BAR eternityの奇跡

冬野俊

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~ヒーロー~

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「なるほど。その人を今、あなたはお待ちなんですね」
 真樹が優しげに質問すると、佐原は恥ずかしげに頭を掻く。
「もう、私は結婚していますし、子供もいます。ただ、私は地元の商社に就職しましたが、一年前の異動で東京の支社に配属になり、今はここから数駅先の所に住んでいます。そして、私がこのバーの最寄り駅で偶然電車を降り、公園で物思いにふけって、その約束を思い出したのはつい先ほどです。ここまで偶然が重なったのだとしたら、これはもう必然だとすら思っています」
 佐原は目を細めながら続ける。
「彼女には死ぬまでに一目でも良いから逢いたいんです。今度は心の準備をして、彼女の姿を目に焼き付けておきたい。私は駄目な人間だと思います。家庭がありながらも、たぶん、私は心の何処かで彼女を好きなんですから」
 真樹は首を振る。
「あなたが駄目な人間だと?いえ、それは違います。今訊いたお話から察するに、あなたは純粋に人を愛する心をお持ちです。これまでも家族の幸せのために、尽くしてきたのではないですか?だとすれば、その奥様も、そしてお子さんも、きっと純粋な心をお持ちなはずです。ほら、『類は友を呼ぶ』と言うでしょう。あなたの気持ちをご家族もきっと分かってくださるはずです。人を愛する気持ちを」
 「そんな馬鹿な」と否定しかけたところで、佐原は思いとどまった。このオーナーの発言には、いやに説得力がある。

「カラン」

 店内に鳴り響いた入り口のドアチャイムの音に、真樹はそちらを向こうともせず「ほら」とつぶやいた。
「あなたが待っていた人ですよ」
 佐原が反射的に顔を向けると、一人の女性の姿があった。
「あ、歩美(あゆみ)・・・か?」
 佐原は息をのむ。歩美は白いブラウスと黒いパンツ姿で、ドアの前で屈託の無い笑みを浮かべている。
「久しぶり」
 十年ぶりの歩美の声に懐かしさを覚え、佐原の目尻には知らぬ間に雫がこみ上げてきている。
「元気だった?」
 佐原は言葉を発する事ができないでいる。その代わりにゆっくりと二回、首を縦に振った。
「あの、手紙読んでくれたんだね」
 佐原はその会話を噛み締めるように返答をする。
「ああ、でもまさか、本当に逢えるとは思っていなかったから。ああ、そうだ、歩美も元気でやってるのか?」
 歩美は「うん」と恥ずかしげに頷く。
「今では二人の男の子の母親になっちゃった。私もかなり老けたよね」
 佐原の目にはそうは映らなかった。当時の彼女に比べ、大人らしさこそ増していたが、加齢による老いというものは、どの部分を取っても現れていなかった。
「いや、そんなことないさ。子供が居るのにあの頃と変わってないよ」
 歩美は照れくさそうにはにかむ。
「ありがとうね。なんだか嬉しいな」
 その笑顔も当時と同じままだ。佐原の視界には、あの日のグラウンドの風景と今の歩美の姿が一瞬重なった気がした。
歩美が佐原の隣に腰を下ろすと、佐原を挟んで反対側にいる真樹がグラスを持ちながら、独り言のように語り始めた。
「奇蹟と偶然は違うんですよね」
佐原と歩美の視線は真樹に向けられている。
「偶然は全くの巡り合わせです。自分が意図していないときでも起こりえる。でもね、奇蹟は人の願い、思いがあるからこそ、起こるんです。もちろん、確率は限りなく低いからこそ奇蹟なんですがね」
 真樹はゆっくりと立ち上がり、「さて」と話を切り返す。
「歩美さん、それではよろしいですか?」
 歩美はその言葉に賛同し、「はい」と力強く答える。
「え、何がですか?」
 佐原だけが状況を理解しておらず、真樹と歩美の顔を交互に見やる。
「それでは、どうぞ」
 真樹はコンシェルジュのように丁寧に歩美と佐原をドアの方に誘導する。それに反応し、歩美は立ち上がって佐原の手を握り、ドアの方へと近づいた。そして、ゆっくりとノブに手を掛ける。
 歩美がドアを開けようとする前に、真樹は急に畏まって二人を制止し、口を開いた。
「ああ、申し訳ありません。佐原さんへのご説明を忘れておりました。佐原さんのために、ざっと現状をご説明させていただきます」
「ど、どういうことですか?」
 佐原は混乱しながら真樹の返事を待つ。真樹は軽く一礼すると、ドアの外にある『世界』について語り始めた。
「このドアを開けると、あの日のグラウンドが目の前に現れます。そこは、お二人がキャッチボールをした、同日、同時刻、同じ場所となります。ただ、あの日のお二人は居ません。あなた方が『あの日の二人』になるという事です。佐原さんは突然で状況が飲み込めないかもしれませんが、要はタイムスリップと同じです。あの場面にもう一度戻れるわけです。そして、そこでの行動や言動によって、未来が変わる可能性もあります。それはお二人の内のどちらかがそこで亡くなる、後の未来に影響を与えるような負傷をするなどが考えられます。まあ、人生というものはちょっとやそっとのことでは変わりません。もちろん、佐原さんが望めば、あの日に戻る事を拒否する事もできます。ただ、今回の場合は歩美さんの人柄とご依頼された事情などを考慮したときに、佐原さんには事前に了解を得なくても大丈夫だと思いまして、このような流れになりました」
「ちょ、ちょっと、タイムスリップって、一体どういう・・・」
 佐原は取り乱しながらその場で右往左往した。
「歩美さんがそれを望まれたんです。あの日、あの場所で、本当の気持ちを、きちんと伝えたい、と」
佐原が歩美の方に顔を向けると、その表情は優しげだった。
「私の一生のお願いをここで使わせて。佐原君、お願いだから一緒に来てくれない?」
 真樹もその言葉に呼応するように頭を下げる。
「私からもお願いします。そして、ここで佐原さんが行く事を拒否された場合、きっと、必ず、後悔する事になるとも思っています。だから、どうか、歩美さんのお願いを聞いてあげてください」
 佐原は夢を見ているのかと疑った。そんな話を信じろと言われても到底無理な事だ。ただ、これが本当に夢であるのなら、別に行っても支障は無いのではないか、とも感じた。ここは一体夢なのか、現実なのか。ただ、ドアの外がどんな所であれ、歩美と話をすることができるのなら。
「ちょっと、状況が飲み込めていないですけど。そこまで言うのでしたら・・・、分かりました」
 その言葉を聞き、歩美は何度も「ありがとう」と感謝しながら頭を下げた。そして、真樹の方を見やり、一度ゆっくり頷くと、ノブをカチリと回し、ドアを押し開いた。


