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~ヒロイン~
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歩美が球場に辿り着いた時、正午をすでに過ぎており、試合は始まっていた。
観客はそれでも途切れることなく、続々とスタンドへと入っていく。歩美は球場の入り口でチケットを買う。そして、スタンドへと上がろうとした時、真樹がそこに立っていた。あの女性のバーテンダーも隣に見える。彼女はバーでの姿と違い黒いパンツスーツ姿だ。
「真樹さん、それにバーテンダーさんも」
歩美は車椅子に座りながら上半身だけでお辞儀をした。
「お手伝いしましょう」
真樹は歩美の身体を抱きかかえると、進士も車椅子を持ってスタンドへの階段を上り始める。歩美は少し照れくさくなった。男性に抱きかかえられることなど、これまで無かったからだ。
階段を抜けると、球場は大きな歓声とブラスバンドの演奏に包まれている。
全国高校野球選手権福井大会。その決勝戦だった。
「どうですか。久しぶりに野球を見る感想は」
真樹は歩美が座った車椅子を押して移動しながら問い掛ける。
「ええ、懐かしいです。佐原君の高校最後の試合もここでしたから」
決勝戦は信愛学園と明新。四回表を終わって1―0で明新がリードしている。
「山野様、あなたをここに呼び出したのはどなたか分かりますか?」
「佐原君…ですよね?」
真樹はゆっくりと首を横に振る。
「いえ、それが違うのです」
佐原では無いことに歩美は動揺した。心に思い当たる限り、そのような人物は居なかったからだ。
真樹はグラウンドを眺めながら話し始めた。
「実を言いますと、あの日、条件を満たされたのはあなただけでは無かったんですよ。そう、佐原様もある条件を満たされた。二十年前のあの卒業式の日。佐原様は私どものバーを訪れていました。そして十年後。あなたの導きによって再び、エタニティーに足を踏み入れたあの日。そこで、彼は『マティーニ』を注文されたんです。卒業式の日に注文したのと同じ『マティーニ』を。そのため、佐原様はいつの間にか、条件を満たしてしまっていたんです」
「佐原君が条件を満たしていた?」。歩美は心の中で呟く。とすれば、彼は何を望んだのだろう。
「はい、そして私は改めて佐原様を私どものバーに導いたのです。あなたの意識が、病院のあなたの身体に戻った直後です。佐原様に与えられた権利は、もう一度、あの日に戻ることでした。再びあなたと二人でキャッチボールをしたあの日にです。その時ならまだあなたは目を覚ましていませんでしたから、時間的な余裕はまだありました。ですが彼は…その権利を使いませんでした。恐らく、あなたの選んだ人生を尊重したかったのでは無いでしょうか。あなたは佐原様の家族を気遣い、タイムスリップした先でも行動を起こさなかった。その決断に感謝し、自身が幸せになることこそ、あなたへの恩返しになると、そう考えたのでしょう」
歩美の頬には、いつの間にか汗がしたたり落ちていた。いつぶりだろう。この暑さを感じるのは。歩美は高校時代の自分と、今の自分を重ね合わせ、目を閉じる。球場に再び大きな歓声が沸き起こる。
思わずグラウンドに目をやると、六回の裏に信愛学園が1点を取って追いついた場面だった。ホームインした走者がベンチに戻りながらガッツポーズで喜んでいる。
「それで私をここへ呼んでくれたのは誰なんですか?」
真樹は答えずに歩美の車椅子を押していく。その先に居たのは一人の女性だった。彼女は歩美に向かって頭を下げる。
「初めまして」
歩美も慌ててお辞儀を返す。「初めまして」という言葉通り、その人物に見覚えは無かった。白いワンピース。麦わら帽子の影に隠れて顔はあまり見えないが、自分と同じくらいの年齢に見えた。真樹が彼女を紹介する。
「こちらは佐原様の奥様の由衣様です」
歩美はたじろいだ。そう告げられてどのように反応をしていいかが分からなかったからだ。
「歩美さん、ですよね?」
由衣はにっこりとほほえみかけた。
「どうして…」
歩美は理由が分からなかった。何故、佐原の妻が、私をここに呼び出したのかが。
「突然で申し訳ありません。きっと驚かれたことでしょう。ただ、これが妻としての最後の仕事でしたので」
「最後とはどういうことですか?」
由衣はグラウンドの信愛学園のベンチを眺める。
「歩美さん、お気づきになりましたか?うちの夫がグラウンドに居ることに」
