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櫻花荘に吹く風~201号室の夢~ (23)
しおりを挟む慌てる僕の手から布巾を奪い取った観月さんが、苦笑交じりにロッカー室を指差す。何度も頭を下げながら着替えに走り、自分の駄目さ加減に落ち込んでしまう。
「しっかりしろよ……仕事中だろ?」
誰もいないロッカー室での呟きが、虚しく響く。
再び口を吐いて出そうな溜息をどうにか飲み込み、急いで私服へと着替えて表に出る。
「観月さん、すみませんっ」
「んー……じゃ、帰るか」
厨房へ戻れば、既に全てを終えた観月さんが手持ち無沙汰に携帯を弄りながら、僕が戻って来るのを待ってくれていた。恐縮する僕の頭を軽く小突いて先を行く彼の後を、小走りに追い駆ける。
「お前さあ、何か悩んでんの?」
「え?」
本当に、見てないようでいて、周りの事をきちんと見ている人だ。それでいて驕ったところが無い、裏表の無い人だから、皆から慕われるんだろう。
「言って楽になるような事なら、話くらい聞いてやるぞ? 飲んで帰るか?」
「あ、いや……」
「ってか俺が飲みたい気分だな――行くぞ」
「観月さ――」
僕が気を遣わなくて良いように、強引に話を纏めた観月さんが歩く方向を変えた。
こういう人だからこそこの若さでお店を任されているのだろうと、同じ店で働かせてもらって、彼のすごさが身に染みて分かった。
強い人だな、と思う。僕にも観月さんのような強さを持つ事が、出来るだろうか。小さいけれど大きい背中を見つめながら、ぼんやりとそんな事を思った。
観月さんに連れて来られたのは、僕が劇団の仲間達と行くような、チェーン展開している安い居酒屋ではなく、お洒落な雰囲気のお店だった。かといって高級過ぎると感じるほどの敷居の高さは感じさせない、落ち着いた店。
一つ一つのテーブルがちょっとした個室風の造りになっていて、会話の邪魔にはならないけれど、隣の声は聞こえない程度の音楽が掛かる店内。
「み、観月さん……」
「何? 俺ビールにしようかなー」
「ここ、高くないですか? 僕今日、あんまりお金持って来てないんですけど」
飲み屋なんて、劇団の人達と行きつけの場所にしか行った事の無い僕は、店が違うというだけで緊張してしまう。
ましてこんな洒落たお店になんて、飲みに来たのは初の経験だった。
「そんなに高く無いから心配すんな。第一俺が飲みたくて誘ったんだから、俺が奢るし」
「そんなっ、そんなの悪いです!」
「何だあ? 俺に奢られる酒は飲めないって言う気か?」
「いえっ、そんなつもりじゃ」
「じゃあ問題無いな、お前何にする? 店員呼ぶから早く決めろ」
おどおどと落ち着かない僕を急かしながら、言葉通りに店員を呼ぶ観月さんの様子に、僕も慌ててメニューを開いた。
ドリンクのページの目を走らせると、いつもの居酒屋で頼むカクテルと同じ名前が目に入り、少しだけ安心する。けれどその脇に表示された値段は、いつもの倍近い金額で驚いてしまう。
「生ビールひとつとモスコミュールひとつ」
慣れた調子でオーダーを通す観月さんを見ながら、黙って奢られるのもやっぱり悪いと、こっそり財布を取り出した。けれど財布の中には案の定、微々たる金額しか入っていなかった。
こんな事ならお金を補充して来れば良かったと、こっそり溜息を吐き出す。とは言っても、給料日前の口座には、残っている金額も少ないのだけれど。
以前のバイト先と比べれば、かなり多くの金額を貰っているのは分かっている。
もちろんそれだけバイトの時間も増えてはいるのだけれど、時給の差でこんなにも違うものなのかと、最初のお給料を貰った時にはかなり驚いた。
大学を辞めるまでは、アルバイトなんてした事が無かったから、お弁当屋で働いていた時には不満なんて感じなかったのだ。今となって思い返せば、時給ひとつを取ってみても、それだけで経営が逼迫していた事が読み取れる。
「何財布なんて眺めてんだよ」
「あの……千円くらいなら払えますから」
「昌樹、俺はお前のなんだ?」
「え? えっと、上司で、大家さん、です」
恐る恐る切り出した僕に対する、観月さんからの切り替えし。
首を捻りながら答えれば、どうやら僕の答えは正解だったらしい。うんうん、と頷いた観月さんに、腕組みをした姿勢で、じろりと視線を投げ掛けられる。
「少なくとも俺は、お前より高給取りだ。あんまり遠慮されんのも気分良くないぞ?」
「あ――すみません。それじゃあ、お言葉に甘えます」
