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水晶の日-上-
しおりを挟む大人になるのが怖い。
それは、物心ついた頃から、漠然とした恐怖として、私の心に居座り続けていた思いだ。
ごつごつした身体の、大人の男の人。
ふわふわした身体の、大人の女の人。
生き続けていれば、そのどちらかになる…いや、なってしまうという決定事項は、私を絶望させた。
私は、私の身体を気に入っていたのだ。
細くて、しなやかで、お風呂場の鏡に映る全身の輪郭も、公園の地面に伸びる影の形も、とても美しいと思っていた。
やがて、私は性別の違いが、下着の種類と、トイレのどちらに入るのかという区別だけでないことを知った。
現実から逃げたくても、日常を生きているうちに、私の身体は徐々に〝女性〟になっていく。
腹痛と頭痛と気分の悪さに耐えなければいけない日がくると、人一倍憂鬱で、それが子を成す為の準備であるという事実も、私を絶望に追い込んだ。
だから私は当然のように、現実からの逃避先として、本や映画や音楽といった創造物の世界にのめり込んでいった。
教室の窓際、一番後ろの席。
昼休み、私は春の雨の音を聞きながら、スマホで恋愛映画を観つつ、ぼんやりと過ごしていた。
すると突然背後で、
「あ…」
という声がして、私は振り向いた。
丸いセルフレームの眼鏡を掛けた女の子が何か言いたげにこちらを見ている。
おさげにしてる髪は艶々で、すっぴんの肌もとてもキレイだ。
「ご、ごめんなさい! 覗くつもりじゃなかったんだけど」
慌ててそう言う彼女は、目を逸らしながら手を振る。
「…私もその映画、好きなの」
「あ……そう、なんだ」
つられて私も、妙に緊張した喋り方になってしまう。
初めて観る洋画で…しかも、そんなに面白くないな…と思っていた矢先だったから、少し面食らってしまったというのもある。
「突然ごめんね!私は、棚橋 沙梨。……ええと、樫野 由仁さん、だよね?」
「え、うん」
私は答えながらも、見た目のイメージに反して距離を詰めてくる彼女…棚橋さんを、少し警戒していた。
「樫野さん、映画好きなの? 私、趣味の話が出来る人探してたんだ」
「そう、なんだ。…うん、よく観るよ、映画」
「本当⁉︎ あ、ねぇねぇ、この前公開された〝恋逃げ〟の映画版、観た⁉︎」
恋逃げ? …ああ、〝どうやったって恋から逃げられない〟の略か。
「あ、それはまだ観てない」
「そうなの? すっごい良かったよ! 私また観に行こうと思って」
「え? 映画館に?」
「そうだよ、もちろん」
棚橋さんは、ニコッと可愛らしい笑顔を浮かべる。
私は、同じ映画を映画館で何度も観る人って、本当にいるんだ…なんて事に感心していた。
「良かったら、一緒に行かない?」
「えっ⁉︎ えぇと……」
私が戸惑ったのを見て、棚橋さんはハッとして、
「あ、そ、そうだよね! いきなり過ぎだよね、ごめんね」
しゅんとした様子で、肩を落とす。
その時、昼休み終了のチャイムが鳴り、棚橋さんは、そのまま席に引き返して行った。
私はその瞬間、つきり、と胸に小さな痛みを感じた。
「た、棚橋さん、あとで話そ!」
気がつくと、私は彼女の背中にそう声を掛けていた。
棚橋さんはびっくりして振り向いた後、私を見て、「うん!」と跳ねるような声で返事をしてくれた。
次の土曜日の朝、私たちは映画館が入ってるショッピングモールで待ち合わせをした。
劇場入口に現れた棚橋さんは、白いブラウスにベージュのジャンパースカートを可愛く着こなしていた。…まるでデートに挑む女子みたい。
対して、パーカーにデニムスカートという普段着の私は、彼女に隣に立たれた瞬間、言いようのない恥ずかしさを覚えた。
二人で先にチケットを買いに行ったが、並んで取れる席が端っこしか無いので、真ん中付近の席が取れる午後の上映回のチケットを買う。
上映時間まで数時間、私たちは暇つぶしに、お店を見て回る事にした。
歩きながら、ふと横を見やると、可愛い格好の棚橋さん。
隣を歩く私の事を、彼女はどう思ってるんだろう…と、少し不安になる。
そんな私の気持ちの揺らぎに気づいたのか、棚橋さんは、こっちを向いて、にっこりと笑う。
そして、おもむろに私の手を取った。
私はビックリして、頭の中が真っ白になる。
棚橋さんの、少しひんやりとする、なめらかな手に引かれて、歩いた。
誰かと手を繋いで歩くなんて……何年振りだろう。
「ねぇ、服見に行かない?」
その言葉に、ドキリとする。
どうして、私が考えてる事が分かったの?
