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王太子と婚約しましたが、私には愛する人がいるのです

後編

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 ポタリポタリとこぼれ落ちる。それは刃をつたって床へと落ちた。
 鮮血が床を染める。

 なぜこうなった。どうしてこんなことになったの。
 考えても分からない。ただ分かるのは、一つの命が今目の前で消えかけている。

「ミュ、ラン、シェ……」

 途切れ途切れに私の名を呼ぶのは、元婚約者の王太子。……いいえ、まだ正式に書類は取り交わしていないから、婚約者のままと言えるのかもしれない。
 王城に深夜に来いと王太子は言った。早く終わらせたい私は喜々として王城へと向かった。

 対応したのは国王様と王太子。
 父が後ほど遅れてくると言えば、では執務室で待とうと王は部屋へと向かった。

「ミュランシェは俺と一緒に来い」

 なぜか別室へと誘われて、私は王太子について行った。そこで怪しむべきだったのだ。嫌だと抵抗すべきだったのだ。
 だがもうすぐ婚約を終えてブレイズと一緒になれると思った私は完全に浮かれており、冷静さを欠いていた。

 結果、気付けば私は王太子の寝室で、寝台の上で組み敷かれることとなる。

「なにをなさるのですか!?」
「黙れ! これで最後……最後だと……なぜお前は最後まで俺を見ない! 婚約破棄などしたくないと抗わないのだ!」
「なにを……」

 何を言っているのだ、この人は。婚約破棄を望んだのは自分であるはずなのに。大勢の令嬢と浮気し、関係をもち、最終的にエルザという女を選んだくせに。
 なのに今更、この男は何を言っているのか。

 混乱する私の頬に、ポツリと冷たい滴が落ちる。
 見上げれば、それは涙だった。王太子が、泣いている……。

「なぜ?」

 なぜあなたが泣くのか。
 問えば、閉じた王太子の目からまた涙がこぼれ落ちた。フッと開いた目は、悲し気な光に揺れる。

「俺は恐かったのだ。このままお前は俺を愛さないままに嫁いでくるのかと。お前は俺を……憎んでいるだろう?」
「憎んでなど……」

 いないと言えば嘘になるのかもしれない。
 だがもうそんな必要もなくなる。

「婚約破棄してくださるなら憎しみも消えます。むしろ感謝しましょう」
「感謝だと?」
「婚約破棄してくださることで、私は平民となり、なんの憂いもなくブレイズと共になれます」
「……なん、だと……?」
「私はブレイズの妻になるのです」
「何を言って……」

 不安げに揺れる瞳。これまでの発言から察するに、彼は結局私を愛しているということなのだろうか?
 ならば婚約破棄は無しになる?
 それはなんて恐ろしいことだろう。

 だから私は言った。

「どうか婚約破棄を撤回しないでくださいませ」
「え?」
「私の最初で最後の願いです。どうかこのまま婚約破棄を……」
「黙れ!」

 不意に視界が遮られた。王太子の前髪が私の見開く目に触れる。
 それはあまりに近く……唇が炎のような熱を帯びて……直後。

「いや!」

 ドンッと思いきり体を突き飛ばした。不意のことに抵抗なく、王太子の体は後ろへと飛んだ。

「いや……いや!」

 ゴシゴシと唇を服の裾で拭った。何度も何度も……痛みが走り血の味がしても、何度も拭き続けた。
 一瞬感じた熱を忘れるために。

「ミュランシェ待て! 俺はお前を愛しているんだ、婚約破棄はしない……」
「いや!!!!」

 体を起こして逃げようとして、けれど沈み込む寝台が思うように体を動かさない。
 溺れるようにもがいていると、不意に王太子に腕を掴まれた。恐怖が体を支配する。

 また押し倒される? このまま王太子に抱かれる?
 婚約破棄はなし? 王太子と結婚?
 そしたらブレイズとはどうなるの?
 清い体でなくなった私を、彼は愛してくれるだろうか?