歩美が由衣の視線を辿っていくと、そこには、佐原が居た。メガホンを握りしめ、大声で選手たちに声を掛けている。
「あれは私たちが結婚して七年ほど経った時です。彼の三十二歳の誕生日でした。夜に帰宅した彼は家に上がるなり、いきなり、本当にいきなりですよ、私に土下座したんです。もう、驚きましたよ。それまでの結婚生活でそんなことはおろか、喧嘩すらしたことがなく、平穏に暮らしていましたから。一体、この人は何をやらかしたんだろうと。浮気でもしたのかと最初は恐る恐る聞いていました。そしたら、会社を辞めたいと言い出したんです。『仕事が嫌になったのか?』と聞いても、『そういう訳ではない』と否定しました。彼がそこから話し始めたことは到底信じられない話でした」
歩美は「もしかして、エタニティーのことを?」と言うと、由衣はゆっくりと首を縦に振る。
「そうです。歩美さん、あなたが私たちにしてくれた、あの日の決断のことです。そりゃ、最初聞いた時にはとてもじゃないけれど信じられませんでした。でも、夫はくだらない嘘を付く人ではありません。その言葉を信じるなら、あなたが私の夫と共に歩んでいく人生を選んでいたら、私は別の男性と結婚し、息子の大河は生まれていなかったことになります。そして、夫は言いました。その決断をしてくれたあなたのために、もう一度グラウンドに立ちたいと。夫はそれまで文句の一つもこぼさず私たちのために働いてくれていました。ですから、私に反対する理由はなかったんです。そして、教員免許を取るために大学に通い直し、信愛学園の教師となりました。もっと現役時代に実績のある選手だったならば私立高の監督としてスカウトされることもあるそうですが、夫には輝かしい経歴はありませんでしたから。教員免許を取って教師となることが野球部の監督になる一番の近道だと思ったのでしょう。あの人らしいです」
「私のため…」
グラウンドの佐原の姿は生き生きとしていた。笑っている。選手たちを見ながら、試合を見ながら、嬉しそうに。確かに、歩美にとって佐原がプレーしていた姿は間違いなく輝いていた。でも、小学校から見ていたのは、ずっとベンチから声を送り続けていた姿だった。「そう、どんな形であれ、私は楽しそうにグラウンドに立っている佐原君が好きだったんだ。選手だろうが、監督だろうが、そんなことは関係ない」。そこでようやく、歩美は気付くことができたのだった。
歩美が気付いた時、試合は終盤だった。九回裏二死。スコアは1―1の同点だった。
由衣の視線はグラウンドにのバッターボックスに注がれていた。そして、祈るように両手を組み合わせて目を閉じた。
打席に立った信愛学園の打者はユニフォームの胸の部分をぎゅっと握り、天を仰ぐ。
「頑張れ、頑張れ」
隣に立っていた由衣は不安そうにつぶやき続ける。
「頑張れ、頑張れ、頑張れ」
投手がボールを投げる。バッターはタイミングを合わせてバットを思い切り振り抜いた。打球音に反応してようやく由衣が目を開く。球場はそれまでとは一変して、静寂に包まれた。選手、観客、その場に居た全員が言葉を発することなく、その打球の行方を追っていた。
「お願い、神様」
由衣の言葉に後押しされるように白球は伸びていく。ボールを追いかけていたレフトが、途中で走るのを止めた。左翼スタンドに打球が飛び込む。打者は走りながら大きく飛び跳ね、ガッツポーズをした。そして、右手でいつの間にかあふれ出た涙を拭っている。
歩美はこれまで体感したことのない大歓声を聞いた。そして、大きな拍手が球場に鳴り響く。
「大河、ありがとう。やったね。よく頑張ったね」
由衣は両手で顔を覆った。
「あの選手は…息子さんだったんですね」
歩美はスコアボードのずらりと並ぶ選手名の中から「佐原」と書かれているものがあることにようやく気付いたのだった。
大河はゆっくりとホームベースを踏む。と同時にチームメートが一瞬にして大河を取り囲んだ。試合は信愛学園の勝利で幕を閉じた。と同時に、信愛学園の甲子園初出場が決まった瞬間だった。
