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8.離別と狂気
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その、エメラルドのような美しい瞳が、揺れて、溶け落ちてしまうんじゃないかと思った。
「……ノエル、」
こちらが泣いてしまいそうなほどに張り詰めた声で呼ばれた己の名前に、相応に小さくなってしまった胸がぎゅうと痛む。こうなるだろうと、分かっていたから─────会わない方が、いいと思っていたのに。こんな不吉な黒猫を、あれだけ尽くされていながら懐きもしなかった、いつ放り捨てたっていいような存在を、この人は本当に大切にしてくれたから。信じられないほどの優しさと、愛をくれたから。魔女の使い魔だと知ったら、何とかして助けてくれようとするだろうと知っていた。
……それなのに、会わない方がいいと自分に言い聞かせておきながら、最後に一目でも会えて、その美しい瞳を目に焼き付けられて─────心から喜んでいる醜い自分がいた。この世の何より愛しい番。……私の唯一、私の全て。周囲に厄災を撒き散らす私が、愛してくれた人たちすらも死に追いやった、この生を終わらせることすらも許されない私が。最後にこの人にしてあげられることが一つしかないのが、我ながら情けなかった。それでも、躊躇いはない。アダン様を─────この世の何よりも愛しい番を、守ることができるのならば。
「……にぃ」
慣れないながら、私は必死に高い、甘えた声を繕って─────すり、と自分から魔女の足に擦り寄った。まるで、久しぶりに会えた飼い主に甘える、ただの子猫のように。ひゅ、と息を詰める音がした気がしたけれど、私はとにかく必死でそちらを見やる余裕はなかった。不吉な黒猫に擦り寄られるなんて気分のいいものではないと思うけれど、私の意図を汲み取ってか魔女はしたいようにさせてくれている。正体を知られているだけに羞恥も大きかったけれど、私は必死で「待ち望んだ再会に喜び、大好きな人に甘える子猫」を演じていた。
「にー、にぃ!ぴゃー!」
寂しかった、会いたかった、と言うようにしきりに高く鳴きながらぐるぐると魔女の足のそばを回って、構ってほしいというように肉球でつま先をつついて、高く上げた尻尾をその足に絡めて。何度も軽く頭突きをするように額を押し付けてみるけれど、力加減が分からなくて内心ひやひやしていた。いつ魔女が怒り出すかと思うと気が気でなかったけれど、魔女は意外とこの芝居に乗り気なのかわざわざ屈んでくれた。驚きつつも、目線で合図を送られたので、できるだけ衝撃を殺しながらその線の細い肩に飛びのってみる。これで合っているのか不安で仕方なかったけれど、間近に迫った薄紫の瞳が悪戯げに細められていると言うことは正解だったのだろう。近くで見ると本当に人間なのか疑いたくなるほどの美貌に若干気後れするけれど、頬を寄せられたのでおそるおそるちいさな舌を伸ばして、必死に親愛の毛繕いを装った。くすぐったそうに肩まで揺らして見せる魔女は、女優の才能があるに違いない。
─────私は、自分の意思でこの魔女と居るの。この魔女のことが大好きで、傍にいると幸せなの。だからあなたのところには居たくない。
本心とはかけ離れたものでも、傍目からは言い訳のしようもなくそう思ってもらえるくらいには、「懐いている子猫」の振る舞いをして見せたつもりだ。胸が痛くてアダン様の方を見ることができないでいるけれど、何も言わないということは多分上手くいっているのだろう。切なさから歪んだ視界を隠したくて魔女の肩にべたりと体を伏せると、魔女はひとつ息を吐いて立ち上がった。振り落とされないように必死にしがみつきつつ、手で払われるストロベリーブロンドの毛先を思わず視線で追う。
「─────わかったでしょう?少なくともこの契約に関しては、私達は両思いなの。部外者が余計な口を挟まないことね」
魔女の傲慢さを隠しもしない声に、アダン様の返答はなかった。魔女も返事を求めての言葉ではなかったのだろう、軽く肩を竦めるだけだ。両思いなんて、そんな綺麗なもので纏めてしまっても嘘にはならないらしいのが不思議だった。魔女は貴重な赤目の黒猫獣人で思う存分実験したいだけだろうし、私は死すらも許されない不吉な黒猫だから、この身の厄災を抑えてくれる魔女以外に行く当てがないだけだ。それでも、魔女の言葉でアダン様が勘違いをして、諦めてくれるのであればそれでいい。きっと惜しがって、悲しんでくれるだろうと自惚れでなく思えるくらいには、アダン様は私に真摯に好意を伝えてくれていた。彼の傍にいるわけにはいかないけれど、使い魔として虐げられているよりは、私が大好きな飼い主と一緒にいて幸せな日々を送っていると思った方がまだ心の安寧があるはず。
