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1巻
1-3
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そのまま、「篠宮」と書かれた棚から担当患者の紙カルテを取り出し、御園に声をかける。
「とりあえず、俺の指示を簡単に入力するだけでいい。あとでカルテを見て再入力してもらう」
「はい」
「使い方は、外来のものと同じ……らしい。多少は仕様が違うかもしれないが」
正直、俺にはクラークや医療事務、看護師や助手の仕事の細かい違いはわからない。
「わかりました。手書きカルテの方にしっかり書いておいてくだされば、大丈夫です」
頷いた御園の言葉に、ナースステーションが一瞬ざわめいた。俺の悪筆は、小児科全体どころか院内すべてに広まっている。
だが、本人の前で「ほんとにあの字を読めるんだ……」と、口にするのは如何なものかと思う。
「環先生の字は少し癖がありますけど、読みやすいですよ?」
「ないわ。舞桜ちゃん、それはないわ」
いつの間にか俺達の後ろにいた大瀬が、首を横に振って否定した。
「百歩譲って『読める』は認めるけど――」
そこで一呼吸置いて、大瀬は静かにはっきりと断言した。
「読みやすい、は絶対にない。だって、古文書やド下手なドイツ語の筆記体を読める子ですら、匙を投げたんだから」
俺の古傷を思い切り抉ってくる大瀬に、御園は困ったような顔をして俺を見上げた。
「達筆っていうんでしょうか。私は好きな字ですけど」
その言葉に、嘘も媚びもまったく感じなかったから――自然と、俺の御園への好感度が上がった。
我ながら単純だと思うが、コンプレックスを好意的に受け取られたのは初めてなのだから、仕方ないだろう。
* * *
「御園。今日はどうする」
どうする、というのは、週に一度、入院棟への回診に同行するか否かだ。
御園が断ったことはないが、時間外勤務でもあるから、毎回確認している。……こういうところが、融通が利かないと言われる所以だろうか。
「行きます」
病棟クラーク達ともそこそこ親しくなったらしく、時々、直接御園宛に内線が入る。そのあと、御園が入院棟に行くということは……まあ、「読めない字がある」と呼びつけられているんだろうと推測できた。御園には、そのうち何らかのねぎらいが必要な気がする。
「君、病棟クラークになる気はないのに、よく毎回ついてくるな」
「ご迷惑ですか?」
「助かってる。指示を何度も確認し合うのはお互い時間の無駄だし、俺も迷惑をかけている自覚があるからな」
俺の自嘲気味の言葉に、御園は困ったように笑った。
「私が異動したらどうするつもりですか」
「異動?」
「例えば、です。まあ、私は環先生の字が読めるというだけで採用していただいたので、異動の可能性は限りなく低いんですけど」
――御園が異動、もしくは退職する可能性は、考えたことがなかった。
異動はないにしても、結婚したら退職することはあり得る。うちは福利厚生は充実しているから、結婚出産しても退職する職員はほとんどいないが、夫が専業主婦希望なのでと辞めた看護師もいた。
そうなれば、また後任について考えなければならない。だが、何となくそれが嫌で、今は考えないことにした。
その時、ナースステーションがざわついていることに気づく。
明らかに外国人といった風貌の男が、必死に何か話していた。
「――どうかしたのか?」
俺が声をかけると、看護師達がほっとした顔になる。
「たぶん……どこか悪くて診察してほしいようです。今は外来が休診時間だから、ここに来てしまったみたいなんですが」
「ならそう言えば……」
「言葉が通じなくて。私達も、英語なら何とかなるんですけど」
困りきった看護師達は、明らかに俺に「通訳してくれ」という視線を向けている。男性の方も、脂汗を浮かべて俺を凝視した。
「英語が通じなくて、この金髪碧眼となると――フランス語は? 誰か試したか?」
「今のところ、英語とフランス語は通じませんでした」
正直、西洋人にアジア系の区別がつきにくいように、こちらも西洋人の区別はつきにくいわけで。
俺は、知る限りの言語で、片っ端から話しかけてみた。
すると、オランダ語に反応があった。
『オランダ語はわかりますか?』
『わかる! 僕はアムステルダムから御朱印状を巡る旅に来たんです』
……渋い趣味だな。
『それで、どうされました? 治療ということなら、今は診察時間外ですが……』
『治療というほどじゃないんです。僕、ずっと歩いてるので湿布が欲しくて』
『……湿布? 薬局で買えますよ?』
俺がそう言うと、彼は首を横に振った。種類が多すぎて、どれが適しているのかわからないし、薬局の店員には言葉が通じない。カタコトの英語で、「篠宮病院なら言葉の通じる人がいるかもしれない」と言われたそうだ。
……医者を通訳扱いするなと言いたいが、見知らぬ国に一人で来て、体に不調がある人を放置もできない。
『痛み方は?』
『アナタは医者?』
『整形外科は専門外ですけどね。湿布の種類くらいならわかりますよ』
何せ小児科だ。子供達は病気だけでなく怪我で受診することも多い。
俺はアルブレヒトと名乗った男性を簡単に問診する。そして、ナースステーションの近くにあるソファに座らせ、足の様子を診た。かなり歩いたのだろう、血豆ができているし、靴擦れを起こしている。それと浮腫みか。
『アルブレヒトさん。湿布はこの成分が入ったもの――ああ、書きますから薬局の店員に見せてください。それから、血豆と靴擦れがあるから、余裕があったら靴を買い換えることをお勧めします。じゃあ、手当てしますから、こちらに』
俺が空いている病室を借りて治療しようとすると、アルブレヒトは困った顔になった。
『センセイ、僕、そんなにお金は……』
『別にレントゲン撮ったりはしないし、血豆と靴擦れの手当てなら三千円くらいかな。――御朱印状巡り、頑張ってください』
俺の言葉に、アルブレヒトは嬉しそうに頷いた。
状況がわからないまま俺達についてきていた御園に、「血豆ができて靴擦れもしているから、簡単に手当てする」と言うと、驚いた顔をされる。