彼女と手を繋いだまま、ファストファッションの店に入った。
流行りの服は、基本どこのお店も高いけど、ここで買えば、質はともかく同じようなアイテムが安価で手に入る。
棚橋さんは、あちこちから手当たり次第に服を取っては、楽しそうにわたしの体に当ててみていた。
その雰囲気にのまれて、若草色のワンピースと白の細ベルトを試着し、買ってしまってから、はたと我に返る。
「かわいい! ゆにちゃん、そういう服似合うね」
その一言が、私の記憶に強烈に残っていた。
紙バッグにパーカーとデニムスカートを畳んで入れ、私はワンピースに着替えて歩く。
「ミュールかサンダルもあわせられれば良かったんだけどなぁ」
ニコニコ笑いながら、残念…と棚橋さんは言う。
私は足元を見る。いつものスニーカー。
いくら安い店とはいえ、流石にサンダルも一緒に買ってしまったら、今日のお昼ご飯代も無くなってしまう。
……とはいえ。
私は、自分から歩くたびに広がり、揺れるワンピースの裾に正直心を奪われていて、小さな頃、ドレスに憧れて可愛いワンピースを親にせがんだ事をぼんやりと思い出していた。
「少し早いけど、お昼ご飯食べる? ちょうどいい時間は、どこも混んじゃうよね」
棚橋さんは、慣れた感じで私をフードコートまで誘導する。
「お買い物させちゃったもんね。あ、ここのパスタ、安くて美味しいよ」
お店の一覧のボードをピッと指差して、彼女は言う。
「あ……」
知ってる。そこ、私が好きで、よく食べるワンコインのパスタ屋さんだ。
私は、次々と合わさっていく棚橋さんとの好みに、ドキドキする気持ちが収まらなかった。
パスタ屋さんに二人で並んで、私はボロネーゼを、棚橋さんはジェノベーゼを頼んだ。
……ジェノベーゼ。
「それ、美味しいの?」
テーブルに向かい合わせて座り、彼女の前にあるお皿に盛られた緑一色のパスタを見て、私はふと訊いてみた。
「うん。あれ、ゆにちゃん食べた事ない?」
「うん、知らない食べ物に挑戦するの、少し苦手……」
「ちょっと食べてみる? まだ手をつけてないから」
言うなり、彼女は立ち上がり、「あ……」と声を掛けそびれた私を置いてお店に戻ると、子ども用の小さい器を持って戻ってきた。
そして、そこにいそいそと一口分をキレイに盛って、笑顔で私に差し出す。
まいったな……これ、断れないやつだ。
棚橋さん、結構強引なところがあるみたい……。
私は仕方なく、その一口分から半分だけをフォークに絡め、口に運んだ。
「………。………!」
数回噛んで、私は思わず棚橋さんを見る。
「美味しい…!」
「良かった!」
彼女も、にっこり笑う。
……びっくりした。
見た目に反して凄く食べやすい。バジルの香りも程よく、チーズのコクと風味がクセになりそう。
器に残った分をフォークで取っていると、
「………ふふ」
不意に棚橋さんが笑った。
「え、どうしたの?」
「んーん。でも、ゆにちゃん今、緑が大好きな人みたいになってる」
言われて、はたと気づく。
若草色のワンピースに、深いグリーンのジェノベーゼ。
「……ほんとだ」
私も、思わず吹き出した。
「ゆにちゃんのも、少し貰っていい?」
「え、うん」
「あ、いいよ、そのままその器で」
私はボロネーゼのソースごと、一口分、器によそって、棚橋さんに差し出した。
……なんだか、凄い仲良し同士がするような事を、棚橋さんはスッと自然な振る舞いで誘ってくれる。
その感じが心地よくて、私は思わず微笑んだ。
棚橋さんは上品な手つきでパスタを絡め、口に運ぶ。……なんて言うか、すごく、きれい。
「美味しいね。私、いつもコレだから、違うのを久しぶりに食べた」
「そうなんだ。今度きたら、それ頼んでみようかな」
「気に入った?」
「うん」
私が言うと、彼女はにこにこ笑う。
……こんな楽しいご飯、はじめてかも。
入場時間になり、二人で映画館に入る。