「それじゃ、話は終わりよ。もう会うことがないのを祈ってるわ。私ここの王宮って雰囲気が湿っぽくて嫌いなのよね」
身勝手な台詞をあっけらかんと吐いて、また、とぷんと一つ水音がした。これが魔女が魔術で移動する時の音だといい加減理解していた私ははっと顔を上げる。正直、まだ心が追いついてない部分があるけれど、アダン様に会うことができるのはこれが最後なのだ。今は実感がなくても、この人と離れてしまったら、きっと日々の中で、ゆっくりと心が死んでいくという確信があった。アダン様に散々な態度を取っていたくせにどの口がと思うけれど、それでも、この部屋で過ごした日々は幸せで、甘美で、本当に、感謝してもし尽くせなくて。最後だ、これで最後だから。心の底からの愛と祝福を込めて、どうか幸せになってほしいと祈って。魔力の影響か霞んでいく視界の中で、私は一つ甘く鳴いた。
「─────……にゃあ」
愛している、心から、この世の何よりも。私がしてあげられることはあまりにも少なくて、傷つけてばかりだったけれど。それでも、これから先どれほどに苦痛の日々を過ごすことになっても、心が擦り切れてしまったとしても。ずっとずっと、私の全てであなたの幸せを、それだけを祈ってる。
はらりと、紐が解けてアダン様が誂えてくれたレースの羽織が空を舞った。前足が追うように動きそうになって、私はなんとかそれを堪えた。与えられたものだけ持っていきたいなんて、酷く卑怯なことに思えたから。抑えきれずに霞む視界の中、魔女の肩越しにエメラルドの瞳と視線が交錯して─────私は、思わず目を見開いた。
魔女の魔術が発動し、目に映る景色がひっくり返るまでの、瞬きにも満たない時間。それでも、ノエルが焦がれ続けた番の表情を見間違えるはずがない。……瞳孔の開き切った瞳で、獲物を見定める獣の目で。
一心にノエルだけを射抜きながら─────……アダン様は、確かに笑っていた。
アダンが夜半、慌てた様子で番の部屋に入っていったと報告を受けたジスランは、老体に鞭打ち転がるように庭を駆けていた。門番に話を通していたせいで王宮にはまだ距離があるが、報告に来たものはとっくに戻っているだろう。鈍足な我が身のもどかしいことといったら。番のことに関してアダンが普段不安定な様子なのは周知の事実だが、それでも夜中に飛び起きて駆け込んでいったとなれば余程のことだ。何事もなければいいと願わずにはいられないのに、先ほどから胸騒ぎが止まらなかった。漸く華々しい建物の一角が目に入りもう一息と思ったところで、ジスランは息を切らしながらも足を止めてぎょっと目を見開いた。
─────ジスランが思い浮かべていたかの王その人が、庭に降りていたのだ。それも、何故か寝衣に裸足のまま。竜の頑丈さは誰しもが知ることだから健康面の心配はいらないにしても、その光景は異様だった。月明かりに照らされて、見事な黄金の髪が輝いている。それは何も知らない者が見れば、絵画のようだとため息の一つでも吐いたかもしれないほどには美しい光景だったが─────……獣人であるジスランは、慌てて近づこうとしたその瞬間ひゅっと喉を鳴らした。びりびりと肌が痺れる。意識を保つのがやっとなほどの、獣人を統べる竜の王の威圧。本来であれば忠臣として、すぐに声を掛けねばならなかった。靴をお持ちして、何にせよ部屋に戻るように誘導するべきだった。だが実際はどうだ。情けなくも畏れを抱き、指先一つ動かすことすら叶わない。勝手に体が震え、歯の根が合わずにガチガチと煩わしい音がした。そんなジスランに気付いているのかいないのか─────……アダンは、ゆっくりと夜空に浮かぶ月を見上げて。
「──────────……は、はは、は、ははははは、ははははははははは!!!!」
─────唐突に、天にも届きそうなほどの歪な哄笑を響かせた。
ジスランは、その声を聞いて漸く骨身に染みて理解した。どうやったのか知らないが、身の程知らずの誰かが、余りにも愚かなことに─────アダンの、竜王の怒りを買ったのだ。それも、最悪なことに恐らくは、竜の逆鱗、掌中の珠……あの小さな黒猫のことで。ゆっくりと、心を絶望が満たしていく。漸く、漸く、主が血反吐を吐くほどに求めていたものが目の前に現れたと思ったのに。すぐには上手く進まずとも、この先に主の幸福と安寧があると信じていた。それなのに今、いつか見た悪夢が、もう足元まで迫ってきている。
呼吸が怪しくなるほどの哄笑を響かせていたアダンは、ふと視界の端に青ざめたジスランを捉えると、その笑みを浮かべたままに歩み寄ってきた。いっそ普段よりも気安く、旧知の友人に出会ったかのような自然な動作で。けれど、そのエメラルドのような瞳は瞳孔が開いたまま、焦点すらも合っていなかった。竜の威圧をより間近で浴びることになったジスランは、意識を保つことすらも危うかったが、忠臣としてのせめてもの矜持としてその瞳を見返した。