「環先生は、何ヶ国語話せるんですか……」
「さあ、数えたことはない。悪いが、ナースステーションから脱脂綿とアルコールをもらってきてくれないか」
「はい!」
タブレットを抱えたまま、御園はナースステーションに向かい、俺はアルブレヒトの足を触診して、骨折や捻挫の症状がないことを確かめた。レントゲンを撮った方がいいとは思うが、本人が自費ではそこまで払えないと言う。
外国人旅行者相手でも、きちんとカルテを作って、自費診療扱いにすることになる。なので、パスポートのコピーを取らせてもらった。御園が手際よくカルテを作ってくれたので、そこに処置内容その他を書き込んでいく。
アルブレヒトの手当てを済ませ、彼の足の痛みを取るのに適した湿布を数種類選んで、そのメモを薬局の店員に見せるように指示した。
アルブレヒトは『ありがとう、センセイ、ありがとう』と繰り返しながら、伝わらないオランダ語でナースステーションの看護師達にも『迷惑をかけました』と謝りながら去って行った。
――予定外に時間を使ってしまった。回診もあるし、午後の診察開始時間を少し遅らせるように御園に指示したら、彼女はほっと溜息をついた。
「……何だ、その溜息」
「いえ……やっぱり環先生、優しいなあと思いまして」
「優しい?」
「患者さんじゃなくても、困ってる人を見捨てられないんだなあって」
――それは人として当たり前のことだろう。まして言葉の通じない場所で困っている相手だ。
「この場で、たまたまアルブレヒトの言葉がわかるのが、俺しかいなかったからだ。……他の医師も、オランダ語のわかる人は何人もいる」
「でも、アルブレヒトさんを助けたのは環先生ですよね」
「……ここで、勝手に診察行為ギリギリのことをして許されるのは、俺や兄達くらいだからな」
他の医師と俺達兄姉は、雇用されているという点では同じでも、「経営者一族」という点が違っている。多少の無茶を目こぼししてもらえるのは、俺が「篠宮環」だからだ。
「俺に助けられる相手なら助ける。それだけだ」
「だから、そういうところが優しいんですよ」
「……あまり、優しいを連呼されるのも複雑だな」
「優しい人」というのは基本褒め言葉だが、女から男に向ける場合に限り、「恋愛対象外だけど」という声に出さない前置きが付く「優しくていい人」のことだ。
――いや、御園にそう思われていたとしても、特に問題はない……はずだ。
俺の言葉に、御園はくすくすと笑って「優しいですよね」と繰り返している。
「……からかうな」
「優しいなあって言っただけですよ?」
まだ笑いながら、御園は俺より先に病室を出た。ナースステーションに、借りていた脱脂綿その他を返しに行くらしい。
だが、ふとその足を止めて、彼女が一点を見つめる。
「晃先生……」
聞いたこともないくらい幸せそうな声だった。
真っ赤な顔をタブレットで隠すようにして見つめている先には、院長回診中の祖父がいる。
後ろに何人か医師を連れているから、新人教育中だろうか。そろそろ八十近いから、現場に出ることはほとんどないものの、今も時々、診察や指導を行っている。
どうかしたのかと御園に聞こうとして――やめた。
普段は薄い桜色の頬を、鮮やかな赤に染めて祖父を見つめる御園の姿は、誰がどう見ても「恋する乙女」そのものだったから。
その顔をめちゃくちゃにしてやりたい、何故かそう思った。
優しいと褒められるより――あの瞳を自分だけに向けてほしかった。
* * *
俺の自宅――病院から徒歩三分のマンションは、一棟まるごと、篠宮総合病院の職員寮だ。
医師と看護師に優先的に割り振られていて、独身の俺は実家ではなくここに部屋を借りている。
独身とはいえ医師なので、研修医期間が終わった時、最上階の2LDKの部屋が俺の部屋になった。夫婦や家族で住む者は低層階に固めているらしい。
この部屋に暮らすようになって二年ほど経つが、状態は越してきた頃とあまり変わらない。寝に帰るだけの部屋だから、必要最低限のものしか置いていなかった。
ベッドだけは、睡眠の質を考えていいものに買い換えたが、「勉強にだって、いいデスクが必要なのよ!」とインテリアにうるさい長姉がローズウッドのデスクを届けてきた。
上品な飴色をした艶のある木製のデスクは、確かにサイズもデザインもいい。だが、別にパイプデスクでも変わらないだろうというのが本音だった。
勉強するのは俺であって、やる気が出るかどうかは、デスクの質よりその日の気分や体調の方が重要だと思っている。
――そう。重要なのは俺自身の気持ちだ。だから、今日のように苛立って文字が頭に入らない日は、勉強したって効果は薄い。
わかっているが、何もしなければ、頭に浮かぶのは御園のはにかんだ、幸せそうな笑顔。
そして、それをもたらしたのが祖父らしいという事実。
そのことに苛々しながら作った夕食は、我ながら最悪の出来だった。
まともだったのは、電子レンジで温めるタイプの米だけで、味噌汁は薄かったし、鰺は真っ黒に焦げたし、白菜の浅漬けは鷹の爪を入れすぎて辛さしかなかった。
捨てるわけにはいかないので食べたが、明日が休みでよかった。腹を壊しかねないひどさだった。
食器を片づけたあとは、薄い水割りを作ってグラスの中の丸い氷を眺めた。
「…………」
休日前の夜は、参加できなかった学会のDVDを見たり、海外の最新医療を調べるのが習慣だったのに、何故か今日は感情の切り替えが上手くいかない。
――三ヶ月も一緒にいて、俺は御園のあんな顔を見たことがない。
嬉しい、だけど恥ずかしいといった表情を見たのは初めてだ。
ぎこちないほど身構えていた最初の頃に比べたら、ずいぶんと打ち解けてきたし、互いに笑ったり冗談を言い合ったりするようになっていた。
だが、あんな――ただ純粋に幸せしか感じていないような、可愛いとしか言えない顔を見たことはなかった。
誰が見ても、あの時の御園は可愛いと思うだろう。それが、無性に腹立たしい。
「ちょっと待て。俺以外に向けて可愛い顔をされたからって、どうして腹が立つんだ」
――自分で突っ込んでから考えるが、要するに……俺は御園が好きなのか?