 もしかしたら、彼は私から離れるかもしれない。見捨てるかもしれない。
 そんなのは──

「いやよ!!」

 叫んで、無我夢中で手を振り回した。なんとか抑えようと手を伸ばす王太子から逃げようと、もがき、手を伸ばし──何か固いものが手に触れる。
 考えるより早く、それを私は振り上げ振り下ろした。

「ぐ……!?」

 嫌な感触と共に、苦し気な声が室内を満たした。
 しばしの後、広がる嫌な臭い。思わず顔をしかめたところで、ぬるりとした感触にやっと私は目を開いた。

「え……」

 言葉を失う私の前には、胸元に深々と短刀を突きさした状態の王太子。見開く目、信じられないものを見るような目を私に向ける王太子。
 グラリと体が傾き、そのまま床へと倒れ込んだ。

「あ!」

 声が上がり、思わず手を伸ばしかけたその時だった。

「王太子、いかがされました!? ミュランシェは……」

 バンッと勢いよく部屋の扉が開き、父が入って来た。その背後には近衛兵、そして国王。
 彼らは部屋に入り、だが広がる惨状に言葉を失い、その場に立ち尽くす。

 それを静かに振り返って、私は震える手を胸元で祈るように組んだ。

「ミュランシェ……お前……」
「あ、ああ……わたし、私は……」

 青ざめる父、震える私の手、血の気が引いて行く王太子。

「ミュ、ラン、シェ……」

 命の灯火が消えかけた王太子の声にハッと我に返った私は、考えるより早く立ち上がり、バルコニーへと駆けた。

「待てミュランシェ!」

 制止する父の声は届かない。

「ブレイズ……」

 バルコニーにはブレイズが待っていた。いつから、どこから見ていたのか知らないが、彼は全てを知っているという顔をしている。静かに微笑んでいた。

「ブレイズ、私……」
「行きましょう、お嬢様。……いいえ、ミュランシェ」
「いいの?」
「なにが?」

 伸ばされた手に戸惑い問えば、微笑みながらブレイズは首を傾げた。

「私でいいの? 私は……人を殺してしまったわ」
「僕のためでしょう?」

 なんら気にしないと言うように、即座にブレイズが答える。

「大丈夫。僕と一緒ならば、なんの憂いもなく幸せになれます」
「本当に?」
「ええ」
「本当に、幸せにしてくれる?」
「ええ。愛しています」

 伸ばされた手はとても綺麗なもの。応える私の手は血に染まっている。
 それでもいいとブレイズは言ってくれた。私と共にいてくれると彼は言った。
 ならばもう迷わない。

「待てミュランシェ、なにをしているのだ! その先は危ない、ここから下へと落ちればひとたまりも……」
「お父様」

 何を焦っているのか、真っ青な顔で父が駆け寄ろうとするも、それを制止するように振り向いて私は父に声をかけた。

「今までお世話になりました。王太子のことは……申し訳ありません。ですが私は自分の幸せを貫きます。我儘をお許しください」
「何を言って……」
「ブレイズと共に行きます。彼の妻となります」

 それは夢だった。子供の頃からの夢。諦めたはずの夢。
 それが今叶うのだと、こんな状況だというのに心躍る。
 だが父はそれをよしとしなかった。駆け寄ったところで私を捕まえることはできないと踏んだのか、バルコニーの入り口で佇んで叫んだ。

「お前は何を言っているのだ! ブレイズと一緒になる!? 彼は……あいつは……」
「私が愛するのは彼だけ」
「あいつは、ブレイズはもう死んだ!!」
「ブレイズを愛しているのです」

 父の叫びは私の耳に届かない。いや、届いていてなお、私は聞かないフリをする。
 分かっている……そう、私は分かっているの。
 父が言いたいことは分かっている。

ブレイズは死んだ。
とうの昔に死んだ。

 嫉妬にかられた王太子に、殺されたのだ。

 ブレイズが公爵家を出て行って、それで終わりとならなかった私達の関係に嫉妬した王太子が、自ら彼を斬り殺した。

 それはブレイズによる王家への不敬ということで、片付けられてしまった。ブレイズを殺した王太子は笑い、言ったのだ。「これでお前は俺だけのものだ」と。

 きっとあの時から私の心は壊れていたのだろう。
 居るはずのないブレイズが、ずっと陰から見守ってくれていると信じて、どうにか精神をつないでいたのだ。

 でももうそれも終わり。
 今目の前にブレイズは確かにいて、私は彼と共に行くのだ。幸せな花嫁になるのだ。

「さあ、ミュランシェ」
「ええ、ブレイズ」

 差し伸べられた手。ブレイズがいるのは、バルコニーの向こう。地面より遥か高い場所に彼は浮かんでいる。それをおかしいと疑問に思うことはない。

「やめろミュランシェ! 私はお前を失いたくない!」
「さようなら、お父様」

 父の最初で最後の、私を思いやる言葉。
 それを胸に、私は駆け出した。ブレイズは私の腕を掴み引き寄せる。私は迷わずその胸に飛び込む。

 バルコニーから落ちる衝撃も痛みも何も感じず。

 私は愛する人に抱きしめられる幸せに、そっと目を閉じた。


  ~fin.~
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