邪悪を正すことはできない

上坂 涼

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邪悪を正すことはできない

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 今、人を殺している。
 苦しみ悶えるその身体にナイフを押し込んでは、抜くを繰り返した。死にかけの身体がナイフを迎える時、筋肉が恐怖で硬直し、抜く瞬間には脱力するのを見るたびに、得も言われぬ高揚感に襲われた。まるで全身の血が沸騰するようなとびっきり熱い刺激に僕は中毒になっていた。
「おっす! おはよう!」
「おはよう。今日も元気だなあ」
 僕は苦笑した。小学校低学年からの親友は、いつも快活で生命力に満ち溢れている。そんな親友の腕を落とし、足の腱を断ったとしたら、その快活さはどこかにいってしまうのだろうか? それとも負けじと明るく振る舞うのだろうか? 僕は親友の腕と足に一瞬だけ目をやり、すぐに通学路へと顔を向けた。
「今日の一時間目ってなんだっけ?」
「ん? なんだっけな……ああそうそう! 道徳だ!」
「良いね。楽じゃん」
 親友は顔を歪めた。
「うげー。俺は嫌いなんだよなぁ。道徳」
 今の親友の表情は、ただ単に今の考えを表現したい時の顔だ。実際に辛いわけじゃない。うんざりする。
 こいつが本当に苦しんだ時、いったいどんな顔をするんだろう? どんな声を出すんだろう? 想像するだけで気分が高揚してくる。
「そうなの? 良いじゃん道徳。人ってこうあるべきだよなって思えるし。人が生きるべき道を説いてくれる感じ」
「そういうのが嫌いなわけ。なんか気持ち悪いだろ。みんな良い人になりましょうねーって言われてるみたいでさ。前に関口は一種の洗脳だーとか言ってたぜ。なるほど確かにって俺は思ったよ」
 洗脳か。極まれば死ねという命令も聞くという。身寄りのない孤児を攫って監禁するのはどうだろう。『パブロフの犬』のようなことを人間で試してみるのも面白いかもしれない。一年間三六五日、壁を黒く塗りつぶした窓のない部屋に監禁。置いてあるものは部屋の中央に呼び鈴一つだけ。孤児が呼び鈴を鳴らしたら五分後きっかりに食料を提供する。
 ――そのローテーションを三六六日目に断つ。
 孤児は呼び鈴を鳴らしても食料が届かないと気付いた時、どのような心理状態に陥るのか。狂ったようにベルを鳴らし続けるのか。部屋中を暴れるのか。延々と扉の前でじぃっと黙って食料が届くのを待つのか。そんな一年間の集大成を僕はこの目に焼き付けてみたい。
 ああ、僕は今、心臓が破裂しそうになるほど興奮している。
「お前は不良に憧れるタイプだもんね。けど不良は不良でも分別あるやつの方が格好良いだろ? なにが良い行いで、なにが悪い行いなのかということは知っておいて損はないと思うよ」
 親友は大袈裟にふてくされた。
「はー……。お前は本当に良い子ちゃんだよなぁ。いつも世の為、人の為のことを考えてそうだ。ま、それでこそお前だけど」
「せやろ」
「あ、お前! ドヤるなって!」
 僕は親友と笑い合いながら通学した。
 平穏な日常。“真っ当な人間“にのみ与えられた特権。命と自由を国に守られ、活力を友人達からもらい、生活をする上で必要な資金と温情を親から分けてもらう日々。しかも全てタダ。それぞれのカテゴリーに所属が認められているだけで良い。日本国民として生まれるだけ、学校に入るだけ、親の元に生まれるだけ。
 ――それだけで良い。それだけで心を病むことなく、食いっぱぐれることもなく、雨風に身を晒して眠ることもなくなる。
 社会に出てもそれは同じだ。常に邪悪を退け、真っ当に生きていさえすれば社会は笑顔で尻尾をぶんぶん振るだろう。
 誰が捨てる? これほどの良い人生を。もし捨てる奴がいるとするならば、それは刺激を求める愚か者だ。そういうやつに限って、どうせ最後は誰かが助けてくれると思っている。
 仮に誰かに助けてもらったとしよう。しかし親と友人からは見放され、社会から授かる恩恵も少なくなるのは間違いない。つまり幸福な人生設計力ゼロの人間が犯罪を犯すんだ。これを愚か者と呼ぶ以外になんと呼ぶのか。
 ――けれど。仮に。もし仮にだ。
 今この瞬間にでも宇宙人が襲来して超先進的な技術力の前に世界が降伏し、人権を剥奪されたのであれば。僕は迷いなく宇宙人側にこびへつらって、人間を管理する役職を希望するだろう。
 やってみたいことが沢山ある。皮膚に針を一本ずつ刺していったら、平均何本目で気絶するのか。狂犬病、インフルエンザ、エボラ出血熱といった凶悪な感染症を一挙に発症させたらどうなるのか。食事を百日間抜いたら、犬の残飯でも喜んで食べるのか。
 ああ。見てみたい、見てみたい、見てみたい。
 ……今の僕に出来ることと言えば。身寄りのない人間を攫うといった、現代社会の顔色を窺いながら少しばかりの欲望をひっそりと満たすことぐらいだ。人道に反することを好きなだけやるというスケールの大きいことはできない。
 