御園は仕事は真面目で、人当たりも悪くはない。愛嬌を振りまくタイプではないが、大瀬とは仲がいいようだ。
保護者からの質問も、きちんと聞いて俺に伝えるし、勝手な判断もしない。それでいて、俺が対応に困るタイプの相手――話が長引いて診察時間に影響しそうなMRなどへは、毅然と「そろそろ時間ですので」と自分が悪役を買って出る。
空気を読むというか、俺の気持ちをすぐに察してくれた。おかげで、俺は気持ちよく診察ができる。今のところ、俺は御園に対して好感しかなかった。
嫌いな部分は、特に見つからない。正確には、御園舞桜という人間をそれほど知らないのだ。
顔は、正直好みかどうかわからない。……可愛いとは思うが、深く考えたことがなかった。
スタイルについても同様で、気にして見たことがない。身長体重共に標準か、やや痩せ型だろうという程度だ。
御園に対して、好感――ある意味、好意とも言えるだろう――があるのは認める。
だが、好意イコール恋愛とは限らない。
自分で言うのも何だが、これまで「医師」や「実家が病院」という肩書きに寄ってくる女が多かったせいで、疑い深い性格になっているのは否めない。
他にも原因は色々あるが、俺は結婚や交際なんて面倒くさいと思っている。
なので、俺が御園に好意を持ったのは、御園が俺に興味を持っていないからだ。
……待て、その思考もちょっとおかしい。
咄嗟に、思考にストップをかける。
自分に無関心な相手だから惹かれるというのは、心理的にマズいのではないか。
好感ではなく好意があると自覚した途端、俺は何故か御園舞桜に対しての感情整理が上手くできなくなっていた。
こういう時は――寝るに限る。寝るのが一番いい。
俺は答えのない思考を続けるのが嫌になって、ベッドに入った。
* * *
「舞桜ちゃん、ここに憧れの先生がいるらしいんですー。調べた結果……知りたいですか?」
患者に向けているにこやかな笑顔ではなく、からかう気満々の笑顔で大瀬が声をかけてきた。
交換条件として「色気駄々漏れにするの、いい加減やめてくださいね」と言われたが、そんなものは俺の意識下にないので知ったことではない。
御園の憧れの医師。人生を決めさせた相手。
気にならないわけがない。俺は、どうやら御園のことが好きらしいので。
そして、聞かされた名前に落ち込んだ。
――篠宮晃。
嫌というほど聞き慣れた祖父の名前。俺にとって、絶対に敵わない相手だった。
医師としてはもちろん、人間性というか器量の部分でも太刀打ちできない存在だ。
御園の憧れが祖父だと聞いた俺が、冗談だと一蹴しなかったことで、大瀬に「心当たりがあったりします?」と聞かれた。
あの日、病棟で祖父を見た時の御園の顔。
あんな「恋をしています」としか言えない顔を見ていたら、信じざるを得ないだろう。
「だから。そーいう色気駄々漏れは、やめてくださいって言ってるじゃないですか」
今日来院予定の患者のカルテを整理しながら、大瀬が呆れている。御園は受付に他の診療科の急な休診その他を確認しに行った。たまに、耳鼻科に来た子供がこちらに回されることがあるからだ。
「悪いが、俺は男に色気なんか感じないからわからない」
「女にも色気感じたことねーくせに、何言ってんだかですよ」
「あのな」
「交際経験があるのと、恋愛経験があるのは別ですからね。生理的な欲情と心理的な欲情は別モノです」
患者である子供達やその保護者には優しい大瀬は、俺にはきつい。
「子供相手の職場なんだし、もう少し言葉を選んだらどうだ」
「はっきりきっぱり言わないと、深窓のご令嬢には伝わりませんので」
「上司相手にもパワハラモラハラは成立するって知ってるか?」
「だって環センセ、自分が深窓のご令嬢並みに箱入りの自覚があるって、言ってたでしょ」
多少はあるが、そもそも箱入り息子と深窓の令嬢は決定的に違うと思うが。
「それに――舞桜ちゃんの憧れ、初恋の人が院長先生だからって、拗ねるなんてガキかよって話です」
「……そんなにわかりやすいか、俺は」
「まあ、研修医時代を入れると、四年近く一緒に働いてますから。嫌でもわかりますよ」
俺は、大瀬のことはさっぱりわからないままだ。
「告白すればいいじゃないですか。のんびりしてたら、横からかっ攫われますよ。舞桜ちゃん、普段は無表情美人さんだけど、笑うとめちゃくちゃ可愛いし」
大瀬は、何かを思い出して、うっとりしている。
「職場恋愛は禁止じゃないんだし、言うだけならタダです。……告れよ」
ここまで率直に言われると腹も立たない。というか、感心する。
裏表がないというより、大瀬は貪欲なくらい自分に正直だ。
「……その、どこまでも自分中心な生き方は、尊敬する」
「あたしの幸せを、あたしが最優先にしなくて誰がしてくれるってんですか! いや、ほんとの最優先は娘で、あたしと夫はその次ですけどね!」
「もっともらしく惚気るな」
「真面目な話。好きなら好きって言わなきゃですよ。環センセは、受け入れ型の流され型だから、今の不安定な状態はちょっと心配です」
「心配?」
「適当な女のハニートラップにかかって、結婚まで持ち込まれそう」
「それはない」
断言した俺に、大瀬は何故か説教モードに入った。
「センセのことは四年、舞桜ちゃんのことは三ヶ月、一番近くで見てきた第三者として申し上げますが」
「……はい」
今の大瀬には、逆らいがたい、有無を言わせない迫力があった。
