たったの五文字

シロツメクサ

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44.報われる

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 未だ降り止まない花弁の中、掌の上にあるスノウモルのピアスをじっと見つめる。
 すでに帯びていた光を失ったそれは、いつもの通り艶やかな白色を湛えていて、揺らせば装飾が軽やかな音を立てた。……あれは、あの日々は全て、錬金薬を飲んだ夢の中でのことで、レクスの頭が作り出した幻覚だったはずで。最後にありったけの想いを込めて彼女の魔石の髪飾りに含ませた言葉だって、誰に届くものでもなく消えていったはずなのに。
 今も間違いなく目の前にある満開のスノウモルも、確かに届いた彼女の声も、とても幻だとは思えない。

 一体どういうことなのだろうとぼんやりと考え込んでいて、……だからまるで花弁の中に忍ぶように、窓からひらりと舞い込んだその人影に、レクスは気が付かなかった。


「……レクス」


 どく、と心臓が跳ねる。弾かれたように顔を上げた瞬間には、彼はもう、レクスのすぐ横に立っていた。さら、と銀の光を帯びた髪が風に靡いて、片側だけのピアスがそれに煽られたように揺れる。
……少しだけ、疲れているように見えるのは、きっとレクスの気のせいじゃない。こちらを見下ろすこの上なく美しいアメジストのような瞳が、何の感情かも判然としないもので揺れていた。

「……ラン、兄様」

 す、と血の気が引いていく感覚がして、とても目が合わせられずに視線が彷徨い落ちていく。まさか彼のことが頭から抜け落ちていたわけではないけれど、何から言えばいいのか、どれから謝ればいいのかも、何一つ分からなかった。
 眠っている間、ランにはどれほどの迷惑を掛けてしまったのだろう。ここにレクスが寝ているということは、少なくとも家への連絡を止めてくれたのは彼に違いない。

 とにかくこの方の前で半分寝たような状態で居るわけにはいかないと、慌てて立ち上がろうとして、けれど手で制されてしまった。
 そうされてしまえば動くこともできなくて、ランの表情を恐々見上げてみるけれど、ただ目を伏せている彼が何を思っているのか、情けない話だけれど少しも分からない。

 レクスが、何を思ってこんなことをしたのか、彼はどこまで把握しているのだろう。最初から何もかも、知っていたと言われたって驚きはなかった。彼はずっとそうやって、何も言わずに何もかも知っていて、あの地獄の中でレクスのことを救ってくれていたから。
 ランが庇ってくれることがなかったら、レクスはきっと今ここで、自分として息をしていない。──彼に対して、複雑な感情を抱いたことが、ないわけじゃないけれど。
 それでも……ずっと、ずっと、レクスにとってランだけが、唯一の家族で、何よりも生きる希望だった。

 それなのに。こんなことを仕出かして、見放されてしまったかもしれない。

「兄様……申し訳、ありません。……俺は、……」

 言葉が、結局見つからなくて。申し開きもできないのなら、せめて、何を言われても受け止めようと思った。……例え、彼女に向けた想いが知られていて、それを酷く咎められるようなことがあったとしても。
 彼から与えられたピアスを縋るように握って、唇を噛み締める。

──おかしな話だけれど、ずっとずっと小さい頃、冷たい池に裸足で飛び込んで、それに仰天したランに泣きそうな顔で怒られた時のことがふと頭を過った。
……普通の兄弟だった時のことなんて、最近は思い出すことも少なくなっていたはずだったのに。だって、もう戻ることのできないものを思うのは、虚しさしか連れてこない。


……それなのに、彼が思い出の中と同じように、ふと泣きそうに顔を歪めて、こちらへと両腕を伸ばしたから、思わず目を見開いた。
 レクスの頭を引き寄せるその手袋に包まれた手が震えていることに気がついて、瞬きどころか、息すらも忘れてしまって。固まったレクスをそのままきつく抱きしめたランは、微かに滲んだ声を吐き出した。

「……目が覚めて、良かった、本当に……っすごく、心配した」

 その、縋るような腕の力に、既視感があって。……そうだ、あの夢の、終わり。
 誰かがレクスの手を引いて、立ち止まろうとすれば泣き縋るように、必死になって引っ張るものだから、レクスは訳も分からずに促されるまま走り出して……まるで、何も知らなかった幼い頃、どこに行くにもランの背中を追って、駆けていた時のように。

