キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (33)

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 両膝の上に腕を置いて指を組み合わせた橘川は、祈るような姿勢で目頭を押さえながら、情けなく歪んでいるだろう顔を隠した。
 瞳の奥が痛かった。
 震える呼気を堪えながら、ゆっくりと息を吐き出す。
「……どうした?」
「いや……仕事の話は、終わりにしても良いか?」
「っ――」
 橘川の態度を不審に思ったのだろう内海が、そっと気遣う声を掛けてくる。顔を上げて目の前の男を見つめれば、返す言葉に詰まりながらも頷きが返された。
「……ここには、いつから?」
「8年前……実家にも戻り辛くて、暫らくホテル暮らしをしてたんだ」
 テーブルの上に広げていた資料を片付けながら、内海が訥々と質問に答えてくれる。

 この店のすぐ側に、行きつけのバーがあること。
 客の一人に絡まれていたところを助けてくれたのが、偶然にも幼い頃から自分を可愛がってくれていた従兄弟の康之であったこと。
 住むところも仕事も康之の世話になったこと。今では康之の店に関する経理全般を任されていること。
 途切れ途切れに語られる離れていた間の話を、橘川は頷く程度の相槌を交えるだけにしながら、静かに聞いていた。

 大まかな流れだけの説明であったし、そこに内海自身の感情については一切触れられてはいなかったけれど、きちんと自分の居場所を築き上げて来たことが話しぶりから窺い知れた。
「ウッチーって、呼ばれてるのか?」
「あ、あれは北斗だけ、っていうか……その、覚えてない?」
 店のスタッフに慕われているんだなと呟いた橘川に、少し困ったように眉を寄せた内海が、ちらりと橘川を見た。
「大学時代に行った児童養護施設……あそこに、どうしようもなく荒れてた、中学生くらいの男の子がいただろ?」
「養護施設? ……ああ、言われて見れば、そんなのがいたような気もするけど――って、え? あいつが? その時の?」
「そう……偶然ここの新人ホストで入ってきて、俺もビックリしたんだ。北斗はすぐに俺だって気付いたみたいだけど、俺は言われるまでちっとも気付かなかった」
「世間は、狭いな――」
 顔は笑っているのに瞳は笑っていなくて、年下だと分かるのに一瞬気圧された先ほどのことを思えば、なるほどと納得がいく。
 橘川がその施設へボランティアに訪れたのは多くて二回ほどだったけれど、内海は学生時代からずっと、それこそ社会人になってからも月に一度は訪問していたことを覚えている。
 北斗が橘川の顔を覚えていないのも、橘川があの施設出身の悪ガキだったと気付かなかったのも仕方が無いことだろう。橘川が彼を見掛けたのはまだ中学生の頃、それも横顔や後姿を遠目で見掛けただけだったのだから。
「本当に、狭いよな……こんなに近くに、お前がいたなんて」
「悦郎――」
 普段は使わない駅の沿線とはいえ、自宅からそう遠くも無い場所に、内海はいた。こんな僅かな距離にいたことに気付かないまま、長い時間を過ごして来たのだ。
「灯台下暗しって、こういうことを言うんだな」
「え?」
「探しても探しても、お前の行方は分からなくて、俺はただ……待つことしか出来なくて」
 溜息を吐き出しながら俯き気味に髪をかき上げる。そうでもしていないと、いまにも腕を伸ばしてしまいそうだった。内海を引き寄せ、この腕の中に抱き締めてしまいそうだった。
「ぁ、っ……」
「智久?」
 衝動を堪える橘川の耳に、内海の息を飲むような小さな声が届いた。
 怪訝に思いつつ視線を向ければ、内海の目が追っていたのは、橘川の左手首だった。




 歯軋りの音が聞こえてきそうなほど堅く目を瞑った橘川が、顔を俯けながらそう長くも無い前髪をかき上げる。
(ずっと、待っててくれたのか……俺を探してくれてたのか)
 絞り出すような橘川の声に逸らしていた視線を戻した内海は、彼の腕に巻かれている見覚えのある物の存在に息を飲んだ。
「ぁ、っ……」
「智久?」
「い、いや…あの、その時計……」
 一度目に留めてしまったせいで、そこから意識を逸らすことが出来なくなった。まさかまだ、その時計を使ってくれていたなんて。

