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9.魔女の命令

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「─────今、貴女、なんて言ったの……?」

酷く青ざめ、冷や汗さえ流している美貌の魔女に、ノエルは戸惑いの混じった声を上げた。─────とはいっても勿論、喉から出たのはにー、という頼りない鳴き声だけだったけれども。



─────アダン様との、慌ただしくなってしまった別れ。一瞬視界が歪んだかと思えば、そこはもう既に見覚えのない路地裏だった。魔女が人目につかない場所を選んだのだと分かってはいても、深夜であることも相まってどうにも薄気味悪い。いつもなら多少なり怯んだかもしれないけれど、ノエルはどうしようもなくちいさな胸が痛くて苦しくて、そんなことに構う余裕はなかった。

心を占めるのは、当然つい先ほどまで目の前にいたはずの愛しい番のこと。もう、会えない。会わないほうがいい。そうと分かっていても、すぐには心が着いてこない。最後、彼が笑っていたのは、きっとノエルの見間違いではないはず。その理由が、どうしてもノエルには分からなかった。実はノエルと離れることが嬉しかった、なんて勘違いができるほど、彼から受けた愛も優しさも、決して小さなものではない。……それに、あの笑みは、まるで。ぼんやりと考え込んでいたノエルは、魔女の声にそこから引き上げられた。

「はあ、二人分の転移って疲れるわ。ほら、宿に向かうからさっさとこの鞄に入って。もう遅いし、詳しいことは明日よ。……今度は勝手に出ちゃダメだからね」

ずい、と目の前に差し出されたのは、いつかも入れられたあの鞄だった。多分今回も認識阻害の術が掛けられているのだろう。別にあの時だってノエルの意思で出たわけではないけれど、反論したってどうにもならない。それに、今は鞄の中でもいいから、誰の顔も見ずに一人でじっとしていたかった。王宮を出てからほんの少しも経っていないのに、もう既にアダン様が恋しいなんて馬鹿みたいだ。優しいあの人を、傷つけて遠ざけ続けていたくせに。黒猫が運ぶ厄災から遠ざけるためだったからといって、仕方ないなんて言葉で片付けていいことではなかった。アダン様の献身を切り捨て続けたことに変わりはないのだから。

沈んだ気持ちで鞄へと身を滑り込ませると、ひょい、と持ち上げられ、外から重さを確かめるような掌の感覚を感じた。暫くすると、移動を始めたのか微かな振動が続く。わざわざ乱暴にする理由がないからだろうけれど、思ったよりも丁寧に運ばれているようで、鞄での移動は快適だった。でも、それが余計に、ノエルのどうしようもない寂寥を引きずり出していく。いっそ何も考える余裕がないほど、移動が乱暴なほうが良かったかもしれない。

心を占めるのは、愛しい番のことばかり。自分のこれからのことなんて、どうだってよかった。せめて思い出に縋りたいと願っても、記憶の中のアダン様は、いつだって苦しそうな表情ばかり浮かべている。そんな表情をさせている相手に憎しみが湧き上がるのに、それが自分だなんて信じたくなかった。……もし、なんてどうしようもないことを考える。もしも、ノエルが心のままに、一度でも甘えてみせたのなら。愛しい番に擦り寄ってみたのなら、彼は喜んでくれたのだろうか。最初に出会ったときのような、幸福を煮詰めたような、蕩けた瞳で笑ってくれたのかもしれないと考えずにはいられない─────そんなこと、もうどうやったって叶わないと分かっているのに。

じわ、と今更に視界が歪んで、慌てて強く目を瞑る。自分で選んだことなのに泣くなんて、あんまり身勝手な気がした。それでも雫は止まってくれなくて、ノエルは自棄になったようにちいさく丸まった。頼りないほど柔い、ふわふわの毛に覆われた自分の腹にぐりぐりと鼻先を埋める。どれほどに心が痛くても、今のノエルはただの猫だ。普段眠っている時間なのだから、多少じっとしていればすぐに眠気はやってくる。夢の中だけも、番と過ごした幸福な日々に戻れたら、どれほどにいいだろう。もう会えないというのなら、毎夜でも、あの人の夢が見たい。心の底からそう願いながら、ノエルの意識はゆっくりと眠りに沈んでいった。