──そうか、あれは。あの崩れゆく世界から、レクスを連れ出したのは。

「……、にー、ちゃ、……」
 
 無意識に溢れた掠れた呟きに、ランは微かに肩を揺らして、それから一度だけ腕の力を強めて深く息を吐くと、そっと身体を起こした。
 その表情は、いつもと同じ穏やかな笑みに戻っているのに、……その目尻だけが、僅かに赤く染まっていて、酷く胸が苦しくなる。迷惑を掛けたとそればかりで、……それよりもずっと心配を掛けていたなんてこと、考えもしていなかった。

 それを悟ったように苦笑を浮かべたランが、まるで許しを与えるように、レクスの頭に軽く手を置いて掻き回す。それは本当に、とても懐かしい仕草だった。

「レクス。……僕も、いい加減、君に向き合わないとね」

 ぽつりと呟いて、彼がそっと、目を伏せた。その声に、表情に、……どこか緊張が滲んでいる気がして、レクスも思わず居住まいを正す。
 こんなに真剣な表情のランが何を言おうとしているのかなんて、何も見当がつかなくて。ただ、家族として、聞かなければいけないのだと思った。

 手袋に包まれたその手を握りしめて、ランはゆっくりと、まるで自分の中に置き去りにしていた想いをひとつひとつ拾い上げるようにして、言葉を紡いだ。

「……あのね、僕も、君を唯一の家族だと思っているよ。あの地獄の中で、レクスの存在がどれだけ救いだったか、君はきっと知らない。本当に、大切な弟で……でも、僕はレクスが思うほど完璧な人間じゃないし、完璧な兄でもない。──君のことを、心の底から羨ましいと思ったことだって、ある。それから、……今は多分、少しだけ、恐れてもいるんだ。笑ってくれていいよ」

 微かに震え落ちた声が、理解できなくて。……だって、ランがレクスを羨ましがるようなことなんて、何一つ、あるわけがないのに。
 ましてや恐れるなんて、……絶対に、何があってもあり得ない話だけれど、レクスがもしもランを裏切ったとして、きっと彼に傷ひとつ付けることは叶わないのに。
 笑えるはずもなく、もしかして信頼されていないのだろうかと瞳を揺らしたレクスに、ランはそっと首を横に振った。

「違う。僕は、この世の誰よりレクスを信頼してるよ。……そうじゃ、なくて」

 少しだけ、迷うようにアメジストの瞳を彷徨わせた彼は、けれどやがて力無い笑みを浮かべて、降り続けるスノウモルの花弁の合間を縫うように指先を宙に翳した。
 目にも止まらぬ速さで描かれていく、いつ見ても人の手で描かれたとは思えない魔法陣に微かに息を呑めば、あっという間に完成した陣から一冊、目に痛い色をした分厚い本が喚び出される。
 枕のすぐ横に丁寧に置かれた、どこか見覚えのあるそれに目を瞬くレクスに構わず、ランはそっと、その表紙をなぞって目を細めた。

「兄様?……これは、」

「……すぐに分かるよ。僕は神様なんかじゃなくて、臆病で、兄様なんて呼ばれるような高潔な人間でもない。……だけど、ちゃんと君を愛してる。兄として、君に格好つけたかっただけなんだ、ずっと」

 困ったように笑う、その顔が。……いつかの、レクスの小さな手を引いたものと重なって、息が詰まる。聞きたいことが、疑問が山ほど湧いてくるのに、何一つ言葉にする気にはならなかった。
……こんなに、あどけない表情を、する人だっただろうか。そんなことを、いつから、忘れてしまっていたんだろう。

「だから、ちょっと僕に幻滅して、色眼鏡が外れたら。……そんな僕を、もしもレクスが許してくれたら……俺がいないとダメダメなにーちゃんって、いつか、また笑って欲しいな」

 泣きそうな顔で笑うランに、何を思うよりも先に、口を開き掛けて。けれど名前もつけられないような想いばかりが溢れて、当然言葉にはなってくれなくて、結局レクスは口を噤んだ。
 何と呼びかけようとしたのか、自分でも分からない。戸惑いに唇を引き結んだレクスにそっと目を細めると、ランはまたすぐに来るから、と優しい声で言って身を翻した。

