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47.また来世
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三日月が銀の光を放つ夜空と、それを遮る大木をぼんやりと見上げていれば、また甘い香りと共に鼻先に花弁が纏わりつく。鬱陶しいそれを前足で払いのけて、大木の根元に寝そべる小さな白猫は、漸く遠ざかった喧騒に人知れず大きなあくびをした。
まったくあのきらきらしい髪色のソルシエルの小僧ときたら、猫の手も借りたいとは良く言うけれど、猫を頼みの綱にするというのは些か重圧が過ぎるというものだ。
とはいえ漸く厄介ごとが片付いて、気分がいいのは間違いない。知らず喉を鳴らして、隆起した木の根に額を擦り付けた。
何やかやとずっと気にかけていたあの泣きっ面の似合う敏い小娘も、かつての約束を守れるくらいに強くなったのだから、これからは何かあったとしても、誰かしらの手を借りて上手くやっていくことだろう。……本当に、この上なく、いい夜だった。
小さな白い身体など覆い隠してしまうくらいに降り積もるスノウモルは、きっと普通に生きていれば、そうそうお目に掛かれるものではないのだろう。それでも小さな白猫にとって、これはかつて嫌というほどに見慣れたものだった。
……君の髪と同じ美しい色だと、ことあるごとにぱかぱかと咲かせていた馬鹿が、すぐ傍にいたから。新鮮味も何もなくなるくらい続けられたそれに、あの馬鹿があまりにも得意げに笑うものだから、毎度呆れた顔をしていた日々が、もう酷く遠かった。
『……すまない、アルヒ。もう、君の為に、花さえ咲かせてやれない』
こちらから強請ったことなんて一度もないというのに、あの馬鹿が、途方に暮れたような顔でそんなことを言うから。落ち窪んだ目で、こけた頬で酷く苦しげに、窓から葉もついていないその木を、見つめるものだから。
らしくなく専門外の書籍を端から当たって、研究室に篭るなんてことをしたのは、調子が狂うから以外の何ものでもなかった。
『ほら、あんたが昔寄越した魔石の礼だよ、魔法陣さえ要らない優れ物さ。全くこんなのはあたしの専門外なんだ、もう二度と作らないからね。ひれ伏して感謝しな』
スノウモルを模ったピアスを、返事も聞かずにベッドに寝そべっていた奴に押し付けて。本当に予想外だったのか、瞬かれたその緋色の瞳に久しぶりにあどけない光を見て、唇を噛み締めた。
掌の中に収まったそれをただぼんやりと見つめているものだから、お坊ちゃんのくせに装飾品の付け方も知らないのかい、と一度渡したくせにもどかしげにぶんどって、その耳に飾り付けてやって。
『さあ、あたしの為に咲かしてくれるんだろう。甲斐性見せな』
促して手を引けば、奴はゆっくりと、随分と重そうに細くなったその身体を起こして、開かれた窓の外に迷うように目をやった。魔力を誇示することしか考えていない悪趣味なこの家の中で、スノウモルの木なんてのはそこかしこに植っている。
特に寝室の窓からすぐ見える場所に植えられたそれは、見栄えがいいからと奴のお気に入りで、以前まで咲いていない時間の方が短かったほどだ。
促すように背中を叩けば、躊躇いがちな震える片手が、祈るような仕草でゆっくりとピアスに触れて。……まるで火の粉を散らすような、ほんの僅かな魔力に反応するように、スノウモルを模ったそれがふわりと淡い光と熱を放った。
瞬間、────ぶわ、と。……いつかのように、見る間に蕾をつけた幾つもの枝がやがて甘い芳香を放ち、その繊細な白い花弁を誇るように寛げる。あっという間に咲き乱れ、その花弁を雪のように舞い踊らせるスノウモルに、緋色の瞳が呆然と未開かれ、その唇が戦慄いた。
『なんだい、できるじゃないか』
に、と口角を上げて、その肩を叩いて見せれば、──酷く揺らいだその緋色の瞳が、久しぶりに、まともにこちらを射抜いたから、思わず息を詰めた。その口元が、ふと、緩んで柔らかな笑みを描く。こんな表情を見たのは、その穏やかな声を聞いたのは、もう随分久しぶりだった。
『……君は、本当に。……予想外なことばかりをするな。思えばずっと、私は振り回されてばかりだった』
『っ、……はん、何だい。おひいさんみたいなおしとやかなお嬢さんが良かったってんなら、今からでも取り替えてやろうか』
『はは、冗談じゃない、拗ねないでおくれよ。勿論、私には君しかいないとも。……間違いなく、人生で一番嬉しい贈り物だ。ありがとう、アルヒ。……本当に、私は君に、ずっと甘えてばかりだ。この間、君に望んだことだって……』
その瞳がスノウモルの木を一心に見詰めて、ゆっくりと細められる。……もしも自分が死んだら錬金術で蘇らせてほしいと、冗談めかした、けれどそれ以上に切実さの滲んだ声が脳裏をよぎった。
あんたが甘ったれなお坊ちゃんなのは今に始まった話じゃないだろう、と軽口でも叩いてやりたかったのに、見たことのないその表情に息が詰まって、言葉にはならない。