─────夢と現の間。どこかで、天を突くような、悲しい声が聞こえた気がした。





「……もう、ほら、朝よ。起きなさいったら。猫ってどうしてこうも惰眠を貪るのかしら、生命活動に必要なだけの睡眠は取っているはずなのに……本当に不思議だわ。こんな怠惰な存在になるのなら、私だったら猫になるなんて死んでも御免ね」

遠慮のない声に眠りの底から引きずり起こされたノエルは、目を瞬かせながらくわ、と生理的に出る大きなあくびをした。まともに機能しない頭が、起こされているのだから起きなければ、と必死になって指令を出してくる。それでも目を開けるのが億劫で、ノエルは誤魔化すようによろよろと体を起こすと、前足をついてぐい、と伸びをした。そうしてようやく多少鮮明になった頭で目を開けようとしたけれど、思ったよりもずっと眩しい光が入り込んできてつい前足で目を覆ってしまった。その節にバランスを崩したちいさな体がころんと転がって、何か柔らかいものに受け止められる。この感触はシーツだろうか。

「ベッドを転がり回るのは結構だけど、朝食はいらないのかしら?餓死されちゃ困るのだけど」

その声が誰のものであるか漸く思い当たって、ノエルはやっと目を開いた。視線を向けた先で、思い描いた通りの人物が薄紫の瞳を億劫そうに細めている。ローブを脱いでいるおかげか、その豊満な肢体とストロベリーブロンドがいつにも増して輝いていた。その手には湯気を立てているコーヒーと、いくつかのパンにスープ。既に手をつけられた様子なのは、本当にノエルが寝汚かったのか、単純に待つ気がなくて先に食べ始めていたのか。それを目に収めて漸く、ノエルは今の状況を思い出すことができた。

魔女が迎えに来て、アダン様の元から漸く厄災を呼ぶ不吉な黒猫を引き離すことができたのだ。言葉にしてしまえばたったそれだけなのに、一晩経ったらしい今でも切り付けられたように胸が痛む。いや、きっと、この痛みが癒やされる日など来ないのだろう。どれだけ彼と離れているくらいなら死んだほうがマシだと本能が訴えたとしても、ノエルは死さえも許されていないのだから。

沈んだ気持ちを引きずりながらも、ノエルはにぃ、と小さく返事をしてから寝台を危うい足取りで飛び降り、魔女の足元へ歩みを向けた。食欲は湧かないけれど、魔女の言う通り餓死するわけにもいかないのだ。床に腰を落ち着けて魔女を見上げ、に、と短く鳴いてみせると、怪訝な顔で見返されてノエルまで首を傾げてしまった。朝食と言うから、てっきり魔女が食べているパンの欠片か、スープの食べ残しの具材でも床に放ってもらえるものと思ったのだけれど、違ったのだろうか。まさか、時間をやるから自分で調達してこいという意味だったのかと思ってノエルは思わず絶望的な鳴き声を上げた。

狩りなどしたこともないし、よしんばゴミ箱を漁るにしても人に見つかってあの日のように追い回されたりしたら今度こそどうなるか分からない。王宮で出されるような豪華な食事が異常だったことはよく理解しているし、不吉な黒猫にそんな食事は全く望んでいないけれど、餓死するなと言いながらそれはあんまりだ。

ごめんなさい、でもおねがいだからごはんをください、と必死でみーみー鳴いて足元をうろついてみせると、魔女は呆れたようにため息をついて自身がついた卓の反対側を指差した。

「何、そこに用意してあるのじゃ不満だっていうの?人間用の食事は貴女には塩分が多いのよ、不味かろうが贅沢言わないで大人しく食べなさい。抵抗するなら契約を使って命令するからね」

