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34.ひた走る
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ふと目を開ければ、甘いスノウモルの香りはゆっくりと遠ざかっていった。
一人帰路に立ち尽くす現実に意識が追いついて、ため息ともつかない息をそっと吐き出す。あの時は、彼の生まれ育った環境のことも何も知らなくて、随分好き勝手なことを言ってしまったものだと思う。暫くして、彼があのソルシエル家の出身だということを知った時は大慌てしたものだった。
……それから、彼が得意でないものは好きでいちゃいけない、なんて思い込んでいた理由に何となく得心がいって、胸が苦しくなって。
レクス先輩はとても努力家で、ちゃんと道を定めて、逆境の中今も自分の力で歩き続けている。だから勝手に過去を気の毒に思ったりあれこれ想像したり、そんなの彼に対して失礼だと何度も振り払ったけれど、それでも暫くは、重いものが胸の辺りを取り巻いてるような気分だった。
……何度か顔を合わせる度、彼が明るい話や楽しい話をいきいきとしてくれるうちに、それは吹き飛ばされてしまったけれど。
それでも時間が経つにつれ、彼がその明るい笑みの下にひとり抱えているものを、もっと知りたいと思うようになって、……できることなら、寄り添いたいと願うようになって。
彼の直向きな努力、魔法への羨望、時折覗かせる寂しさ、そういったひとつひとつへの小さな好意が、ゆっくりと色を変えていった。ふわふわした拠り所のない感情が寄り集まって、恋という確かな名前を持ったときのことを思い返して、思わず目を細める。
「……毎日、会いたくてたまらなかったな……」
実際に話しているときは心臓がばくばくしていて、後から変なことを言ってしまったかもしれないとか、どう思われたかなとかぐだぐだと悩んでしまうのに、少し顔を見ていないだけで、彼のことが恋しくってたまらなかった。
久しぶりに彼の顔を見れた時は自分でも驚いてしまうくらい心が躍って、嬉しくて。恋の行く末なんて考える余裕は殆どなかったし、ちょっとしたことで悲しんで喜んで途方に暮れて、思うようにいかない自分に戸惑ったりもしたけれど。
……ただ彼のことを真っ直ぐ想うことが、すごく楽しくて、尊いことだった。
レクス先輩と話せただけで、その日の夜嬉しくてなかなか眠れなかったことを思い出して、思わず笑みが溢れる。それから大好きな彼の、柔らかな笑みを思い描いて、ふと、切なさが胸をついた。
結局あの猫ちゃんには会うことはできなかったけれど、今日もしもこの心の澱をあの子猫に吐き出せたとして、それで楽になったとして。事態が何か進展するわけでもないし、やっぱりいつかは、彼とちゃんと向き合わないといけない。
最後に会った時のことを思えば、羞恥だったりやるせなさだったり後悔だったり、ぐちゃぐちゃした感情は今もどうしようもなく湧き上がってくるし、覚悟なんてちっとも決まっていない。今顔を合わせたとして理性的に話し合える自信もないし、彼に酷いことを言って傷つけてしまうんじゃないかと思うと、心底恐ろしかった。
……でも、我儘だって分かっているけれど、矛盾しているけれど、それでも。彼と出会った時のことを、それから積み重ねた時間を思い返した時に、どうしても溢れてくる想いがある。
「……会い、たいよ……」
馬鹿みたいに愚直な本音が、ぽろりと口から零れ落ちた。このまま寮に帰るのを躊躇った足が、音を立てて砂利を踏みしめる。
彼の方が何を考えているかは分からないままだけれど、私の恋はずっと、本当に単純だ。彼に会いたくて、愛してるって言いたくて、彼にも言ってほしくて、もっともっと近づきたい。それを、彼に許してほしい。そのためだけに拙く足掻いて、一喜一憂する毎日だった。
レクス先輩は今、どうしているだろう。最後に会った時の呆然とした表情を思い返して、息が詰まった。……きっと、傷つけてしまったし、悲しませてしまっただろうな。
最初から彼ときちんと向き合えなかったのは、彼の気持ちが分からなくて、反応が怖くて……自分が傷つきたくないという、臆病さからだった。でも、その臆病さが今、今度は彼を傷つけている。……──それは、自分が傷つくことなんかよりも、余程。
