リンゴカン

四季人

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リンゴカン ソノイチ

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 あの甘くて爽やかな香りを嗅ぐと、
 頭に浮かぶのは祖母の家の布団だ。

 匂いは記憶と結びつきが強いという話は本当の事。
 弱火にかけた鍋の近くに顔を寄せると、熱に乗ってふわりと立つ、林檎の甘い香り。
 その香りに包まれると、私の心は幼少期の私にリンクする。

 祖母は近所から林檎をもらうと、それを煮ていた。
 祖母は古い人であったので、『生の物はいけない。お腹を壊す』と言い、蜜柑や柿であっても火を通す。
 だから、私は祖母の家で生の物は食べた事が無かった。

 冬の夜、冷たい布団に潜り込むと、襖で隔てたお勝手から林檎の香りが漂ってくる事があった。
 回数で言えば大した事ないが、つまりその分強い印象だったのだろう。
 少しだけ柑橘と肉桂が混じった、クセになる匂いが鼻腔をくすぐる。すると、自然と口の中がじゅわりと潤ってくる。
 明日にはジャムになってトーストの上に乗っているか、パイ生地に包まれて芳ばしく焼き上がるのだろうと思いを馳せると、胸が弾んでしまって、しばしば眠れなくなっていたものだ。

 祖母が亡くなって、しばらく経つ。
 あの香りは、もう私の記憶の中にしか残っていない。
 その寂しさが、余計に林檎の香りを恋しく感じさせるのだろう。
 だから、家の近所の直売所に紅玉が並ぶと、私は思い出を手繰るように、それを買い求めるのだ。

 よく洗った林檎の皮を剥き、煮立った湯に浸けてから、セイロンの茶葉をふた匙入れたポットに注ぐ。
 色付いたアップルティーをカップに移すと、あの頃の気持ちまで甦ってくるようだ。
 一口ずつ、爽やかな林檎の香りを楽しみながら、調理を続ける。
 鍋の中には切った林檎と、檸檬汁と、砂糖。
 それらが火にかかると、目の前の光景とは別に、祖母の家にあった、微かに防虫剤の匂いがする布団の中を思い出す。
 次の日に食べた物より、ワクワクして眠れなかった時間の方ばかり思い起こされるのは面白い。

「いいにおい!」
 後ろから駆け寄ってくる娘に、
「待っててね」
 私は微笑みかけながら、肉桂粉を鍋にひと摘み振り入れる。
 祖母譲りの、林檎のコンポート。
 味も香りもほぼ一緒なのに、私とこの子では、思い出は異なっていく。
 それをどこか不思議に思いながら、私は林檎の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

                             了
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