BAR eternityの奇跡

冬野俊

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~奇跡のターフ~

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 騎手を目指す人はさまざまな理由を持っていると思います。ただ、私ほど特殊な人間は居なかったのではないかと、今、思い起こせば、そう思います。私の実家はね、北海道で牧場を経営していたんですよ。細々とやっていましたが、生活していけないほどではありませんでした。私も、実家が牧場で良かったと心底思っていましたね。元々、馬が好きだったんです。学校が休みの時も、よく馬房の掃除や餌やりを手伝わされていましたが、馬たちと触れ合えるだけで心から楽しかった。そう、まだ高校も卒業していない若造でしたが、まるで子供を持ったかのような、そんな感覚でしたね。
 馬ってね、人間の言葉をちゃんと理解しているんですよ。自分にとっては当たり前のことだと思っていましたが、一般の人に説明してもなかなか信じてもらえない。でもね、怒るとちゃんと反省するし、褒めると嬉しそうな顔になるんですよ、これが。馬たちのそんなところが私の惹かれていた部分なんでしょうね。
 だから、あの懐っこい馬にはひときわ思い入れがありました。その馬というのが「ソウタ」です。ソウタというのは幼名でして、生まれたときのことは今も良く覚えています。高校一年生の時でした。その時に私は、ある程度牧場の仕事を理解しながら手伝いが出来ていて、子馬の出産にも良く立ちあっていました。あの時は非常に難産でして、母馬もソウタを産み落としてすぐに、力尽きたように亡くなりました。生まれてすぐの頃からソウタは聡明な子で、母が居ないことを何となく感じていたんだと思います。恐らく寂しさもあったでしょう。ただ、そんな様子を見せることもなく、元気に走り回っている姿ばかりが印象に残っています。
ソウタは美しい栗毛の牡馬で。ああ、牡馬っていうのはオスのことです。額に菱形の白い模様があったんです。体付きこそ小柄でしたが、走らせてみると、一目で分かりました。幼いながらもスピードとバネがあって、「これはもしかしたら凄い馬になるんじゃないか」と。
 ソウタは聞き分けの良い馬でした。と同時に、私が餌やりをしている時、私が落ち込んでいると感じたら、すぐに寄ってきて慰めるように顔を舐めるんですよ。それも、ちゃんと私が落ち込んでいるときだけなんです。普通の時は「餌をくれって」って言う感じで、顔を出して待っているだけなのに。だから、母親が亡くなったときには一晩中、ソウタの馬房の前で過ごしました。ちょうど、高校三年生の時でした。急性のくも膜下出血でした。ある日、私が学校から帰宅すると、母親が「頭が痛い」と台所で倒れていました。
父親は知り合いの牧場に行っていて、その日は家には居ませんでした。私が母親の元に駆け寄りどうしたのか訊いても「頭が痛い」としか言いません。急いで救急車を呼びました。私は付き添って病院に行きましたが、母親は即手術となりました。まだ、携帯電話が普及する前でしたから、父親に連絡が取れたのがその日の夜、父が家に帰ってきてからでした。父親も慌てて病院に駆けつけましたが、母親はまだ手術中で、私は父を責めました。何故、こんな日に限って外出していたのか、どこで何をしていたのか、泣きながら何度も責めました。父も涙を流しながら「すまない」とだけ言い、その後は母の手術が終わるまでお互い、会話も交わさずじっと待ちました。
 母親の手術は成功しました。ただ、意識が戻るかどうかは分からないと担当医は言いました。その時の父親の顔は、やりきれないような、悔しいような表情でした。その時の顔はこれからも忘れないと思います。私は父に謝りました。「とうちゃんも辛いのに、責めてごめん」と。父は何も言わず私を抱きしめました。そして二人で泣きました。
 母親はそれから一ヶ月余り生き続けました。ただ、一度も意識が戻ることはなかった。最後に、そう最後に一言でも良かったから話がしたかったと、今でも思います。一ヶ月後には容態が急変し、母は息を引き取りました。
 人の死というものはどうにもなりません。逃れようとしても必ずいつかは死にます。母の死もそうです。もしも父があの日家に居たとしても、私がもう少し早く帰宅していたとしても、母の運命が変わったかどうかは分かりません。もしかしたら、もっと見つかるのが遅ければ、逆に一ヶ月間苦しまずに安らかに死ぬことが出来ていたのかもしれませんから。たらればを言い出したらキリがありませんから。
 ただ、高校三年生の私にとって身近な人の死は初めてで、その喪失感というものは口では言い表せないほどでした。父は通夜や葬儀の準備で寝る暇も無く、かといって一人でも気が滅入るばかりでした。そんな私を受け入れてくれたのはソウタでした。生まれたときから私ができる限り面倒を見てきましたが、その時ばかりはソウタが落ち込んだ私の面倒を見てくれたんです。泣きながらずっとソウタの顔を撫でていました。ただ、ソウタは優しく私の傍にじっと居てくれた。話もちゃんと聞いてくれました。
 そして、私を励ましてくれました。ソウタも母を失う辛さを知っています。でも、そんなことはおくびにも出さず、今は同じ立場になった私を元気づけようと必死に顔を舐めてくれている。その時に気付かされたんですよ。「自分も母の死を乗り越えなければいけない」と。気付いたら朝でした。もし、あの夜にソウタが居なければ、私は立ち直れなかったかもしれない。だから、ソウタにはどれだけしても足りないくらい、感謝しているんです。それは今でも変わりません。
 私が卒業後の進路先を、大学進学から騎手に変えたのもこの出来事がきっかけでした。
 出来ることならソウタに自分が乗って、G1を取りたい。母親が亡くなったことで父親の負担も増え、牧場の経営が厳しくなってきたことも知っていましたから、騎手になれば少しは父親はもちろん、亡くなった母親に対しても恩返しが出来るのではないかと思いました。
 私は、自分を幸運だと思いましたね。生まれつき身長が低く、運動神経も悪くはなかった。騎手になろうと思った時に条件は揃っていた。そして、その時は「必ずG1を勝てる」とすら思っていましたから。今から思えば、あまりに舐めた考えですよ。
 ただ、私がソウタに乗る夢は叶いませんでした。
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