有無を言わさない口調で言われた内容が一瞬理解できなかったけれど、じろりと睨まれたノエルは慌てて机を迂回し反対側の椅子によじ登った。ひょいと首を伸ばして魔女の指し示す机の上を見てみれば、そこに用意してあったのは小さな器に盛られた、ほぐされたささみと人肌のミルク。思わずぱちぱちと瞬きをしながら魔女とその食事を見比べてしまったけれど、魔女は私が食べる意思を示したらあとは興味がなくなったのか、もくもくと自分の食事を食べ進めている。そちらを気にしつつもそろりと一口食べてみれば、素朴で優しい味がして、ほんの少し心が慰められた。

どうやら魔女は、実験対象の健康にはそれなりに気を遣ってくれる気があるらしい。ゴミ箱を漁るのは元獣人としてもそれなりに抵抗があるので、ノエルはほっと胸を撫で下ろした。何よりも、人と同じ机で取る食事は随分と久しぶりだったから、それが場違いに嬉しかった。王宮での食事は豪華だったけれど、アダン様と威嚇してばかりの私が、同じ場所で食事をすることはなかったから。思い返すと懲りずに胸がきゅうと締め付けられて、だからそれを誤魔化すように、ノエルは魔女に向かってみー、と鳴いた。今日はこの後どうするんですか、という問いかけを含めたそれを、唯一ノエルの言葉が理解できる魔女は正しく受け取ったらしい。

「そうね……とりあえず、王宮でのことを聞かせてもらいましょうか。さっさと退散したくて昨日は碌に聞かなかったけれど、一体どういう流れで保護されることになったのよ。よく処分されなかったわね」

ノエルは魔女の言葉を受けて、神妙に頷いた。その口元は慣れない器でうまくミルクが飲めなかったせいで白く染まっていたが、それを気にする者はこの場にはいない。ノエルは思い返すように目を伏せながら、たどたどしく魔女と別れた日のことから語り始めた。子供のボールが当たったせいで鞄から弾き出され、人に追い回されたこと。その後安全を確保するため、一晩の宿として潜り込んだのが王宮の一室だったこと。そこで、アダン様に出会い番だと分かって─────……

「……ちょっと待って」

まだ序盤も序盤だというのに遮られ、戸惑ったノエルは伏せていた視線を上げた。説明が下手な部分でもあったのだろうかと、やや落ち込みながらノエルは魔女の顔を窺って─────……それからそのルビーのような瞳を、大きく見開いた。

「─────今、貴女、なんて言ったの……?」

美貌の魔女は、今まで見たこともないほどに顔を青ざめさせ、冷や汗を流していた。先ほどまでは、半ば呆れた顔をしていたはずなのに。あまりに唐突なその変化に、ノエルは戸惑いの混じった鳴き声を漏らして椅子を飛び降り、魔女に駆け寄った。まさか、急に体調でも悪くなったのだろうか。色々複雑な関係で思うところはあるけれど、魔女に何かあってほしいとは思わないし、そもそもそうなって困るのはノエルだ。でもこの体では、あまりに出来ることが少なすぎる。追い回されることを承知で、誰か人を呼びに行ったほうがいいかと逡巡していたら、ひょいと首根っこを掴まれて持ち上げられた。

別に痛くはないけれど、不意打ちで不安定に宙吊りになったノエルは思わずぴゃー、と情けない鳴き声を漏らしてしまう。そうして眼前に迫ったのは、当然ながら相変わらず青ざめた、しかし鬼気迫る表情を浮かべた魔女の顔だった。あれ、でも思ったよりは元気そう……?とノエルが安堵して宙をもがいていた四肢を脱力させたところで、魔女は口の端を引き攣らせながら命令を下した。

「『我は尊き魔女。一切を手にする者。隷属契約を以てここに命ずる』─────王宮でのことを一から十まで全て吐きなさい。勿論、嘘偽りはなしよ」



魔女の隷属契約による命令は不思議な感覚で、アダン様の竜王としての命令とはまた違う強制力に縛られるのを感じていた。アダン様の命令が体を糸で引かれるようだとすれば、魔女の命令は身体の奥に眠っていたものを引き摺り出されるような。もし逆らおうとしたなら、契約に基づいてノエルに何かしら苦痛が降りかかったのかもしれないけれど、そもそもノエルは元から何かを隠そうとは考えていなかったのであまり意味を成していなかった。促されるまま、ノエルは今度こそ遮られることなく王宮での日々を語った。王宮で、アダン様に番として出会い保護してもらったこと。けれど彼に厄災をもたらしては大変だと考え、出してもらうために色々策を講じたこと。でも結局健康を損なった挙句、痺れを切らしたアダンに竜王として命令され失敗に終わったこと。どうしようもないと思いかけていたところに、魔女が迎えに来てくれたこと。

