たったの五文字

シロツメクサ

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49.アコレード

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 レクスと二人、夢中になって競うように冒険譚を捲っていた日々が、もう本当にずっと遠く感じる。確かに子供の目にはそこに見えていた恐ろしい魔物に怯むことなく立ち向かって、世界一の魔法使いであるレクスが魔法で足止めして、にーちゃん、今だ! と声を張り上げる。
 それに合わせて、伝説の剣で、歴戦の騎士であるランが雄叫びを上げながらとどめを刺す。傍目から見たら何もないところで巻いた紙を振り回しているだけのそれが、笑い合う幼い二人にとってはこの上ない大冒険だった。

『……僕にとっての剣は、これが全て。────騎士になりたいなんて幼い夢は、随分昔に置いてきたよ』

 眉を下げたシェルタが、少しだけ言葉を探すように口を開き掛けて。けれど結局唇を引き結んだのを見て、思わず苦笑を浮かべる。少し昔を懐かしんでしまっただけで、別に辛気臭い空気にしたかったわけじゃなかった。
 ぱた、と空気を変えるように本を閉じれば、遠い過去は一緒にそこに封じ込められて消えていく。

『でもね、別に魔法使いになったことに異存はないし、後悔しているわけでもないんだよ。幸い向いているようだったし、これからも、僕は自分の選択でこの道を歩む。……だから、シェルタもそんな顔しないで、応援してくれたら嬉しいな』

 別に嘘を吐いたつもりはなかった。異存はないし、後悔もない。……もしかしたら、未練はあるのかもしれないけど。

 ランの穏やかな声に、シェルタは目を瞬くと、少しだけ安心したように引き結んでいた唇を解いた。本当にランの態度が変わらなかったことに、胸を撫で下ろす気持ちもあったのだろう。
 気が抜けたような笑みを浮かべて、なんでもないように、シェルタはそれを口にした。

『……はい、とても、ラン先輩らしいと思います。……でも聞いてしまったことですし、良かったら、ラン先輩の夢を少しだけ、私も持っていますね』

『……え、』

『重くて大切なものを、一人で守り続けるのは大変ですから。私は大したことはできませんけど、ご迷惑でなければ、ちょっとだけ預かります。……ラン先輩が良いと言うまで、先輩の夢、ずっと覚えていますから』

……その時に、胸に湧き上がった感情を。言い表す言葉をその時ランは見つけられなくて、多分今も、見つけられないままでいる。
 置いてきたと言った筈なのに、重くて大切な、守るべきものなんて当然のように形容して微笑むシェルタから、どうしてか目を離すことができなくて。
 ぐちゃぐちゃに入り乱れたそれに手を突っ込んで、掬い上げられたのは結局、か細い問いかけだけだった。きっとその時のランは、とても情けない顔をしていたことだろうと思う。

『……ずっと?』

『? はい。……あっ、あの勿論、ご迷惑でなければの話であって、押し付けようとかそういうことでは……っ』

『……どうして、』

 シェルタとランは、良く見積もっても親しい先輩後輩くらいの間柄だ。きっと本気なのだと分かってしまうからこそ、そんな相手にずっとなんて気軽に言ってしまえるのが、不思議で仕方なかった。
 他人の何かを抱えるなんてことがどれほど面倒か、彼女が理解していないようには見えないのに。

 自分の家名や、名声や、そういったものが理由としてすぐに浮かんで、けれどまた沈んでいく。シェルタがそういう類の人間じゃないことくらいは分かっているつもりだった。
 それならば、尚更……どうして。ランの掠れた問いかけに、何やら慌てて弁明していたシェルタは、逆に怪訝そうな表情を浮かべて首を傾げた。

『どうして、って……ラン先輩の強さを、選び歩む道を、心から尊敬しているからですよ』

 勿論レクス先輩には敵わないですけど、と苦笑いを浮かべて見せるあどけないその表情に、……ことり、と、未練が疼いた。
 本当に、ずっと誰にも悟らせることも、触れさせるつもりもなかったもので。ただ時折、一人でそっと振り返り懐かしむだけで、良かったはずなのに──知ってくれている誰かがいると思うだけで、……こんなにも。

 手の中に収まる、ランにとっての剣の全てを、じっと見下ろす。かつて、沢山の素晴らしい仲間を率い、魔物の群れの中怯むことなく切り込んでいくその姿に、……たった一人、これと定めた相手に忠誠を捧げ、それを生涯貫き続けた騎士に、ランは心の底から憧れた。

『……ねぇ、シェルタ。魔法使いになったことに、後悔はないけど。……でも僕は、できることなら、……君の、』

 あどけなく首を傾げたシェルタに、声が詰まる。その言葉の続きを紡ぐことはなく、ランは目を伏せて、微かに細い息を吐いた。これは、預けてしまうには、きっと少し重すぎるものだ。
……だけど、それでも。自分に呆れたような微かな笑みを浮かべてから、ランは徐に椅子を引いて立ち上がった。ただでさえ身長差があるのに、そうしてしまえば座ってこちらを見上げるシェルタが本当に小さく見える。

