『魔王（自分）が居ない世界って、案外悪くない。～転生先は、私を討った勇者夫婦の次男として～』

第五話：魔王の残滓と、次男の「不思議な力」

１．自我の芽生えと、記憶の亀裂
ルークが勇者夫婦の次男として生を受けてから、三年近くの時が流れた。彼の肉体は、完全にこの世界に順応し、言葉を操り、自分の意志で駆け回ることができるようになった。そして何よりも、彼の内側で、「ルーク」としての自我が、静かに、しかし確固たるものとして芽生え始めていた。
（私は、ルーク。カイとエリスの次男。ライオスの弟だ）
この自己認識は、かつての世界を支配した魔王アスタロトの強大な意識を、彼の魂の奥深くに押し込めるための、自己暗示であり、防衛線でもあった。彼は、この温かい家族の輪の中で生きるため、過去の威厳と孤独を自ら手放そうと努めていた。
しかし、肉体の成長は、魂の封印を緩ませる作用も持っていた。
ルークが、些細なことで感情を爆発させた時――例えば、積み木が上手く積めなかった時、兄ライオスに大切なおもちゃを取られた時――彼の周囲に、微弱な**「闇の粒子」**のようなものが、一瞬だけ発生するようになった。それは、彼の魂の奥底に眠る魔王の残滓が、感情の奔流によって漏れ出す、異変の予兆だった。
闇の粒子はすぐに霧散するが、その場にあったエリスの愛する花をわずかにしおれさせ、ライオスの玩具を冷たくさせた。
「おや、ルーク。どうした、今日はなんだか周りの空気がピリッとしてるな！」
父カイは、その異変を、まるで次男が持つ**「勇者としての才能」**であるかのように、前向きに受け止めた。「勇者の血筋は強いからな！ 気が高まっているんだ！」と豪快に笑う。
その鈍感なまでの愛情と誤解が、ルークの警戒心を緩ませる。彼らは、ルークの小さな苛立ちの中に、世界を再び混沌に陥れる可能性のある**「闇の種」**が潜んでいることに、全く気づいていないのだ。
２．過去の囁きと、魂の葛藤
ある夜、父カイは、兄ライオスとルークを膝に乗せ、暖炉の火のそばで、魔王討伐の物語を語って聞かせた。
「……父さんは、魔王城の奥深くへ、母さんと二人で進んだんだ。魔王は、それはもう恐ろしい姿で、玉座に座っていてね……」
カイは、その物語を、子供たちを怖がらせないよう、英雄譚として面白おかしく語る。しかし、ルークの意識は、その語りを聞くうちに、激しいフラッシュバックに襲われた。
（違う！ 違うぞ、カイ！ 私は恐ろしいだけではなかった！ 私は、お前たちが来るのを、長きにわたり待っていたのだ！）
ルークの脳裏に、玉座の冷たさ、魔族の顔、そして自分が勇者の剣を受けた瞬間の激しい解放感が、鮮明な光景として蘇る。それは、ルークとしての自我では決して持ち得ない、魔王アスタロトの記憶だった。
「……そして、父さんの剣は、母さんの聖なる光に導かれて、魔王の心臓を貫いたんだ！」
物語が終わった瞬間、フラッシュバックの衝撃で、ルークの全身の体温が急激に下がり、周囲の空気が凍てつく。
「あら、ルーク？ 急に冷たくなったわね」
エリスはすぐにその異変に気づき、ルークを優しく抱きしめる。「夜泣きかしら。ごめんなさいね、怖い話を続けたせいかもしれないわ」
エリスの温かい体温と、聖女の光を帯びた手が、ルークの背中を撫でる。その瞬間、ルークの内部で暴走しかけた魔王の記憶と、闇の残滓は、強制的に鎮静化させられた。
ルークの魂は、激しく葛藤した。
魔王の意識：「抗え！ お前の威厳は、こんな温かい欺瞞に屈するのか！ 真実を叫べ！」
ルークの自我：「……いやだ。私は、この温もりを失いたくない。あの孤独な玉座には、もう戻りたくない。私は、ルークとして生きるのだ！」
ルークは、この肉体と愛を通して形成された新しい自我で、古い魔王の意識に抵抗した。彼の自我は、この家族の愛情という名の**「光の枷」**によって、かろうじて保たれていた。
４．異能の発現と、聖女の違和感
ある日の午後、兄ライオスと遊んでいた時の出来事だった。
ライオスが、ルークの大切にしている木の車を、誤って足で踏みつけ、真っ二つに壊してしまった。ルークは、自分の大切なものを無造作に壊されたことに対する激しい怒りと、兄への悲しみで、感情を制御できなくなった。
「あー……ああああああ！」
ルークの激しい怒りが頂点に達した瞬間、彼の瞳の色が一瞬だけ深紅に染まった。そして、床に散らばったおもちゃの破片が、エリスの聖女の力を上回るような異様な力で、微かに宙に浮いた。それは、紛れもない、魔王アスタロトの魔力の片鱗だった。
その光景を、近くで洗濯物を畳んでいたエリスが目撃した。
ライオスは、浮いた破片を見て「おお！」と歓声をあげていたが、エリスの顔からは、瞬時に笑顔が消えた。彼女は、かつて魔王と対峙した聖女の本能で、その場の空気の異様な重さ、そしてルークの瞳の中に宿った**「遠い闇の記憶」**のようなものを見た。
（今の、この子の力は……光ではない。あれは、何かの残滓……）
エリスは、長年の戦いの中で培った聖女の感覚が、ルークの中に潜む「闇」の存在を感知したことに、微かな、しかし決定的な違和感を覚えた。
ルーク自身も、自分の体が、意識とは無関係に「魔王の力」を発現させたことに、強い恐怖を覚えた。
「私は、人間として生きると決めたのに！ この力は、私を再び孤独な『魔王』に戻そうとしているのか！ この平和を、私自身が壊してしまうのか！？」
５．愛情による強制的な鎮静化
エリスは、一瞬の戸惑いを、すぐに母としての深い愛情で覆い隠した。彼女は、ルークの瞳の中に見た闇の片鱗から目を逸らし、ただルークを強く抱きしめる行動に出た。
「ごめんなさいね、ルーク。お母さんが、あなたの大切なものを守ってあげられなくて」
エリスがルークを抱きしめ、優しくあやすその時、彼女の身体から、無意識のうちに純粋な聖女の光の力が放たれた。その光は、ルークの中で暴走しかけた闇の力を静かに包み込み、強制的に鎮静化させた。浮いていた破片は、音を立てて床に落ちる。ルークの瞳の深紅の色は消え、元の幼い瞳に戻った。
闇の力が消え去り、エリスの温もりに包まれたルークは、改めて、自分が**「光の力」と「底なしの愛情」という二重の枷**によって、この家に繋ぎ止められていることを痛感する。
魔王の意識：「屈辱だ！ 聖女の力に浄化されるなど！」
ルークの自我：「違う。これは、母さんの愛だ。この愛が、私を正しい場所へと引き戻している……」
ルークは、このまま完全に「人間」として埋没するか、それとも目覚め始めた「魔王の力」を抑えきれずに、再び孤独な存在へと回帰するか、という二つの未来への激しい葛藤を抱え始めた。しかし、彼の選択は、今、彼を包む母の温もりが決定的な影響を及ぼしていた。
彼は、ルークとして生きる。そして、この温もりを守るために、魔王の力を封じ込める。
そう決意したルークの瞳には、かつての冷酷な魔王の影はなく、ただ、自分の新しい生を守ろうとする、幼い決意の光が宿っていた。