『……アルヒ、私が以前に渡した魔石、今持ってくれているかい』
『ああ? 素材にしてもいいって言ったのはあんたじゃないか』
『言ったとも。でもしていないんだろう?』
『……』
ち、と品のない舌打ちを一つ落として、服の内側に縫い付けたポケットから、ぞんざいな仕草でそれを取り出して渡してやる。
癪に障る訳知り顔でそれを受け取った奴は、こまめに手入れされていることを示すように美しい輝きを放つその雫型の魔石を、じっと見下ろした。
『……なんだい、今更返せなんてケチ臭いこと言うつもりじゃないだろうね』
『まさか。……ただ少しだけ、おまじないをね』
言うなり、そっとその緋色の瞳が伏せられ、同色の髪がそれを覆うように揺れて。……まるで祈るように厳かに、魔石に唇が寄せられた。微かに目を見開けば、その瞬間に強い風が窓から舞い込んで、ぶわ、と花弁が甘い香りを振り撒きながら二人を取り囲む。
その中で魔石が淡い炎の色を纏って、その唇が確かに何かを模ったのに、風の音に攫われて耳に届くことはなく消えていった。
すまなかったね、と言ってあっさりと返されたそれを、思わずじっと見下ろして。次いで真意を問うように向けた射貫くような視線に、奴は何でもないように首を横に振った。
『そう疑わないでくれ。今の私の魔力じゃ大したことはできないと、君も分かっているだろう? 本当に、ただのおまじないだよ。……君の涙に寄り添ってくれるようにってね』
『……あんた、あたしが泣いてるところなんか見たことあんのかい』
『ないとも。だからさ』
訳が分からない、と胡乱げな視線をどれほどに向けても、奴はお得意の鉄壁の笑みで全てを覆い隠してしまっていて、何もそこから読み取れはしなくて。
こうなると絶対に胸の内を明かしはしないことを知っていたから、結局その時は呆れたようなため息ひとつで引き下がることしかできなかった。
それから、奴は一度も贈ったピアスを外すことはなかったし、来る日も来る日も、以前のようにスノウモルを咲かせ続けた。
時折枝を手折っては、ほとんど同じ色で映えないだろうに、アルヒの雪原のような髪に差し込んで、酷く嬉しそうに瞳を緩めもした。いつだって二人の過ごす日々を、時間を、その雪のような花弁が彩っていたことをよく覚えている。
……眠るように奴が息を引き取ったその時だって、窓の外には満開のスノウモルが咲き誇っていて。
その憎らしいほど穏やかな顔に、まるで誰かの代わりに泣いているかのように次々と、花弁が舞い降りていたことだって、鮮明に。
あの瘴気を、もしも私が和らげられていたのならと嘆き、どうか手伝わせて欲しいと懇願する声を、馬鹿言ってんじゃないと一喝して。
結末は分かっているのだろう、どうか自分の幸せを探せ、と嗜める声を、鼻で笑って。
そうしているうち、やがて先に逝ってしまったかつての仲間の声が届かないところまで、走って走って走り抜けて。
……その中で。気が狂いそうな程に果ての見えない実験に、明け暮れる日々の中で。きっとあの時あいつが魔石に込めていたものは、そんな日々に終止符を打つための逃げ道だったのだろうと、ふと気がついてしまった。
自分の前でただの一度も涙を見せることはなかったアルヒが、もしもそれでも涙を零すほどに、自分が生前に願ったことによって苦しむようなことがあったら、全てを終わらせられるように。……恐らくは、「もういいよ」だとか、その辺りの言葉を。
だから、絶対に、あいつの為なんかに泣いてやるものかと心に決めていた。そんな逃げ道を用意しておきながら、最後の最後まで、「あの時頼んだことはなかったことに」なんて言い出すことはなかった、弱虫で甘ったれなあいつなんかの為に、泣いてやるような安い女じゃないつもりだった。
……だけど。時が過ぎて、過ぎて、……タイムリミットが近付いて。逃げ道なんて必要ないと言いながら、ずっと手放すこともできず肌身離さず持ち歩いていたその魔石の重みが、増していくのを感じていた。
きっとこの命の終わりまでに、人智を超えたその錬金薬を完成させることはできないと、最初から分かりきっていたことをいよいよ実感して、……途方に暮れるような心地がして。
ずっと、本当は知っていた。あいつは、本当に生き返らせて欲しかった訳じゃなくて、ただ忘れ去られるのが恐ろしかっただけなのだと。その願いを、確かにアルヒは完膚なきまでに叶えたはずだった。他のことが入り込む隙なんてないほどに、忘れる暇なんてないくらいに、この生の殆どをあいつの為の実験に捧げてきたのだから。
……だから、もう諦めて、終わりにしたっていいはずで。誰だって、きっとあいつだってそう言うに違いなくて、それなのに。そうは割り切れない何かがずっと胸の奥で燻っていて、その正体すらも、理解できなかった。……だけど。
────もしも一生を使っても結果が出なかったら、来世も使って、それで良い結果がでたら、再来世はもっとすごいれんきんやく、作ります!