「……っ」
覚悟なんて何も決まっていないのに、衝動のようなものに突き動かされて、私は勢いに任せて身を翻すと、寮への道に背を向けて走り出していた。ペンを持つのすら億劫だったのが嘘みたいに、ローブを靡かせながら飛ぶように学園への道を駆けていく。
あっという間に息が切れて、それでも不思議と足を止めようなんて一度も思わなかった。
彼を避け始めてから随分経っていて、約束だってしていないのだから、今日彼があの場所に居るはずがない。会うにしても日を改めて、ちゃんと話したい内容を纏めてから、と思う自分だって確かにいるのに、そんなもの全て押し流してしまえるほどの何かが叫んでいた。
──会いたい。どうしても今、レクス先輩に、会いたい。
ぐだぐだと考えるような時間すら惜しくて、私はただ一心に前だけを見つめて、縺れそうになる足を必死になって動かした。
何かを考えるような余裕すらないのに、昂った感情にじわりと視界が滲んで、けれどその雫も風に攫われて空に消えていく。まだ遠い視界の先、沈みかけた陽を背負って、橙に染まった別棟が私の訪れを待っていた。
人目も気にせず飛ぶように駆けて、駆けて、喉の奥から鉄錆の味がし始めても、構わずに足を動かし続けて。金の髪を靡かせながら、学園の大きな門を飛び込むように通り過ぎて、本校舎には一瞥もくれずがむしゃらに目指すのは、私と彼の始まりの場所だ。
裏庭には彼との思い出が沢山あるけれど、いつもあの場所のことを想って一番に脳裏に浮かぶのは、寂しそうな表情でスノウモルの大木を見上げる彼の姿だった。
……今も彼が、あんな表情を浮かべているのだとしたら。それが今度は、私のせいなのだとしたら。締め付けられる胸をぎゅうと抑えて、けれど足を止めることはしなかった。
自分でもこんなに走れるのが不思議だと思うほど駆けた頃、漸く別棟が間近に見えてきて、私は躊躇うことなく裏庭の方へと足を向けた。
もう陽は落ちていて、草が生い茂る足元が取られそうになるけれど、構っていられない。ただ祈るような気持ちで前だけを見つめていれば、白い壁に遮られていた視界がゆっくりと開いていき、ベンチに付属した魔石ランタンの灯りが僅かに届き始めた。
ここまで自分でも驚いてしまうような勢いで走ってきたのに、土壇場になって急速に鼓動が高鳴り始めて、足取りが酷く重たくなる。……そうだ、彼がいる保証なんて何もないのに、こんなに必死に何をやっているんだろう。
レクス先輩に会いたいという想いが衝動みたいに湧き上がって、抗えないそれに背中を強く押されて、こんなところまで来てしまった。けれど少し冷静さを取り戻せばあまりに短絡的な思考に、自分のことながら驚いてしまう。それでも今更、引き返すことなんてできやしない。
どうせ彼はいないだろうから、と落胆しないよう予防線を張って、けれどもしかしたら、という藁にも縋るような期待が捨て切れないまま、私はゆっくりと、思い出の場所に足を踏み入れた。
まず目に入ったのは、淡く魔石ランタンの灯りを照り返す、見慣れたスノウモルの大木だった。……けれどその下に、いつかのように寂しげにそれを見上げる恋しい姿は見当たらない。
縋るように視線を巡らせて、魔石ランタンが明かりを灯す木製のベンチを見ても、当然そこに誰か座っているわけもなく。確認するような場所なんてそれくらいしかなくて、彼はここにいないのだと理解した瞬間、何だか世界が色褪せたみたいだった。
高揚感に鈍っていただけの疲労が襲いかかってきて、ふらふらと危うい足取りで倒れ込むようにベンチに腰掛ける。分かっていたはずなのに、勝手に膨らんでいた期待がぺしゃんこに潰れていくのを感じて、あまりの情けなさに性懲りもなく視界が滲んだ。
……本当に、何をやっているんだろう。そうだ、きっと、今日は会えなくてよかったんだ。だって、話すことなんか何にも纏っていなかったし、覚悟だって決まっていなくて、だから落ち着いて話し合うなんてできないに決まっていて……
そういう風に自分を慰めようとして、けれどちっとも心の穴が埋まってくれない。……これを埋められるのは、この世でたった一人しかいないことを、私はよく知っていた。