「───────……ねぇ」
主に呼ばれて応えないことなど、普段であれば絶対にあり得ない。けれど今はどんなに口を開きたくとも、竜の威圧に圧されてできそうになかった。それを分かっているのかいないのか、応えがないことを気にしたふうでもなく、ジスランは淡々と言葉を重ねた。声を荒げるでもなく、ゆっくりと穏やかな口調で重ねられるそれが、畏ろしくてたまらない。
「……俺は、強いよね。獣人の王だから」
短く、あどけない、問うているのに答えを求めていない質問。意図が掴めずに、ジスランは戸惑いを瞳に浮かべた。答えは当然是であり、獣人を統べる竜の王の力はそもそも強いなんて言葉で言い表せるものではない。そんなことは、当然アダンだって純然たる事実として理解しているはずで、誰かに確認を取るようなことでもないはずだった。ぽつりぽつりと、継ぎ接ぐように言葉が落ちていく。まるで、嵐の始まりの数滴の雫のように。
「─────姿形も、竜であれ人間の姿であれ、宝石に例えられることが多かったから、いつか番に会えても気に入って貰えると思ってた。硬い鱗があればどんな危険な地にだって行ける、金銭に困ることもない。だから番が望むものがあれば、俺は何でも差し出してあげられるんだって、思ってたんだ。この世で最も相性の良い魂から選ばれる、一目で惹かれ合う運命の番だけど……そうしたら、もっと好きになってもらえる。依存させられる。それで俺がいちばんだって言ってもらうんだって」
己の持つ物を計るように、アダンは掌をじっと見つめた。きっと人間や獣人にとって価値あるものが、多くこの掌の中にはある。─────……でも。脳裏にこびりついて離れない、甘い声。愛らしい仕草、好意を全力で示すちいさな姿。狂おしいほどに夢想した、アダンの愛しい黒猫の姿。
その、全てが─────アダンではない、他の者に向けられていた。
「─────……でも、そんなものがいくらあったって。ノエルは」
不思議なほどに感情は凪いでいるのに、視界が勝手に赤く染まっていく。ぎり、と握りしめた掌に爪が食い込み、血が滲む。そうまでしても、震えを抑えることができない。アダンは血が滴り落ち、自分のものであるはずなのに言うことを聞かないそれを暫く見つめた後、ふと、何の前触れもなく、理性と頑強な精神力でのみ長らく繋ぎ止められていた正気の器が、ぐらりと傾くのを感じた。耳鳴りが止まなくて、自分が今どこで何をしているのか、目の前にいるのが誰かさえも曖昧になっていくのに、先ほど見た悪夢のような光景だけが、擦り切れたフィルムみたいに鮮明に繰り返されていく。
─────己の番が。ノエルがアダンではない者に、聞いたことがないほどに甘く、蕩けそうな声で鳴いていた。あの可愛らしいちいさな前足でじゃれついて、擦り寄って、頭突きして、あまつさえ自分から肩に乗って。それで、……毛繕いまで、
ぐつりぐつりと、臓腑が煮えるような心地がする。あの下賎な魔女は当然のような顔で、アダンが血反吐を吐くほどに求めた全てを享受していた。もしあれがアダンだったら、きっとその日に死んでしまってもいいと思うくらいに幸せで、狂おしいほど嬉しくて、自分の持ち得る全てでノエルに返してあげたいと思うのに。あれはその手を差し出すことすらしていなかった。いや、触れることなど許さない。あの薄汚い手で、ノエルに触れるなんて反吐が出る。でも、でも─────……ノエルは、あの魔女を選んだ。あの魔女がノエルにしてやれることは、全てアダンでもいいはずなのに。いいや、あの魔女よりも余程良い環境を、アダンは差し出すことができるのに。それなのに、ノエルは衰弱するほどにアダンを拒み続けてでも、あの魔女がいいと。
─────それで、ノエルは、自らあの魔女の元へと行ってしまった。
現実に思考が追いついて、アダンはぐらりと視界が歪むのを感じた。目の前にいる誰かが焦ったように口を開こうとしているのが見えた気がしたけれど、それもどうでもよかった。─────……どんな力があっても、権威があっても、ノエルは俺を選ばなかった。俺にはノエルだけなのに。正気がすり減り、死が間近に迫るその時まで、ノエルを求め続けていたのに。
「……ノエル、ノエル。俺の番。俺の唯一。俺の、全て。なのに、どうして。あの女がいいの?卑怯な契約で君を縛る、あの下賎な魔女のどこが……君が望むなら、俺は何にだってなれるのに。君が、俺をいちばんにしてくれるなら、何だってできるのに、どうして、俺を拒むの。いかないで、君の意志で、俺をえらんでよ、俺を、番だって認めて。なんで、─────……俺じゃ、ノエルは」
アダンの持つ物全て並べて、差し出して、それでもノエルがアダンを選ばないと言うのなら─────……アダンでは駄目だと、言うのなら。それならば、もう、こんなものはいらない。壊してしまえばいい、番に選んでもらえなかった何もかも。
