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たま

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バイト

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朝起きた時、私は一瞬どこにいるのか分からなかった。

「あぁ、そうだ。一人暮らし始めたんだった。」

起き上がるとテレビが朝のニュースを流していた。テレビも電気も付けっ放しにして寝た事を思い出した。
カーテンを開け、外の光を取り入れる。さすがに朝になってしまえば恐怖は感じなかった。
今日は午前中にバイトの面接がある。
朝ご飯を適当に食べ、一番まともな服を着て化粧をした。
途中隣から何か物音が聞こえた気がしたが、隣は誰も居ないと言った管理人さんの言葉を思い出し、隣では無く上の階の人かもしれないと思い至った。

「時間だ!」

私は履歴書をカバンに入れ慌てて部屋を出た。今日は快晴、少し肌寒いが気持ちの良い風が通り清々しかった。

「しまった洗濯忘れてた!」

今まで母が毎日洗濯してくれていた。私はこれからは自分で全てしなければいけないという事をすっかり忘れてしまっていたのだ。

「まぁ、2日分明日回せば良いか。」

どうせ今からでは間に合わないので諦め面接先へと向かった。
私が面接を受けるのは、大学の近くにあるパン屋さんである。
ちょうどアパートから大学までの真ん中付近にあるパン屋なのだが、求人募集の紙を貼っているのを見てすぐに電話をかけた。
面接と言っても採用は電話の段階でほぼ決定しており、いつから入れるかの確認や、エプロンの支給、そして業務内容の確認をすると聞いていた。
しばらく歩くとそのパン屋さんが見えてくる。
ログハウスの様な見た目のパン屋さんで、ふんだんに木が使われている。

「花ぱん、、」

それがお店の名前である。花さんという30代の女の人が1人で切り盛りしている小さなパン屋さんなのだが、1人でする事に限界を感じ今回求人募集を出したそうだ。
私の他に主婦の方が2人入ると言っていた。
パン屋の扉を開けると、カランカランと鐘の良い音が鳴り響いた。
狭い店内は中も木を基調とした作りで、大人が5人も入ればギューギュだろうか? 
入って直ぐ目の前に食パンが置いてあり、そこから左に菓子パン、調理パンが並べられている。
バターの香りが漂い私のお腹がグーっと鳴った。

「いらっしゃいませー。」

中から女の人の声が聞こえてくる。

「あの、中本紗凪です!」

右側にレジがあり、その奥に厨房へ続く開けっ放しの扉がある。
店主の姿が見えないので厨房でいるのだろう。私は大きな声で名乗った。

「あぁ、中本さんね!」

奥から現れたのは色白のふくよかな大福の様な女性だった。
店主の坂本夏実なつみさんである。

「良かったわぁー!ねぇ、申し訳ないんだけど、今日から入ってくれない?」

よほど忙しかったのだろう、額の汗をタオルでゴシゴシ拭きながら申し訳なさそうに頭を下げて来た。

「はい!でも、私バイト自体初めてなので…。」

役に立てるかどうかは分かりませんよ?という言葉は飲み込み、不安そうな顔で坂本さんを見た。

「電話でそれは聞いてるわ。バイトした事ある人だって、新しい所に入れば皆そこでは初めてでしょ?そんなの気にしなくて良いのよ!じゃぁ、エプロン渡すから、これ付けて手を洗ってくれる?」

「はい!」

麻でできた生成色のエプロンをつけ、私は厨房へ入った。1人で切り盛りしてきただけあって厨房はとても狭く、通路は人がすれ違うのがやっとぐらいの広さだ。
オーブンも想像していたより小さく、家庭のオーブンに毛が生えた程度であり、何だか拍子抜けした。

「狭くて驚いたでしょ?」

「…そんな事は。」

私の反応を見て坂本さんが笑った。

「良いのよ。1人でやっていくつもりだったから、狭く狭く作ったのよ。でも1人だとトイレもままならないでしょ?買い出しにも行けないし、やっぱり限界があるのよね。中本さん、来てくれて嬉しいわ!これからよろしくね。」

坂本さんは柔らかい優しげな笑顔で私を見た。

「こちらこそよろしくお願いします。」

店主さんが良さそうな人なので、私は胸を撫で下ろしたのだった。
その日は私がレジに立つ時には坂本さんがずっと横に立って見守ってくれた。
最初恥ずかしかった、いらっしゃいませも、数回で慣れ、ぎこちなかった笑顔もいつの間にか自然に笑えるようになっていた。

