たったの五文字

シロツメクサ

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50.エピローグ

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「……ランせんぱ……、ラン、くん? あの、も、もしかしてお口に合いませんでしたか……?」

 遠い記憶に浸っていたランは、すぐ隣からおずおずと掛けられた声にふと引き戻された。見下ろした先で宝石のような緑の瞳が不安そうに揺れていて、纏め上げられた艶やかな金の髪を彩るように、雫型の魔石が輝いている。

 けれどこちらを伺うシェルタと視線がどうも噛み合わないのは、彼女が見つめているのがランではなく、そのすぐ前の机の上で包みを解かれたお弁当の中身だからだ。
 空き教室で机を並べ隣り合い、同じおかずのお弁当を食べる二人は、端から見ればそれなりに付き合いたての男女らしかった。


 錬金科と魔法科は、分野は違えど比較的距離が近い。昼食を良ければ一緒に、と先に申し出たのはランの方で、それなら自分の分のついでにお弁当を作ってきましょうか、と言ってくれたのはシェルタだった。
 二人の関係はランの置かれた面倒な立場のせいで公にできずにいるけれど、毎度人目を憚るような形になってしまって申し訳ないと思いつつ、この時間はランにとって本当に楽しみなもので。

……だけど、彼女と想いが通じたことが嬉しくて、柄にもなく浮かれて、今にして思えば色々なことを見逃してしまっていたのだと思う。それは唯一の家族のことだけではなく、きっと、彼女のことも。

「……ううん。すごく美味しいよ。毎日楽しみにしてしまうくらい」

 ランの言葉に、シェルタは心から安堵したようにその瞳を緩めた。お世辞でも何でもなく、シェルタがいつも作ってきてくれる食事はとても凝っていて、ランの好きな味付けで。
 視線を下げれば、きっと店で買えるものと比べても遜色ないほどには豪華な主菜に、丁寧に華やかな形に切られた野菜が見栄え良く所狭しと並んでいた。固辞するシェルタを押し切って材料費を持っていることを差し引いても、これではお釣りが出てしまうと思うくらいに。

「……ねぇシェルタ、これ、自分のついでに作ってくれているって言っていたよね」

「えっ、……そ、そうですよ。一人の時もいつもこんなものですから、お気になさらないでください」

 あからさまに視線が泳いでいるこんなにも分かりやすい嘘に、どうしてかつてのランは騙されてしまったのだろうと、微かに息を吐く。きっとシェルタはランの知らないところで、決して悟らせないように、努力を重ねてくれていたのに。

 「ランくん」と呼んでほしいと強請った時も、最初はいっそ青ざめてぶんぶん首を横に振っていたはずなのに、結局最後には折れてくれた。ランが望んだからと、何度もつっかえつっかえ練習を重ねて、今では三回に一回くらいは自然と呼べるようになっている。
 その慣れない拙い響きが、ランの耳にはとても甘やかに響いた。

……ランのこれまでの人生の中で、幼少期の弟を除き、気軽に愛称で呼び合えるような相手は存在しなかった。だから対等な関係を思わせる、親しみを込めた呼び名というものに、実は前から少し憧れていて。
 いつかはランも呼び捨てではなく、近しい者にしか許されないような、何か特別な呼び名でシェルタを呼んでみたいと願っていたりするのだけれど、それはまだ言い出せていない。そう望むには二人の関係は未だ手探りで、シェルタがランを呼ぶ時につっかえなくなったら、と言い訳をして引き延ばしていた。
……けれど遠からず、彼女の努力によってこの言い訳は効かなくなってしまうのだろう。

 ランが褒めたことで安心したのか、心なしか嬉しそうな表情を浮かべたシェルタもお弁当に口をつけ始める。その拍子に纏められた金の髪に結いつけられた魔石が揺れて、はらりと一筋後れ毛が落ちた。
 シェルタは、最近ランと二人で会う時、綺麗に髪を纏めてくる。その瞼に少しだけ、きらきらとした甘やかな色が乗っていることにも、気がついていた。
 ランにとってシェルタはシェルタで、身も蓋もないことを言えばその容姿にあまり頓着したことはなくて。だから似合っているなとは思いつつ、特別気に留めるようなこともしなかった。……だけど。

「シェルタ、最近、よく髪を纏めているね」

「……えっ、」

 ぱっとその顔が上げられて、まるで信じられないことを聞いたかのようにペリドットの瞳が見開かれる。
 ランが気がつくなんて少しも思っていなかったようなその反応に、シェルタの努力と僅かな期待を、どれほど裏切り続けていたのだろうかと思い、胸の奥がちくりと痛んだ。

「よく似合ってる。……すごく可愛い」

「え、……あ、あ、あの」

 微笑んで囁けば、シェルタの頬がみるみるうちに果実のように赤らんでいく。その表情に浮かぶ感情の殆どが驚きと戸惑いで、……けれど間違いなく、そこにはまるで漸く願いが叶ったような喜びが滲んでいた。
 羞恥からか潤んだ瞳がぱっと逸らされて、薄桃色の唇が噛み締められる。それを見ていたら、何だか形容し難いような感情が腹の底で疼いたから、ランは気が付けばそれに導かれるように、ゆっくりと手を伸ばしていた。

