キスからの距離

柚子季杏

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キスからの距離 (44)

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 橘川に取って代わった北斗に追い詰められた元晴が、壁に背を付けたままの状態でがたがたと震え始める。夜の暗さの中でも、元晴の顔色が一瞬のうちに蒼白に変わっていく様が見て取れた。
「この人達はさ、俺にとっては大事な人達だったりするわけ……おっさん、俺の言ってる意味、分かるよな?」
 それまで口元に絶やすことの無かったにこやかな笑みを消し去った北斗の、低く響く声。数歩下がった場所で口を開くことも出来ず状況を見守る内海達も、北斗から立ち昇る凄みのオーラに小さく息を飲んだほどだった。
「自分で作った借金は自分で返すのが道理ってもんじゃねえの? なぁ、おっさん」
「ぅ……そ、そう、だな……いや、その……冗談だよ、冗談! 久し振りに顔見たから懐かしくなっちまってさ」
 蛇に睨まれた蛙というのはよく聞く言葉だけれど、実際目の当たりにしたのは初めてだ。
 北斗がヤンチャをしていた頃から知っている間柄の内海も、彼のこんな姿を見る機会はこれまで無かった。
 内海の前ではいつも少しおちゃらけて笑顔を絶やさないだけに、知らない男を見ているような気さえしてしまう。
「ふぅん、冗談ねえ。ウッチーどうする? 橘川さんも……判断は二人に任せるけど」
 呆然と状況を見守っていた内海と橘川は、北斗の言葉にハッと顔を見合わせる。自分を見る橘川の瞳に信頼を感じ取った内海が、ゆっくり北斗と元晴へと視線を戻した。
「二度と俺達の前に現れないで下さい」
「わ、分かった! 分かったよ」
 毅然と言い切る内海に、元晴は壊れた玩具のように首を何度も縦に振り動かした。
 恐怖に引き攣った彼を見れば、小心な元晴の性格を知っている内海には、言葉通り二度と自分達に接触してくる事は無いだろうと核心を持てた。
「ウッチーそんだけでいいの? 相変わらず優しいなあ。橘川さんもそれでいいの?」
「ああ。智久が良いって言うなら、俺に異論は無い。本音を言えばぶん殴りたいけどな」
「そっかあ……おっさん、二人の温情に感謝した方がいいぜ」
 内海と橘川、二人の言葉を聞いた北斗がくすりと笑う。笑いながらも、未だ北斗の視線に囚われたままの元晴に、北斗は鼻先が触れ合う寸前まで距離を詰めた。
「でも俺は、そんなに優しくないんだよねえ……少しでも怪しい行動を取ったら、身の危険は覚悟しておけよ? あちらの方々の追い込みは、すっげえ厳しいからな」
「ひっ、しない! 二度と近付かねえから!」
 涙目で首肯する元晴の姿に、本当にこれで終わったのだと実感した。
 こんな男を怖がって逃げた自分は、どれほど弱虫だったのだろうかと情けなくなる。
「……元晴さん、自力で立ち直って下さい。きっと社長も、それを願ってるはずです」
「っ――親父が、そんなわけ……」
「元気な顔が見られる日を、待ってるんじゃないですか?」
 内海の掛けた声に、元晴が一瞬驚きに目を瞠り、そんなことは考えた事も無かったとばかりに肩を落とす。
「北斗……もういいよ」
「何かよく分かんねえけど、ま、他人様に迷惑掛けずに頑張んなよ。な、おっさん」
 もう一度橘川と視線を交えた内海が、元晴を放してやれと北斗を促す。素直に従う北斗が退けた隙間から、元晴は転がるように駆け出して行った。
 駆けながらちらりと内海を振り返った元晴の顔に、それまでとは違って後悔の色が浮かんでいたように思うのは、内海の願望なのだろうか。


