしない……かどうかは分からないけれど、彼には絶対に悟られないようにしよう。そう心に刻んだ私の頭からは、すっかりさっき掴み掛けた何かなんて飛んでしまっていた。
……もしも気がつけていたのなら、きっとその場で私は彼に尋ねていたと思う。
────あの時、先輩に何も見えていなかったのなら。……どうして真っ先に、私の目を塞いだんですか、と。
廊下に足を踏み出した私のすぐ後ろで、彼がほんの僅かに映像室の瀟洒な扉を振り返る。そのターコイズブルーの瞳が悲しげに揺らいで、殆ど音にもならないような声が、その唇から紡がれた。
誰にも、私にも伝わることのないそれは、ただ廊下に落ちて、溶けるように消えていく。
「……ごめんね」
吐息と殆ど変わらないようなそれが、微かに空気を震わせて、彼がほんの一瞬目を閉じる。そうして瞼を持ち上げれば、もうそこに悲しげな色はどこにも浮かんでいない。ローブを翻して私の後を歩く彼は、もう後ろを振り返ろうとはしなかった。
私の気遣わし気な視線に気が付いていないはずもないのに、そう言って私を解放したレクス先輩の表情はすっかりいつも通りだった。さっき、その表情の下に抱え込んだものに確かに触れられた気がしたのに、まるでそれが夢か幻だったみたいに。
でもそれ以上踏み込むことを彼が拒んでいる気がして、私はただそっと首を横に振った。ゆっくりと室内が明るくなってくればそれが当然のようにレクス先輩が先に立ち上がって、ずっときつく抱きしめられていたせいか、なんだか寒々しく感じてしまう。
そんな私を見下ろして、彼は手を差し伸べるといつも通りの笑みを浮かべた。
「最後の方俺のせいでちゃんと観れなかったけどさ、新鮮で面白かったね。また一緒に観よっか」
「あ……はい、勿論です」
どうにか微かな笑みを浮かべながら、とても心の中までは平静を保つことができなくて、彼の手を取って立ち上がりながらも私の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
彼があの時言い掛けた言葉は、多分自惚れじゃなければ、私がずっと欲しいものだった気がするのに。結局口を噤んでしまった彼は、何だかすごく苦しそうで、辛そうで──ラン先輩の言葉が、今になって真実味を帯びて心に浮かび上がってきた。
『言わないのは偶然じゃなくて、多分レクスなりの理由があるんじゃないかな』
あの時はまだ懐疑的だったけれど、本当にそんな理由があって、あんなにレクス先輩が苦しそうにしていたのだとしたら……一体それは、どんなものだというのだろう。
彼の手を借りて段差を降りながらも、その事がずっとぐるぐる頭を回っていて、私はきっと見るからにぼんやりしていたと思う。だから彼に覗き込まれて、控えめに声を掛けられるまで、私は鏡面のすぐ傍まで来ていたことにすら気が付かなかった。
「……シェルちゃん、映像魔石回収していい? 返却遅れると当分借りれなくなっちゃうでしょ」
「え、……あっ、すいません、私やりますっ」
映像魔石を借りる時も、映像室の予約を取る時も、回収はしっかりするようにと念押しされていたというのに、そんなことすら忘れてしまうなんて。
ちゃんとしなきゃ、と自分を叱咤してから慌てて鏡に向き合えば、色鮮やかに物語の住人の生き様を映し出していた鏡面はすっかり平静を取り戻していて、相変わらず私とレクス先輩だけをその世界から弾き出している。
私が断りを入れてからそっと繋いでいた手を離して、嵌め込まれた映像魔石を回収しようと伸ばした腕だって、当然映ることはなくて、……そのはず、だったのに。
「……え、?」
ぐにゃ、と鏡面が歪んだのは、本当に一瞬のことだった。まるで水の入ったバケツに腕を入れて撹拌したみたいに荒々しく波打った鏡面は、映像室の像をうねらせて、その色彩を混ぜ合わせては構築し直していく。
そんなことあるわけないのに、鏡面に吸い込まれてしまうんじゃないかと思ってしまって咄嗟に後ずされば、そんな私にはお構いなしに鏡は目の前で新しい何かを組み立て始めた。
息を呑めば、どくりと思い出したみたいに心臓が跳ねて、背中を一筋汗が伝う。……それが、人の形を模り始めたことに気が付いてしまったから。
辛うじて人だと分かるくらいのシルエットだったはずのそれは、どんどん細部の色彩の補強がされて、精巧な像へと変わっていく。
あまりの驚きに声ひとつ出せないままの私の前で、鏡の中、さらりとその髪が揺れて、……その金色に、見覚えがあって。
「、……私……?」
