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~ヒーロー~
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「お客さん、お客さん!」
微睡みの中で佐原は次第にその声を認識していく。まだ重い瞼を薄く開くと、見た事の無い男が佐原の身体を揺り動かしていた。
「あ、良かった。お客さん、すいませんね。今日はもう閉店なんですよ」
佐原はカウンター席に突っ伏していた。状況を把握しようと動かそうとした脳に、鈍い痛みが走る。「ここは・・・、どこだ?」。身体を必死の思いで起き上がらせると、そこは居酒屋だった。佐原を揺り動かしていた男は相変わらず呼びかけを続けている。
まだ正気を取り戻していない佐原の脳内には、さまざまな疑問がよぎる。「俺は、酔っ払っているのか」「そもそも、ここまでどうやって来たのだろう」「というか、俺は今日が誕生日で、帰り道にあのバーに寄って・・・」。そこまでの記憶がつなぎ合ったところで、佐原は身体を急に起こした。思考が冷静さを取り戻していく。
「ちょ、ちょっと、聞いて良いですか?私はどうやってここに来たんですか?」
店員の男は、嫌がる事もなく酔っ払った客の質問に、丁寧に答える。
「覚えてないんですか?お客さん、ちゃんと自分の足でここまで来ましたよ。一人で」
「どういうことだろう」。佐原は頭を振る。だが、アルコールは身体の隅々まで浸潤しているらしく、考えは一向にまとまらない。
「かなり飲んでいらしたみたいですし、お水でも持ってきましょうか?タクシー呼びます?」
そんな店員の気遣いなど全く耳に入らず、ほんのさっきまで自分が体感していた「記憶」を少しずつ辿っていく。
「俺はバーに行って、そして、そこで歩美と会って・・・。そうだ、そして一緒に球場へ行ってキャッチボールを・・・」。事の始まりから終わりまで鮮明なのは確かだ。夢だとは思えない。ただ、自分がここにいるというのは夢だったということなのか。
店員は佐原の返事を待つことなくタクシーを呼んだようだった。佐原は時間を腕時計を見やる。午後十一時。仕事が終わったのは午後八時だからそこから、あのバーに行き、ここに来たと言うことは考えられないだろうか。程なくして、「到着しましたよ」と促され、混乱したまま佐原は席を立った。「ちなみに私は何時くらいからいます?」との質問に店員は「そうですねえ、確か午後八時過ぎだったと思いますよ。来たときはしらふでしたから職場からそのままここに来られたんじゃないんですか?」と苦笑いする。会計は二千九百八十円。いつも飲みに行くときと変わらないほどの金額。レシートには生ビールと焼酎二杯、つまみが何品か。これを見ても、それなりの時間は晩酌を行っていたようだった。やはり、あれは自分の脳が都合良く作り上げた幻想だったのだろう、そう考えるしか、納得のいく理由は見つからなかった。
店を出ると、見覚えのある三日月が再び佐原の頭上に浮かんでいた。
おもむろに佐原は右手を眺める。感触は、残っている。歩美の手の温かさも、やはり残っている。そして、あの土の匂いも、降り注ぐ日差しも、覚えている。
「もし夢なら、あんなに素晴らしい夢は一生に一度だろうな」。
不思議な感じがしていた。あの「BAR Eternity」は本当にあるような感覚。口で説明するのは難しい。ただ、「あの出来事は夢だったとしても、あのBARは現実にあるのではないか」。そんな佐原の一方的な勘だった。
もう一度、右手を眺める。
「たとえ、すごく弱いチームの投手でも、私にとってはヒーローだった」
歩美の言葉がたとえ幻だったとしても、佐原にとっては、心を打ち鳴らした一言だった。「それが、職場の草野球チームであっても、この国のどこかで自分が投げていれば、歩美は喜んでくれる」。佐原は、そんな気がした。
「まだ、投げられるかなあ」
