たったの五文字

シロツメクサ

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38.満ちた月

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 駆けて、駆けて、駆けて。もう、どこをどう走っているのかさえも、分からなくなるくらいに。
 寮に向かうのでは到底間に合わないと思ったけれど、影が導いたのは本校舎の中だった。本当にこの時間、こんなに暗くて人気のないこの場所に彼がいるのかなんてそんな疑問を抱く余裕はなくて、時折見失いそうになる影が窓から差し込む月明かりで偶に立ち止まるのを、息も切れ切れに飛ぶようにして追いかけては独り廊下を駆けていく。
 視界の端で、目まぐるしく教室の扉が過ぎ去っていった。

 私の服に染み込んだレクス先輩の血が時折廊下に散るのが見えて、その度に胃の腑に冷たいものが落ちていくような感覚に陥る。早く、早く、彼の元に戻らないといけないのに。心ばかりが逸って、自分の身体が酷く重たく感じた。
 叫んで泣いて、挙句に走れば当然のようにずきずきと痛み始めた頭の奥、縁起でもないのに走馬灯のように浮かび上がるのは、レクス先輩と穏やかに過ごした日々ばかりで。
……もう、もう何も望まないから。彼が、元気で、笑ってくれているのなら、本当にそれだけでいい。彼に、幸せであってほしい、生きていてほしい。そのためなら何だってするから、だからどうか。

 ただ祈って、駆けて、くらくらと視界さえも歪み始めた頃、目の前で影が、一つの教室の前で立ち止まった。視界を遮ろうとする汗を払いながら見上げても、やっぱりその教室からは明かりは漏れていないし、何のプレートも下げられていない。
 影は以前のように勝手に入っていくのではなくて、まるで私が追いつくのを待っていたかのように、ただそこに佇んでいる。──躊躇いなんて、今更あるはずがなかった。
 足を踏み出せば、動かずに私を待っていた影とやがて重なり合い、それを契機にして影はまた私の模倣を始めたけれど、もうそんなことは見てすらもいなくて。

 指が震えて、血で滑って、ただ教室の扉を開けるだけのことで縺れそうになる。もどかしくて心が逸って、けれどこの教室を前にして、不思議と確信があった。
……彼は、きっと、ここにいる。

 漸くまともに引手に指が掛かって、幾分立て付けの悪い扉が勢いに任せて開かれていく。そうして露わになっていくその教室には、──本当に、何もなかった。
 以前のように資材が置かれているということもなく、教壇も、椅子も机も、カーテンすらもなくて、見るからに伽藍堂で。

……だから、何にも遮ることなく差し込む満月の光を照り返す、美しい銀髪が、視界によく映えた。
 こちらを振り向いたときに、しゃら、と見慣れたピアスが揺れて、アメジストのような輝きを帯びた瞳と、視線がぶつかり合う。

「ラ、ン、……せんぱ、……っ」

 彼の姿を目にした瞬間、何を考えるよりも先に、ぶわ、と涙が溢れた。それに紫の瞳がゆっくりと見開かれるけれど、押さえつけていた恐怖が、混乱が、悲しみがいちどきに込み上げてきて、立っていることすらもやっとだった。
 けれど、めそめそと泣いているような時間なんてない。私は今にも座り込んでしまいそうな身体に鞭を打って、ぼろぼろと涙を溢しながら、飛び込むようにして彼のローブに取り縋った。

「、シェルタ、」

「せんぱ、……ラン、先輩、たすけ、たすけてっ!! 魔物が、魔物が出て、レクス先輩が、私を庇って……ッまだ、まだ裏庭にいるんです、お願い、本当に酷い怪我なの、助けて……ッ」

「……魔物?」

「お、狼、みたいなっ……それはもう、レクス先輩がやっつけましたから、だから、だから早く治療をしないと……っも、もう、ラン先輩にしか」

 押し問答している時間なんてないのに、とても冷静に状況を説明することなんてできなくて、焦りばかりが募っていく。
 レクス先輩が唯一の家族と言い切った、お互いのことをとても大切に思っている兄弟なのだから、突然のことにラン先輩だってきっと混乱しているに違いない。けれど早く来てもらわなくては、本当に取り返しのつかないことになってしまう。
 ラン先輩のことを語る時の、レクス先輩の穏やかな笑みを思い描いて、またぼろぼろと涙が溢れて床に散った。

「お、お願い、とにかく来て……ッ」

 ぐい、とラン先輩のローブを引いて、……けれど、彼がその場から動こうとしないことに、私はふと、不信感が胸の底から湧き上がるのを感じた。
 顔を上げれば、彼はただじっと、私が掴んだことで血が染みてしまったローブを見つめていて。

 大切な弟が大怪我をしたと、今し方聞いたばかりのはずなのに、その表情には焦燥も、心配も浮かんでいるようには見えなかった。元々、彼は感情を律するのが得意な人で、けれどこれは多分、それとは違う。
……何だか、背筋を冷たいものがぞわぞわと這い上がるような感覚がして、思わず力の抜けた震える手から、彼のローブが滑り落ちた。