腕に、一つ二つと、黄金の鱗が浮き上がっていく。瞬く間に面積を増やしていくそれが完全に竜の右腕となるまで、そう時間は掛からなかった。周囲の喧騒など何も耳に入らず、際限なく気分が高揚していく。いつぶりだろう、こんなにも竜としての己が表に出てくるのは。さあ、目に付く、何から壊してしまおうか。情報として入ってこずとも鮮明な視界に一番煩わしく映ったのは、やたらに豪奢で図体だけが大きい建物だった。この国の権威を、竜の王としての威光を、知らしめるためのもの。番とアダンが、ひととき共に暮らした場所。─────……ああ、でもノエルは、あの部屋を気に入ってはくれなかった。アダンが、快適に過ごしてもらうために用意した番の為の巣。でも気に入ってもらえなければ、そんなもの何の意味もない。ならば、ならば、壊してしまおう。もう一回、気に入って貰えるように、作り直さないと。そうだ、そうしたら、ノエルはいつか─────……いつか。
大きく腕を振り上げる。竜王としての魔力が、全て鱗で覆われた右腕に集っていく。誰かの焦燥を帯びた声で、馴染みのある音で呼ばれた気がしたけれど、どうでもいい。もう、全て。腕を振り下ろしたその瞳には、既に何も映ってはいなかった。己の喉から響き渡る竜の咆哮も、劈く誰かの悲鳴も、轟音も瓦礫の音も、泣きそうな声で己を呼ぶ忠臣の声も。─────……ただ、耳の奥にこびりついて離れないのは。
『─────……にゃあ』
確かに、最後のあの声だけは。あの甘く切ないちいさな声は。あの忌まわしい魔女ではなく、アダンに向けられていた。
─────……その日。竜王のために造られた王宮は、跡形もなく崩れ去った。他でもない、獣人を統べる竜の王の手によって。
一欠片、王としての最後の理性なのか、王宮の中にいた者達は最低限の保護の魔術によって大きな傷を負うことはなかった。しかし泣き叫ぶような竜の咆哮は、天を裂いて轟き響き渡ったという。それが示すところは、夜明けを待つこともなく耳の良い獣人達に周知されることになる。─────……竜王の復帰、そしてその乱心を。
ジスランは、呆然と目の前に立つ主を見つめていた。とうにその腰は抜け、情けなく地面に座り込んでいる有様だったが、そんなことはどうでも良かった。目の前で積み木のように簡単に王宮が崩れていったのはそれは衝撃だったが、中に居た者達への心配は、要らないと分かっている。その鱗に包まれた腕から放たれた魔力が王宮へと届く直前、アダンが意図的にか無意識にか、人にだけ保護の魔法を施したことに気がついていたからだ。ジスランは痛いほどに知っている。どんなに正気がすり切れても、いっそ狂ってしまったほうが楽だと知っていても。獣人の王として生まれついた彼の人の強靭な精神力は、容易く狂うことさえも許されないのだと。─────……だから。
何も浮かんでいない瞳に、どうしようもない理性を一欠片捨てられないでいるアダンが静かに涙を零しているのを見て、ジスランは胸が灼かれるようだった。彼が番が居る王宮に攻撃をするなんて、天地がひっくり返ったとしてもあり得ない。それならば、番様をあそこから連れ去ったあまりに愚かな誰かがいると言うことだ。アダンにとっての命そのもの、この世の全てを。
暫く、どこを見つめているとも知れない虚な瞳で立ち尽くしていたアダンの体が、ふっと前触れもなく糸が切れたように傾いだのを見て、ジスランは慌てて立ち上がり駆け寄った。間近で竜の怒りに触れた体は未だ震えが収まらないでいるが、そんなものに構っていられない。
「ッアダン様、アダン様……!!」
呼びかけながらも躊躇いがちにその御身に触れると、アダンは深い呼吸を繰り返しながら目を閉じていた。長い生で培った知識を用いてできる範囲で検分してみるものの、どうやら気を失っているだけらしいと分かり、ひとまず安堵の息を零す。竜の王が本気になれば、その被害は王宮などに留まることはない。比喩ではなく瞬く間に国が一つ滅ぶ。今気を失っているのは、恐らく積もりに積もった心労から精神を守るためだろう。精神も身体も頑強な竜だが、こと番に関してはそうもいかないのをジスランは良く知っていた。未だその目尻に残る涙の痕が、どうしようもなく痛ましい。とにかく、王をこんなところに転がしていくわけにはいかない。恐らく大した怪我をした者はいないとはいえ、当然ながらあまりに唐突なことに瓦礫と化した王宮のそこかしこから悲鳴や混乱の声が聞こえてくる。とにかく王を移動させ、その後できる範囲で事態の収束を図るのが、今忠臣として為すべきことだ。
大変な騒ぎの中にありながらも安らかな吐息を繰り返すアダンの穏やかな顔に、思わず眉尻を下げる。ほどなく目を覚ますであろう彼は、その瞬間からまた苦痛に苛まれるのだろう。それでも、どうか今だけは、その夢が穏やかで幸福なものであることを願わずにはいられない。アダンを運ぶための人手を呼び寄せながらも、ジスランは主の明日を思い、一度そっときつく目を瞑ったのだった。