肩辺りまで伸びた癖のない金髪に、それを彩る雫型の魔石。なんの変哲もないペリドットの瞳。
生まれてこの方嫌というほど向かい合ってきたその顔は確かに自分のもので、それなのにおかしな話だけれど、どこか余所余所しく感じた。
鏡に自分が映るなんて当たり前のことで、だから私が映し出されているだけなら、ただ映像室の鏡の不具合かもしれないと思うだけだっただろう。……でも。
鏡の中の私は、とても思い詰めたような悲しげな顔をしていて、俯くその頬には幾粒も涙が伝っていく。緑の瞳が溶け落ちてしまうんじゃないかと思うくらい、それはとめどなく滑り落ちて。
相手は自分なのに、見ていて酷く胸が痛くなるくらいに悲痛な色を浮かべたその瞳と視線が噛み合うことはなく、鏡の中の私はこちらをすり抜けて、どこかを見つめているようだった。
その唇が、一度強く噛み締められて、それから、……とても馴染みのある言葉が、そのわなないた唇で象られた。声は聞こえないのに、はっきりと。
『……レクス先輩』
「シェルちゃん」
ふと、視界が真っ暗になって。いつの間にか詰めていた息を一度吐き出せば、苦しさを思い出したみたいに呼吸が荒くなる。目元を覆う温かい何かがレクス先輩の掌だということに気が付いて漸く、私は現実に引き戻された。
深く息を吐けば、そっとその手は離れていって、そうして幾度か瞬きをして明るさに視界が慣れた頃にはもう、鏡は何事もなかったかのように映像室の像だけを結んでいた。でも、さっき見たものは瞼の裏に焼き付いて離れてはくれない。
まだ混乱したままに後ろを振り仰げば、レクス先輩が心配そうな表情を浮かべてこちらを見下ろしていた。
「……レクス、先輩」
縋るように彼の名前を呼べば、彼はうん、と頷いてそっと優しく私の頬を撫でた。普段は照れてしまうその仕草に、けれど今はその温もりが恋しくて仕方なくて、その手の上に自分のものを重ねて擦り寄ってしまう。
頭の奥の僅かな痛みも、そうしていれば段々遠のいていった。それに漸く少しだけ安心して、ほ、と息をつけば、酷く心配そうな声が降ってくる。
「シェルちゃん、大丈夫? 腕伸ばしたまま急に固まっちゃうから心配したよ。どうしたの?」
「……えっと、先輩は、何も、見えなかったんですか? 今……」
「何もって?」
何でもないように首を傾げたレクス先輩に、つい口籠ってしまう。声すら聞こえてしまいそうなくらいあんなに鮮明に見えていたのに、すぐ後ろにいた彼にだけ見えていなかったなんてこと、あるんだろうか。
どうしても、先日の逃げ出していった影のことを思い出さずにはいられない。あれが幻覚だったかもしれないなんて思いは日を追うごとに強まっていて、今さっきの出来事がそれに拍車を掛けた。
疲れているつもりはないけれど、こうも立て続けに不可思議なことが起こればそれも疑わしくて、どうしても言葉が出てこない。
……彼は私が言うことを、きっと信じてくれる。でも、全てが私の幻覚や妄想だったときに、彼に一体どう思われるのか想像がつかなくて、怖い。
そう思えば、臆病な私にはとても本当のことを伝える勇気なんて湧いてこなかった。
「……何でも、ないです。すいません、私も素敵な物語にあてられて、ちょっとぼーっとしてしまっていたみたいで」
苦笑を浮かべて軽くそう言ってから、返事を待たずにもう一度嵌め込まれた映像魔石に手を伸ばせば、今度は何も起こることなく、あっさりとそれは外れて私の手の中に収まった。
その透明な魔石を顔の横に掲げて、未だ物言いたげな顔をした彼に笑いかけてみせる。いつも通りに、彼といられて嬉しいのだと、それだけを受け取ってもらえるように。
「次は、レクス先輩のおすすめを一緒に観たいです」
意識的に明るい声を上げてみせれば、彼は少しだけ安心したように目尻を緩めた。上手く取り繕えたらしいことに私が内心で胸を撫で下ろしていれば、彼はふと腕を伸ばすと私の掲げた映像魔石をひょいと取り上げて、同じように顔の横に掲げて人懐こい笑みを浮かべてみせる。
「うん。じゃあ、シェルちゃんも好きそうな、いいやつ探しておくね」
「……楽しみに、してます」
その言葉に嘘はないのに、どうしても瞳が揺らいでしまう。彼に対して言えないことが、隠し事が増えていって、彼もきっと、私に隠している何かがある。後ろ手に隠した秘密を握りしめながら、向かい合って笑みを浮かべて、綺麗なものだけ相手に差し出して。……それって何だか、とても寂しい。
もっと彼に近付きたくて、その本心に触れたくて始めたはずの努力だったけれど、何だか彼との距離ばかり浮き彫りになっているような気がした。
