キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (16)

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 ぞわりと、一気に鳥肌が立つ。
 密着した部分から伝わる身に覚えのある感触は、彼が興奮を兆している証拠だろう。
「あれからずっと男同士ってどんなもんなのか気になっててさあ。一回試させろよ」
「なっ、ちょっと、止めて下さ……」
「お前もさあ、ばらされたら困るんじゃねえの? 会社にも居辛くなるだろうし?」
 脅迫のつもりなのだろうか。
 会社に居辛く? それは自分の方じゃないのだろうか。
 奥さんがいながら、ましてお腹には二人目の赤ちゃんがいるっていうのに、社員でありしかも男に手を出したなんてばれたら、立場が悪くなるのはどちらなのか。
「奥さんに言いつけますよ!」
「言ってみろよ……お前に無理矢理唆されたって言い訳してやる」
「なっ……」
「夫とお前、どっちを信じるかなんて目に見えてるだろ? 子供二人も作ってんだぜ? 俺がわざわざ男に手を出すなんて、誰が信じるんだよ」
 腹立ち紛れに叫べば、何のことは無いと笑いながらの言葉が返ってくる。余りの言い様に愕然とする内海の尻に、固い感触が触れた。
「は……内海……お前すげえ腰細いな」
「やめ……放せ、よっ」
「尻もこんな小さくて……ここに男のモノを銜え込んでるんだろ? マジで入んのか?」
「止せ、ってば!」
 背後で息を荒くしている男の耳に、内海の静止を求める声は聞こえないのだろうか。服の上からでもハッキリと分かるほどに育った怒張を、割れ目に押し付けながら擬似セックスのように腰を揺り動かしてくる。
 圧し掛かってくる身体を何とか振り切りたいと焦る内海に構うことなく、片手で器用にシャツを引き出した元晴は、もう一方の手を内海の中心へと伸ばしてきた。
「触んなっ、ヤダ、止め――」
「何だよ、少しはでかくしろよ。萎えたまんまじゃねえか」
「っ……」
 首筋に掛かる息が気持ち悪い。
 素肌に触れてくる手の感触が気持ち悪い。
 敏感な場所を揉み込む動きが、後ろに感じる猛ったモノの体温が、気持ち悪かった。
「内海……内海……」
 身を捩ろうとしても、圧し掛かられた状態では上手く力も使えない。それも急所を弄ばれている状況で下手に逆らえば、どんな仕打ちが返されるか分かったものでは無かった。

 明らかに興奮を示す元晴の舌が内海の首筋を辿るように舐め上げ、シャツで隠れるとは到底思えない場所がチクリと痛んだ。
「ッ!」
「へへ……悪い悪い」
 吸い上げられた場所に再びねっとりと舌を這わされ、全身が総毛立つ気がした。橘川に攻められる時には性感帯として身悶えるほど気持ちが良いのに、今は吐き気がするほど気色悪いだけだった。
「ま、待って……」
「何だよ?」
「その、この体勢じゃ、俺が触って上げられないじゃないですか」
「あ?」
「どうせやるなら、ちゃんとお互い気持ちよくなりましょうよ」
 何を言っても退く気が無さそうな元晴への、最後の賭けだった。「ね?」と引き攣りながらも微笑んだ内海が、苦しい体勢を捻って自分に圧し掛かる男へと顔を向ける。
 襲い掛からんばかりにぎらつく元晴の表情が目に入り、怯みながらも内海はわざと誘うように唇を舐めて見せた。
「これじゃ、キスも出来ないし……」
「……そ、そうだな」
 元晴の喉がコクリと鳴ったのが分かる。欲に支配された男はいそいそと内海を抑え付けていた身体を離し、猛った場所を苦しさから開放すべく両手を自分の下肢へと向けた。
 その瞬間を、一瞬の隙が出来る瞬間を待っていた。
「ぅわっ! ってぇ……お、前……何……」
「はぁ、は……ふざけんなっ! こんな会社辞めてやるよ!」
 向き合う形になった瞬間、内海は思い切り膝を蹴り上げた。
 クリーンヒットで決まった場所の痛さは、同じ男だから十二分に理解出来るけれど、同情の余地など一欠けらも無い。蹲りながら唸る元晴を放置して、内海は引っ手繰るように荷物を手に取り事務所を飛び出した。


 乱れた服を直す余裕など、その時の内海には無かった。がむしゃらに足を動かし続け、人気の無い路地に駆け込んだところでようやく足を止める。
「追っては……来て、無いよな……」
 数年ぶりの全力疾走に、心臓が口から飛び出しそうなほどに音を立てている。
 通りからは見えないだろう積み上げられた酒瓶ケースの陰に身を隠し、内海は崩れ落ちるようにへたり込んだ。
「……マジかよ」
 膝を蹴り上げた時の嫌な感触を思い出し、足をゴシゴシと擦る。こんな所に隠れて何をやっているんだと思えば、情けなさに涙も滲んでくる。