 どこかぼんやりとした気持ちのままにそれを見送っていれば、扉の引手に指を掛けた彼がふと足を止めた。少しだけこちらを振り返ったその表情は見たことがないもので、……悪戯げ、とでも言えばいいのだろうか。

「レクス。……君が、錬金術を苦手なのは知っているけど。でも、作る錬金薬のページくらいは、ちゃんと確認しなよ」

「……え、」

 その言葉の真意を尋ねる前に、視界をスノウモルの花弁が遮って、次の瞬間にはランの姿は見えなくなってしまっていた。
 暫く目を瞬いてから、ふと、ランが置いていった目に痛い色の分厚い本を見下ろす。……そうだ、既視感があって当たり前だった。あの幸福な夢の中、シェルタと待ち合わせた図書室で、彼女が夢中で読み耽っていたそれ。
 表紙に大々的に「錬金薬レシピ全集」と銘打たれたその本は、レクスが「望んだ夢が見られる錬金薬」を作るために借りたものでもあったのだから。

 さっきのランの言葉の意味が、これを置いていった真意が、……もう一度読めば、分かるのだろうか。ふと浮かんだその考えに導かれるように、レクスはそっと目に痛い色のそれに手を伸ばしていた。


「……うわ、はは、やっぱ頭痛くなるな」

 索引からレシピを指先で辿って、合間にじゃれつくように挟まってくるスノウモルの花弁を時折除きながら、苦笑混じりに少しずつ項を捲る。相変わらず見ているだけで頭痛がしてくるような難解なそれに耐えて、同じようにこれを捲った日のことを思い返していた。
 慣れない作業に悪戦苦闘しながら、……それでも、ただシェルタのことを想い、何度もこの本と見比べて。漸く完成したときは、錬金科は毎回こんな大変なことをしているのかと感嘆したものだった。

 そんなことを考えているうち、間違いなくあの日に作った錬金薬のレシピに、やがて辿り着いて、


 指先が……息が、止まった。


 どくどくと、鼓動が速まって、だけどどれほどに、穴が空くほどに見つめても、その良く目を凝らさなければ見えないような文字が示すものは変わらない。
 呆然としながらも、あの幸福な夢の中の図書室で、この本を開いていた彼女と何気なく交わした言葉が頭を過った。

 でも、だって、……そんなことが、本当にある、はずが。


『……シェルちゃんが楽しそうなのは良かったけど、やっぱり俺には錬金術の本は難しいかも。字が細かくてどこからどこまでがそのレシピの説明なのか分かんないし』

 


 それは、「望んだ夢が見られる錬金薬」の……すぐ、隣のページの。



「……は、……はは、」



 そうか。……レクスに一生懸命向き合って、沢山愛を伝えてくれた、彼女が。ただ名前を呼ぶだけでふわりと笑ってくれた、穏やかで、狂おしいほどに幸福な、愛しい日々を共に過ごした……レクスのことを魔法使いにしてくれた、あのシェルタが。

 全てがレクスの独りよがりで、何もかもが都合の良い幻覚で、目が覚めれば全部、消えてなくなってしまったのだと思っていた。……だけど、そうじゃないのだとしたら。
 二度と、交わることがなくても……遠いどこかで、レクスが告げた想いと、共に過ごした日々のほんの一欠片だけでも、あの子が持ってくれているのだとしたら、それは。

「そっか。……そうか、それなら、」

 情けないほど視界がぶれて、とうとう落ちた雫に、「夢」の文字が滲む。それを指先で拭ってみたけれど、次々と落ちるそれについに諦めて、泣き笑いを漏らしながら、額を本に擦り付けて嗚咽を零した。
 古い紙のにおいと、優しく包み込むように漂うスノウモルの香りに、祈るようにそっと目を閉じる。遠くからばたばたと近付いてくる足音が、ここに辿り着くまで、と自分に言い訳をして、心の中で小さく呟いた。

 それなら、きっと。


……──叶わなくても、報われた恋で、夢だった。












『平行世界と繋がる錬金薬』
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