「舞桜ちゃんもセンセと同じで、『恋愛』ってものがわからないタイプです。だから、どれだけセンセが待ってても、あっちからアプローチしてくることは、絶対にない」
据わった目で断言される。
そろそろ診察時間が始まるというのに、何故俺は、こんな会話をしているのだろう。
「好きなら好きって言いなさい。――この何とも言えない空気がずっと続くなんて、あたしには耐えられないんですよ! 甘酸っぱい青春ですか、もうすぐ三十路でしょうが!」
「三十路まで、まだ二年ある」
「男が細かいこと言うな!」
こういう時だけは、男女同権にはならないらしい。
言いたいことを言ったあと、大瀬は俺の答えを待たずに、「もうすぐ舞桜ちゃん戻りますから」と、話を打ち切った。
――確かに、このままだと俺も落ち着かない。
そして、自分が如何に受け身で生きてきたかを思い知らされた。
「大瀬」
「何ですか? あたし、診察前は忙しいんですけど」
「告白したことがないから、最適解がわからない」
「センセはお勉強の偏差値は高いけど、恋愛偏差値は低いですからね……」
心から哀れんだ視線を向けられ、俺はデスクに突っ伏した。
――駄目だ、御園に何をどう言えばいいのかさっぱりわからない。ごく自然に告白できる人間を尊敬する。
だが、このままでいたって、大瀬の言う通り、何ら進展はないだろう。
好きな相手に、好きだと告げられるのは、自分に自信のある奴なんだろうなと思った。
それでも、伝わらなければ始まらない以上、俺は御園に「好きだ」と告白する決意をした。
3 先生と私の関係
今日は午前だけでかなりの患者さんが来たなあ……と思ったら、何のことはない、午後は環先生が休診だからだ。
篠宮総合病院が校医になっている中学校の健康診断があるらしく、先輩医師の補助として同行するそうだ。大瀬さんは行かなくていいのか聞いたら、それは別の看護師さんが行くとのこと。
なら、午後は診察室の片づけや、絵本やぬいぐるみの補修、買い換え依頼の資料を作成しようかと話していたら、環先生が何とも言えない無表情で戻ってきた。
怒ってるというより、どこか戸惑っているっぽい。
「……聖ヶ丘学院の中等部の健診に同行されたんじゃないんですか?」
大瀬さんとの「聞きなさい」「嫌です」の押し付け合いの結果、「先輩命令」に負けた私が、環先生に尋ねる。
「いや……行くはずだったんだが」
「はずだったけれど?」
「……断られた。代わりに、萩野先生を指名された」
環先生は診察デスクに座り、ずーんとダメージを受けている。
私と大瀬さんは顔を見合わせ、小声で言葉を交わす。
(断られたって……どうしてですか?)
(わかんない。聖ヶ丘の健診はずっとうちが担当してるのに。っていうか、あの学校自体、篠宮さん家の経営だから)
医療グループだけでなく学校法人まで経営とは、やはり篠宮家はお金持ちだ。
そこで、私は不意に気づいた。
「……あの、環先生。聖ヶ丘って幼稚園から大学までの一貫校ですよね?」
「ああ」
聖ヶ丘は、地元でも有名なお坊ちゃま、お嬢様学校である。
「……中等部の女の子から、というよりその保護者から? 健診とはいえ男性医師は困る、みたいな苦情があったとか」
「……身長体重、視力聴力の測定と、脈を診る程度だぞ」
「ですから、脈を診るにしても、手首で取れなかったら首とか胸とか触るじゃないですか。あと心音検査で胸はどうしても触っちゃいますし」
「医療行為だろ」
愕然とする環先生に、私はおもむろに告げた。
「私も先日AEDの使い方講習を受けましたが、『若い女性に施す場合は、女性が率先して処置してあげてください』と言われました。男の人だと、その、痴漢と勘違いされることもあるとかで」
「……」
絶句している環先生の気持ちはよくわかる。私も緊急事態にそんな余裕があるかと思った。
例えば、私が倒れたとして。環先生と、通りすがりの女性、どちらにAED処置してもらいたいかといえば、間違いなく環先生だ。だけど、見知らぬ男性に胸とか見られたくない、触られたくないという女性の気持ちも理解できる。
「たぶん、環先生が駄目なのではなく、男性医師が駄目だったんじゃないかなと」
その証拠に、環先生の代わりに指名された萩野先生は女性である。
おそらく、事前にそうした連絡が、あちらとこちらで上手くできていなかったのではないだろうか。
「……それならいい」
何とか自分を納得させたらしい環先生は、私と大瀬さんに頭を下げた。
「とりあえず、俺の指示を簡単に入力するだけでいい。あとでカルテを見て再入力してもらう」
「はい」
「使い方は、外来のものと同じ……らしい。多少は仕様が違うかもしれないが」
正直、俺にはクラークや医療事務、看護師や助手の仕事の細かい違いはわからない。
「わかりました。手書きカルテの方にしっかり書いておいてくだされば、大丈夫です」
頷いた御園の言葉に、ナースステーションが一瞬ざわめいた。俺の悪筆は、小児科全体どころか院内すべてに広まっている。
だが、本人の前で「ほんとにあの字を読めるんだ……」と、口にするのは如何なものかと思う。
「環先生の字は少し癖がありますけど、読みやすいですよ?」
「ないわ。舞桜ちゃん、それはないわ」
いつの間にか俺達の後ろにいた大瀬が、首を横に振って否定した。
「百歩譲って『読める』は認めるけど――」
そこで一呼吸置いて、大瀬は静かにはっきりと断言した。
「読みやすい、は絶対にない。だって、古文書やド下手なドイツ語の筆記体を読める子ですら、匙を投げたんだから」