「よし!」
今度の答えも意に沿ったものだったようで。一つ大きく首肯した観月さんが、満足気な表情を浮かべた。
初対面ではすごく厳しい印象だった観月さんだけれど、一緒の時間を過ごす事が多くなるにつれて、少しずつ僕に対する態度も変わっていった。今では昔からの知り合いのように接してくれるし、今日のように、何かに付けて僕の事を気に掛けてくれる。
『春海ともちょっと違うんだけど……お前も何か、放っておけねえんだよな』
観月さん曰く、それが僕に対する印象らしい。バイト代も踏み倒されて、行き倒れていた僕を知っているからなのか、世間知らずの危なっかしさがあると言われれば、反論の言葉すら思い付かない。
本当に、櫻花荘で暮らす人は、皆良い人達ばかりだと、つくづく思う。あの日桜に誘われてあの場所に辿り着いた自分は幸せ者だと、心から思う。
「で? 仕事も手に付かなくなるくらい、何を悩んでんだ?」
運ばれて来たグラスを掲げ、乾杯の真似事をして口を付けた時だった。オブラートに包むような事もせず、直球で聞いてくるのが観月さんらしい。
安い居酒屋では味わえない味の酒に咽そうになりながら、口に含んだ分はと必死で飲み下す。
「いえ、別に……」
「嘘吐くなよ? お前が仕事に真面目なのは、雇った俺が一番良く知ってるんだ。その俺が見ていて、ここのところおかしいって感じてるんだから、何かあるんだろ?」
「観月さん――」
本当に、周囲をよく見ている人だ。
僕の様子がおかしかったことにも、少し前から気付かれていたなんて。
「何があったんだ? 金か? 女か?」
「ちょっ、酷いですよ、僕にはそれしか無いんですか?」
「……るっせえな。男が悩む事なんて大抵そのどっちかだろうが」
至極真剣な表情を浮かべて、僕へと向かって身を乗り出して来る観月さんに、思わず笑ってしまう。
読みが外れたかと、多少気まずそうに視線を外した観月さんが、唇を突き出す。
(観月さんって、可愛いかも……)
本人に言ったら怒られそうだから、決して口には出せないけれど。
立場上もあるからか、警戒心は強い方だと思う観月さんが、心を許した相手に対しては、素直で表情豊かになる。裏表無く接してくれるその態度が、僕に対してもそうであるという事が、とても嬉しい。
「じゃあ何で最近集中力に欠けてるんだ? 何も無いなら、ああはならないだろ?」
「えぇ、と……それは……劇団の事で、ちょっと」
「劇団?」
「そうです、そうなんです」
どうしようかと悩みながら、口から零れたのはそんな言葉だった。それに対して観月さんが反応を示してくれたことに、これ幸いとばかりに勢いを付けて頷きを返す。
疑いの眼差しを向けてくる観月さんを前にして、僕は必死で言葉を紡いだ。
「その……今は僕、キャストとして舞台に立ってるんですけど、最近、裏方の方に興味が出て来ちゃって」
「裏方っていうと、大道具とか?」
「違います、違います! あんな力仕事は僕には無理です!」
「だよな」
「ぅ…………」
まあ確かに、裏方と言って一番に思い付くのは、そういった仕事だよな。慌てて否定した僕に、あっさり肯定の意を返されるのも、ちょっと寂しい気がするけれど。
「観月さんのところで働かせて貰うようになって、少し余裕が出来た分、最近は他の劇団のお芝居も見れるようになったんです。それで……色々見て歩いているうちに脚本を書いてみたいって、思うようになって」
「脚本かあ……あれ、でも確か、お前のところの脚本って――」
「団長がほぼ毎回書き下ろしてます。以前の脚本に手を加えての再演とかもあるんですけど、外部に依頼したりっていうのは、極稀で……」
「なるほどな、団長に気兼ねして言い出せないか」
ズバリと言い当てられて、思わず俯いてしまう。
団長の書く脚本にケチをつけるつもりは毛頭ないけれど、自分の書いた脚本で演者が動く姿を見てみたい。その為の勉強もしてみたいけれど、無理を言って劇団に籍を置かせてもらったことを思えば言い出し辛いのも確かだった。
「良くんにも、話の流れで相談してみた事があるんですけど――」
「へぇ、良太は何て?」
「やりたいならやってみろって、僕が本気でやりたいなら応援するって言ってくれて……だけど、入団して一年やそこらでこんな事思っちゃいけないとか、色々考えちゃって」
良くんとの事も、もちろん悩みの種ではあるのだけれど、実はもうひとつの大きな悩みが、これだった。
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