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第一章 尾張の風
第一章 尾張の風
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天正十年(1582年)六月二十一日。
京都・本能寺の庭には、梅雨の湿気が重く垂れ込め、空は鉛色に塗りつぶされていた。
蝉の声はまだ聞こえず、代わりに蛙の鳴き声が池の周りに響き渡っていた。
寺の境内には、夏の訪れを告げる草木の匂いが漂い、微かに腐った水の匂いが混じる。
本能寺の二階、信長が眠る部屋の襖は半開きのまま。
外の明かりが薄く差し込み、床の間の掛け軸――「天下布武」の四文字が、幽かに光を受けていた。
「⋯⋯天下布武か」
信長は目を閉じながら、その文字を心の中で呟いた。
「布くのは武か。それとも、夢か」
彼の脳裏には、尾張の田園風景が浮かんでいた。
幼き日の記憶。
天文三年(1534年)五月十二日。
尾張国那古野城――現在の名古屋城の前身――の奥で、一人の男児が産声を上げた。
「男の子でございます!」
産婆の声に、城主・織田信秀は眉をひそめた。
「名は⋯⋯何とつけようか。」
「三郎とでも⋯⋯」
「いや。信長としよう。」
信秀は静かに言った。
「信長⋯⋯か。」
産婆は首を傾げた。
「信長とは、いかなる意味で?」
「信を以て天下を長ずる、という意味だ」
産婆は笑った。
「おや、大それた名前でございますね」
信秀は笑わず、ただ遠くを見つめた。
「この子は、尋常ならざる者になるかもしれん」
信長の幼少期は、周囲から「うつけ者」と呼ばれた。
十二歳の時、父の葬儀の最中、彼は仏壇に松明を投げ入れた。
「父よ、火葬こそが仏の教えだ。無駄な供養など、塵に等しい」
周囲の者は凍りついた。
「この若君、狂っている!」
「尾張のうつけ者、織田三郎信長⋯⋯」
だが、信長は平然と立ち上がり、庭の梅の木を見上げた。
「梅は、香を競わずして、ただ咲く。それが美しさだ」
彼の言葉は、誰にも理解されなかった。
尾張は、戦国乱世の縮図だった。
東は今川義元、西は斎藤道三、北は一向一揆、南は海賊衆――四方を敵に囲まれ、小さな国でありながら、常に火の粉が降りかかる土地。
信長は、その中で「異常者」として生きることを選んだ。
彼は能を好み、茶の湯に凝り、和歌を詠み、しかし剣術にも優れ、馬術にも長けた。
「常識など、古い者の言い訳だ」
彼はそう言い、金襴の着物を着て城下町を歩き、町人を驚かせた。
「あの若君、女装しているのか?」
「いや、あれは中国の装いだという」
「何を言っている。戦国武将が、異国の服を着てどうする!」
だが、信長は気にしない。
「美とは、自由である」
天文二十三年(1554年)。
信長は二十歳になった。
その年、彼は美濃の齋藤道三の娘・帰蝶(のちの濃姫)と政略結婚を結ぶことになった。
「濃姫か⋯⋯」
彼は城の天守で、地図を広げていた。
「美濃は、山に囲まれ、木曽川が流れ、稲の実る国。だが、斎藤道三は、『美濃の蝮』と呼ばれる冷酷な男」
「その娘が、我が妻になるというのか」
「はい。政略です」
と家臣が答えた。
「政略か⋯⋯」
信長は笑った。
「ならば、俺も政略で返そう」
婚礼の日、那古野城には豪華な飾りつけが施された。
だが、信長は現れなかった。
代わりに、一人の男が現れた。
「若君は、城の裏手におります」
「何を言っている! 婚礼の最中だぞ!」
「彼はこう言っておりました。『美濃の蝮の娘が来るなら、俺は蝮の顔を見せてやろう』と」
やがて、信長は現れた。
裸足で、乱髪をなびかせ、太刀を腰に差し、顔には朱を塗り、口には金粉を塗っていた。
「ようこそ、美濃の姫よ」
濃姫は、その姿を見て、一瞬、目を見開いた。
だが、すぐに微笑んだ。
「あなたが、織田信長⋯⋯」
「うつけ者、三郎信長、と呼ばれております」
「うつけ者? いいえ。あなたは、狂気の裏に理性を持つ者ですわ」
信長は目を見開いた。
「なぜ、そう思う?」
「蝮の娘が来ると言ったなら、普通の武将なら正装で迎えるでしょう。あなたは、逆を行った。それは、計算された狂気」
信長は、初めて誰かに理解された気がした。
「濃姫⋯⋯。お前は、面白い女だ」
「あなたも、面白い男ですわ」
二人は、笑い合った。
その夜、信長は濃姫に言った。
「俺は、この戦国を終わらせる」