俺の古傷を思い切り抉ってくる大瀬に、御園は困ったような顔をして俺を見上げた。
「達筆っていうんでしょうか。私は好きな字ですけど」
その言葉に、嘘も媚びもまったく感じなかったから――自然と、俺の御園への好感度が上がった。
我ながら単純だと思うが、コンプレックスを好意的に受け取られたのは初めてなのだから、仕方ないだろう。
* * *
「御園。今日はどうする」
どうする、というのは、週に一度、入院棟への回診に同行するか否かだ。
御園が断ったことはないが、時間外勤務でもあるから、毎回確認している。……こういうところが、融通が利かないと言われる所以だろうか。
「行きます」
病棟クラーク達ともそこそこ親しくなったらしく、時々、直接御園宛に内線が入る。そのあと、御園が入院棟に行くということは……まあ、「読めない字がある」と呼びつけられているんだろうと推測できた。御園には、そのうち何らかのねぎらいが必要な気がする。
「君、病棟クラークになる気はないのに、よく毎回ついてくるな」
「ご迷惑ですか?」
「助かってる。指示を何度も確認し合うのはお互い時間の無駄だし、俺も迷惑をかけている自覚があるからな」
俺の自嘲気味の言葉に、御園は困ったように笑った。
「私が異動したらどうするつもりですか」
「異動?」
「例えば、です。まあ、私は環先生の字が読めるというだけで採用していただいたので、異動の可能性は限りなく低いんですけど」
――御園が異動、もしくは退職する可能性は、考えたことがなかった。
異動はないにしても、結婚したら退職することはあり得る。うちは福利厚生は充実しているから、結婚出産しても退職する職員はほとんどいないが、夫が専業主婦希望なのでと辞めた看護師もいた。
そうなれば、また後任について考えなければならない。だが、何となくそれが嫌で、今は考えないことにした。
その時、ナースステーションがざわついていることに気づく。
明らかに外国人といった風貌の男が、必死に何か話していた。
「――どうかしたのか?」
俺が声をかけると、看護師達がほっとした顔になる。
「たぶん……どこか悪くて診察してほしいようです。今は外来が休診時間だから、ここに来てしまったみたいなんですが」
「ならそう言えば……」
「言葉が通じなくて。私達も、英語なら何とかなるんですけど」
困りきった看護師達は、明らかに俺に「通訳してくれ」という視線を向けている。男性の方も、脂汗を浮かべて俺を凝視した。
「英語が通じなくて、この金髪碧眼となると――フランス語は? 誰か試したか?」
「今のところ、英語とフランス語は通じませんでした」
正直、西洋人にアジア系の区別がつきにくいように、こちらも西洋人の区別はつきにくいわけで。
俺は、知る限りの言語で、片っ端から話しかけてみた。
すると、オランダ語に反応があった。
『オランダ語はわかりますか?』
『わかる! 僕はアムステルダムから御朱印状を巡る旅に来たんです』
……渋い趣味だな。
『それで、どうされました? 治療ということなら、今は診察時間外ですが……』
『治療というほどじゃないんです。僕、ずっと歩いてるので湿布が欲しくて』
『……湿布? 薬局で買えますよ?』
俺がそう言うと、彼は首を横に振った。種類が多すぎて、どれが適しているのかわからないし、薬局の店員には言葉が通じない。カタコトの英語で、「篠宮病院なら言葉の通じる人がいるかもしれない」と言われたそうだ。
……医者を通訳扱いするなと言いたいが、見知らぬ国に一人で来て、体に不調がある人を放置もできない。
『痛み方は?』
『アナタは医者?』
『整形外科は専門外ですけどね。湿布の種類くらいならわかりますよ』
何せ小児科だ。子供達は病気だけでなく怪我で受診することも多い。
俺はアルブレヒトと名乗った男性を簡単に問診する。そして、ナースステーションの近くにあるソファに座らせ、足の様子を診た。かなり歩いたのだろう、血豆ができているし、靴擦れを起こしている。それと浮腫みか。
『アルブレヒトさん。湿布はこの成分が入ったもの――ああ、書きますから薬局の店員に見せてください。それから、血豆と靴擦れがあるから、余裕があったら靴を買い換えることをお勧めします。じゃあ、手当てしますから、こちらに』
俺が空いている病室を借りて治療しようとすると、アルブレヒトは困った顔になった。
『センセイ、僕、そんなにお金は……』
『別にレントゲン撮ったりはしないし、血豆と靴擦れの手当てなら三千円くらいかな。――御朱印状巡り、頑張ってください』
俺の言葉に、アルブレヒトは嬉しそうに頷いた。
状況がわからないまま俺達についてきていた御園に、「血豆ができて靴擦れもしているから、簡単に手当てする」と言うと、驚いた顔をされる。
「環先生は、何ヶ国語話せるんですか……」
「さあ、数えたことはない。悪いが、ナースステーションから脱脂綿とアルコールをもらってきてくれないか」
「はい!」
タブレットを抱えたまま、御園はナースステーションに向かい、俺はアルブレヒトの足を触診して、骨折や捻挫の症状がないことを確かめた。レントゲンを撮った方がいいとは思うが、本人が自費ではそこまで払えないと言う。
外国人旅行者相手でも、きちんとカルテを作って、自費診療扱いにすることになる。なので、パスポートのコピーを取らせてもらった。御園が手際よくカルテを作ってくれたので、そこに処置内容その他を書き込んでいく。