子供の、本当に無邪気で無謀で、含みなんて何もない言葉だったと分かってる。だけどその勢いに任せた幼い声に、世界が色付くような感覚がして、気がついてしまった。──……終わりにできないのは、終わらせたくないからだったのだと。
いつの間にか、あいつに頼まれたからじゃなくて。ただ自分が、何に変えても、何を犠牲にしても、……この生を使っても成せなかったのならば、次の生を使ってでもと、願うほどに。
瘴気に侵された魂には、次の生は存在しない。あいつは生まれ変わることはできなくて、それなら、……会って一発殴ってやる方法は、結局ただ一つしかない。
道を定めた瞬間に、あれほどに重く感じていた逃げ道の魔石は酷く軽いものになって、そのままにかつての仲間を少しだけ思わせる容姿の、敏い少女の手にあっさりと渡った。逃げ道がなくなって、歩む道が一つしかなくなれば、もう迷う必要もない。
「……んにゃ」
あの無責任な発言でアルヒの人生が変わったなんてことを知ったら、あの小娘は卒倒してしまうかもしれないと、思わず髭を揺らして含み笑いをする。
……だけど。無責任でも、責任なんて取らなくていいから、誰かに言って欲しくてたまらない言葉があって、あの敏くて小さい娘は確かにあの時それをくれたのだ。それに勝手に恩義を感じていることなんて、きっとあの娘が知る日は来ないのだろうけれど。
らしくなく過去に想いを馳せていたら、ふと気がついた時には花弁に埋もれそうになっていて、慌てて身震いしてそれを払い落とした。
その枝を揺するスノウモルの大木を恨めしげに見上げて、ふとこの木も随分育ったものだと感慨に耽る。それでもこの場所の落ち着いた雰囲気は、あいつにあの魔石を渡された日から何も変わっていない。……酷く懐かしい、あいつの耳まで赤く染めた真剣な表情と愛を告げる声が、脳裏に浮かんで。
その時に、くらりと。……微かに目が眩んだのを感じて、ああ、そろそろ終わりなのだと漸く気がついた。別に花弁に埋もれたままでも良かったじゃないか、と軽く息を吐く。
元の姿に戻るべきだろうかと少しだけ考えて、けれど結局はそれを振り払った。……猫には、九つの生があるという。姿形を真似ているだけで、本質的に猫になってしまったわけではなくとも──それにあやかって幾度も生まれ変われたなら、最後の一度くらいは、あいつに手が届くかもしれない。
「来世に記憶を引き継ぐ錬金薬」を服用したのは、今回の騒動が落ち着いてすぐのことだ。一応用意はしてあったものの、そうそう実験できるような錬金薬でもなく、殆どぶっつけ本番に近い。
更にどんな姿で生まれるかなんて調整が効く訳もなく、そこは完全に賭けだ。しかし何もしなかったらどうせ絶対に手の届かないものなのだから、多少の無茶無謀くらいは必要経費だった。
また君はそんなことを言って、と呆れたような声が頭の中で響いたから、止めたいんなら化けて出てきな、と鼻で笑って舌を出す。そうしたら、一発、いや二、三発くらいは殴って、……それから。
今まで押し留めていた分、あいつが裸足で逃げ出すくらいにめちゃくちゃに泣き喚いて、その骨が軋むくらいに締め上げて。
今度はあたしを見送らないと絶対に許さないと、弱虫なあの馬鹿が泣いてしまうくらいに脅してやるのだ。
とくとくと、少しずつ力を失っていく鼓動に耳を澄ませながら。まるで手向けるように降り頻る花弁と、甘い香りに包まれて、そんなことを夢想しながらゆっくりと目を閉じる。……不思議と、そう不安はなかった。
────大丈夫。どんな姿に生まれ変わったって、あいつは必ずあたしに気が付くだろう。
……何せ、それだけが取り柄の男だったのだから。
まったくあのきらきらしい髪色のソルシエルの小僧ときたら、猫の手も借りたいとは良く言うけれど、猫を頼みの綱にするというのは些か重圧が過ぎるというものだ。
とはいえ漸く厄介ごとが片付いて、気分がいいのは間違いない。知らず喉を鳴らして、隆起した木の根に額を擦り付けた。