どんなに言い訳したって。今日はこれで良かったんだ、なんて言い繕ったって、自分のことは騙せない。──どういう結果になったとしても、私は……本当は今日ここで、また運命みたいにレクス先輩と会いたかった。
「……ばかみたい」
すん、と鼻を啜って、それから満月と星々が輝き始めた空を見上げ、震える息をゆっくりと吐き出した。ここでもうちょっと休んで、それから少しだけ泣いたら寮に戻ろう、とぼんやり考えたとき。
──がさ、と派手な物音がして、私ははっと息を呑んだ。
目を瞬けば雫が頬を滑り落ちて、鮮明になった視界の中で物音の正体を探ろうと必死になって周囲を見回せば、そう手間取ることもなく音の出所が明らかになる。私が通ってきた別棟の外壁にそった草木の生い茂る道の方が、何だか騒がしいようだった。
この時間、こんなところに来る学生なんて殆どいないはずなのに。耳を側立ててみれば、音はどうにも二種類あるようで、一つは軽快ですばしっこい、小さな足音だった。
……そして、もう一つを聞き咎めたとき、どくり、と鼓動が跳ね上がるのを感じて。まさか、と思う心を後押しするように、酷く慌てたような、恋しい声が聞こえてきた。
「何で……っあーもうすばしっこいな……! 他のなら何でもあげるから、……っ頼むから返してよ、それ、凄く大事なものなんだ……!」
滅多に聞くことのない、弱りきったようなその声に、本当に彼がすぐそこに居るのだと理解してばくばくと心臓が高鳴っていく。
それ以上何を考えることもできず、ただ固唾を飲んで建物の角を見つめていれば、やがてどんどんその喧騒は大きくなり、最後の一押しのように、たん、と強く地面を蹴る音が響いた。
次の瞬間、角から小さな白い影が飛び出してきて、予想外の姿に私は思わず目を見開いた。彼じゃない方の物音の正体に思いを馳せるような余裕なんてなかったけれど、まさか。
軽快な足音を響かせて迷いなくこちらへと走り寄ってくる、薄暗闇の中で黄金の瞳を輝かせる小さな白猫は、口に酷く見覚えのあるピアスを咥えていて。
勢いよく私の懐に飛び込んできたその子猫を無意識に手を伸ばして迎え入れるのと、彼が息せき切って裏庭に飛び込んできたのは、殆ど同時のことだった。
珍しく汗を流し、赤茶色の髪を乱したレクス先輩と視線がかち合って、そのターコイズブルーの瞳が大きく見開かれる。……まさか本当に会えるとは思っていなくて、咄嗟に何一つ言葉なんて浮かばないのに──その姿を目にしたというただそれだけで、不思議と泣きそうになってしまった。
……だって、どれだけ身勝手だったとしても……本当に、私はこのひとに、心の底から会いたかった。
「シェル、ちゃん……」
彼がそう呟いて、思わずと言った風に足を止めた時、私の膝に乗っていた子猫が、にゃあ、と訴えるように声を上げた。狼狽しながらも視線を下せば、丁度子猫が口に咥えていた彼のピアスを解放し、私の膝に置くところだった。
それから、たし、と可愛らしい音を立てて、前足で私の膝を激励するように軽く叩いてみせる。
真っ直ぐにこちらを見上げてくる、その強い意志の籠った黄金の瞳に……ふと、強い既視感を覚えた。
今私のことを見上げているのはこの猫ちゃんの筈なのに、私はこの美しい瞳を、ずっと昔に見上げたことがあるような──……
けれどそれがはっきりした形を持つ前に、子猫は用は済んだとばかりに軽い足音を立てて地面に着地すると、こちらを振り返ることもなく颯爽と駆けていってしまった。
あ、と呟いて半端に手を上げたときにはもう、その小さな姿は見えなくなってしまっていて。
暫くそちらを見つめてから、不思議とあの子猫に温かいものをもらったような胸にそっと手を置くと、膝の上に残されたスノウモルの花弁を模ったピアスを丁寧に掌に掬って、私は深く、深く息を吐いた。
……ずっとずっと、彼と向き合うことから逃げ続けてきた。傷つくのが怖くて、拙い努力を免罪符にして遠回りして、……傷ついて、傷つけた。でも、もうそれも、終わりにしないといけない。
スノウモルの花弁を模ったピアスを両手で大切に包んで、私はゆっくりとベンチから立ち上がると、立ち尽くしたまま途方に暮れたように瞳を揺らしている彼を、真っ直ぐに見つめた。
迷子みたいなその表情は、まるで最初にこの場所で会ったときみたいで、懐かしい気持ちになる。きっと上手くできていないけれど、それでも笑みを浮かべると、私はそっとピアスを彼に差し出した。