アルブレヒトの手当てを済ませ、彼の足の痛みを取るのに適した湿布を数種類選んで、そのメモを薬局の店員に見せるように指示した。
アルブレヒトは『ありがとう、センセイ、ありがとう』と繰り返しながら、伝わらないオランダ語でナースステーションの看護師達にも『迷惑をかけました』と謝りながら去って行った。
――予定外に時間を使ってしまった。回診もあるし、午後の診察開始時間を少し遅らせるように御園に指示したら、彼女はほっと溜息をついた。
「……何だ、その溜息」
「いえ……やっぱり環先生、優しいなあと思いまして」
「優しい?」
「患者さんじゃなくても、困ってる人を見捨てられないんだなあって」
――それは人として当たり前のことだろう。まして言葉の通じない場所で困っている相手だ。
「この場で、たまたまアルブレヒトの言葉がわかるのが、俺しかいなかったからだ。……他の医師も、オランダ語のわかる人は何人もいる」
「でも、アルブレヒトさんを助けたのは環先生ですよね」
「……ここで、勝手に診察行為ギリギリのことをして許されるのは、俺や兄達くらいだからな」
他の医師と俺達兄姉は、雇用されているという点では同じでも、「経営者一族」という点が違っている。多少の無茶を目こぼししてもらえるのは、俺が「篠宮環」だからだ。
「俺に助けられる相手なら助ける。それだけだ」
「だから、そういうところが優しいんですよ」
「……あまり、優しいを連呼されるのも複雑だな」
「優しい人」というのは基本褒め言葉だが、女から男に向ける場合に限り、「恋愛対象外だけど」という声に出さない前置きが付く「優しくていい人」のことだ。
――いや、御園にそう思われていたとしても、特に問題はない……はずだ。
俺の言葉に、御園はくすくすと笑って「優しいですよね」と繰り返している。
「……からかうな」
「優しいなあって言っただけですよ?」
まだ笑いながら、御園は俺より先に病室を出た。ナースステーションに、借りていた脱脂綿その他を返しに行くらしい。
だが、ふとその足を止めて、彼女が一点を見つめる。
「晃先生……」
聞いたこともないくらい幸せそうな声だった。
真っ赤な顔をタブレットで隠すようにして見つめている先には、院長回診中の祖父がいる。
後ろに何人か医師を連れているから、新人教育中だろうか。そろそろ八十近いから、現場に出ることはほとんどないものの、今も時々、診察や指導を行っている。
どうかしたのかと御園に聞こうとして――やめた。
普段は薄い桜色の頬を、鮮やかな赤に染めて祖父を見つめる御園の姿は、誰がどう見ても「恋する乙女」そのものだったから。
その顔をめちゃくちゃにしてやりたい、何故かそう思った。
優しいと褒められるより――あの瞳を自分だけに向けてほしかった。
* * *
俺の自宅――病院から徒歩三分のマンションは、一棟まるごと、篠宮総合病院の職員寮だ。
医師と看護師に優先的に割り振られていて、独身の俺は実家ではなくここに部屋を借りている。
独身とはいえ医師なので、研修医期間が終わった時、最上階の2LDKの部屋が俺の部屋になった。夫婦や家族で住む者は低層階に固めているらしい。
この部屋に暮らすようになって二年ほど経つが、状態は越してきた頃とあまり変わらない。寝に帰るだけの部屋だから、必要最低限のものしか置いていなかった。
ベッドだけは、睡眠の質を考えていいものに買い換えたが、「勉強にだって、いいデスクが必要なのよ!」とインテリアにうるさい長姉がローズウッドのデスクを届けてきた。
上品な飴色をした艶のある木製のデスクは、確かにサイズもデザインもいい。だが、別にパイプデスクでも変わらないだろうというのが本音だった。
勉強するのは俺であって、やる気が出るかどうかは、デスクの質よりその日の気分や体調の方が重要だと思っている。
――そう。重要なのは俺自身の気持ちだ。だから、今日のように苛立って文字が頭に入らない日は、勉強したって効果は薄い。
わかっているが、何もしなければ、頭に浮かぶのは御園のはにかんだ、幸せそうな笑顔。
そして、それをもたらしたのが祖父らしいという事実。
そのことに苛々しながら作った夕食は、我ながら最悪の出来だった。
まともだったのは、電子レンジで温めるタイプの米だけで、味噌汁は薄かったし、鰺は真っ黒に焦げたし、白菜の浅漬けは鷹の爪を入れすぎて辛さしかなかった。
捨てるわけにはいかないので食べたが、明日が休みでよかった。腹を壊しかねないひどさだった。
食器を片づけたあとは、薄い水割りを作ってグラスの中の丸い氷を眺めた。
「…………」
休日前の夜は、参加できなかった学会のDVDを見たり、海外の最新医療を調べるのが習慣だったのに、何故か今日は感情の切り替えが上手くいかない。
――三ヶ月も一緒にいて、俺は御園のあんな顔を見たことがない。
嬉しい、だけど恥ずかしいといった表情を見たのは初めてだ。
ぎこちないほど身構えていた最初の頃に比べたら、ずいぶんと打ち解けてきたし、互いに笑ったり冗談を言い合ったりするようになっていた。
だが、あんな――ただ純粋に幸せしか感じていないような、可愛いとしか言えない顔を見たことはなかった。
誰が見ても、あの時の御園は可愛いと思うだろう。それが、無性に腹立たしい。
「ちょっと待て。俺以外に向けて可愛い顔をされたからって、どうして腹が立つんだ」
――自分で突っ込んでから考えるが、要するに……俺は御園が好きなのか?