何やかやとずっと気にかけていたあの泣きっ面の似合う敏い小娘も、かつての約束を守れるくらいに強くなったのだから、これからは何かあったとしても、誰かしらの手を借りて上手くやっていくことだろう。……本当に、この上なく、いい夜だった。
小さな白い身体など覆い隠してしまうくらいに降り積もるスノウモルは、きっと普通に生きていれば、そうそうお目に掛かれるものではないのだろう。それでも小さな白猫にとって、これはかつて嫌というほどに見慣れたものだった。
……君の髪と同じ美しい色だと、ことあるごとにぱかぱかと咲かせていた馬鹿が、すぐ傍にいたから。新鮮味も何もなくなるくらい続けられたそれに、あの馬鹿があまりにも得意げに笑うものだから、毎度呆れた顔をしていた日々が、もう酷く遠かった。
『……すまない、アルヒ。もう、君の為に、花さえ咲かせてやれない』
こちらから強請ったことなんて一度もないというのに、あの馬鹿が、途方に暮れたような顔でそんなことを言うから。落ち窪んだ目で、こけた頬で酷く苦しげに、窓から葉もついていないその木を、見つめるものだから。
らしくなく専門外の書籍を端から当たって、研究室に篭るなんてことをしたのは、調子が狂うから以外の何ものでもなかった。
『ほら、あんたが昔寄越した魔石の礼だよ、魔法陣さえ要らない優れ物さ。全くこんなのはあたしの専門外なんだ、もう二度と作らないからね。ひれ伏して感謝しな』
スノウモルを模ったピアスを、返事も聞かずにベッドに寝そべっていた奴に押し付けて。本当に予想外だったのか、瞬かれたその緋色の瞳に久しぶりにあどけない光を見て、唇を噛み締めた。
掌の中に収まったそれをただぼんやりと見つめているものだから、お坊ちゃんのくせに装飾品の付け方も知らないのかい、と一度渡したくせにもどかしげにぶんどって、その耳に飾り付けてやって。
『さあ、あたしの為に咲かしてくれるんだろう。甲斐性見せな』
促して手を引けば、奴はゆっくりと、随分と重そうに細くなったその身体を起こして、開かれた窓の外に迷うように目をやった。魔力を誇示することしか考えていない悪趣味なこの家の中で、スノウモルの木なんてのはそこかしこに植っている。
特に寝室の窓からすぐ見える場所に植えられたそれは、見栄えがいいからと奴のお気に入りで、以前まで咲いていない時間の方が短かったほどだ。
促すように背中を叩けば、躊躇いがちな震える片手が、祈るような仕草でゆっくりとピアスに触れて。……まるで火の粉を散らすような、ほんの僅かな魔力に反応するように、スノウモルを模ったそれがふわりと淡い光と熱を放った。
瞬間、────ぶわ、と。……いつかのように、見る間に蕾をつけた幾つもの枝がやがて甘い芳香を放ち、その繊細な白い花弁を誇るように寛げる。あっという間に咲き乱れ、その花弁を雪のように舞い踊らせるスノウモルに、緋色の瞳が呆然と未開かれ、その唇が戦慄いた。
『なんだい、できるじゃないか』
に、と口角を上げて、その肩を叩いて見せれば、──酷く揺らいだその緋色の瞳が、久しぶりに、まともにこちらを射抜いたから、思わず息を詰めた。その口元が、ふと、緩んで柔らかな笑みを描く。こんな表情を見たのは、その穏やかな声を聞いたのは、もう随分久しぶりだった。
『……君は、本当に。……予想外なことばかりをするな。思えばずっと、私は振り回されてばかりだった』
『っ、……はん、何だい。おひいさんみたいなおしとやかなお嬢さんが良かったってんなら、今からでも取り替えてやろうか』
『はは、冗談じゃない、拗ねないでおくれよ。勿論、私には君しかいないとも。……間違いなく、人生で一番嬉しい贈り物だ。ありがとう、アルヒ。……本当に、私は君に、ずっと甘えてばかりだ。この間、君に望んだことだって……』
その瞳がスノウモルの木を一心に見詰めて、ゆっくりと細められる。……もしも自分が死んだら錬金術で蘇らせてほしいと、冗談めかした、けれどそれ以上に切実さの滲んだ声が脳裏をよぎった。
