たったの五文字

シロツメクサ

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35.あかいいろ

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 反射のように私が差し出したピアスを受け取りながらも、何だか呆然としたような表情のレクス先輩に、私は必死になって言葉を探した。
 何だか少しだけ彼が草臥れた様子に見えるのが、私のせいだと思うのは自意識過剰なのだろうか。まずは謝るべきか、それとも座って落ち着いて話そうとベンチに促すべきか。

 私が自分の感情の奔流に手を突っ込み、どうにか相応しい言葉を掬い出そうと躍起になっていれば、眼前でふと、彼がくしゃりと泣きそうに顔を歪めたから、そんなものどこかに吹っ飛んでしまった。
……彼の、こんなに感情をむき出しにした表情を、私は見たことがない。驚きに目を見開いて固まっていれば、僅かに震えた彼の腕が視界の端で伸ばされた。

「……シェルちゃん、──っシェルタ……!」

「……っ、せん、ぱ、」

 次の瞬間には、悲痛な声と共に苦しいほどに彼に抱きしめられていて、縋るようなその力の強さに息が詰まる。けれど苦しげに呻いても、その腕が解かれることはなくて。
 映像魔石を観た時のことを思い出したけれど、その時よりもずっと力強い彼の腕に、そこから伝わってくる震えに、酷く胸が痛む。私の肩口に額を押し付けるようにして、彼が呻くように呟いた。

「なんで、……何で、俺のこと避けてたの。……俺が、どんな思いで……っ」

「ごめ……レクス、せん、ぱ、……っお願い、はな、しを、……」

 精一杯手を伸ばして、どうにか宥めようと彼の背を撫でても、レクス先輩の腕の力は少しも緩まってくれなくて、私は困惑した。……彼がこんなに取り乱すなんて、想像もしていなかった。
 息苦しさに僅かに身を捩れば、それだけで恐慌をきたしたみたいに腕の力が強まって、懇願のような響きを帯びた震える声が降り落ちてくる。

「……嫌だ、シェルちゃん……言ってよ、いつもみたいに、お願いだから……っ」

──どうして。困惑の中に疑問が湧いて、私は思わず唇を噛んだ。どうして彼はまるで酸素を求めるみたいに、いつも私の言葉を欲しがるのだろう。私には何も伝えてくれないのに、触れ合うことを、許してはくれないのに。
 そのくせ、私の言葉を受け取って、とても嬉しそうな顔をするから、ずっと期待を捨てることもできなかった。

……でも、被害者ぶることなんてできない。だって私は一度も、彼にちゃんと尋ねたことなんてなかったのだから。そんなの、分からないのも、答えが得られないのも、当たり前だった。
 そんなことに今更気が付いてしまって、そうしたら、自分でも驚くほどに簡単に、言葉が口から滑り落ちた。……ずっと、ずっと、聞くことができなかったのが嘘みたいに。

「レクス先輩。……どうして、ですか」

 私の声に、彼が僅かに肩を跳ねさせて、少しだけ、腕の力が緩む。泣くな、と自分に言い聞かせながらも、押さえつけていた感情を口にすれば、どうしても声が震えてしまう。けれど、それでも、みっともなくても、私は必死になって言葉を紡いだ。

「避けていたのは……ごめんなさい。でもそんな風に何度も言わせなくたって、……私、レクス先輩を愛してます。あなたのことが、誰よりも好きです。恋人になれて、ほ、本当に、本当に嬉しくて、……夢みたいで、でも、──ずっとずっと、不安でした。先輩が、どうして私を選んでくれたのか、分からなかったから」

 彼の肩越しに見える夜空が滲んで、不明瞭な輝きだけが遠く瞬いている。こんな時でさえ、彼は私の話を遮ることなく聞いてくれるんだな、なんて思ってしまうのが、何だかおかしかった。

「レ、レクス先輩が、私に言葉をくれないのは、……触れ合うのを拒むのは、どうして、ですか。……、わ、私のこと、先輩は、どうっ、思って、ますか。言いたくないなら、触れたく、ないなら、それでも、いいです。うそをつかれるより、そっちの方がずっといいから。……でも、でも、理由を、教えてほしいです。──私、あなたがだいすきだから、ずっと、いっしょにいたい。レクス先輩は、おんなじ風に、おもってくれてますか」

 誰かに強い感情をぶつけるなんてしたことがなくて、だからこんなに上手くいかないものだなんて思わなかった。ぼろぼろと涙が溢れて、言葉が途切れて、まとまらなくて。
 もっと良い言い方があったはずなのに、もっと伝えたいことが、あったはずなのに。けれどもう、まともに声になってくれない。しゃくりあげれば、彼のローブに大粒の滴が落ちて、染みが広がった。

 最後まで黙って聞いていた彼が、やがて力無く腕を下ろして、隙間なく抱き合っていた二人の間に冷たい夜風が吹き込む。
 寒々しさにはっと顔を上げたけれど、涙で不明瞭な視界では、俯く彼の表情はよく伺えなくて。やがて落ちた彼の声は、今にも夜闇に溶けて消えてしまいそうなほどに静かで、掠れていた。