「……ノエル、」
こちらが泣いてしまいそうなほどに張り詰めた声で呼ばれた己の名前に、相応に小さくなってしまった胸がぎゅうと痛む。こうなるだろうと、分かっていたから─────会わない方が、いいと思っていたのに。こんな不吉な黒猫を、あれだけ尽くされていながら懐きもしなかった、いつ放り捨てたっていいような存在を、この人は本当に大切にしてくれたから。信じられないほどの優しさと、愛をくれたから。魔女の使い魔だと知ったら、何とかして助けてくれようとするだろうと知っていた。
……それなのに、会わない方がいいと自分に言い聞かせておきながら、最後に一目でも会えて、その美しい瞳を目に焼き付けられて─────心から喜んでいる醜い自分がいた。この世の何より愛しい番。……私の唯一、私の全て。周囲に厄災を撒き散らす私が、愛してくれた人たちすらも死に追いやった、この生を終わらせることすらも許されない私が。最後にこの人にしてあげられることが一つしかないのが、我ながら情けなかった。それでも、躊躇いはない。アダン様を─────この世の何よりも愛しい番を、守ることができるのならば。
「……にぃ」
慣れないながら、私は必死に高い、甘えた声を繕って─────すり、と自分から魔女の足に擦り寄った。まるで、久しぶりに会えた飼い主に甘える、ただの子猫のように。ひゅ、と息を詰める音がした気がしたけれど、私はとにかく必死でそちらを見やる余裕はなかった。不吉な黒猫に擦り寄られるなんて気分のいいものではないと思うけれど、私の意図を汲み取ってか魔女はしたいようにさせてくれている。正体を知られているだけに羞恥も大きかったけれど、私は必死で「待ち望んだ再会に喜び、大好きな人に甘える子猫」を演じていた。
「にー、にぃ!ぴゃー!」
寂しかった、会いたかった、と言うようにしきりに高く鳴きながらぐるぐると魔女の足のそばを回って、構ってほしいというように肉球でつま先をつついて、高く上げた尻尾をその足に絡めて。何度も軽く頭突きをするように額を押し付けてみるけれど、力加減が分からなくて内心ひやひやしていた。いつ魔女が怒り出すかと思うと気が気でなかったけれど、魔女は意外とこの芝居に乗り気なのかわざわざ屈んでくれた。驚きつつも、目線で合図を送られたので、できるだけ衝撃を殺しながらその線の細い肩に飛びのってみる。これで合っているのか不安で仕方なかったけれど、間近に迫った薄紫の瞳が悪戯げに細められていると言うことは正解だったのだろう。近くで見ると本当に人間なのか疑いたくなるほどの美貌に若干気後れするけれど、頬を寄せられたのでおそるおそるちいさな舌を伸ばして、必死に親愛の毛繕いを装った。くすぐったそうに肩まで揺らして見せる魔女は、女優の才能があるに違いない。
─────私は、自分の意思でこの魔女と居るの。この魔女のことが大好きで、傍にいると幸せなの。だからあなたのところには居たくない。
本心とはかけ離れたものでも、傍目からは言い訳のしようもなくそう思ってもらえるくらいには、「懐いている子猫」の振る舞いをして見せたつもりだ。胸が痛くてアダン様の方を見ることができないでいるけれど、何も言わないということは多分上手くいっているのだろう。切なさから歪んだ視界を隠したくて魔女の肩にべたりと体を伏せると、魔女はひとつ息を吐いて立ち上がった。振り落とされないように必死にしがみつきつつ、手で払われるストロベリーブロンドの毛先を思わず視線で追う。
「─────わかったでしょう?少なくともこの契約に関しては、私達は両思いなの。部外者が余計な口を挟まないことね」
魔女の傲慢さを隠しもしない声に、アダン様の返答はなかった。魔女も返事を求めての言葉ではなかったのだろう、軽く肩を竦めるだけだ。両思いなんて、そんな綺麗なもので纏めてしまっても嘘にはならないらしいのが不思議だった。魔女は貴重な赤目の黒猫獣人で思う存分実験したいだけだろうし、私は死すらも許されない不吉な黒猫だから、この身の厄災を抑えてくれる魔女以外に行く当てがないだけだ。それでも、魔女の言葉でアダン様が勘違いをして、諦めてくれるのであればそれでいい。きっと惜しがって、悲しんでくれるだろうと自惚れでなく思えるくらいには、アダン様は私に真摯に好意を伝えてくれていた。彼の傍にいるわけにはいかないけれど、使い魔として虐げられているよりは、私が大好きな飼い主と一緒にいて幸せな日々を送っていると思った方がまだ心の安寧があるはず。
「それじゃ、話は終わりよ。もう会うことがないのを祈ってるわ。私ここの王宮って雰囲気が湿っぽくて嫌いなのよね」