あんたが甘ったれなお坊ちゃんなのは今に始まった話じゃないだろう、と軽口でも叩いてやりたかったのに、見たことのないその表情に息が詰まって、言葉にはならない。
『……アルヒ、私が以前に渡した魔石、今持ってくれているかい』
『ああ? 素材にしてもいいって言ったのはあんたじゃないか』
『言ったとも。でもしていないんだろう?』
『……』
ち、と品のない舌打ちを一つ落として、服の内側に縫い付けたポケットから、ぞんざいな仕草でそれを取り出して渡してやる。
癪に障る訳知り顔でそれを受け取った奴は、こまめに手入れされていることを示すように美しい輝きを放つその雫型の魔石を、じっと見下ろした。
『……なんだい、今更返せなんてケチ臭いこと言うつもりじゃないだろうね』
『まさか。……ただ少しだけ、おまじないをね』
言うなり、そっとその緋色の瞳が伏せられ、同色の髪がそれを覆うように揺れて。……まるで祈るように厳かに、魔石に唇が寄せられた。微かに目を見開けば、その瞬間に強い風が窓から舞い込んで、ぶわ、と花弁が甘い香りを振り撒きながら二人を取り囲む。
その中で魔石が淡い炎の色を纏って、その唇が確かに何かを模ったのに、風の音に攫われて耳に届くことはなく消えていった。
すまなかったね、と言ってあっさりと返されたそれを、思わずじっと見下ろして。次いで真意を問うように向けた射貫くような視線に、奴は何でもないように首を横に振った。
『そう疑わないでくれ。今の私の魔力じゃ大したことはできないと、君も分かっているだろう? 本当に、ただのおまじないだよ。……君の涙に寄り添ってくれるようにってね』
『……あんた、あたしが泣いてるところなんか見たことあんのかい』
『ないとも。だからさ』
訳が分からない、と胡乱げな視線をどれほどに向けても、奴はお得意の鉄壁の笑みで全てを覆い隠してしまっていて、何もそこから読み取れはしなくて。
こうなると絶対に胸の内を明かしはしないことを知っていたから、結局その時は呆れたようなため息ひとつで引き下がることしかできなかった。
それから、奴は一度も贈ったピアスを外すことはなかったし、来る日も来る日も、以前のようにスノウモルを咲かせ続けた。
時折枝を手折っては、ほとんど同じ色で映えないだろうに、アルヒの雪原のような髪に差し込んで、酷く嬉しそうに瞳を緩めもした。いつだって二人の過ごす日々を、時間を、その雪のような花弁が彩っていたことをよく覚えている。
……眠るように奴が息を引き取ったその時だって、窓の外には満開のスノウモルが咲き誇っていて。
その憎らしいほど穏やかな顔に、まるで誰かの代わりに泣いているかのように次々と、花弁が舞い降りていたことだって、鮮明に。
あの瘴気を、もしも私が和らげられていたのならと嘆き、どうか手伝わせて欲しいと懇願する声を、馬鹿言ってんじゃないと一喝して。
結末は分かっているのだろう、どうか自分の幸せを探せ、と嗜める声を、鼻で笑って。
そうしているうち、やがて先に逝ってしまったかつての仲間の声が届かないところまで、走って走って走り抜けて。
……その中で。気が狂いそうな程に果ての見えない実験に、明け暮れる日々の中で。きっとあの時あいつが魔石に込めていたものは、そんな日々に終止符を打つための逃げ道だったのだろうと、ふと気がついてしまった。
自分の前でただの一度も涙を見せることはなかったアルヒが、もしもそれでも涙を零すほどに、自分が生前に願ったことによって苦しむようなことがあったら、全てを終わらせられるように。……恐らくは、「もういいよ」だとか、その辺りの言葉を。
だから、絶対に、あいつの為なんかに泣いてやるものかと心に決めていた。そんな逃げ道を用意しておきながら、最後の最後まで、「あの時頼んだことはなかったことに」なんて言い出すことはなかった、弱虫で甘ったれなあいつなんかの為に、泣いてやるような安い女じゃないつもりだった。