 橘川への想いを紛らわす為に、確かに違う男と寝た覚えはあった。回数こそ多くは無いけれど、それなりにそういうホテルを利用した経験も。
 けれどまさか数年も経過した今になって、その頃の事を蒸し返されるだなんて思ってもいなかった。それも会社の同僚に。
「悦郎に迷惑、掛かんなきゃ良いけど……」
 暫らくの間路地裏にしゃがみ込んでいた内海は、背広の内側で震える携帯に気付いて顔を上げた。
『今日は飲み会でもあったのか? 明日から出張が入った。先に寝る。飲み過ぎるなよ』
 的を外したメールの内容に、内海の顔に小さな笑みが浮かんだ。
 放心している間に、どうやら長い時間この場所に隠れていたらしい。
「出張か……何かもう、疲れたな……」
 橘川の言葉が本当なのか嘘なのか、そんなことを考えることすら嫌になっていた。
 一年近く耐え抜いてきたストレスが弾けてしまった今、張り詰めていたものが一気に霧散していくような虚脱感を感じる。
「迷惑だけは、掛かんないようにしなきゃ」
 全力疾走で重くなった足を引き摺りながらコンビニに寄り、便箋と封筒、切手を購入する。その足で向かった先は、二人で暮らす部屋ではなく24時間営業のファーストフード店だった。

 熱いコーヒーで身体を温めながら、辞表を書く。
 折角やりたかった仕事を任されるようになったばかりでこんなことになるのは、正直ものすごく悔しいし、中途半端な形で幕引きをするのは忍びなかったけれど。
(こうするしか、無いもんな……)
 仕事はまた探せば良い。
 言い聞かせながら書き終えた封筒を鞄へと仕舞い込み、次いで内海は携帯を開いた。
『先ほどのことは誰にも言いません。会社も辞めて引っ越しますので、これ以上俺には係わらないで下さい』
 連絡なんてしたくも無かったけれど、下手に逆恨みされても困る。
 自分だけが傷付くなら我慢も出来るだろうことも、橘川まで巻き込まれたりしたらと思えば、釘のひとつくらいは刺しておかねばと思ったのだ。
 打ち込んだメールを送信し終えると、内海は会社関係からの着信も受信も拒否に設定し直した。後は帰り際、鞄に忍ばせた封筒をポストに投函すれば、全ては終わりだ。退職に係わる書類は全て、実家宛に郵送してくれるよう書き記してある。
「引越し、か――」
 すっかり冷めて苦さばかりが残るコーヒーを啜りながら、溜息が漏れる。
 本当に引っ越そうとは思っていなかった。橘川に飛び火が及ばないための方便のつもりで書いた文章が、頭の中で何度も流れていく。
「悦郎……」
 既に日付が変わろうとしている時間になって、内海はやっと重い腰を上げたのだった。


 帰宅した部屋は既に照明が絞られ、ベッドでは橘川が寝息を立てていた。その事にホッとして、同じくらい、その事に泣きたくなった。

 元晴に触れられた気色の悪い空気を纏っていたくはなくて、身に付けていた全てを脱ぎ捨て、熱いシャワーを頭から浴びる。
 鏡に映った自分の首筋に赤い痕が残されていることに吐きたくなりながら、必死に身体中を洗い流した。
 髪を乾かすのもそこそこにベッドへと潜り込んだ内海は、背中を向けて眠る橘川へと、そっと縋り付いた。身に降りかかった全ての事を、馴染んだ愛おしい温もりによって払拭させて欲しかった。
 けれど触れ合った箇所から伝わる温もりが内海を振り向いてくれることは無く、目の前の広い背が、こんな事態を引き起こすまでに至った自分を拒絶しているような、そんな被害妄想にすら駆られてしまう。
(朝になったら、全部話そう……セクハラされてたことも、会社を辞めた事も……ずっと、寂しかった事も)
 温かな背に額を押し付けて瞳を閉じても、その日の内海に眠りは訪れてくれなかった。


「やべえ、寝坊した! 遅れる!」
「え、悦郎? 飯は?」
「ごめん、食ってる暇無い」
 翌朝、殆ど眠りに付けないまま朝を迎えた内海は、朝食の準備を整えたリビング代わりのダイニングスペースで、橘川が起きてくるのを待っていた。何からどう話せば良いのかと逡巡しながら、何度目になるか分からない溜息を吐き掛けた時、寝室から橘川が慌ただしく飛び出してくる。
 シャツに袖を通しながら洗面所へと向かう橘川は、内海をまともに見てもくれなかった。


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