御園は仕事は真面目で、人当たりも悪くはない。愛嬌を振りまくタイプではないが、大瀬とは仲がいいようだ。
保護者からの質問も、きちんと聞いて俺に伝えるし、勝手な判断もしない。それでいて、俺が対応に困るタイプの相手――話が長引いて診察時間に影響しそうなMRなどへは、毅然と「そろそろ時間ですので」と自分が悪役を買って出る。
空気を読むというか、俺の気持ちをすぐに察してくれた。おかげで、俺は気持ちよく診察ができる。今のところ、俺は御園に対して好感しかなかった。
嫌いな部分は、特に見つからない。正確には、御園舞桜という人間をそれほど知らないのだ。
顔は、正直好みかどうかわからない。……可愛いとは思うが、深く考えたことがなかった。
スタイルについても同様で、気にして見たことがない。身長体重共に標準か、やや痩せ型だろうという程度だ。
御園に対して、好感――ある意味、好意とも言えるだろう――があるのは認める。
だが、好意イコール恋愛とは限らない。
自分で言うのも何だが、これまで「医師」や「実家が病院」という肩書きに寄ってくる女が多かったせいで、疑い深い性格になっているのは否めない。
他にも原因は色々あるが、俺は結婚や交際なんて面倒くさいと思っている。
なので、俺が御園に好意を持ったのは、御園が俺に興味を持っていないからだ。
……待て、その思考もちょっとおかしい。
咄嗟に、思考にストップをかける。
自分に無関心な相手だから惹かれるというのは、心理的にマズいのではないか。
好感ではなく好意があると自覚した途端、俺は何故か御園舞桜に対しての感情整理が上手くできなくなっていた。
こういう時は――寝るに限る。寝るのが一番いい。
俺は答えのない思考を続けるのが嫌になって、ベッドに入った。
* * *
「舞桜ちゃん、ここに憧れの先生がいるらしいんですー。調べた結果……知りたいですか?」
患者に向けているにこやかな笑顔ではなく、からかう気満々の笑顔で大瀬が声をかけてきた。
交換条件として「色気駄々漏れにするの、いい加減やめてくださいね」と言われたが、そんなものは俺の意識下にないので知ったことではない。
御園の憧れの医師。人生を決めさせた相手。
気にならないわけがない。俺は、どうやら御園のことが好きらしいので。
そして、聞かされた名前に落ち込んだ。
――篠宮晃。
嫌というほど聞き慣れた祖父の名前。俺にとって、絶対に敵わない相手だった。
医師としてはもちろん、人間性というか器量の部分でも太刀打ちできない存在だ。
御園の憧れが祖父だと聞いた俺が、冗談だと一蹴しなかったことで、大瀬に「心当たりがあったりします?」と聞かれた。
あの日、病棟で祖父を見た時の御園の顔。
あんな「恋をしています」としか言えない顔を見ていたら、信じざるを得ないだろう。
「だから。そーいう色気駄々漏れは、やめてくださいって言ってるじゃないですか」
今日来院予定の患者のカルテを整理しながら、大瀬が呆れている。御園は受付に他の診療科の急な休診その他を確認しに行った。たまに、耳鼻科に来た子供がこちらに回されることがあるからだ。
「悪いが、俺は男に色気なんか感じないからわからない」
「女にも色気感じたことねーくせに、何言ってんだかですよ」
「あのな」
「交際経験があるのと、恋愛経験があるのは別ですからね。生理的な欲情と心理的な欲情は別モノです」
患者である子供達やその保護者には優しい大瀬は、俺にはきつい。
「子供相手の職場なんだし、もう少し言葉を選んだらどうだ」
「はっきりきっぱり言わないと、深窓のご令嬢には伝わりませんので」
「上司相手にもパワハラモラハラは成立するって知ってるか?」
「だって環センセ、自分が深窓のご令嬢並みに箱入りの自覚があるって、言ってたでしょ」
多少はあるが、そもそも箱入り息子と深窓の令嬢は決定的に違うと思うが。
「それに――舞桜ちゃんの憧れ、初恋の人が院長先生だからって、拗ねるなんてガキかよって話です」
「……そんなにわかりやすいか、俺は」
「まあ、研修医時代を入れると、四年近く一緒に働いてますから。嫌でもわかりますよ」
俺は、大瀬のことはさっぱりわからないままだ。
「告白すればいいじゃないですか。のんびりしてたら、横からかっ攫われますよ。舞桜ちゃん、普段は無表情美人さんだけど、笑うとめちゃくちゃ可愛いし」
大瀬は、何かを思い出して、うっとりしている。
「職場恋愛は禁止じゃないんだし、言うだけならタダです。……告れよ」
ここまで率直に言われると腹も立たない。というか、感心する。
裏表がないというより、大瀬は貪欲なくらい自分に正直だ。
「……その、どこまでも自分中心な生き方は、尊敬する」
「あたしの幸せを、あたしが最優先にしなくて誰がしてくれるってんですか! いや、ほんとの最優先は娘で、あたしと夫はその次ですけどね!」
「もっともらしく惚気るな」
「真面目な話。好きなら好きって言わなきゃですよ。環センセは、受け入れ型の流され型だから、今の不安定な状態はちょっと心配です」