……だけど。時が過ぎて、過ぎて、……タイムリミットが近付いて。逃げ道なんて必要ないと言いながら、ずっと手放すこともできず肌身離さず持ち歩いていたその魔石の重みが、増していくのを感じていた。
きっとこの命の終わりまでに、人智を超えたその錬金薬を完成させることはできないと、最初から分かりきっていたことをいよいよ実感して、……途方に暮れるような心地がして。
ずっと、本当は知っていた。あいつは、本当に生き返らせて欲しかった訳じゃなくて、ただ忘れ去られるのが恐ろしかっただけなのだと。その願いを、確かにアルヒは完膚なきまでに叶えたはずだった。他のことが入り込む隙なんてないほどに、忘れる暇なんてないくらいに、この生の殆どをあいつの為の実験に捧げてきたのだから。
……だから、もう諦めて、終わりにしたっていいはずで。誰だって、きっとあいつだってそう言うに違いなくて、それなのに。そうは割り切れない何かがずっと胸の奥で燻っていて、その正体すらも、理解できなかった。……だけど。
────もしも一生を使っても結果が出なかったら、来世も使って、それで良い結果がでたら、再来世はもっとすごいれんきんやく、作ります!
子供の、本当に無邪気で無謀で、含みなんて何もない言葉だったと分かってる。だけどその勢いに任せた幼い声に、世界が色付くような感覚がして、気がついてしまった。──……終わりにできないのは、終わらせたくないからだったのだと。
いつの間にか、あいつに頼まれたからじゃなくて。ただ自分が、何に変えても、何を犠牲にしても、……この生を使っても成せなかったのならば、次の生を使ってでもと、願うほどに。
瘴気に侵された魂には、次の生は存在しない。あいつは生まれ変わることはできなくて、それなら、……会って一発殴ってやる方法は、結局ただ一つしかない。
道を定めた瞬間に、あれほどに重く感じていた逃げ道の魔石は酷く軽いものになって、そのままにかつての仲間を少しだけ思わせる容姿の、敏い少女の手にあっさりと渡った。逃げ道がなくなって、歩む道が一つしかなくなれば、もう迷う必要もない。
「……んにゃ」
あの無責任な発言でアルヒの人生が変わったなんてことを知ったら、あの小娘は卒倒してしまうかもしれないと、思わず髭を揺らして含み笑いをする。
……だけど。無責任でも、責任なんて取らなくていいから、誰かに言って欲しくてたまらない言葉があって、あの敏くて小さい娘は確かにあの時それをくれたのだ。それに勝手に恩義を感じていることなんて、きっとあの娘が知る日は来ないのだろうけれど。
らしくなく過去に想いを馳せていたら、ふと気がついた時には花弁に埋もれそうになっていて、慌てて身震いしてそれを払い落とした。
その枝を揺するスノウモルの大木を恨めしげに見上げて、ふとこの木も随分育ったものだと感慨に耽る。それでもこの場所の落ち着いた雰囲気は、あいつにあの魔石を渡された日から何も変わっていない。……酷く懐かしい、あいつの耳まで赤く染めた真剣な表情と愛を告げる声が、脳裏に浮かんで。
その時に、くらりと。……微かに目が眩んだのを感じて、ああ、そろそろ終わりなのだと漸く気がついた。別に花弁に埋もれたままでも良かったじゃないか、と軽く息を吐く。
元の姿に戻るべきだろうかと少しだけ考えて、けれど結局はそれを振り払った。……猫には、九つの生があるという。姿形を真似ているだけで、本質的に猫になってしまったわけではなくとも──それにあやかって幾度も生まれ変われたなら、最後の一度くらいは、あいつに手が届くかもしれない。
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今まで押し留めていた分、あいつが裸足で逃げ出すくらいにめちゃくちゃに泣き喚いて、その骨が軋むくらいに締め上げて。
今度はあたしを見送らないと絶対に許さないと、弱虫なあの馬鹿が泣いてしまうくらいに脅してやるのだ。
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