「……お久しぶりです、レクス先輩」
一人帰路に立ち尽くす現実に意識が追いついて、ため息ともつかない息をそっと吐き出す。あの時は、彼の生まれ育った環境のことも何も知らなくて、随分好き勝手なことを言ってしまったものだと思う。暫くして、彼があのソルシエル家の出身だということを知った時は大慌てしたものだった。
……それから、彼が得意でないものは好きでいちゃいけない、なんて思い込んでいた理由に何となく得心がいって、胸が苦しくなって。
レクス先輩はとても努力家で、ちゃんと道を定めて、逆境の中今も自分の力で歩き続けている。だから勝手に過去を気の毒に思ったりあれこれ想像したり、そんなの彼に対して失礼だと何度も振り払ったけれど、それでも暫くは、重いものが胸の辺りを取り巻いてるような気分だった。
……何度か顔を合わせる度、彼が明るい話や楽しい話をいきいきとしてくれるうちに、それは吹き飛ばされてしまったけれど。
それでも時間が経つにつれ、彼がその明るい笑みの下にひとり抱えているものを、もっと知りたいと思うようになって、……できることなら、寄り添いたいと願うようになって。
彼の直向きな努力、魔法への羨望、時折覗かせる寂しさ、そういったひとつひとつへの小さな好意が、ゆっくりと色を変えていった。ふわふわした拠り所のない感情が寄り集まって、恋という確かな名前を持ったときのことを思い返して、思わず目を細める。
「……毎日、会いたくてたまらなかったな……」
実際に話しているときは心臓がばくばくしていて、後から変なことを言ってしまったかもしれないとか、どう思われたかなとかぐだぐだと悩んでしまうのに、少し顔を見ていないだけで、彼のことが恋しくってたまらなかった。
久しぶりに彼の顔を見れた時は自分でも驚いてしまうくらい心が躍って、嬉しくて。恋の行く末なんて考える余裕は殆どなかったし、ちょっとしたことで悲しんで喜んで途方に暮れて、思うようにいかない自分に戸惑ったりもしたけれど。
……ただ彼のことを真っ直ぐ想うことが、すごく楽しくて、尊いことだった。
レクス先輩と話せただけで、その日の夜嬉しくてなかなか眠れなかったことを思い出して、思わず笑みが溢れる。それから大好きな彼の、柔らかな笑みを思い描いて、ふと、切なさが胸をついた。
結局あの猫ちゃんには会うことはできなかったけれど、今日もしもこの心の澱をあの子猫に吐き出せたとして、それで楽になったとして。事態が何か進展するわけでもないし、やっぱりいつかは、彼とちゃんと向き合わないといけない。
最後に会った時のことを思えば、羞恥だったりやるせなさだったり後悔だったり、ぐちゃぐちゃした感情は今もどうしようもなく湧き上がってくるし、覚悟なんてちっとも決まっていない。今顔を合わせたとして理性的に話し合える自信もないし、彼に酷いことを言って傷つけてしまうんじゃないかと思うと、心底恐ろしかった。
……でも、我儘だって分かっているけれど、矛盾しているけれど、それでも。彼と出会った時のことを、それから積み重ねた時間を思い返した時に、どうしても溢れてくる想いがある。
「……会い、たいよ……」
馬鹿みたいに愚直な本音が、ぽろりと口から零れ落ちた。このまま寮に帰るのを躊躇った足が、音を立てて砂利を踏みしめる。
彼の方が何を考えているかは分からないままだけれど、私の恋はずっと、本当に単純だ。彼に会いたくて、愛してるって言いたくて、彼にも言ってほしくて、もっともっと近づきたい。それを、彼に許してほしい。そのためだけに拙く足掻いて、一喜一憂する毎日だった。
レクス先輩は今、どうしているだろう。最後に会った時の呆然とした表情を思い返して、息が詰まった。……きっと、傷つけてしまったし、悲しませてしまっただろうな。
最初から彼ときちんと向き合えなかったのは、彼の気持ちが分からなくて、反応が怖くて……自分が傷つきたくないという、臆病さからだった。でも、その臆病さが今、今度は彼を傷つけている。……──それは、自分が傷つくことなんかよりも、余程。
「……っ」