「心配?」
「適当な女のハニートラップにかかって、結婚まで持ち込まれそう」
「それはない」
断言した俺に、大瀬は何故か説教モードに入った。
「センセのことは四年、舞桜ちゃんのことは三ヶ月、一番近くで見てきた第三者として申し上げますが」
「……はい」
今の大瀬には、逆らいがたい、有無を言わせない迫力があった。
「舞桜ちゃんもセンセと同じで、『恋愛』ってものがわからないタイプです。だから、どれだけセンセが待ってても、あっちからアプローチしてくることは、絶対にない」
据わった目で断言される。
そろそろ診察時間が始まるというのに、何故俺は、こんな会話をしているのだろう。
「好きなら好きって言いなさい。――この何とも言えない空気がずっと続くなんて、あたしには耐えられないんですよ! 甘酸っぱい青春ですか、もうすぐ三十路でしょうが!」
「三十路まで、まだ二年ある」
「男が細かいこと言うな!」
こういう時だけは、男女同権にはならないらしい。
言いたいことを言ったあと、大瀬は俺の答えを待たずに、「もうすぐ舞桜ちゃん戻りますから」と、話を打ち切った。
――確かに、このままだと俺も落ち着かない。
そして、自分が如何に受け身で生きてきたかを思い知らされた。
「大瀬」
「何ですか? あたし、診察前は忙しいんですけど」
「告白したことがないから、最適解がわからない」
「センセはお勉強の偏差値は高いけど、恋愛偏差値は低いですからね……」
心から哀れんだ視線を向けられ、俺はデスクに突っ伏した。
――駄目だ、御園に何をどう言えばいいのかさっぱりわからない。ごく自然に告白できる人間を尊敬する。
だが、このままでいたって、大瀬の言う通り、何ら進展はないだろう。
好きな相手に、好きだと告げられるのは、自分に自信のある奴なんだろうなと思った。
それでも、伝わらなければ始まらない以上、俺は御園に「好きだ」と告白する決意をした。
3 先生と私の関係
今日は午前だけでかなりの患者さんが来たなあ……と思ったら、何のことはない、午後は環先生が休診だからだ。
篠宮総合病院が校医になっている中学校の健康診断があるらしく、先輩医師の補助として同行するそうだ。大瀬さんは行かなくていいのか聞いたら、それは別の看護師さんが行くとのこと。
なら、午後は診察室の片づけや、絵本やぬいぐるみの補修、買い換え依頼の資料を作成しようかと話していたら、環先生が何とも言えない無表情で戻ってきた。
怒ってるというより、どこか戸惑っているっぽい。
「……聖ヶ丘学院の中等部の健診に同行されたんじゃないんですか?」
大瀬さんとの「聞きなさい」「嫌です」の押し付け合いの結果、「先輩命令」に負けた私が、環先生に尋ねる。
「いや……行くはずだったんだが」
「はずだったけれど?」
「……断られた。代わりに、萩野先生を指名された」
環先生は診察デスクに座り、ずーんとダメージを受けている。
私と大瀬さんは顔を見合わせ、小声で言葉を交わす。
(断られたって……どうしてですか?)
(わかんない。聖ヶ丘の健診はずっとうちが担当してるのに。っていうか、あの学校自体、篠宮さん家の経営だから)
医療グループだけでなく学校法人まで経営とは、やはり篠宮家はお金持ちだ。
そこで、私は不意に気づいた。
「……あの、環先生。聖ヶ丘って幼稚園から大学までの一貫校ですよね?」
「ああ」
聖ヶ丘は、地元でも有名なお坊ちゃま、お嬢様学校である。
「……中等部の女の子から、というよりその保護者から? 健診とはいえ男性医師は困る、みたいな苦情があったとか」
「……身長体重、視力聴力の測定と、脈を診る程度だぞ」
「ですから、脈を診るにしても、手首で取れなかったら首とか胸とか触るじゃないですか。あと心音検査で胸はどうしても触っちゃいますし」
「医療行為だろ」
愕然とする環先生に、私はおもむろに告げた。
「私も先日AEDの使い方講習を受けましたが、『若い女性に施す場合は、女性が率先して処置してあげてください』と言われました。男の人だと、その、痴漢と勘違いされることもあるとかで」
「……」
絶句している環先生の気持ちはよくわかる。私も緊急事態にそんな余裕があるかと思った。
例えば、私が倒れたとして。環先生と、通りすがりの女性、どちらにAED処置してもらいたいかといえば、間違いなく環先生だ。だけど、見知らぬ男性に胸とか見られたくない、触られたくないという女性の気持ちも理解できる。
「たぶん、環先生が駄目なのではなく、男性医師が駄目だったんじゃないかなと」
その証拠に、環先生の代わりに指名された萩野先生は女性である。
おそらく、事前にそうした連絡が、あちらとこちらで上手くできていなかったのではないだろうか。
「……それならいい」
何とか自分を納得させたらしい環先生は、私と大瀬さんに頭を下げた。
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