 店のドアは、あの日の球場に入るための通用口となっていた。
 歩美と佐原はゆっくりと球場に足を踏み入れる。
「お時間は、お二人が球場を貸し切られた一時間です。ただ、ここで何をするかはお二人の自由ですから。それではごゆっくり」
 真樹は優しく笑みを浮かべると、静かにドアを閉めた。

「ごめんね、突然で驚いたでしょ?」
 グラウンドを見つめていた歩美は、佐原の方に向き直ると、そう謝罪した。
「ここは・・・、本当にあのグラウンドなのか?」
 佐原は周囲を見回した。ボロボロになった木製のベンチ、塗装が禿げかけているフェンス、昭和時代の球場の名残を見せる回転式のスコアボード。確かに見た感じは間違いなく、あのグラウンドだった。
「知ってた?このグラウンドは、あれから五年後に取り壊されたんだよ」
「いや、知らなかった。ということは、ここは本当に十年前の、あの日なのか」
 佐原は依然として混乱していた。グラウンドが壊されたというのが歩美の作り話だという可能性はある。だが、歩美はそんなつまらない嘘をつく人間ではないことを知ってもいる。まあ、あのバーのドアが球場に繋がっている時点で、普通の状況ではないのだ。
「私が真樹さんにお願いしたんだよ。どうしても、この日に戻りたいって」
 佐原の口からは乾いた笑いが突いて出た。
「そ、そんな馬鹿な事あるわけないだろう。タイムスリップなんて、普通に考えて納得できるわけがない」
「でもね、これは現実なんだよ」
 歩美の言葉を背に、佐原は二、三歩マウンドの方へ向かうと、あの日と同じように空を眺める。「ああ、そうだ。俺は忘れていなかった。この空は・・・、間違いなく、あの日の空だ」。予見していた通り、佐原の記憶はあの真っ青に澄み渡った空の眺めを覚えていた。
「まだ、信じられないけど、もし、ここが十年前のあの日だったとして、歩美は何を?」
 歩美はベンチに向かうと、二つあったグローブを手に取り、一つを佐原へと投げ渡した。
「また、キャッチボールがしたくてさ」
「なんだ、それ」
「私の一生のお願いは、このキャッチボールなの」
 佐原は「はいはい」と答えながら、渋々、マウンドへ向かった。ボールを握るのはいつぶりだろう。そう言えば社会人になってからは、ほとんど野球に触れていなかった。一度、肩を壊したトラウマからボールを握らないでおこうと思っていた事もあるが、一番の理由はボールを投げる度に、歩美を思い出すのではないかと感じたからだった。
「久しぶりだから、ちょっと投げるのが怖いな」
 佐原は肩を回しながら、感触を確かめている。
「今、野球はやってないの?」
「ああ、ボールは全然握ってない」
 歩美は寂しげな表情で「そっか」とだけ呟いた。
「まあ、いいんだよ、これで。俺がもしプロ野球選手だったら、そりゃボールを握らないと生活できないんだから問題あるけど。俺は肩を壊した弱小チームの投手だ。誰も困らないからな」
 佐原は一度、握っている白球を見つめた後、意を決して、ゆっくりとしたモーションでそれを歩美に向かって投げた。そのボールは山なりの弧を描いて、歩美のグローブに収まった。肩は痛くない。佐原はホッとした。
「私さ」
 佐原の緊張感をよそに、歩美はすぐさま佐原に向かって投げ返す。ボールは再び弧を描いて佐原のグローブへと戻った。
「野球してる時の佐原君が好きだった」
 佐原は「いきなりどうしたんだ?」と驚きを抱きつつも、笑いながら返答する。
「たとえ、すごく弱いチームの投手でも、私にとってはヒーローだった」
 ボールのやりとりは依然として続いている。
「私はさ、結局、大学の時から付き合ってたあの人と結婚したんだけど。そう、佐原君に紹介した田辺さん。最初は付き合う気もなかったんだけど。私は自分にすごく自信がなくて。その時好きだった人にも、たぶん振り向いてもらえることも無いと思ってたから、交際を申し込まれて、嬉しい気持ちもあったんだと思う」