「あの子は、約束してくれたんです。実のところ…私は三年前にガンを宣告されまして。まあ、人間はいつか死にますから、それはしょうがないことだと思っています。それは今でもそう思います。その時、病床で大河が言ってくれたんですよ。『お父さんとお母さんを必ず、甲子園に連れて行く』と。夫も三年前に監督に就任してから、仕事と監督業の両立で、寝る間もほとんど無いような状況で、私の看病もしてくれました。大河は中学卒業の時、夫の居る信愛学園に進学すると言い出しました。理由を尋ねると『お父さんと一緒に野球がしたいから』だと。いつしか甲子園は私たち家族の目標になりました。ただ、私はそれを見ることなく、この世を去らなければならなくなりました。さっき、大河がユニフォームの胸の部分を握りましたよね?あれはきっと、私が夫と大河の為に作ったお守りを下に身につけてくれているからだと思います。ボールの形をしたマスコットなんですけどね。入院していた私にできることって、それくらいしかありませんでしたから」
「そうだったんですか」と歩美は表情を曇らせる。だが、由衣の顔に悲壮感はない。
「いえ、そんな顔しないでください。私は歩美さんに感謝しているのです。もし、あなたが私の夫と結婚していたら、私の運命も変わり、ガンにならなかったかもしれません。ですが、私はまったく、まったく後悔していません。半身不随になることを承知しながらも、歩美さんが私たちの家族の幸せを願ってくれたからこそ、私は夫と結婚して大河を授かり、他の誰よりも幸福な人生を歩んでこられたんです。それは…やっぱり、あなたのおかげです」
由衣が歩美の手を取り、握りしめる。
「一つ、頼みたいことがあります」
由衣は涙をこぼしながら、その手に力を込める。
「私の代わりに甲子園に行ってもらえませんか?そして、夫と息子の姿を代わりに見ていただきたいんです。私はもう、行かなければなりません。最初は権利を使って、二人の姿を見に行こうと思っていたんです。でもね、あなたに感謝の気持ちを伝えることこそ、私がすることではないか、そして甲子園に行ってもらうことこそ、あなたへの恩返しになるのではないかと思ったんです。これを頼むために、私は真樹さんにお願いをして、あなたにきていただいたんです」
歩美は言葉に詰まる。「私がそんな図々しいことをしていいのだろうか」という思いに捕らわれたからだ。その思いは由衣に悟られてしまったらしい。
「大丈夫ですよ。妻の私がお願いしているんですから。そして、きっと彼もそう願っているに違いありません」
由衣の視線の先には、号泣して胴上げされる佐原の姿があった。そして、その胸にはあの日、歩美が送ったお守り入りのユニフォームマスコットと、由衣が病床で作ったボールのマスコットがともに宙に浮いていたのだった。
観客はそれでも途切れることなく、続々とスタンドへと入っていく。歩美は球場の入り口でチケットを買う。そして、スタンドへと上がろうとした時、真樹がそこに立っていた。あの女性のバーテンダーも隣に見える。彼女はバーでの姿と違い黒いパンツスーツ姿だ。
「真樹さん、それにバーテンダーさんも」
歩美は車椅子に座りながら上半身だけでお辞儀をした。
「お手伝いしましょう」
真樹は歩美の身体を抱きかかえると、進士も車椅子を持ってスタンドへの階段を上り始める。歩美は少し照れくさくなった。男性に抱きかかえられることなど、これまで無かったからだ。
階段を抜けると、球場は大きな歓声とブラスバンドの演奏に包まれている。
全国高校野球選手権福井大会。その決勝戦だった。
「どうですか。久しぶりに野球を見る感想は」
真樹は歩美が座った車椅子を押して移動しながら問い掛ける。
「ええ、懐かしいです。佐原君の高校最後の試合もここでしたから」
決勝戦は信愛学園と明新。四回表を終わって1―0で明新がリードしている。
「山野様、あなたをここに呼び出したのはどなたか分かりますか?」
「佐原君…ですよね?」
真樹はゆっくりと首を横に振る。
「いえ、それが違うのです」
佐原では無いことに歩美は動揺した。心に思い当たる限り、そのような人物は居なかったからだ。
真樹はグラウンドを眺めながら話し始めた。
「実を言いますと、あの日、条件を満たされたのはあなただけでは無かったんですよ。そう、佐原様もある条件を満たされた。二十年前のあの卒業式の日。佐原様は私どものバーを訪れていました。そして十年後。あなたの導きによって再び、エタニティーに足を踏み入れたあの日。そこで、彼は『マティーニ』を注文されたんです。卒業式の日に注文したのと同じ『マティーニ』を。そのため、佐原様はいつの間にか、条件を満たしてしまっていたんです」
「佐原君が条件を満たしていた?」。歩美は心の中で呟く。とすれば、彼は何を望んだのだろう。