……教室で声を掛けられた時は、そんなに乗り気じゃなかったのに、今はなんだかすごくワクワクしてる。
座席に座ろうとした時、右隣の棚橋さんと目が合って、私はなんだか心地良い気分に包まれていた。
映画が始まる。
目の前に大きく広がる物語。
画面を見るというよりも、その中に入っていくような錯覚が、とても心地いい。
〝どうやったって恋から逃げられない〟──。
去年のお正月明けから始まったドラマの最終回の、その後を描く、ありがちな劇場版。
ゲストは、人気グループのメンバーと、去年の秋に主演映画が大ヒットした熟年俳優。
作品のファンも納得のいく、贅沢だが冒険のない映像と物語……。
……わかってはいたけど、ああ、やっぱりか……と落胆する自分はごまかせない。
そんな時、
「………!」
椅子の手すりに乗せた私の右手に、少しひやりとした、柔らかな手が被さった。
「棚橋さ………」
そちらを向いて、私は息を飲む。
彼女は、スクリーンの青白い光を浴びながら、静かに涙を流していた。
その透明感のある横顔に、胸を打たれた私は、前に向き直る。
主人公と、その彼氏が、震えながら抱き合い、お互いの気持ちを確かめていた。
棚橋さんには、とても美しい情景に映っているのだろう。
その純心さに、私は今までにない胸の高鳴りを感じていた。
……重ねられた棚橋さんの手、その指が、戸惑う私の指の間に、するん、とおりてくる。
私は迷いながら、それでも手を引っ込める事はせず、彼女の指を、きゅ、と挟む。
それはまるで、スクリーンの中の、ふたりの身体のような、甘い絡まり。
……やがて、物語はクライマックスから、余韻を残すラストシーンへと繋がっていく。
エンドロールが流れ、劇場全体が明るくなるまで、私たちは絡めた指を解かなかった。
「面白かった!」
棚橋さんは、映画館を出るなり、とてもスッキリした顔と声で、そう言った。
「うん、そうだね」
私は、まださっきのドキドキが残ってる。
「2回目だけど、やっぱり良かったなぁ。また泣いちゃった」
しみじみと言う彼女は、そのシーンから私と手を……。
その時の事を思い出し、私は顔が赤くなっていくのを感じた。
どういうつもりだったんだろう?
映画のストーリーに飲まれていない今、私は気持ちを少し落ち着かせながら、考えていた。
隣を歩く彼女の想いが、知りたい……。
「そろそろ帰ろうか」
「え⁉︎ あ……うん……」
突然切り出された私は、驚きながらも、頷くしかなかった。
〝棚橋さん、どういうつもりだったの?〟
その言葉を口から出せず、私はもやもやした気持ちを抱えながら、彼女と二人、ショッピングモールを出た。
辺りは暗くなり始め、駅やバス停に向かう人の流れもピークを迎えている。
彼女は電車、私はバス。
ここでお別れになる前に、確かめたい。
「あの………」
私の呼び掛けに、
「なぁに?」
彼女は微笑んで、私の方を向く。
「棚橋、さん………」
〝さっきの、は………なんだった、の?〟
胸の中にだけ響く、頼りない言葉。
それを、見透かすように、棚橋さんは私の前に来ると足を止め、私を制止した。
夕暮れの紫を背負って、彼女は少し大人びた笑顔を浮かべながら、私を見る。
そして、正面から私の両手を静かに取って、そのまま半歩近寄ると、私の唇に、優しく唇を重ねてきた。
それは、一瞬の出来事過ぎて、私が気がついた時には、彼女はもう私から離れていた。
まぼろし?
……いや、そんなわけ無い。
だって、この唇には、彼女の感触と体温が残ってる。
「──ねえ、ゆにちゃん」
棚橋さん。
「……私の事は、沙梨って呼んで」
……さり、ちゃん。
「ゆにちゃん、私……もっと、あなたとなかよくなりたいな……」
愛おしげな目でそう言った沙梨ちゃんに、
私は、生まれて初めて、恋をする、という気持ちを知ったのだ。
了
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