さっき見たものは、本当にただの幻覚だったのかな。この間の影も?……確かに、あんなにはっきりと見えていたのに。どうしてもそれだけだとは思えなくて、それに彼が言葉を呑み込んだ時、あんなに辛そうにしていた理由も考えれば考えるほど分からなくて、もう頭の中は混乱しきりで滅茶苦茶だった。
それでも彼が促すままに足を進めれば、やがて物語の世界から帰るための扉へとたどり着く。
「映像魔石の返却、一緒に行こっか」
「あ、…はい」
言いながら映像室の扉をレクス先輩が押し開ければ、廊下の明かりが何だか目に眩しくて、無理に日常へと連れ戻されたような心地がした。まだ、心は非日常の真っ只中にあるのに。
けれど彼が扉の横の台、使用中を示す赤色の魔石に手を翳したのを見て、はっと我に返ると靄を払うように頭を振る。考えたいことは沢山あるけれど、それは後にするべきだ。ただでさえ彼は人の機微に敏いのに、彼といる間ずっとぼんやりしているわけにはいかない。気を取り直すように、私は明るい笑みを繕って声を上げた。
「レクス先輩っ、私がやります」
「ん? 別にいいのに」
「入る時もやってくださったので、出る時くらいは……」
何だかんだと扉も開けさせてしまったし、こうもして貰ってばかりだと気が咎めてしまうと言い募れば、彼はそこまで言うなら、と苦笑して譲ってくれた。
……あんまりせっかくの気遣いを固辞するのも、可愛げがなかったかな。彼に近付こうと思えば思うほど、好かれていたいと気を張るほど、空回ってばっかりだ。
今日の出来事もそうだけれど、最近色んなことがありすぎて、鈍くさい私はジェットコースターに乗ったみたいに振り回されてばかりで。せめて彼の隣では、今だけはいつも通りに振る舞わないとと自分に言い聞かせても、どうしても積み重なった疑問に心が引き摺られてしまう。
魔石に手を翳して、魔力を吸ったそれが緑へと変わっていくのをぼんやりと眺めながら、私はふと心の端に何かが引っかかったのを感じた。
……あれ、そういえば、どうして──
「……ちゃん、シェルちゃん、おーい」
「っ!? はいっ」
「わ、いい返事」
飛び上がって声を上げれば、私を覗き込むようにしていた彼の苦笑と相対して、思わず一歩後退してしまう。自分の手元が目に入れば、彼が声を掛けてきた理由は明白だった。すっかり緑に変化した魔石に、無意味に魔力を注ぎ続けていたのだから。
慌てて手を離しつつ、今だけでも普段通りに振る舞おうと思っていた矢先にこれで、思わず頭痛がしてくる。
「す、すいません……こんなことばっかりで」
「何にも謝ることじゃないよ。でも、疲れてるみたいなのは心配だな。ちゃんと最近眠れてる? また錬金薬の調合に夢中になって徹夜してるんじゃない?」
「うっ……いえ、そんなことは」
思わず言い淀んでしまったのは、今日のことではないとはいえ丁度先日のスカート丈事件の時に、まさしく彼の言う通り眠れない夜を調合に捧げてしまったからだ。私の反応から図星を悟ったのか、彼はちょっと呆れたような苦笑を浮かべた。
「頑張るのはいいけど、身体を壊したら元も子もないよ。次おんなじことしたら膝枕の刑ね」
「ひ、ひざまくら」
それは、する方だろうか、される方だろうか。どちらにしても考えるだけで頭が爆発してしまいそうだったので、私は壊れた玩具みたいにこくこくと首を縦に振った。
もう徹夜はしない……かどうかは分からないけれど、彼には絶対に悟られないようにしよう。そう心に刻んだ私の頭からは、すっかりさっき掴み掛けた何かなんて飛んでしまっていた。
……もしも気がつけていたのなら、きっとその場で私は彼に尋ねていたと思う。
────あの時、先輩に何も見えていなかったのなら。……どうして真っ先に、私の目を塞いだんですか、と。
廊下に足を踏み出した私のすぐ後ろで、彼がほんの僅かに映像室の瀟洒な扉を振り返る。そのターコイズブルーの瞳が悲しげに揺らいで、殆ど音にもならないような声が、その唇から紡がれた。
誰にも、私にも伝わることのないそれは、ただ廊下に落ちて、溶けるように消えていく。
「……ごめんね」
吐息と殆ど変わらないようなそれが、微かに空気を震わせて、彼がほんの一瞬目を閉じる。そうして瞼を持ち上げれば、もうそこに悲しげな色はどこにも浮かんでいない。ローブを翻して私の後を歩く彼は、もう後ろを振り返ろうとはしなかった。
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