覚悟なんて何も決まっていないのに、衝動のようなものに突き動かされて、私は勢いに任せて身を翻すと、寮への道に背を向けて走り出していた。ペンを持つのすら億劫だったのが嘘みたいに、ローブを靡かせながら飛ぶように学園への道を駆けていく。
あっという間に息が切れて、それでも不思議と足を止めようなんて一度も思わなかった。
彼を避け始めてから随分経っていて、約束だってしていないのだから、今日彼があの場所に居るはずがない。会うにしても日を改めて、ちゃんと話したい内容を纏めてから、と思う自分だって確かにいるのに、そんなもの全て押し流してしまえるほどの何かが叫んでいた。
──会いたい。どうしても今、レクス先輩に、会いたい。
ぐだぐだと考えるような時間すら惜しくて、私はただ一心に前だけを見つめて、縺れそうになる足を必死になって動かした。
何かを考えるような余裕すらないのに、昂った感情にじわりと視界が滲んで、けれどその雫も風に攫われて空に消えていく。まだ遠い視界の先、沈みかけた陽を背負って、橙に染まった別棟が私の訪れを待っていた。
人目も気にせず飛ぶように駆けて、駆けて、喉の奥から鉄錆の味がし始めても、構わずに足を動かし続けて。金の髪を靡かせながら、学園の大きな門を飛び込むように通り過ぎて、本校舎には一瞥もくれずがむしゃらに目指すのは、私と彼の始まりの場所だ。
裏庭には彼との思い出が沢山あるけれど、いつもあの場所のことを想って一番に脳裏に浮かぶのは、寂しそうな表情でスノウモルの大木を見上げる彼の姿だった。
……今も彼が、あんな表情を浮かべているのだとしたら。それが今度は、私のせいなのだとしたら。締め付けられる胸をぎゅうと抑えて、けれど足を止めることはしなかった。
自分でもこんなに走れるのが不思議だと思うほど駆けた頃、漸く別棟が間近に見えてきて、私は躊躇うことなく裏庭の方へと足を向けた。
もう陽は落ちていて、草が生い茂る足元が取られそうになるけれど、構っていられない。ただ祈るような気持ちで前だけを見つめていれば、白い壁に遮られていた視界がゆっくりと開いていき、ベンチに付属した魔石ランタンの灯りが僅かに届き始めた。
ここまで自分でも驚いてしまうような勢いで走ってきたのに、土壇場になって急速に鼓動が高鳴り始めて、足取りが酷く重たくなる。……そうだ、彼がいる保証なんて何もないのに、こんなに必死に何をやっているんだろう。
レクス先輩に会いたいという想いが衝動みたいに湧き上がって、抗えないそれに背中を強く押されて、こんなところまで来てしまった。けれど少し冷静さを取り戻せばあまりに短絡的な思考に、自分のことながら驚いてしまう。それでも今更、引き返すことなんてできやしない。
どうせ彼はいないだろうから、と落胆しないよう予防線を張って、けれどもしかしたら、という藁にも縋るような期待が捨て切れないまま、私はゆっくりと、思い出の場所に足を踏み入れた。
まず目に入ったのは、淡く魔石ランタンの灯りを照り返す、見慣れたスノウモルの大木だった。……けれどその下に、いつかのように寂しげにそれを見上げる恋しい姿は見当たらない。
縋るように視線を巡らせて、魔石ランタンが明かりを灯す木製のベンチを見ても、当然そこに誰か座っているわけもなく。確認するような場所なんてそれくらいしかなくて、彼はここにいないのだと理解した瞬間、何だか世界が色褪せたみたいだった。
高揚感に鈍っていただけの疲労が襲いかかってきて、ふらふらと危うい足取りで倒れ込むようにベンチに腰掛ける。分かっていたはずなのに、勝手に膨らんでいた期待がぺしゃんこに潰れていくのを感じて、あまりの情けなさに性懲りもなく視界が滲んだ。
……本当に、何をやっているんだろう。そうだ、きっと、今日は会えなくてよかったんだ。だって、話すことなんか何にも纏っていなかったし、覚悟だって決まっていなくて、だから落ち着いて話し合うなんてできないに決まっていて……
そういう風に自分を慰めようとして、けれどちっとも心の穴が埋まってくれない。……これを埋められるのは、この世でたった一人しかいないことを、私はよく知っていた。
どんなに言い訳したって。今日はこれで良かったんだ、なんて言い繕ったって、自分のことは騙せない。──どういう結果になったとしても、私は……本当は今日ここで、また運命みたいにレクス先輩と会いたかった。
「……ばかみたい」