 佐原はボールを受け取り、投げ返しながらじっと耳を傾けている。
「彼はすごく優しかった。確かにお金持ちだったけど、そんな感じをおくびにも出さなくて、色んな所へ一緒に行って、楽しい時間も共有した。いい思い出もたくさんできた。そして、結婚して、子供が生まれて、今は幸せに暮らしてる」
 「そうか。君が幸せになってくれて本当に良かった」と佐原は笑顔で返す。
「でもね、でも、もし、私が人生で一番好きになった人と結婚していたらどうだったんだろう、って今でも思うの。たぶん、その分岐点がこの球場だったんだと思う」
「どういうこと?」
 佐原は少し首をかしげて聞き返す。
「たぶん、あの時、ここで佐原君の告白を受け入れてたら、そこにはもっと良い人生があったのかなって。私も佐原君の事が好きだったから」
 突然の告白に佐原は思わずボールを受け取り損ないそうになった。
「え、俺のことを?そんな事ないだろう。普段からそんな様子は全然なかったけど」
「言ったでしょ?私は自分に自信が無かったの。だから、私は、こんな自分を受け入れてくれた田辺君との結婚を了承したの。あの日からちょうど一年くらい前。最後のリーグ戦が始まる前くらいだったと思う。大学卒業後の結婚を、婚約したの。自分の中でも戸惑いがあったから、誰にも言えなかったし。佐原君に彼を紹介すれば、もしかして私を奪ってくれるんじゃないかとも考えたなあ。それは私の完全な妄想の中でのことだけど」
「だから、彼を俺に紹介したの?」
「あれは、偶然もあったんだけどね。たまたま彼が迎えに来てくれたところに佐原君が居て、声を掛けようか迷ったんだけど、見られてしまったからには、隠しておくのも変だと思ってさ」
「それが、歩美の本当の気持ちなのか?」
 歩美はボールを投げ返しながら球場全体に響くほどの声で叫んだ。

「そうだよ!」

 歩美はすがすがしそうに手を広げて天を仰いでいた。
「あー、やっと言えた!」
 再び、佐原が驚くほどの声量で歩美は思いを吐きだした。
「それを言いたかったがために、俺をここへ?」
 それまで繰り返していた白球のやりとりを止め、歩美は佐原を見つめた。
「そう。それを言いたかっただけ」
はにかむ歩美は続ける。
「でもね、人には本当に言いたかった事、思い残した事、忘れられない事、後悔している事は必ずあると思うの。それが私にとって、ここだった」
 ホームにしゃがみ込んだ歩美はゆっくりと足下の土に触れる。球場には土の匂いと柔らかに降り注ぐ日差しがあった。あの日のように。
「そろそろかな」
 佐原が立ち尽くしていると、歩美は切り上げるように、入ってきた通用口を見つめた。
「もう時間だから、佐原君は行って」
 佐原はその言葉に戸惑った。
「俺は行けって、歩美はどうするの?」
「私はもう少し、この場所を感じていたい。でも、佐原君はもう戻らなくちゃいけないの。真樹さんとはそういう約束だから」
 佐原は「何故、一緒に戻れないのか」と、納得がいかないながらも歩美には何か特別な事情があるのだろうと察し、歩美の言葉に素直に従うことにした。
「分かった、それじゃあ、俺は戻るよ」
 グローブを外しながら佐原は歩美に近づき、握手を求めた。
「久しぶりに逢えて良かった。何となくだけど、もう、逢えることはないと思ってたから」
 歩美はそれから何も言わなかった。ただ、目を潤ませて何度も「うん、うん」と頷くだけだった。
 佐原が通用口から出ようとするのを歩美はホームから見送っていた。佐原にとっては名残惜しく、もう少し一緒に居たいとも思っていたが、その表情を見ていると無理を言う気持ちにもなれず、「それじゃ、また」とだけ言い残して、グラウンドを出た。後にする瞬間、佐原の目には悲しみとも喜びともつかない、何とも言えない表情を浮かべる歩美の姿が映っていた。
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