身勝手な台詞をあっけらかんと吐いて、また、とぷんと一つ水音がした。これが魔女が魔術で移動する時の音だといい加減理解していた私ははっと顔を上げる。正直、まだ心が追いついてない部分があるけれど、アダン様に会うことができるのはこれが最後なのだ。今は実感がなくても、この人と離れてしまったら、きっと日々の中で、ゆっくりと心が死んでいくという確信があった。アダン様に散々な態度を取っていたくせにどの口がと思うけれど、それでも、この部屋で過ごした日々は幸せで、甘美で、本当に、感謝してもし尽くせなくて。最後だ、これで最後だから。心の底からの愛と祝福を込めて、どうか幸せになってほしいと祈って。魔力の影響か霞んでいく視界の中で、私は一つ甘く鳴いた。
「─────……にゃあ」
愛している、心から、この世の何よりも。私がしてあげられることはあまりにも少なくて、傷つけてばかりだったけれど。それでも、これから先どれほどに苦痛の日々を過ごすことになっても、心が擦り切れてしまったとしても。ずっとずっと、私の全てであなたの幸せを、それだけを祈ってる。
はらりと、紐が解けてアダン様が誂えてくれたレースの羽織が空を舞った。前足が追うように動きそうになって、私はなんとかそれを堪えた。与えられたものだけ持っていきたいなんて、酷く卑怯なことに思えたから。抑えきれずに霞む視界の中、魔女の肩越しにエメラルドの瞳と視線が交錯して─────私は、思わず目を見開いた。
魔女の魔術が発動し、目に映る景色がひっくり返るまでの、瞬きにも満たない時間。それでも、ノエルが焦がれ続けた番の表情を見間違えるはずがない。……瞳孔の開き切った瞳で、獲物を見定める獣の目で。
一心にノエルだけを射抜きながら─────……アダン様は、確かに笑っていた。
アダンが夜半、慌てた様子で番の部屋に入っていったと報告を受けたジスランは、老体に鞭打ち転がるように庭を駆けていた。門番に話を通していたせいで王宮にはまだ距離があるが、報告に来たものはとっくに戻っているだろう。鈍足な我が身のもどかしいことといったら。番のことに関してアダンが普段不安定な様子なのは周知の事実だが、それでも夜中に飛び起きて駆け込んでいったとなれば余程のことだ。何事もなければいいと願わずにはいられないのに、先ほどから胸騒ぎが止まらなかった。漸く華々しい建物の一角が目に入りもう一息と思ったところで、ジスランは息を切らしながらも足を止めてぎょっと目を見開いた。
─────ジスランが思い浮かべていたかの王その人が、庭に降りていたのだ。それも、何故か寝衣に裸足のまま。竜の頑丈さは誰しもが知ることだから健康面の心配はいらないにしても、その光景は異様だった。月明かりに照らされて、見事な黄金の髪が輝いている。それは何も知らない者が見れば、絵画のようだとため息の一つでも吐いたかもしれないほどには美しい光景だったが─────……獣人であるジスランは、慌てて近づこうとしたその瞬間ひゅっと喉を鳴らした。びりびりと肌が痺れる。意識を保つのがやっとなほどの、獣人を統べる竜の王の威圧。本来であれば忠臣として、すぐに声を掛けねばならなかった。靴をお持ちして、何にせよ部屋に戻るように誘導するべきだった。だが実際はどうだ。情けなくも畏れを抱き、指先一つ動かすことすら叶わない。勝手に体が震え、歯の根が合わずにガチガチと煩わしい音がした。そんなジスランに気付いているのかいないのか─────……アダンは、ゆっくりと夜空に浮かぶ月を見上げて。
「──────────……は、はは、は、ははははは、ははははははははは!!!!」
─────唐突に、天にも届きそうなほどの歪な哄笑を響かせた。
ジスランは、その声を聞いて漸く骨身に染みて理解した。どうやったのか知らないが、身の程知らずの誰かが、余りにも愚かなことに─────アダンの、竜王の怒りを買ったのだ。それも、最悪なことに恐らくは、竜の逆鱗、掌中の珠……あの小さな黒猫のことで。ゆっくりと、心を絶望が満たしていく。漸く、漸く、主が血反吐を吐くほどに求めていたものが目の前に現れたと思ったのに。すぐには上手く進まずとも、この先に主の幸福と安寧があると信じていた。それなのに今、いつか見た悪夢が、もう足元まで迫ってきている。
呼吸が怪しくなるほどの哄笑を響かせていたアダンは、ふと視界の端に青ざめたジスランを捉えると、その笑みを浮かべたままに歩み寄ってきた。いっそ普段よりも気安く、旧知の友人に出会ったかのような自然な動作で。けれど、そのエメラルドのような瞳は瞳孔が開いたまま、焦点すらも合っていなかった。竜の威圧をより間近で浴びることになったジスランは、意識を保つことすらも危うかったが、忠臣としてのせめてもの矜持としてその瞳を見返した。
「───────……ねぇ」
主に呼ばれて応えないことなど、普段であれば絶対にあり得ない。けれど今はどんなに口を開きたくとも、竜の威圧に圧されてできそうになかった。それを分かっているのかいないのか、応えがないことを気にしたふうでもなく、ジスランは淡々と言葉を重ねた。声を荒げるでもなく、ゆっくりと穏やかな口調で重ねられるそれが、畏ろしくてたまらない。