『これ、クリスマスプレゼント』
『え? 俺に?』
『悦郎と違って俺のボーナスなんて大した額じゃないからさ、高い物じゃないけど』
『いや……嬉しいよ、大事にする』
 働き始めて最初の冬。橘川の勤める会社のようには景気の良い勤め先ではなかったけれど、内海もそれなりに冬の賞与をもらうことが出来た。
 僅かしか貰えなかった夏のボーナスは、引越しで揃え切れなかった生活用品を購入したり、安物ではあったけれどスーツを一着購入して、全てが消えてなくなった。
 だからせめて冬のボーナスでは、何かしら形に残るものをプレゼントとしてあげたいと、内海はずっと考えていた。クリスマスも近いことを思えば、橘川も躊躇わずに受け取ってくれるだろうと。

 橘川が高校時代から変わらずに同じ時計を身に着けている事を知っていた。革のバンドは擦り切れそうになっていて、スーツに合わせるには若干カジュアル過ぎる時計。
 『時計まで金が回らないし……時間が分かればそれで不便は無いからな』などと言いながらも、スーツの袖から時計が出る事を、意識して隠している事を知っていた。
 それならばと、内海は何ヶ月も前からあちこちの店をリサーチして回り、これならスーツにも私服にも合うだろうと、予算と相談して購入を決めた品だった。
 文字盤には日付も付いていて、落ち着いたシルバーのバンドがビジネスシーンに映えそうだと、少しドキドキしながら差し出したプレゼント。『似合うか?』とその場で着けて見せてくれた橘川の姿を、今も鮮明に覚えていた。
「もう傷だらけだけど……電池交換しながら、約束通り大事に使わせてもらってる」
 愛しげに文字盤の上を撫でながら、橘川が少しだけ目元を和らげる。
 そんな橘川の姿に、内海の中で動揺が広がっていく。
 先ほどの言葉といい、今のこの態度といい、黙って消えたことを責められるものだとばかり思っていた内海には、混乱を招くことばかりだった。
「……時計だけじゃない」
「え?」
「俺は――今もあの部屋に住んでるよ」
「っ、う…嘘……」
「嘘じゃない。もしかしたらお前が帰って来るかもしれないって思ったら、引っ越すことなんて出来なかった……俺達を繋いでくれるのは、もうあの部屋しか無かったから」
 動揺を隠し切れずにいる内海に追い討ちを掛けるように、橘川の言葉は続いた。声を荒げることなく、静かに語られる言葉の中に見え隠れする葛藤が、目の前に座る内海にも伝わって来るようだった。

 二人で過ごした部屋に、ずっと一人住み続けていたという橘川。
 一人で暮らすには広過ぎるあの部屋に、どんな思いで住み続けていたのかと考えれば、内海の胸はキュッと痛んだ。
「ずっと……あの部屋に……」
「ああ。去年、最後の契約更新をした」
「最後って――」
「老朽化で、立て直す事が決まったんだ。来年の春までにはあの部屋を出なきゃならなかった」
 そこまで口にした橘川が、時計を見ていた視線を内海へと合わせて来る。哀しげに微笑むその表情に見つめられたまま、身動きすることが出来なかった。
「女々しいって思うか? お前に捨てられて何年も経つのに、ずっと忘れられなくて……取り壊しの予定がなければ、俺は多分ずっと、あの部屋に住み続けたと思う」
「悦郎」
「管理会社からの連絡が来た時に、いい加減に諦めろって神様に言われた気がした。それでも諦められなくて、お前との思い出の詰まった部屋を出る決心が付かなくて……だったら最後の住人になるまで粘ってやろうって――情けないよな」
 自嘲的な笑みを浮かべる橘川の様子は、内海に語って聞かせると言うよりも、自身のこれまでを振り返っているようで。
 自分だけが独り、鬱屈とした想いを抱えたまま長い時間を過ごして来たのだと思っていた内海にとって、そんな橘川の姿は衝撃的だった。
「情けない、なんて……そっちは、この8年間、どうしてたんだ?」
 言わなければいけない言葉は他にあると分かっているのに、内海の口から出て来たのは、そんな問い掛けの言葉だった。


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