櫻花荘に吹く風~201号室の夢~

柚子季杏

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櫻花荘に吹く風~201号室の夢~ (16)

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 春公演の打ち上げの席での事だった。
 劇団員行きつけの安い居酒屋で、無事に上演期間が終わった事を称え合い、今後へ向けての反省点を論じ合う。そういう趣旨での打ち上げでいつもと違っていたのは、池上の入籍を祝うという意味合いも加わっていたという事。

「えーっと……ま、そういう事で! 年内にはオヤジになりまっす!」
 団長からの紹介の後で、飛び交う野次の中照れ臭そうに報告を済ませた池上を、僕はほんの少しの切なさと共に見ていた。
 以前のように胸が痛くなるような感情は湧いてこなかったけれど、それでも一度は『好き』だと思った人だから。幸せになってもらいたいと思う気持ちの片隅に、伝える事さえ出来なかった恋心の名残を感じて、本当に少しだけ、切なかった。
 宴も開始から三十分ほどが過ぎれば、始めはひとつの集団だった団員達も、酔いに乗じて数組の小さなグループに分かれていく。
 熱く演劇論を交わす人もいれば、バイトの愚痴で盛り上がる人もいた。そして今回は、池上を中心とした恋愛話に盛り上がる人達も。
 一番下っ端の僕はと言えば、各集団の追加注文に走り回る。それぞれの話に少しずつ加わって、それなりに有意義な時間を過ごしていたのだけれど。
「昌樹っ、飲んでるか?」
「飲んでますよ、ほら」
 注文もひと段落着いて、ようやく落ち着いて腰を下ろした時だった。
 乾杯から既に1時間。皆からの祝杯を飲み交わし続け、良い具合に酔いが回ったらしい池上が輪から抜け出し、隅の方に腰を落ち着けた僕の隣へとやって来た。
 あまり酒が強くない僕は、乾杯のビールをグラスに半分飲んだ後、薄いカクテルへと逃げていた。ビールや焼酎、日本酒の類でなければ、注ぎ足される事が無いからという自衛策。
 まだ1/3ほどしか減っていないグラスを掲げて見せれば、満足気に頷いた池上が、注ぎ足せとばかりに自分のジョッキを差し出してくる。
 普段節制した生活を送っている団員達は、たまの宴席では本当に良く飲む。
 池上も例外ではない。一緒の部屋で寝起きさせてもらった数ヶ月、部屋で酒を飲んだのは数える程度だったけれど、飲み会が始まればここぞとばかりに飲みまくる。飲み放題料金の元を取らねばという考えが、皆共通の認識なのだろう。
「大丈夫ですか? 結構飲まされたんじゃないんですか?」
「いーから注げってば」
 少し目が据わり掛けているような気がしたけれど、拗ねたように言う池上の思い掛けない可愛い姿に、僕は苦笑を浮かべながらテーブルの上のピッチャーへと手を伸ばした。
「ご結婚、おめでとうございます」
「……なんだよ、改まって」
「いえ、折角なんで言っておこうかと思って。どうですか? 新婚生活、楽しんでます?」
 池上の顔を直視は出来なかったけれど、ジョッキへとビールを注ぎながら、僕もどうにかお祝いの言葉を述べる事が出来た。
 報告を受けた時には、伝える事がすごく辛かった言葉だったのに、今こうして口に出しても、あの時ほどの辛さは感じなかった。
「――俺の事より、お前はどうなんだよ…上手くやってけてんのか?」
「はい。皆本当に良い人たちばっかりなんです。管理人さんのご飯も美味しいし」
「ふーん……」
 僕は何か拙い事を言ってしまったのだろうか。さっきまで上機嫌だったはずの池上の顔から、笑顔が消えた。周囲では相変わらずの喧騒が続く中、僕たちの周囲だけが静けさを感じさせた。

