キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (10)

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 親戚の中では浮いた存在だった康之だったけれど、しっかりと目標を持って仕事に取り組み、こうして今では経営者として敏腕を奮っている。今現在の自分自身と比べ見れば、内海は己の置かれた状況に自嘲するしかなかった。

 内海と会わずにいた数年の間に、康之はこうして自分の店を持つまでになった。橘川もまた、就職して自分の道を歩んでいる。
 それに比べて自分はどうだ?
 仕事も辞めて先行きは見えず、好きだという気持ちを抱えたまま、橘川への想いを残したまま、二人で暮らした部屋を出てきた。
 橘川に、何も告げることなく。

「何かあったのか?」
「……別に――っひゃ、ひひゃいっ!」
 俯き薄く微笑む内海の両頬を、伸びて来た手で思い切り抓まれる。突然降って来た刺激に驚き涙目になる内海を見た康之が、抓んでいた手をパーの形に変えて、仕上げとばかりに内海の頬を両側からぱちんと叩いた。
「くくっ、すげえ変顔」
「……康兄のせいじゃん」
「で、何があった? 聞くだけ聞いてやるから話してみろ」
 不細工になった内海の顔を見て喉奥で笑いつつ、康之が同じ質問を繰り返す。やっと放してもらえた頬を擦りながら恨めしげな視線を送る内海に対し、康之の瞳に真摯な色が乗せられた。
「可愛い従兄弟が不景気な面晒してんじゃ、俺も夢見が悪いだろ?」
「康兄……だって、仕事中だろ……」
「俺の客はさっき見送ったので終わりだ。そもそもオーナーがそうそう接客に回ってたら、他のヤツらの稼ぎが無くなるだろ」
 先ほど外に出ていたのは、ホスト時代の客が帰るのを見送っていたからだと言って肩を竦める康之に、内海は少しばかり安堵した。自分のせいで仕事の邪魔をしていたのだとしたら申し訳無さ過ぎる。
「ほら、康兄ちゃんに話してみろよ」
「……話すって言っても、何から話せば良いのか……」
 遠くから潮騒のように聞こえてくる店の音に背中を押されて、内海は先ほど康之と再会するまでの出来事を、ぽつりぽつりと語り始めた。



 橘川と内海が新生活を送ることに決めた物件は、駅から少し離れた場所に立つ、古い五階建てのマンションだった。
 共に稼ぎ始めたとは言っても、そこは新入社員。月に二人の手元に入る給料を考えれば、贅沢な部屋には住めるはずも無い。
 無理をして良い部屋を借りても、それによって生活が困窮したのでは楽しく暮らしていくことは出来ない。

「どうだ? 物件は古いし、駅からもちょっと遠いけど……暮らすには静かだし良い環境だと思うんだけど」
「……うん、良いんじゃないか」
 結局ギリギリまで職の決まらなかった内海が、卒業論文に追われながら就職活動に勤しんでいる間に、そうそうに卒論を提出し終えた橘川が一人で不動産屋廻りをしてくれていた。
 卒業すれば一緒に暮らせる。毎日顔を見て挨拶を交わし、キスをして、抱き合って眠ることが出来る。
 決まらない就職に腐りそうになった時にも、その目標があったから頑張れたのだろうと内海は思う。
 橘川がもらって来る間取りの用紙を飽きることなく二人で眺めた。この部屋にはこんなレイアウトで家具を置こうだとか、この場所なら近くにどんな店があるだとか、そんな他愛も無い会話を交わす日々は、内海にとって本当に幸せだった。