「……俺は、強いよね。獣人の王だから」
短く、あどけない、問うているのに答えを求めていない質問。意図が掴めずに、ジスランは戸惑いを瞳に浮かべた。答えは当然是であり、獣人を統べる竜の王の力はそもそも強いなんて言葉で言い表せるものではない。そんなことは、当然アダンだって純然たる事実として理解しているはずで、誰かに確認を取るようなことでもないはずだった。ぽつりぽつりと、継ぎ接ぐように言葉が落ちていく。まるで、嵐の始まりの数滴の雫のように。
「─────姿形も、竜であれ人間の姿であれ、宝石に例えられることが多かったから、いつか番に会えても気に入って貰えると思ってた。硬い鱗があればどんな危険な地にだって行ける、金銭に困ることもない。だから番が望むものがあれば、俺は何でも差し出してあげられるんだって、思ってたんだ。この世で最も相性の良い魂から選ばれる、一目で惹かれ合う運命の番だけど……そうしたら、もっと好きになってもらえる。依存させられる。それで俺がいちばんだって言ってもらうんだって」
己の持つ物を計るように、アダンは掌をじっと見つめた。きっと人間や獣人にとって価値あるものが、多くこの掌の中にはある。─────……でも。脳裏にこびりついて離れない、甘い声。愛らしい仕草、好意を全力で示すちいさな姿。狂おしいほどに夢想した、アダンの愛しい黒猫の姿。
その、全てが─────アダンではない、他の者に向けられていた。
「─────……でも、そんなものがいくらあったって。ノエルは」
不思議なほどに感情は凪いでいるのに、視界が勝手に赤く染まっていく。ぎり、と握りしめた掌に爪が食い込み、血が滲む。そうまでしても、震えを抑えることができない。アダンは血が滴り落ち、自分のものであるはずなのに言うことを聞かないそれを暫く見つめた後、ふと、何の前触れもなく、理性と頑強な精神力でのみ長らく繋ぎ止められていた正気の器が、ぐらりと傾くのを感じた。耳鳴りが止まなくて、自分が今どこで何をしているのか、目の前にいるのが誰かさえも曖昧になっていくのに、先ほど見た悪夢のような光景だけが、擦り切れたフィルムみたいに鮮明に繰り返されていく。
─────己の番が。ノエルがアダンではない者に、聞いたことがないほどに甘く、蕩けそうな声で鳴いていた。あの可愛らしいちいさな前足でじゃれついて、擦り寄って、頭突きして、あまつさえ自分から肩に乗って。それで、……毛繕いまで、
ぐつりぐつりと、臓腑が煮えるような心地がする。あの下賎な魔女は当然のような顔で、アダンが血反吐を吐くほどに求めた全てを享受していた。もしあれがアダンだったら、きっとその日に死んでしまってもいいと思うくらいに幸せで、狂おしいほど嬉しくて、自分の持ち得る全てでノエルに返してあげたいと思うのに。あれはその手を差し出すことすらしていなかった。いや、触れることなど許さない。あの薄汚い手で、ノエルに触れるなんて反吐が出る。でも、でも─────……ノエルは、あの魔女を選んだ。あの魔女がノエルにしてやれることは、全てアダンでもいいはずなのに。いいや、あの魔女よりも余程良い環境を、アダンは差し出すことができるのに。それなのに、ノエルは衰弱するほどにアダンを拒み続けてでも、あの魔女がいいと。
─────それで、ノエルは、自らあの魔女の元へと行ってしまった。
現実に思考が追いついて、アダンはぐらりと視界が歪むのを感じた。目の前にいる誰かが焦ったように口を開こうとしているのが見えた気がしたけれど、それもどうでもよかった。─────……どんな力があっても、権威があっても、ノエルは俺を選ばなかった。俺にはノエルだけなのに。正気がすり減り、死が間近に迫るその時まで、ノエルを求め続けていたのに。
「……ノエル、ノエル。俺の番。俺の唯一。俺の、全て。なのに、どうして。あの女がいいの?卑怯な契約で君を縛る、あの下賎な魔女のどこが……君が望むなら、俺は何にだってなれるのに。君が、俺をいちばんにしてくれるなら、何だってできるのに、どうして、俺を拒むの。いかないで、君の意志で、俺をえらんでよ、俺を、番だって認めて。なんで、─────……俺じゃ、ノエルは」
アダンの持つ物全て並べて、差し出して、それでもノエルがアダンを選ばないと言うのなら─────……アダンでは駄目だと、言うのなら。それならば、もう、こんなものはいらない。壊してしまえばいい、番に選んでもらえなかった何もかも。