すん、と鼻を啜って、それから満月と星々が輝き始めた空を見上げ、震える息をゆっくりと吐き出した。ここでもうちょっと休んで、それから少しだけ泣いたら寮に戻ろう、とぼんやり考えたとき。
──がさ、と派手な物音がして、私ははっと息を呑んだ。
目を瞬けば雫が頬を滑り落ちて、鮮明になった視界の中で物音の正体を探ろうと必死になって周囲を見回せば、そう手間取ることもなく音の出所が明らかになる。私が通ってきた別棟の外壁にそった草木の生い茂る道の方が、何だか騒がしいようだった。
この時間、こんなところに来る学生なんて殆どいないはずなのに。耳を側立ててみれば、音はどうにも二種類あるようで、一つは軽快ですばしっこい、小さな足音だった。
……そして、もう一つを聞き咎めたとき、どくり、と鼓動が跳ね上がるのを感じて。まさか、と思う心を後押しするように、酷く慌てたような、恋しい声が聞こえてきた。
「何で……っあーもうすばしっこいな……! 他のなら何でもあげるから、……っ頼むから返してよ、それ、凄く大事なものなんだ……!」
滅多に聞くことのない、弱りきったようなその声に、本当に彼がすぐそこに居るのだと理解してばくばくと心臓が高鳴っていく。
それ以上何を考えることもできず、ただ固唾を飲んで建物の角を見つめていれば、やがてどんどんその喧騒は大きくなり、最後の一押しのように、たん、と強く地面を蹴る音が響いた。
次の瞬間、角から小さな白い影が飛び出してきて、予想外の姿に私は思わず目を見開いた。彼じゃない方の物音の正体に思いを馳せるような余裕なんてなかったけれど、まさか。
軽快な足音を響かせて迷いなくこちらへと走り寄ってくる、薄暗闇の中で黄金の瞳を輝かせる小さな白猫は、口に酷く見覚えのあるピアスを咥えていて。
勢いよく私の懐に飛び込んできたその子猫を無意識に手を伸ばして迎え入れるのと、彼が息せき切って裏庭に飛び込んできたのは、殆ど同時のことだった。
珍しく汗を流し、赤茶色の髪を乱したレクス先輩と視線がかち合って、そのターコイズブルーの瞳が大きく見開かれる。……まさか本当に会えるとは思っていなくて、咄嗟に何一つ言葉なんて浮かばないのに──その姿を目にしたというただそれだけで、不思議と泣きそうになってしまった。
……だって、どれだけ身勝手だったとしても……本当に、私はこのひとに、心の底から会いたかった。
「シェル、ちゃん……」
彼がそう呟いて、思わずと言った風に足を止めた時、私の膝に乗っていた子猫が、にゃあ、と訴えるように声を上げた。狼狽しながらも視線を下せば、丁度子猫が口に咥えていた彼のピアスを解放し、私の膝に置くところだった。
それから、たし、と可愛らしい音を立てて、前足で私の膝を激励するように軽く叩いてみせる。
真っ直ぐにこちらを見上げてくる、その強い意志の籠った黄金の瞳に……ふと、強い既視感を覚えた。
今私のことを見上げているのはこの猫ちゃんの筈なのに、私はこの美しい瞳を、ずっと昔に見上げたことがあるような──……
けれどそれがはっきりした形を持つ前に、子猫は用は済んだとばかりに軽い足音を立てて地面に着地すると、こちらを振り返ることもなく颯爽と駆けていってしまった。
あ、と呟いて半端に手を上げたときにはもう、その小さな姿は見えなくなってしまっていて。
暫くそちらを見つめてから、不思議とあの子猫に温かいものをもらったような胸にそっと手を置くと、膝の上に残されたスノウモルの花弁を模ったピアスを丁寧に掌に掬って、私は深く、深く息を吐いた。
……ずっとずっと、彼と向き合うことから逃げ続けてきた。傷つくのが怖くて、拙い努力を免罪符にして遠回りして、……傷ついて、傷つけた。でも、もうそれも、終わりにしないといけない。
スノウモルの花弁を模ったピアスを両手で大切に包んで、私はゆっくりとベンチから立ち上がると、立ち尽くしたまま途方に暮れたように瞳を揺らしている彼を、真っ直ぐに見つめた。
迷子みたいなその表情は、まるで最初にこの場所で会ったときみたいで、懐かしい気持ちになる。きっと上手くできていないけれど、それでも笑みを浮かべると、私はそっとピアスを彼に差し出した。
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