タクシーに乗り込みながら、佐原は右腕をぐるぐると、何度も回していた。
微睡みの中で佐原は次第にその声を認識していく。まだ重い瞼を薄く開くと、見た事の無い男が佐原の身体を揺り動かしていた。
「あ、良かった。お客さん、すいませんね。今日はもう閉店なんですよ」
佐原はカウンター席に突っ伏していた。状況を把握しようと動かそうとした脳に、鈍い痛みが走る。「ここは・・・、どこだ?」。身体を必死の思いで起き上がらせると、そこは居酒屋だった。佐原を揺り動かしていた男は相変わらず呼びかけを続けている。
まだ正気を取り戻していない佐原の脳内には、さまざまな疑問がよぎる。「俺は、酔っ払っているのか」「そもそも、ここまでどうやって来たのだろう」「というか、俺は今日が誕生日で、帰り道にあのバーに寄って・・・」。そこまでの記憶がつなぎ合ったところで、佐原は身体を急に起こした。思考が冷静さを取り戻していく。
「ちょ、ちょっと、聞いて良いですか?私はどうやってここに来たんですか?」
店員の男は、嫌がる事もなく酔っ払った客の質問に、丁寧に答える。
「覚えてないんですか?お客さん、ちゃんと自分の足でここまで来ましたよ。一人で」
「どういうことだろう」。佐原は頭を振る。だが、アルコールは身体の隅々まで浸潤しているらしく、考えは一向にまとまらない。
「かなり飲んでいらしたみたいですし、お水でも持ってきましょうか?タクシー呼びます?」
そんな店員の気遣いなど全く耳に入らず、ほんのさっきまで自分が体感していた「記憶」を少しずつ辿っていく。
「俺はバーに行って、そして、そこで歩美と会って・・・。そうだ、そして一緒に球場へ行ってキャッチボールを・・・」。事の始まりから終わりまで鮮明なのは確かだ。夢だとは思えない。ただ、自分がここにいるというのは夢だったということなのか。
店員は佐原の返事を待つことなくタクシーを呼んだようだった。佐原は時間を腕時計を見やる。午後十一時。仕事が終わったのは午後八時だからそこから、あのバーに行き、ここに来たと言うことは考えられないだろうか。程なくして、「到着しましたよ」と促され、混乱したまま佐原は席を立った。「ちなみに私は何時くらいからいます?」との質問に店員は「そうですねえ、確か午後八時過ぎだったと思いますよ。来たときはしらふでしたから職場からそのままここに来られたんじゃないんですか?」と苦笑いする。会計は二千九百八十円。いつも飲みに行くときと変わらないほどの金額。レシートには生ビールと焼酎二杯、つまみが何品か。これを見ても、それなりの時間は晩酌を行っていたようだった。やはり、あれは自分の脳が都合良く作り上げた幻想だったのだろう、そう考えるしか、納得のいく理由は見つからなかった。
店を出ると、見覚えのある三日月が再び佐原の頭上に浮かんでいた。
おもむろに佐原は右手を眺める。感触は、残っている。歩美の手の温かさも、やはり残っている。そして、あの土の匂いも、降り注ぐ日差しも、覚えている。
「もし夢なら、あんなに素晴らしい夢は一生に一度だろうな」。
不思議な感じがしていた。あの「BAR Eternity」は本当にあるような感覚。口で説明するのは難しい。ただ、「あの出来事は夢だったとしても、あのBARは現実にあるのではないか」。そんな佐原の一方的な勘だった。
もう一度、右手を眺める。
「たとえ、すごく弱いチームの投手でも、私にとってはヒーローだった」
歩美の言葉がたとえ幻だったとしても、佐原にとっては、心を打ち鳴らした一言だった。「それが、職場の草野球チームであっても、この国のどこかで自分が投げていれば、歩美は喜んでくれる」。佐原は、そんな気がした。
「まだ、投げられるかなあ」
タクシーに乗り込みながら、佐原は右腕をぐるぐると、何度も回していた。
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