「ラ、ラン、先輩……?」

「うん、そっか。……思ったよりも、早かったんだね」

「な、なに、何言って、」

 静かにそう呟いて、苦笑を溢す彼は、……本当に、私の知っているラン先輩なんだろうか。急に彼が知らない人間に見えて、私は思わず一歩後退していた。ラン先輩は、私の愕然とした表情に少しだけ瞳を揺らして、けれどやっぱり、そこから動こうとはしない。

……とても信じられないことだけれど、何が起こっているのか、分からないけれど。彼が、そこから動くつもりはないのだと悟って、絶望の底に突き落とされるような心地がした。……私が溢した声は、さっきよりもずっと、震え、掠れていて。

「……ど、どう、して。ラン、先輩は、レクス先輩のこと、誰よりもだいじに思ってるんじゃ、なかったんですか……?」

「……、」

 目を伏せて、何も答えることはないラン先輩に、私は怒りとも悲しみとも、悔しさともつかない、ぐちゃぐちゃの感情が爆発するのをどこかで感じた。張り詰めていたものが切れて、八つ当たりじみた癇癪みたいな声を上げても、彼はただ、目を伏せるばかりで。

「レ、レクス先輩は……っラン先輩のこと、唯一の家族だって!! 何よりもあなたのことを大切に思っているのに、誰よりも尊敬して、支えたいって、邪魔になりたくないって、いっつも……っ、な、なのに……!! ラン先輩は、彼が、……し、しんで、しまっても、いいって言うんですか……!? そんなの、そんな、のっ、」

「……違う。違うんだよ、シェルタ」

 ぽつり、と水面を打つように響いた声は、酷く静かだったのに、確かに痛みを孕んでいた。それは私に口を噤ませるだけの何かがあって、けれど、一体何が違うのか分からなくて。
 レクス先輩が本当に危ない時に、考えたくもないけれど、死んでしまうかもしれないという時に、彼は動こうとはしなくて、それが全てのはずなのに。目を伏せたまま、力無く笑った彼は、ゆっくりと口を開いた。

「ねえ、シェルタ。今日、授業は受けたよね」

「……え?」

「何の科目だったか、覚えてる? 君はいつも、真面目に復習しているはずだよ」

「……な、なに、こんな時に、何の話を」

「授業の内容、一緒に受けたクラスメイトの顔、先生の声。何かひとつでもいい。覚えてる?」

 レクス先輩の命が危ういという時に、まともに取り合うような話じゃない。分かっているのに、その有無を言わせない声に、顔を上げた彼の、射抜くような眼差しに、頭が勝手に記憶を遡りだす。
 当然、今日だって朝から普段と同じように授業を受けて、お昼を食べて、それで……

……あ、れ。

 どく、と心臓が音を鳴らして、唇が戦慄く。無意識に足が一歩後退するのを、ラン先輩はどこか、悲しげな瞳で見つめていた。

「……ねえ、シェルタ。おかしいとは思わない? 厳重に結界で守られたこの学園に魔物が入り込んだなんて、本当なら国を揺るがすような大事件だよ。すぐに感知されて、大勢の魔法使いや騎士が駆けつけるはず。でも、ここにいるのは僕達だけだ」

 ひゅ、と息が詰まって、冷たい汗が背中を伝うのを感じた。ぐらりと、視界が揺らいで、ずっと続いていた頭の痛みが、何かを訴えかけるように強くなっていく。
……そうだ、彼の言う通りだ。この歴史あるシクザール魔法学園の警備がそんなやわなはずなくて、そんなことは少し考えれば分かるはずのことで、でも、今の今まで、私は何も気が付かなかった。

──記憶を遡ったとき、靄がかかったように判然としない学生達や先生の顔を、普通に会話をしていたはずなのに具体的なやりとりが一切思い出せないことを、この瞬間までおかしいと思わなかったみたいに。

 ゆっくりと血の気が下がっていくのに、どくどくと鼓動が早まって、酷く耳鳴りがする。何が。……何が、起きているんだろう。何も、分からない。
 怖くて仕方なくて、ただ青ざめた顔でラン先輩を見つめていたら、彼はふと背後を振り仰いで、カーテンも何も掛かっていない窓から満天の星が輝く夜空を見上げ、ため息ともつかないものを吐き出した。

 満月を背負った彼が、私を見て、悲しげに笑う。


「……シェルタ。前に月が欠けたのは、いつだった?」


「──────ッッ」

 彼の声に、私は弾かれたように教室を飛び出していた。あてなんて何もないのに、ただがむしゃらに。……彼は、追ってはこなかった。ただ遠ざかる私の背中を見送って、それからやるせなさの滲んだような、自嘲するような微かな息を吐き出して。
 その場に転がり落ちた声は、誰に拾われることもなく消えていった。

「……ごめんね。でも、君の為なんだ」
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