「ほらほら授業を始めるぞ。席に着きなさい」
 道徳の授業が始まった。親友にも言った通り僕はこの授業が好きだ。なにが良い行いで、なにが悪い行いなのか知ることで、人が喜ぶことと苦しむことへの理解を深めることが出来るからだ。人に絶望を与えていく過程で、誤って喜ばせるようなことをしてしまえば気分が悪い。
 道徳は人としての道を説く上で、どのようなことが人を苦しめているのかということを必ず述べなければいけない。そうでなければ人としての道がどれほど幸福なのか説明することができないからだ。解毒を学ぶために、まずは毒を知るということと同じ。善と悪は表裏一体。実は多くの事柄は危険なバランスの上で成り立っている。
「今日の授業はな。まずとある話を聞いてもらいたい。その後、お前らには聞いた話に対してどう思ったのか感想を言ってもらって、さらに自分の夢を語ってもらいたい。どちらも簡単で良いからな」
 教室内がざわついた。恒例の同調現象。感想と夢を語るのが面倒ということ、そして気恥ずかしいということを分かってほしい心情。実に未成熟な人間らしい心理だけれど、僕にとっては茶番のなにものでもない。はっきり言って苦痛だ。この騒ぎが収まるまでじっと耐えていなければならない。
「ほらな? こういうところだよ。道徳ウゼー」
「まあまあ。僕はこういうところも含めて面白いと思うよ」
 たまに親友に笑顔で応答をしながら。
 しばらくして騒ぎが収まると、先生が「教科書四十八ページを開いてくれ」と言った。
 皆が教科書を開いた事を確認すると、先生は語り出した。
「今から十八年前に世間を震撼させたとんでもない事件が起きた。『女子生徒十一人失踪事件』だ。
 一部生徒の反応を見て、先生は軽く笑った。
「お前らがまだ生まれていない頃の事件だが、知っている人は知っているだろう。ネット上でも伝説扱いされている事件だしな」
 もちろん僕も知っている。この事件のオチが、実にくだらないオチだということも。
「失踪した女生徒は皆同じ高校に通っていた。失踪は三年に続き、一年目は一人、二年目は三人、そして三年目に七人。合計十一人の女生徒が失踪したんだ。当時のメディアでは年々増加する失踪者数に、大きな反社会勢力が加担しているのではないかという考察がされていた。けれど四年目になって事件は一瞬で解決したんだ。とんでもないネタバラシとともに」
 僕がこの事件を知ったのは十歳の頃だった。事件の詳細をネットの記事で読んで絶望した。なぜならその犯人像は僕の夢そのものだったからだ。
「実は犯人はな、世界的に有名な自動車メーカーの社長だったんだよ」
 教室内がまたざわつき始める。
「社長は初犯から四年目にして女生徒達を解放し、警察署に出頭した。事情聴取をしたところ、彼女達と自分の夢を叶えるためだと言ったんだ」
 当時十歳だった僕の夢は、超大金持ちになって自分の思うがままに人を嬲り殺すことだった。世の中は金がものを言う世界だ。大抵のことは金で実現できるし、都合の悪いことを金で回避することもできる。
 ……けれど。この社長の事件を知って、僕は夢を考え直すことにした。
「なんと社長は女生徒達全員と心を通わせて、互いの夢を応援する関係になっていったんだ。誘拐数が年々増えた件も、これまで誘拐されてきた女生徒達が手伝っていたからだった。社長は三年の歳月を得て心を救われ、彼女達の反対を押し切って、彼女達を解放した。真っ当な人生の中で彼女達との夢を叶えるために」
 夢を考え直した理由は二つある。まず自分の思っているよりも夢のスケールが小さかったことに気がついたから。もう一つは――
「社長は今から三年前に刑務所を出所し、念願の夢だった女生徒達十一人との共同生活をどこかで送っているそうだ。こっちも三年前に当時のメディアで話題になったよな。夢というのは時に、互いに影響しあって生まれる物もあるということだ」
 どれだけ金持ちになっても、世間の目はついて回るということだ。今の世の中は悪いことをしづらくなっている。
「さて。今の話に対する感想と、自分の夢について語ってもらおうか。出来れば今の話を踏まえた上で、夢を語ってもらえると嬉しい。出席番号順に聞くぞ。座ったままで良いからな」
 クラスメイト達が内申点を狙って、優等生じみた感想と夢を述べていく。
 そしてついに僕の番が来た。ここはあえて立つことにした。この場にいる幸せと希望を謳う者達への宣戦布告である。
 道徳という授業は人に正しい道を説く。そこには犯罪を未然に防止する狙いがある。だがそれは無意味だ。邪悪を正すことはできない。口でいくら綺麗事を述べようと頭の中は覗けない。邪悪はいつだって幸福の影に潜んでいる。執拗に。狡猾に。
「お、なんだ。立つのか。やる気満々だな」
 僕は軽く感想を述べ、夢を宣言した。

 僕の夢は宇宙人に侵略してもらうことです。
「僕の夢は宇宙研究者になり、宇宙人と仲良くなることです」
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