「……シェルちゃんは、このままじゃ、嫌なの」

「え……」

「ここでこうして会って、話して、時々手を繋いだり、抱きしめたり。……それじゃ、駄目なの」

 ゆっくりと、目を見開く。何かを思うよりも先に、すとんと腑に落ちたことがあった。……私の手を引いて、立ち止まっていたレクス先輩が、どこに向かおうとしていたのか。私とはきっと違う方向を見ている彼が、どこを見ていたのか、ずっと分からなかったけれど。

 そうか──……レクス先輩はきっと、どこにも行く気なんて、なかったんだ。

 そう気がついてしまったら、何だか心が空っぽになっていくような心地がした。先に進みたいと思っていたのも、彼のことをもっと知りたいと、……近付きたいと、思っていたのも。ぜんぶぜんぶ、私だけだった。

 最初に、私さえ我慢していれば、不安を表に出さなければ、と考えたのは、きっと間違いではなかったんだろう。本当にそんなことができていたとしたら、いつまでも二人、立ち止まったまま過ごせていたのかもしれない。
……でも、あの日目を覚ました彼に、勝手に手を伸ばした時に、全ての答えはもう出てしまっていた。──ずっとこのままの関係でいるなんて、私には、きっと耐えられない。

「……せん、ぱいは」

 目の前まで迫った絶望への、最後の抵抗みたいに、からからに乾いた声がその場にぽつりと転がり落ちた。

「……レクス先輩は、それで、いいんですか。本当に、そんな関係を、望んでいるんですか……?」

「……──」

 少しだけ、息を呑むような気配がして。それから彼はふと、自嘲するように僅かに、息を吐き出した。

「……シェルちゃんは、残酷だね」

「……、先輩……?」

 彼が零した言葉の、意味が分からなくて。……だって、このままでいたいなんて、酷く残酷なことを望んだのはレクス先輩の方の筈なのに。
──だけどそう糾弾してしまうには、その声は、余りにも痛みを孕んでいるように感じて。

 少しも言いたいことなんて纏まらないのに、それでもふと、何に起因するかも分からない焦燥が胸をついて、私が言葉を紡ごうとした、その時だった。


────グルルルルルル……!!


……地を揺らし、天まで劈くような獣の唸り声が、その場に響き渡ったのは。

 どこか聞き覚えのあるそれに、私が何が起こっているのか理解するよりもずっと早く、弾かれたように顔を上げた彼が、大きくターコイズブルーの瞳を見開いて鋭く息を呑む。


「──……! シェルタッ!!」


「……え、」


……その時の、全ては。まるで、スローモーションの映像でも見ているようだった。

 怒鳴るように呼ばれた自分の名前と、その合間に聞こえた、まるで鼻先に雷が落ちたような轟音。それから、襲いかかってきた衝撃に上がった自分の悲鳴と、軌跡を描いてひっくり返った満ちた月。
──それを塗り替えるように飛び散った、赤い、

「……レクス、せん、ぱい?」

 頭が、いたい。けれど、そんなことは、どうでもよかった。私に覆い被さる彼の肩越しに、轟音の正体が見える。
……思い出の、スノウモルの大木が、無残に幹の途中から折れて、砂埃を上げながらその身を地面に横たえていた。その切り口は、まるで巨大な爪に抉り取られたような痕を残していて。

 そしてそれが誇張でも比喩でもないことを示すように、毒々しい色の、鋭い牙の隙間から涎を垂らす私の背丈よりずっと大きい狼のような魔物が、すぐそこでこちらを品定めするように睥睨していた。
 その唸り声も、毛並みも体躯も、いつかに映像室で彼と見た姿と瓜二つで、鏡から飛び出してきたと言われても信じてしまえそうで。
 最近立て続けに見た幻覚とは一線を画した存在感のそれに、けれど不思議と今、恐怖心は湧かない。悲鳴を上げたり、どうして急に学園内に魔物が、なんて恐慌に陥るような余裕すらない。
……だって、もっともっと恐ろしいものが、すぐ目の前にある。

「……せん、ぱい、せんぱい、レクス、先輩」

 最初に襲った衝撃は、彼が私を胸に抱え込んだ時のもので。多分あの魔物が振り翳した鉤爪の斬撃は、私に届こうとしていた。
……それなのに、身体のどこも痛くないのは、身を挺して庇ってくれた人が、いたからで。前に幻覚を見たとき、自分にしか見えていないことが不安で、誰かの悪戯でもなんでも、現実のものだったら良かったなんて思った覚えがある。
……でも、今は。全てが幻だったらいい。

 ぬる、と掌を滑る、赤いものも、全部。

……倒れ伏した彼の、ローブごと大きく切り裂かれた背中から夥しく広がるそれは、まだ愛しい温もりを残していて、なのに。どんどんそれが流れ落ちて、ゆっくりと温度を失っていく。
 目の前で起こっていることを、何一つだって理解できないのに、理解なんてしたくないのに、鈍い思考とは裏腹に手が震えて、すっと身体が冷えていく感覚がして。
……耳を劈く絶叫が、自分のものだということに気がついて漸く、私は目の前の世界が真っ暗になるような絶望を直視してしまった。

「……、い、いや、……いやぁあああぁあっっっ!!!」
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