結局、閉店時間いっぱいまで仕事をし、18:15にパン屋を出た。
帰り坂本さんから残った食パンを頂き私はホクホクである。
帰り道にあるコンビニで、マーガリンとサラダにコロッケを1つ買って店を出た。
前からサラリーマン風の男性2人が歩いて来たので、私はコンビニの壁ギリギリを歩いた。
すれ違いざまに、彼らの会話が耳に入って来る。

「直ぐそこの陸橋で飛び降り自殺があったらしいぞ。」

「あの交通量がめちゃくちゃ多い交差点の所か?あんな所で飛び降りたら…」

「あぁ、遺体はグッチャグチャだったらしい。」

「うわぁっ、気持ち悪っ」

そこからは聞こえなかった。
ここから少し歩いた大通りにある交差点の陸橋の事だろう。私は身震いした後自分の身体を抱きしめるように抱えた。
目と鼻の先で人が死んだのかと思うと恐ろしかった。
アパートに戻った頃には日は暮れており、私は小走りで自分の部屋へと向かった。
部屋の前まで来てホッとため息を吐く。

「一人暮らしって怖いんだなぁ。」

うっとおしいと思っていた家族の有り難みを感じながら鞄の中から鍵を取り出していると、ふと違和感を感じて顔を上げ振り返った。
空室だと言っていた私の隣、202号室に明かりが漏れていた。
玄関の扉の横がキッチンになっているのだが、そこに鉄格子付きの磨りガラス窓が付いているのだ。

「管理人さん?それか、新しい人が入ったのかな!?」

隣が空室というのが逆に恐ろしかった私は顔をほころばせた。わざわざ挨拶をするつもりはないが、生活していたらいつかは顔を合わすだろう。
私は鼻歌を歌いながら部屋に入り荷物を置くと、先にお風呂を溜めようとお風呂場へと入った。
このアパートはお風呂とトイレが一緒に置いてあるタイプもので、浴槽がとても小さい。
最初に見た時は、アパート暮らしの間はシャワー生活だなと思っていたのだが、立ち仕事をした後にお風呂に浸からないという選択肢は私には無かったようだ。

「ん?お隣さんもお風呂溜めてる?」

微かに水が流れ落ちる音がする。シャワーなのかお湯を溜めているかは判断出来なかったが、洗い物の音では無さそうだ。

「けっこう音が響くんだな。気を付けよう。」

私は軽く浴槽を洗うとお湯をひねり風呂場を出た。
お湯が溜まる間にトースターで食パンを焼き、サラダとコロッケを皿に盛り、小さなテレビの前にある小さな机に置いた。

「あっ!お風呂!!」

すっかり忘れていたお風呂のお湯を止めに行くと、湯船のフチギリギリまでお湯が溜まっていた。

「セーフ?」

お湯が冷めないように蓋をし戻ろうとして私は足を止める。隣からまだ水が出る音がしていたからだ。

「お隣さんの方が先に入れ始めてたから、絶対溢れてるな。」

私はクスクスと笑いながら風呂場を出て、簡単な晩御飯を食べた。
しばらくゆっくりした後に服を脱ぎお風呂場へと入る。

「はー、疲れた。ん?」

風呂場に入ると、まだ隣から水の音が聞こえた。これではもう溢れ返って床までビチャビチャなのではないか?そんな心配が生まれてくる。

「仕方ない。」

私は風呂場から出ると、脱いだ服をもう一度着て玄関を出た。面倒臭くはあったが、隣の人に挨拶が出来るのでまあ良いかと廊下を歩き私は驚いた。

「えっ?電気が消えてる?」

先程付いていたキッチンの電気が消え真っ暗になっていた。中の電気も消えているのだろう。外には光が一切漏れていない。

「お風呂入れたまま出かけちゃったの?」

ピンポンを押そうと思ったが、もし寝たのでは申し訳ないような気がして押すのをやめた。どうしたら良いのか分からなくなって私はとりあえず部屋へと戻った。
お風呂場へ入り隣の音を確認すると、水の音はしなくなっていた。

「良かったー。お湯止めてから出かけたのかな?」

そうなればかなりのタッチ差なのだが、私がモタモタと服を着ている間に出かけてしまったのだと思えば納得出来た。

「まぁ、また会えるか。」

私はやれやれとまた服を脱ぎ、お風呂で足をマッサージしながら目を閉じた。

「店長さん良い人だったなぁ。」

これから良い大学生活が始まる。私はこの時そんな風に思っていた。
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