「一件落着っぽい? 俺、中戻っちゃって平気?」
「え――あ、そう言えばお前、何で……」
「助かった。あのままじゃ俺はあいつにマジで殴り掛かってた」
「駄目だよ橘川さん、ああいう輩に自ら強請りのネタ与えるような真似しちゃ」
 元晴の姿が通りに消えたところで、北斗が内海と橘川へ向き直る。
 タイミングの良すぎる登場を思い出して言葉に詰まる内海の脇で、橘川と北斗はひと仕事終えたとばかりに、穏やかな会話を交わすのだから呆れてしまう。緊張感に溢れていた先ほどまでとは打って変わった緩い空気に、内海も毒気を抜かれる。
「北斗……危ない真似はするなってあれだけ言ったのに……」
「ごめんねウッチー、でも大丈夫だっただろ?」
 力なく吐き出した内海の言葉に、北斗が楽しげに笑う。
「いつから見てたんだ? っていうか、録音してたって本当か?」
「そうだ! 北斗お前、お客さん迎えに行ったんじゃなかったのか?」
 橘川の漏らした言葉尻に乗っかって、内海も矢継ぎ早に質問を重ねる。二人から次々に寄せられる疑問に、矛先を向けられた北斗が目を見開いた。
「戻って来た時に通りから三人の姿が見えたからさあ、ちょっと焦ったよ。録音はハッタリだけど、結果オーライって感じ?」
「ハッタリ……」
「でもウッチーも橘川さんも格好良かったじゃん。俺さ、二人のこと見直したちゃった」
 思いも寄らない言葉に唖然としてしまう。ハッタリであんな風に凄みをかましてしまうなんて、内海には考えもつかなかった。
 内海の隣で同じように呆気に取られていた橘川が、徐々に肩を震わせて笑い声を噛み殺し始める。
「お前の方が格好良いよ、ハッタリか、ははっ」
「あ、でも組長さんと顔見知りなのはホントだよ。まあ、手を煩わすところまで行かなくて良かったけどさ。ああいうタイプってガツンとやっとかないとしつこいから」
 何なら名刺見せるよ、とウィンクをして見せる北斗の話に嘘は無いのだろう。どれだけの修羅場を経験して来ているのか、内海達の知らない顔を持った北斗が味方で良かったとつくづく思う。
「……ウッチーにはマジ、ずっと世話になってるし? そのウッチーのパートナーが橘川さんなわけだから、俺だって黙っちゃいられないでしょ――っと、やべ! リコちゃん待たせてるんだった! じゃね!」
 元晴に凄んで見せた顔とは全く違う真摯な表情。北斗が本当に内海を心配してくれていた事が伝わってくる。
 その思いに若干の感動を感じている隙に、北斗は「あっ」と声を張り上げ、裏口へ駆け込んで行ってしまう。じゃあねと手を振りながら姿を消す北斗には、声を掛ける暇さえなかった。



「お礼、言いそびれたっつうの」
「言われるのが恥ずかしかったんじゃねえの?」
 あまりに呆気ない幕切れ、そう仕向けてくれた北斗への感謝が、内海の唇を尖らせる。
「俺としてはやっぱ、一発くらい殴ってやりたかったけどな」
「悦郎――」
 苦笑を浮かべる橘川に引き寄せられれば、気が張っていた事を実感する。愛しい人の温もりに、ふっと身体の奥から強張りが解れていく気がした。
「これで、お前の気掛かりも解消されたか?」
「……ああ、そうだな……昔のツケは、返せたと思う」
 寄り添うように身体を寄せれば、優しく抱き止めてもらえる。この温かさを、この幸福感を、どうして手放せると思ったのだろうか。

 想いを捨てずにいて良かったと、内海は心から思う。
 思い出したくもなかった過去とも、こうして決別することが出来たのだから、もう何も憂うことは無い。橘川を信じると決めたのだ、この腕の中に戻りたいと願ったのだから。

「――ああぁぁあ、くそっ」
「悦郎? ちょ、痛いって!」
 幸せに浸る内海を抱き締めてくれていた橘川の腕に、ギュッと力が籠められる。あまりの強さに身を捩れば、地を這うような声が耳に届いた。
「早く店がオープンすればいいのに」
「……くっ、くくっ、悦郎…あはは」
「笑うなよ――ああもう! 帰るぞ!」
「待て、待てって!」
 我慢が苦しいと情けない声を出す橘川に、内海も堪え切れず吹き出してしまう。
 顔を顰めて歩き出した橘川の後を追いながら、自分から言い出した約束事を恨めしく感じてしまうのも、今の内海の正直な気持ちだった。


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