腕に、一つ二つと、黄金の鱗が浮き上がっていく。瞬く間に面積を増やしていくそれが完全に竜の右腕となるまで、そう時間は掛からなかった。周囲の喧騒など何も耳に入らず、際限なく気分が高揚していく。いつぶりだろう、こんなにも竜としての己が表に出てくるのは。さあ、目に付く、何から壊してしまおうか。情報として入ってこずとも鮮明な視界に一番煩わしく映ったのは、やたらに豪奢で図体だけが大きい建物だった。この国の権威を、竜の王としての威光を、知らしめるためのもの。番とアダンが、ひととき共に暮らした場所。─────……ああ、でもノエルは、あの部屋を気に入ってはくれなかった。アダンが、快適に過ごしてもらうために用意した番の為の巣。でも気に入ってもらえなければ、そんなもの何の意味もない。ならば、ならば、壊してしまおう。もう一回、気に入って貰えるように、作り直さないと。そうだ、そうしたら、ノエルはいつか─────……いつか。
大きく腕を振り上げる。竜王としての魔力が、全て鱗で覆われた右腕に集っていく。誰かの焦燥を帯びた声で、馴染みのある音で呼ばれた気がしたけれど、どうでもいい。もう、全て。腕を振り下ろしたその瞳には、既に何も映ってはいなかった。己の喉から響き渡る竜の咆哮も、劈く誰かの悲鳴も、轟音も瓦礫の音も、泣きそうな声で己を呼ぶ忠臣の声も。─────……ただ、耳の奥にこびりついて離れないのは。
『─────……にゃあ』
確かに、最後のあの声だけは。あの甘く切ないちいさな声は。あの忌まわしい魔女ではなく、アダンに向けられていた。
─────……その日。竜王のために造られた王宮は、跡形もなく崩れ去った。他でもない、獣人を統べる竜の王の手によって。
一欠片、王としての最後の理性なのか、王宮の中にいた者達は最低限の保護の魔術によって大きな傷を負うことはなかった。しかし泣き叫ぶような竜の咆哮は、天を裂いて轟き響き渡ったという。それが示すところは、夜明けを待つこともなく耳の良い獣人達に周知されることになる。─────……竜王の復帰、そしてその乱心を。
ジスランは、呆然と目の前に立つ主を見つめていた。とうにその腰は抜け、情けなく地面に座り込んでいる有様だったが、そんなことはどうでも良かった。目の前で積み木のように簡単に王宮が崩れていったのはそれは衝撃だったが、中に居た者達への心配は、要らないと分かっている。その鱗に包まれた腕から放たれた魔力が王宮へと届く直前、アダンが意図的にか無意識にか、人にだけ保護の魔法を施したことに気がついていたからだ。ジスランは痛いほどに知っている。どんなに正気がすり切れても、いっそ狂ってしまったほうが楽だと知っていても。獣人の王として生まれついた彼の人の強靭な精神力は、容易く狂うことさえも許されないのだと。─────……だから。
何も浮かんでいない瞳に、どうしようもない理性を一欠片捨てられないでいるアダンが静かに涙を零しているのを見て、ジスランは胸が灼かれるようだった。彼が番が居る王宮に攻撃をするなんて、天地がひっくり返ったとしてもあり得ない。それならば、番様をあそこから連れ去ったあまりに愚かな誰かがいると言うことだ。アダンにとっての命そのもの、この世の全てを。
暫く、どこを見つめているとも知れない虚な瞳で立ち尽くしていたアダンの体が、ふっと前触れもなく糸が切れたように傾いだのを見て、ジスランは慌てて立ち上がり駆け寄った。間近で竜の怒りに触れた体は未だ震えが収まらないでいるが、そんなものに構っていられない。
「ッアダン様、アダン様……!!」
呼びかけながらも躊躇いがちにその御身に触れると、アダンは深い呼吸を繰り返しながら目を閉じていた。長い生で培った知識を用いてできる範囲で検分してみるものの、どうやら気を失っているだけらしいと分かり、ひとまず安堵の息を零す。竜の王が本気になれば、その被害は王宮などに留まることはない。比喩ではなく瞬く間に国が一つ滅ぶ。今気を失っているのは、恐らく積もりに積もった心労から精神を守るためだろう。精神も身体も頑強な竜だが、こと番に関してはそうもいかないのをジスランは良く知っていた。未だその目尻に残る涙の痕が、どうしようもなく痛ましい。とにかく、王をこんなところに転がしていくわけにはいかない。恐らく大した怪我をした者はいないとはいえ、当然ながらあまりに唐突なことに瓦礫と化した王宮のそこかしこから悲鳴や混乱の声が聞こえてくる。とにかく王を移動させ、その後できる範囲で事態の収束を図るのが、今忠臣として為すべきことだ。
大変な騒ぎの中にありながらも安らかな吐息を繰り返すアダンの穏やかな顔に、思わず眉尻を下げる。ほどなく目を覚ますであろう彼は、その瞬間からまた苦痛に苛まれるのだろう。それでも、どうか今だけは、その夢が穏やかで幸福なものであることを願わずにはいられない。アダンを運ぶための人手を呼び寄せながらも、ジスランは主の明日を思い、一度そっときつく目を瞑ったのだった。
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