 以前なら二人きりで話が出来ただけでも嬉しくて、彼の瞳に自分の姿が映っている事を幸せに思えたのに。妙な気まずさにちびちびとグラスを傾ける事しか出来なかった。
「なあ昌樹――」
「っ、何ですか?」
「……吐く……」
「ちょっ、駄目です! ここじゃ駄目!」
 沈黙を破った池上の呼ぶ声に顔を向ければ、俯いた彼が口元を片手で覆っていた。
 片手に持ったままになっていたジョッキを奪い取り、肩を貸しながらトイレへと向う。よほど具合が悪いのか、池上は俯いたままふら付く足取りで僕へと体重を預けて歩き出す。
「どんだけ飲んだんですか? 大丈夫ですか?」
「う、ぅ――――」
「もうちょっとですから我慢して下さいね!」
 掛ける声にも僅かな頷きと意味不明な言葉が返ってくるばかりで焦る。劇団に入るまで特にサークル等にも所属していなかった僕は、飲み会そのものが不慣れだから、こういう時どうして良いのか分からなくて本当に対処に困るのだ。
「池上さん、トイレッ、トイレに着きましたよ……ッ!」
「――――」
 自分よりも大きな身体を抱えるようにしながら、トイレの個室へと入った瞬間だった。
 それまで肩に掛かっていた池上の体重が、不意に消えた。
 突然の事に、足に力を入れていた僕は力を抜くタイミングが掴めずに前のめりになってしまう。慌てて便器のタンクにつかまり身を支えた僕の後ろで、個室のドアが閉まった。
「……ぇ? 池上、さ……」
「昌樹……」
「っ、ちょ、え? 何?」
 振り向こうとした僕の腰を抱くように、背後から池上が抱き付いてくる。驚きに固まる耳元で、アルコールの匂いのする囁きが聞こえた。
「い、池上さん? 具合悪いんじゃ……」
「あの位で酔うわけ無いだろ?」
「え?」
 続いて聞こえて来た言葉に、耳を疑った。
 だってついさっきまで、本当に具合が悪そうで。今にも床にしゃがみ込みそうな池上を、必死に支えて連れて来たというのに。
「お前、忘れてる? 俺さあ、これでも犀【SAI】の看板役者だぜ?」
 その言葉に、動揺する頭の中で導き出された答え。
「ッ……え、演技だったんですか? どうして――」
「どうして? お前が最近冷たいからさあ」
 すっかり騙されたという事に腹を立てるよりも、池上が何を言っているのかが分からなくて気ばかりが焦る。
 僕の肩口に額を押し付けながら、池上が腰に回したままの腕に、力を籠めた。
「冷たいって……別に普通ですよ? ってか、池上さん? 手、放して下さい」
「ヤダ……」
「ヤダって……池上さん、やっぱり酔って………」
「酔ってないよ」
 池上の言動に戸惑いばかりが増していく。甘えた仕草で額をぐりぐりと押し付けながら、拗ねた口調で池上は言葉を続けた。
「お前さあ、全然俺に頼ってきてくれないし、出て行ったきり遊びにも来ないしさあ……何なの? そんなにそこの下宿って住み心地良いわけ?」
「だ、だって新婚さんのお宅に、そんなにしょっ中出入りしちゃ迷惑じゃないですか。それに奥さん、お腹に赤ちゃんいるんだし、気を遣わせちゃ悪い――」
「――好きな奴でも出来たのか?」
「は? 池上さん、ねぇ、本当にどうしたんですか? 変ですよ?」
 何が何だか訳が分からない。
 背中に感じる池上の体温、抱き締められて間近に香る池上の匂い。以前なら嬉しいと思っていただろう状況が、辛かった。
「……変か……そうかもな……」
 四方を壁に囲まれた半密室空間の中、緊張に身を強張らせる僕の耳元で、池上が自嘲気味に呟いた。
「なあ昌樹、キスしようぜ?」
「池上さん絶対酔ってますって! 戻ってソフトドリンク頼みましょ? ね?」
「酔ってないって言ってるだろ? 何だよ、嫌なのか?」
「嫌っていうか……ちょっ、ヤメ――ッ!」
 伸びて来た池上の手に頤を掴まれ、首を捻るような形で後ろを向かされた。間近に迫った彼の瞳は暗く淀んでいて、その奥に揺らめく悲しさを携えた焔に眉を顰めれば、アルコールの匂いが漂う吐息が僕の唇を擽った。
「――ッ痛、ぅ……」
 目の前から池上の身体が消えた。
 正確には、大きな音を立てて扉へとぶつかった池上の身体が、扉に沿いながら床へと沈み込んでいったのだった。
 近付いてくる池上の唇から逃げようと身を捩るうちに、勢いが余って池上の身体を思い切り突き飛ばしてしまったらしい。
「……い、池上さん? 大丈夫ですか?」
「何だよ…くそっ、何だよ……昌樹は俺の事認めてくれてんだよな?」
「え?」
「お前俺の事好きなんだろ? くそっ、くそっ! あいつじゃなくて、お前を選んどきゃ良かったんだ……っくしょ……」

(――バレてた……?)
 全身から血の気が引いて行く音が聞こえた気がした。
 隠して来たつもりだったのに、気付かれないようにと注意してきたつもりだったのに。
「何言ってるんですか……僕は、別にそんな……池上さんの事は先輩として尊敬してるし、役者としてもファンですけど、そんな――」
「……じゃあなんで、俺にキスした?」
「ッ!」
 僕はきっと、表情から色を失くしていた事だろう。言い訳すら思い付かずに、目を見開いたままぎこちなく、頭を振る事しか出来なかった。


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