「はい、そして私は改めて佐原様を私どものバーに導いたのです。あなたの意識が、病院のあなたの身体に戻った直後です。佐原様に与えられた権利は、もう一度、あの日に戻ることでした。再びあなたと二人でキャッチボールをしたあの日にです。その時ならまだあなたは目を覚ましていませんでしたから、時間的な余裕はまだありました。ですが彼は…その権利を使いませんでした。恐らく、あなたの選んだ人生を尊重したかったのでは無いでしょうか。あなたは佐原様の家族を気遣い、タイムスリップした先でも行動を起こさなかった。その決断に感謝し、自身が幸せになることこそ、あなたへの恩返しになると、そう考えたのでしょう」
歩美の頬には、いつの間にか汗がしたたり落ちていた。いつぶりだろう。この暑さを感じるのは。歩美は高校時代の自分と、今の自分を重ね合わせ、目を閉じる。球場に再び大きな歓声が沸き起こる。
思わずグラウンドに目をやると、六回の裏に信愛学園が1点を取って追いついた場面だった。ホームインした走者がベンチに戻りながらガッツポーズで喜んでいる。
「それで私をここへ呼んでくれたのは誰なんですか?」
真樹は答えずに歩美の車椅子を押していく。その先に居たのは一人の女性だった。彼女は歩美に向かって頭を下げる。
「初めまして」
歩美も慌ててお辞儀を返す。「初めまして」という言葉通り、その人物に見覚えは無かった。白いワンピース。麦わら帽子の影に隠れて顔はあまり見えないが、自分と同じくらいの年齢に見えた。真樹が彼女を紹介する。
「こちらは佐原様の奥様の由衣様です」
歩美はたじろいだ。そう告げられてどのように反応をしていいかが分からなかったからだ。
「歩美さん、ですよね?」
由衣はにっこりとほほえみかけた。
「どうして…」
歩美は理由が分からなかった。何故、佐原の妻が、私をここに呼び出したのかが。
「突然で申し訳ありません。きっと驚かれたことでしょう。ただ、これが妻としての最後の仕事でしたので」
「最後とはどういうことですか?」
由衣はグラウンドの信愛学園のベンチを眺める。
「歩美さん、お気づきになりましたか?うちの夫がグラウンドに居ることに」
歩美が由衣の視線を辿っていくと、そこには、佐原が居た。メガホンを握りしめ、大声で選手たちに声を掛けている。
「あれは私たちが結婚して七年ほど経った時です。彼の三十二歳の誕生日でした。夜に帰宅した彼は家に上がるなり、いきなり、本当にいきなりですよ、私に土下座したんです。もう、驚きましたよ。それまでの結婚生活でそんなことはおろか、喧嘩すらしたことがなく、平穏に暮らしていましたから。一体、この人は何をやらかしたんだろうと。浮気でもしたのかと最初は恐る恐る聞いていました。そしたら、会社を辞めたいと言い出したんです。『仕事が嫌になったのか?』と聞いても、『そういう訳ではない』と否定しました。彼がそこから話し始めたことは到底信じられない話でした」
歩美は「もしかして、エタニティーのことを?」と言うと、由衣はゆっくりと首を縦に振る。
「そうです。歩美さん、あなたが私たちにしてくれた、あの日の決断のことです。そりゃ、最初聞いた時にはとてもじゃないけれど信じられませんでした。でも、夫はくだらない嘘を付く人ではありません。その言葉を信じるなら、あなたが私の夫と共に歩んでいく人生を選んでいたら、私は別の男性と結婚し、息子の大河は生まれていなかったことになります。そして、夫は言いました。その決断をしてくれたあなたのために、もう一度グラウンドに立ちたいと。夫はそれまで文句の一つもこぼさず私たちのために働いてくれていました。ですから、私に反対する理由はなかったんです。そして、教員免許を取るために大学に通い直し、信愛学園の教師となりました。もっと現役時代に実績のある選手だったならば私立高の監督としてスカウトされることもあるそうですが、夫には輝かしい経歴はありませんでしたから。教員免許を取って教師となることが野球部の監督になる一番の近道だと思ったのでしょう。あの人らしいです」
「私のため…」
グラウンドの佐原の姿は生き生きとしていた。笑っている。選手たちを見ながら、試合を見ながら、嬉しそうに。確かに、歩美にとって佐原がプレーしていた姿は間違いなく輝いていた。でも、小学校から見ていたのは、ずっとベンチから声を送り続けていた姿だった。「そう、どんな形であれ、私は楽しそうにグラウンドに立っている佐原君が好きだったんだ。選手だろうが、監督だろうが、そんなことは関係ない」。そこでようやく、歩美は気付くことができたのだった。
歩美が気付いた時、試合は終盤だった。九回裏二死。スコアは1―1の同点だった。