 その日何軒目かになる下見に訪れたマンションは、外観は確かに古臭さを感じたけれど、中は綺麗にリフォームも施されていて、二人で暮らすには十分な広さがある部屋だった。
 駅から離れているだけではなく、マンション前の坂道が人気を下げているのだと、2DKという広さの割りには家賃もさほど高くは無かった。
 それに内海は、その坂が気に入った。坂の上に建っているからか、大きめに取られた窓からの展望も良く、何より緩やかな坂道を一歩一歩踏みしめて進む毎に、幸せへと近付けるような気がして。
 時期的にもそろそろ場所を決めなければとの焦りも感じ始めていた頃だった。小さな会社に勤めることになった内海とは違って、この後研修だなんだと忙しくなるだろう橘川には、引越しの時間も取れなくなってしまう可能性があったのだ。
 血の繋がりの無い男同士の同居というのは、部屋を汚される等の心配もあるからなのか、賃貸での住居を探すのはあまり簡単なことではないらしい。
 橘川が何件も不動産会社を訪ね歩いて見付けてきたこの物件は、内海にとっても不満は感じなかった。横から感じる窺う視線に頷きを返せば、橘川がホッとしたような笑みを浮かべて、ちらりと内海を見遣る。
「じゃあ、ここで決まりだな……春からよろしく」
「こちらこそ」
 物件へと案内してくれた不動産屋の方の目を気にして、その場では言い訳としていたルームシェアを装い、握手を交わしただけだったけれど、いよいよここから二人の生活が始まるのだと互いに胸を躍らせていた。

 そうして始まった新生活は、慣れない社会人生活に戸惑いながらも、充実した楽しい時間だった。
 内海が勤め始めたのは、駅前にあるギフト用品を扱う会社だった。橘川と違って電車を使う必要も無い場所にある為、通勤時間も帰宅時間も橘川とはずれる。
 現在経理を担当している女性が、当初は結婚を機に辞めるということで募集を掛けたのだという。けれどやっとのことで辿り着いた面接会場で聞かされたのは、予想外の言葉だった。
『実は子供が出来るまではやっぱり働かせて欲しいと言われてね……折角募集も掛けた事だし、人手が足りないというのも本当なんだよ。どうだろう、君さえ良ければなんだが、営業として勤める気はあるかい?』
 求めていた経理の職に就くことが出来るかもしれないと思っていただけに、社長からの言葉に内心では軽くショックを受けた。
『まあ採用は営業としてだけれど、そのうちに経理業務の方に回ってもらう事になるとは思うんだけどねえ』
 一瞬の躊躇いを見透かされたのか、そんな言葉を与えられたことで背中を押された。橘川と始める新しい生活が間近に迫っていたことも、内海の決断を後押しした。
 願った職では無いけれど、可能性が断たれたわけでもない。まして両手両足を使っても足りないほど試験を受けて来た身にとっては、喉から手が出るほど欲しい働き口だ。
 頭を下げた内海は、こうして春から営業として働き始めた。

 10時から19時までの勤務時間。
 営業と言ってもやる事は雑務が主だった。仲介店のような形を取るギフトセンターだけに、与えられる仕事と言えば取引先のホテルや施設への商品の納入やカタログの配送が主で、その序でに新規開拓が出来れば儲け物といった程度。
 展示販売を行なう店舗兼事務所には、経理の女性とフロアに立つパートの女性が二人。面接をしてくれた社長はそれなりの歳で、力仕事がそろそろ堪えるのだと、もっぱら店内での仕事に携わっていた。
 内海と同じような業務を担当する社員は社長の息子一人だった事もあって、内海は使える人員として歓迎された。
 内海もまた、それなりにやる気を持って仕事に打ち込む日々に、少しずつ充実感を感じるようになっていった。

「ただいまあ……まだ帰ってない、っと」
 基本的に内海には早出はあっても残業は無い。余程の理由が無い限り、どんなに早くても帰宅が20時を回る橘川と違って、家の明かりを灯すのは内海の役割だった。
 元々マメに自炊をしていたこともあって、家事をこなすことはさして苦にもならない。そうなれば自然に、家の事は内海が受け持つ割合が高くなる。
 働くと言ってもバイトだった大学生時代とは違い、疲れもそれなりに感じてはいたけれど、辛いと感じた事は一度も無かった。
 内海にとってはそれすらも嬉しかったのだ。
 自分には一生有り得ないと思っていた、想う相手との暮らし。相手の為に何かが出来ることが嬉しくて。自分のしたことを喜んでもらえれば、それが自分の喜びにも繋がった。

 朝目覚めれば隣には愛する人が無防備な顔を見せて寝ている。
 おはようとおやすみの言葉と共にくちづけを交わし、ただいまと抱き締め合い、おやすみと微笑み合える。

 幸せ過ぎる毎日が、内海には空恐ろしく感じるほどだった。



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