「どうやって?」
「天下を取る」
「⋯⋯その夢、叶うでしょうか」
「叶わぬ夢なら、夢と呼ばぬ」
京都・本能寺の庭には、梅雨の湿気が重く垂れ込め、空は鉛色に塗りつぶされていた。
蝉の声はまだ聞こえず、代わりに蛙の鳴き声が池の周りに響き渡っていた。
寺の境内には、夏の訪れを告げる草木の匂いが漂い、微かに腐った水の匂いが混じる。
本能寺の二階、信長が眠る部屋の襖は半開きのまま。
外の明かりが薄く差し込み、床の間の掛け軸――「天下布武」の四文字が、幽かに光を受けていた。
「⋯⋯天下布武か」
信長は目を閉じながら、その文字を心の中で呟いた。
「布くのは武か。それとも、夢か」
彼の脳裏には、尾張の田園風景が浮かんでいた。
幼き日の記憶。
天文三年(1534年)五月十二日。
尾張国那古野城――現在の名古屋城の前身――の奥で、一人の男児が産声を上げた。
「男の子でございます!」
産婆の声に、城主・織田信秀は眉をひそめた。
「名は⋯⋯何とつけようか。」
「三郎とでも⋯⋯」
「いや。信長としよう。」
信秀は静かに言った。
「信長⋯⋯か。」
産婆は首を傾げた。
「信長とは、いかなる意味で?」
「信を以て天下を長ずる、という意味だ」
産婆は笑った。
「おや、大それた名前でございますね」
信秀は笑わず、ただ遠くを見つめた。
「この子は、尋常ならざる者になるかもしれん」
信長の幼少期は、周囲から「うつけ者」と呼ばれた。
十二歳の時、父の葬儀の最中、彼は仏壇に松明を投げ入れた。
「父よ、火葬こそが仏の教えだ。無駄な供養など、塵に等しい」
周囲の者は凍りついた。
「この若君、狂っている!」
「尾張のうつけ者、織田三郎信長⋯⋯」
だが、信長は平然と立ち上がり、庭の梅の木を見上げた。
「梅は、香を競わずして、ただ咲く。それが美しさだ」
彼の言葉は、誰にも理解されなかった。
尾張は、戦国乱世の縮図だった。
東は今川義元、西は斎藤道三、北は一向一揆、南は海賊衆――四方を敵に囲まれ、小さな国でありながら、常に火の粉が降りかかる土地。
信長は、その中で「異常者」として生きることを選んだ。
彼は能を好み、茶の湯に凝り、和歌を詠み、しかし剣術にも優れ、馬術にも長けた。
「常識など、古い者の言い訳だ」
彼はそう言い、金襴の着物を着て城下町を歩き、町人を驚かせた。
「あの若君、女装しているのか?」
「いや、あれは中国の装いだという」
「何を言っている。戦国武将が、異国の服を着てどうする!」
だが、信長は気にしない。
「美とは、自由である」
天文二十三年(1554年)。
信長は二十歳になった。
その年、彼は美濃の齋藤道三の娘・帰蝶(のちの濃姫)と政略結婚を結ぶことになった。
「濃姫か⋯⋯」
彼は城の天守で、地図を広げていた。
「美濃は、山に囲まれ、木曽川が流れ、稲の実る国。だが、斎藤道三は、『美濃の蝮』と呼ばれる冷酷な男」
「その娘が、我が妻になるというのか」
「はい。政略です」
と家臣が答えた。
「政略か⋯⋯」
信長は笑った。
「ならば、俺も政略で返そう」
婚礼の日、那古野城には豪華な飾りつけが施された。
だが、信長は現れなかった。
代わりに、一人の男が現れた。
「若君は、城の裏手におります」
「何を言っている! 婚礼の最中だぞ!」
「彼はこう言っておりました。『美濃の蝮の娘が来るなら、俺は蝮の顔を見せてやろう』と」
やがて、信長は現れた。
裸足で、乱髪をなびかせ、太刀を腰に差し、顔には朱を塗り、口には金粉を塗っていた。
「ようこそ、美濃の姫よ」
濃姫は、その姿を見て、一瞬、目を見開いた。
だが、すぐに微笑んだ。
「あなたが、織田信長⋯⋯」
「うつけ者、三郎信長、と呼ばれております」
「うつけ者? いいえ。あなたは、狂気の裏に理性を持つ者ですわ」
信長は目を見開いた。
「なぜ、そう思う?」
「蝮の娘が来ると言ったなら、普通の武将なら正装で迎えるでしょう。あなたは、逆を行った。それは、計算された狂気」
信長は、初めて誰かに理解された気がした。
「濃姫⋯⋯。お前は、面白い女だ」
「あなたも、面白い男ですわ」
二人は、笑い合った。
その夜、信長は濃姫に言った。
「俺は、この戦国を終わらせる」
「どうやって?」
「天下を取る」
「⋯⋯その夢、叶うでしょうか」
「叶わぬ夢なら、夢と呼ばぬ」
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