「……っ」

 シェルタの柔らかい髪を一筋掬って、指先で弄ぶ。すっかり食事どころではなくなってしまった様子の彼女はされるがまま、顔を真っ赤にして身体を硬くしていて、……だけど当然、いつかの夢の中のように、強張った表情で避けられることはない。
 それに微かに安堵を覚えてしまった自分にランは苦笑を漏らして、くるりと誤魔化すように指先に髪を巻きつけた。


 きっとランが今まで当たり前に享受していたものは、何一つ当たり前ではなくて、思っている以上にランはシェルタに許されていたのだろう。
 シェルタからも想われているから成り立っている関係なのだと、分かっているようで分かっていなかった。……それが、どれほど幸せなことなのかも。

 ただじっと、今手の中にある幸福を確かめるようにシェルタの熱を持った顔を見つめていれば、それに余計にかちこちに固まってしまった真っ赤なシェルタは、視線をあちこちに彷徨わせながら絞り出すように声を震わせた。

「あ、あの、ラン先輩、き、今日はその、……どうか、されたんですか……?」

「……ううん。ただ僕は本当に、何も分かっていなかったんだなって」

 彼女には、普通であれば必要ない我慢や苦労をこれから強いることになる。それならばせめて、一人で色々なことを抱え込んでしまうシェルタが、何かあれば素直に、真っ先にランを頼ってくれるようになるまで、ゆっくり確実に関係を築いていけたらと考えていて。
 結果的に、付き合う前とあまり変わらないような穏やかな関係性が続いていたけれど、ランはそれでもいいと考えていた。自分の立場を、彼女に掛ける苦労を考えなかった訳じゃないのに、それでもと、その手を取ってしまったから。

……レクスが目覚めなくなって、ランにとって何よりも大切な、唯一の家族の秘めた想いを知って。……らしくなく酷く悩んで、あの時繋がったもう一つの世界のように、他の誰かの手を取った方が彼女は幸せなんじゃないかと、考えたりもしたけれど。
……やっぱりどうしても、優しく握り返してくれたその手を離すことは、出来なかった。それを恐ろしいと思ってしまう程度には、もうランは戻れなくなってしまっていたから。

 だから引け目という程ではないけれど、ランがどうしてもと望んで手を取り合ったのは間違いのない事実だったから、シェルタに多くを望んではいけないと自分に言い聞かせている部分があったように思う。
……けれどそれは、ある種の傲慢だったのかもしれない。ランがシェルタを望むことはあっても、彼女がランに望んでくれることがあるなんて、考えもしていなかったのだから。

 弄んでいた髪の一筋を解放してやり、代わりに、労わるような手つきでその色付いた頬を包み込む。手袋越しにもそれは酷く柔く、熱く感じた。驚いたように見開かれ、揺れたペリドットのような瞳を、真っ直ぐに見つめる。
 本当は、こんな雑然とした空き教室で伝えるようなことではないのだろうけれど。……そんなことに拘って先延ばしにして、愛想を尽かされては敵わない。

「ねえシェルタ、……あまり、言葉にして伝えたことはなかったかもしれないけど」

 微かに息を呑む音がして、その揺れる瞳に、少しだけ期待の色が浮かび上がる。……彼女の願いを知った経緯は、不可抗力だったとはいえ卑怯と言われてしまえばぐうの音も出ない。
 それでもランの胸の内を少し覗き込めば、彼女が求めれば欲しいだけ差し出せるくらいには、いつだってそこにあったものだ。だからまるで誓うような響きを帯びたその言葉は、一点の曇りもなく、ランの本心だった。


「……僕は、君を愛してるよ。──叶うことなら、ずっと一緒にいてほしいな」




……現実は、物語のように上手くはいかないことを知っている。望まない力は誰かの夢で、叶った恋の裏側に、きっと誰かの痛みがある。
 それでも手を取り合えたのなら、上手くはいかない現実を、ランはシェルタと「ままならないね」と言い合いながら、ずっと歩んでいきたかった。

 ほろりと宝石みたいに美しい緑の瞳から雫がこぼれ落ちて、彼女の頬を包むランの手袋を濡らしていく。
 指先で幾度拭ってもきりがないそれに苦笑を漏らすと、真っ赤に染まって涙でぐしゃぐしゃな、酷く愛しいその顔をそっと引き寄せて胸に押し付けた。

 少しだけ早い心臓の音に気が付かれてしまうかな、と思い至って、まあいいかと微かに息を吐く。ランの胸に遮られてくぐもるシェルタの声は、酷く滲んで不明瞭で、殆ど聞き取れなかったけれど──……ランくん、私も、という言葉が確かにそこに混じっていて、それがランにとっての全てだった。

 どうしようもなく胸の底から湧き上がる、目も眩むような幸福にそっと目を閉じる。
 現実は物語のようにはいかなくとも、二人足掻いて辿り着いたその果てはきっと悪くないものだと、不思議と心の底から信じられた。

……幼い頃、擦り切れる程にそのページを捲った冒険譚の、酷く陳腐で、けれど何よりも眩しく思えたエピローグが、ふと鮮明に脳裏に浮かぶ。





──こうして、たくさんの苦難を乗り越え結ばれた二人は、ずっと手を取り合い助け合って、いつまでも仲良く幸せに暮らしましたとさ。




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