きてくれて助かりました、と機嫌を伺うようにそろりと鳴いて見たものの、魔女がそれに反応を返すことはなかった。というより、話の途中からますます顔色が悪くなったかと思えば眉間の皺も深くなっていき、最終的には頭を抱えて机に突っ伏してしまったのだ。初対面では思わず尻尾を膨らませてしまったほどにこの魔女に畏れを抱いていたというのに、この姿からは畏ろしさなど影も形も見当たらなかった。今の話のどこがそんなにおかしかったのだろうと、ノエルは狼狽えることしかできない。確かに不吉な黒猫が王宮に保護されるなんて荒唐無稽な話だけれど、契約で縛っているのだからノエルが嘘をついていないことは分かっているはずだ。一通り語り終えて、既にノエルの身を縛っていた命令による力も霧散している。声を掛けてもいいものか、それとも使い魔らしく魔女が話し始めるのを待っていたほうがいいのかと悩んでいると、魔女がようやく小さく口を開いた。

「色々と言いたいけれど……一つ、確認させて」

に、とノエルが慌てて返事をすると、魔女は死ぬほど聞きたくなさそうな声で、それでも唸るように問いかけた。

「……貴女の言うアダン様、って言うのは、竜王アダンで間違いないのよね。その名を名乗ることを許されているのはこの国でただ一人だもの。……ということは、昨日王宮で貴女を引き留めたのは……」

え、と思わず間抜けな音が喉から出た。それが癪に触ったのか、乱れてしまったストロベリーブロンドの隙間から薄紫の瞳にじろりと睨まれ、きゅっと口を噤む。けれど、だって、そんなまさか。……口を噤んでも瞳が語っていたのか、魔女は身を起こすと諦めたように大きくため息を吐いた。

「……あのね、魔女は万能じゃないの。魔術で色々なことができるし寿命も普通の人間とは比較にならないけれど、身体の構造は人間そのものなのよ。髪と瞳の色でも分かれば気がつくこともあったかもしれないけれど、月明かりも入らないような部屋で、獣人の夜目に合わせた照明しかないのに見えるわけないじゃない。せいぜいシーツの上の黒い毛玉が判別できるくらいだわ。そもそも番だの竜だの、昨日一切言わなかったじゃない!私はちゃんと魔女だって言ったわよ」

すぐ退散するからと横着せずに、魔術で灯りを付ければ良かったと溢す魔女に、私は口が開いてしまうのを抑えられなかった。いくら魔女とはいえ、仮にも王であるアダン様相手に、あまりにも傲岸不遜な態度を取ると思ってはいたけれど─────まさか、相手が誰だか分かっていなかったなんて。そもそも何か言う暇もなく退散したのは魔女の方だと言う余裕すらもない。呆然とするノエルを置き去りに、魔女は手を額に当てて地の果てまで届きそうなため息をついた。

「ただの黒猫に妙に執着すると思ったけれど……よく殺されなかったわね、私。いや、そうか、隷属契約で繋がっていたから手出しできなかったのか。もう、折角いい実験台が手に入ったと思ったのに……!魔女の集合知を豊かにするはずが、こんな面倒なことになるなんて……」

ぶつぶつと何やら呟いている魔女に、ノエルは途方に暮れてにぃ、と鳴いた。不穏な単語をところどころ拾っているせいで胸に不安が広がっていく。自分は何か、良くないことをしてしまったのだろうか。そもそも周囲に厄災を齎す不吉な黒猫なんて生まれてきたこと自体が良くないのは間違いないけれど、それ以上に何か重ねてしまうのはノエルも避けたい。か細い声がどうにか届いたのか、自分の世界に入り込んでいた魔女がふと顔を上げてこちらを見つめた。