『……ラン先輩?』

 戸惑ったようなその声に応えることはなく、ランは一度、紙の剣を顔の前に掲げて────そのまま、酷く恭しい、優雅な所作でシェルタの前に膝を着き、ゆっくりと頭を垂れた。
 スノウモルを模ったピアスが軽い音を立てて、月光を閉じ込めたような艶やかな銀の髪が、さらりと揺れる。その、見惚れてしまうくらいに洗練された仕草が。伏せられた宝石のような紫の瞳が、……本当に、何かの物語の中の、神聖な儀式のようで。

 尊敬する先輩を跪かせているという異常事態にも関わらず、シェルタが目を見開いたまますぐに反応を返すことができなかったのは、その空気があまりにも張り詰めていたからだった。
 声を掛けるどころか、息遣いひとつ取っても上手くできているか分からなくなるほどに、……いつになく、ランが真剣な表情を浮かべていたから。

 衣擦れの音さえも耳に障りそうなほどぴんと張った空気の中、酷く丁寧な手つきで、ランが紙を巻いた剣の切先を、そっと自分の胸に向ける。
 そのままに軽く突けば、当然殆ど感触など伝えてこないそれが、胸の奥底に仕舞い込んでいた何かを、確かに縛ったような感覚がして……けれど、それは決して悪い気分ではなかった。
 漸くランが顔を上げれば、我に返ったらしいシェルタが面白いように顔を青ざめさせたものだから、思わず少し肩を震わせて。

『ラ、ラン先輩!? 何を……あの、と、とりあえず立ってくださ、っんむ』

 ぱち、とその宝石のような緑の瞳が瞬かれて、貸切とはいえ図書室には些か響く声が堰き止められる。
 その薄桃色の唇に紙の剣を押し付けて口を塞いでいたランは、シェルタが言葉を失ったのを確かめてからそれを離すと、何でもないようなあっけらかんとした笑みを浮かべ、ローブの埃を軽く払いながら立ち上がった。

『ごめん、驚かせてしまったね。懐かしい話をしていたら、ついごっこ遊びがしたくなって』

『ご、ごっこ遊び……』

『うん、騎士ごっこ。丁度剣も手元にあったから』

 驚いたように口元を指先で抑えていたシェルタは、ランの言葉を聞くなり脱力して、椅子に凭れ掛かるようにしてぐったりと項垂れた。絞り出された声にも、心なしか疲れが滲んでいる。

『あの、驚くので、せめて一声掛けてからお願いします……』

『あはは、うん、次はそうするよ。……ねえ、シェルタ』

 まるで雫が水面を打つような静かな呼び掛けに、項垂れていたシェルタはぱっと顔を上げた。紫の、宝石みたいな瞳と視線がぶつかって、それがふわりと緩められる。
 その中に少しだけ、見たことのない感情が渦巻いているような気がしたけれど、シェルタがその正体を掴む前に、ランが紙の剣を見せるようにして持ち上げた。
────それから、まるで子供みたいな、無邪気な笑みを浮かべて。


『……預けたよ』


『! は、はいっ』

 居住まいを正して神妙な顔をしたシェルタに、本当に真面目だな、とランは苦笑を浮かべた。……それにつけ込んだ人間が言えることではないのだろうけれど。
 暫く預かったものの重みを噛み締めるように唇を引き結んでいたシェルタは、けれどふと眉を下げた。

『あの、そういえば、もし次があったら私は何の役をやれば……やっぱり魔物でしょうか』

 何がどうやっぱりなのか分からないけれど、兎に角ランは吹き出した。想像することができないくらいには似合わないし、多分剣や魔法を使うまでもなく倒せてしまうに違いない。
 くつくつと肩を揺らしながら、ランは考えておくよ、と言ってお茶を濁した。

 あの冒険譚にもしも準えるのだとしたら、彼女の憧れる、アルヒ・ソルシエルがモデルの錬金術師と答えてあげた方が良かったのかもしれない。……だけど。
 ランの想像の中で、彼女の揺れる艶やかな金髪とペリドットのような瞳が、……かつて幾度も捲った冒険譚の挿絵の中、騎士が唯一の忠誠を捧げたその姿と、どうしようもなく重なって。


 廊下と図書室の境で、本を抱きつつ何度もお礼を言いながら頭を下げるシェルタに苦笑混じりに手を振れば、幾度か気遣うようにこちらを振り返りつつも、やがて廊下の角に吸い込まれるようにしてその姿が見えなくなる。
 完全に足音が去ったのを確認してからまた図書室の中へと戻れば、最初よりもずっと、静寂が耳に痛く感じた。

 微かに嘆息しながら、自分ももう戻ってしまおうと出したままだった冒険譚を手に取って、それからふと、それに並べるように置かれていた紙の剣が目に入った。
……魔力の通っていない剣では、当然騎士の誓いは意味を持たない。それは当たり前のことで、……──それなら、魔力を通した紙の剣ならどうだろう、なんて。

……ふと苦笑を漏らしたランが指を翳せば、それは端からゆっくりと消えていった。



 少なくとも、その日から。ランにとってシェルタは────
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