由衣の視線はグラウンドにのバッターボックスに注がれていた。そして、祈るように両手を組み合わせて目を閉じた。
打席に立った信愛学園の打者はユニフォームの胸の部分をぎゅっと握り、天を仰ぐ。
「頑張れ、頑張れ」
隣に立っていた由衣は不安そうにつぶやき続ける。
「頑張れ、頑張れ、頑張れ」
投手がボールを投げる。バッターはタイミングを合わせてバットを思い切り振り抜いた。打球音に反応してようやく由衣が目を開く。球場はそれまでとは一変して、静寂に包まれた。選手、観客、その場に居た全員が言葉を発することなく、その打球の行方を追っていた。
「お願い、神様」
由衣の言葉に後押しされるように白球は伸びていく。ボールを追いかけていたレフトが、途中で走るのを止めた。左翼スタンドに打球が飛び込む。打者は走りながら大きく飛び跳ね、ガッツポーズをした。そして、右手でいつの間にかあふれ出た涙を拭っている。
歩美はこれまで体感したことのない大歓声を聞いた。そして、大きな拍手が球場に鳴り響く。
「大河、ありがとう。やったね。よく頑張ったね」
由衣は両手で顔を覆った。
「あの選手は…息子さんだったんですね」
歩美はスコアボードのずらりと並ぶ選手名の中から「佐原」と書かれているものがあることにようやく気付いたのだった。
大河はゆっくりとホームベースを踏む。と同時にチームメートが一瞬にして大河を取り囲んだ。試合は信愛学園の勝利で幕を閉じた。と同時に、信愛学園の甲子園初出場が決まった瞬間だった。
「あの子は、約束してくれたんです。実のところ…私は三年前にガンを宣告されまして。まあ、人間はいつか死にますから、それはしょうがないことだと思っています。それは今でもそう思います。その時、病床で大河が言ってくれたんですよ。『お父さんとお母さんを必ず、甲子園に連れて行く』と。夫も三年前に監督に就任してから、仕事と監督業の両立で、寝る間もほとんど無いような状況で、私の看病もしてくれました。大河は中学卒業の時、夫の居る信愛学園に進学すると言い出しました。理由を尋ねると『お父さんと一緒に野球がしたいから』だと。いつしか甲子園は私たち家族の目標になりました。ただ、私はそれを見ることなく、この世を去らなければならなくなりました。さっき、大河がユニフォームの胸の部分を握りましたよね?あれはきっと、私が夫と大河の為に作ったお守りを下に身につけてくれているからだと思います。ボールの形をしたマスコットなんですけどね。入院していた私にできることって、それくらいしかありませんでしたから」
「そうだったんですか」と歩美は表情を曇らせる。だが、由衣の顔に悲壮感はない。
「いえ、そんな顔しないでください。私は歩美さんに感謝しているのです。もし、あなたが私の夫と結婚していたら、私の運命も変わり、ガンにならなかったかもしれません。ですが、私はまったく、まったく後悔していません。半身不随になることを承知しながらも、歩美さんが私たちの家族の幸せを願ってくれたからこそ、私は夫と結婚して大河を授かり、他の誰よりも幸福な人生を歩んでこられたんです。それは…やっぱり、あなたのおかげです」
由衣が歩美の手を取り、握りしめる。
「一つ、頼みたいことがあります」
由衣は涙をこぼしながら、その手に力を込める。
「私の代わりに甲子園に行ってもらえませんか?そして、夫と息子の姿を代わりに見ていただきたいんです。私はもう、行かなければなりません。最初は権利を使って、二人の姿を見に行こうと思っていたんです。でもね、あなたに感謝の気持ちを伝えることこそ、私がすることではないか、そして甲子園に行ってもらうことこそ、あなたへの恩返しになるのではないかと思ったんです。これを頼むために、私は真樹さんにお願いをして、あなたにきていただいたんです」
歩美は言葉に詰まる。「私がそんな図々しいことをしていいのだろうか」という思いに捕らわれたからだ。その思いは由衣に悟られてしまったらしい。
「大丈夫ですよ。妻の私がお願いしているんですから。そして、きっと彼もそう願っているに違いありません」
由衣の視線の先には、号泣して胴上げされる佐原の姿があった。そして、その胸にはあの日、歩美が送ったお守り入りのユニフォームマスコットと、由衣が病床で作ったボールのマスコットがともに宙に浮いていたのだった。
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