「……でも、どうして今更……竜王の番なんて、もう長いこと血眼で探されていたのに見つかっていなかったはず。それがまさか竜王の統治下の国で見つかるなんて……『この国で女児が生まれたら、必ず竜王の番であるか確認しなければならない』──────竜の血と最上の儀式でもって、長い時間をかけて土地に刻まれた盟約よ。いくら辺鄙な村だったからって、獣人が竜王の命に逆らえるわけがないのに」

恐らくノエルに聞かせるために口を開いた訳ではなかったのだろう、よく聞き取れなかったノエルは困った顔で首を傾げた。断片的に理解できる所を拾うと、彼は番に会いたいと願って探してくれていたのだろうか。それが不吉な黒猫だったなんて本当に申し訳ないけれど、アダン様はそんなことは気にせず私に会えて嬉しそうにしてくれていたことを思い返して、懲りずに胸が締め付けられた。今頃、あの方はどうしていらっしゃるのだろう。ずっと非道な態度を取り続け、最後には魔女の手を取りあっさりと離れた私に、いい加減愛想なんて尽きているかもしれない。……でも、もしかしたら少しは寂しがってくださっているだろうか。自分で選んだことだというのにぐずぐずと感傷に浸ってしまう私を他所に、ぶつぶつと何か呟いていた魔女ははっと顔を上げた。

「……獣人が、竜王の命令に抗える可能性があるとすれば……─────ねえ、貴女。私以外の魔女に会ったことはある?」

突然の問いかけに驚きながらも、ノエルは正直に首を横に振った。ノエルにとって「魔女」は、生まれて初めて目にした眼前の人間の他にはいない。しかしその後すぐに思い当たった可能性に、ノエルは慌ててにぃ、と付け加えた。私は会ったことがないけれど、両親は昔に会ったことがあると言っていました、と。とはいえ、両親はノエルがどんなにその時のことを聞きたいと願っても教えてはくれなかった。そのせいでノエルの中での魔女のイメージが、どんどん恐ろしいものになっていったのは間違いない。懐かしい記憶を思い起こしていると、魔女は考えるように顎に手をやった。

「竜王に─────下手をすれば魔女という存在全てを滅ぼしてしまえるような相手に反抗する利益なんて、私達にはないはずだけれど……でも、他にはありえないもの、調べる価値はありそうね。たしか丁度いい魔道具がここに……」

そう言うと、魔女は初めて椅子から立ち上がり、ノエルを入れて運んでいたのとはまた違った鞄を漁り始めた。見た目はそう大きく見えないのに、魔女が乱雑に取り出すよく分からない道具達はとてもその中に収まりきるような質量には見えない。あの鞄も魔女が用いる魔道具なのだろうかとついしげしげと眺めてしまっていたノエルは、あった、という声と共に魔女が取り出し、ノエルの前へと差し出した物にぴ、と妙な鳴き声を漏らした。魔女が取り出したのは─────子猫の大きさからすると相当太く見える、注射針だったのだ。

反射的にぼんと膨らんだ尻尾を足の間に巻き込みながら、ノエルはそろ、と魔女を見上げた。嘘だと思いたかったけれど、魔女はにこ、とその美貌を惜しみなく使って笑みを浮かべるだけだ。─────……勿論、ノエルに否やはない。この身の厄災を抑えられるのであればどんな苦しいことでも耐えてみせるし、もしそれとは関係ない魔女の道楽の実験だったとしても、それが辛く苦しいものであれば、少しはノエルのせいで死んでしまった両親への償いになるのではないかと捨て鉢に考えていたことだってある。─────けれど、反抗の意思がないのと、恐ろしくないのは全く別の話であって。何とか逃げ出すことこそ耐えているものの、がたがたと震えながらほろほろと涙をこぼす小さな黒猫の姿は、いくら不吉な存在だったとしてもなかなか哀れを誘うものだった。とはいえ、魔女に容赦なんて言葉は存在しない。

「に……にぃ……」

どうか手加減を、と願うか細い鳴き声は、届いたのかどうか─────数瞬後に上がった哀れな子猫の鳴き声は、魔女が防音の魔術を施していなければ宿の外に漏れてしまいそうなものだったという。
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