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【1】ノイエ・ランページュ

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■序

アストリア大陸の長い歴史の中で、唯一『ふたつの暦』が刻まれた時期があった。
それは『アストリア歴』923年から933年。
そして、この10年間の間に存在したもうひとつの暦が『帝国歴』である。
これは、アストリア大陸の南西部に誕生した『ドルーガ帝国』の建国にまつわる物語。

■□■□■□

アストリア大陸の南から北東にかけて連なるシギル山脈。
その南東側の裾野に点在する集落のひとつにルーリという村がある。
平野部には麦畑、山の傾斜部には果樹園が広がる農村であり、村の東には澄んだ川が走っていた。
元々、生活に欠かせない水と肥沃な大地を求めた先人たちがこの地に根を下ろし、開拓されたのがこのルーリ村だ。

ルーリは周辺の集落を繋ぐ中継地として栄え、五百人を超える村人が生活する、それなりに活気に満ちた村だった。
山の斜面で栽培される柑橘類は、山向こうに位置するアストリア王国の首都アストベルグにも出荷され、村の貴重な財源となっていた。
気候も穏やかであり、誰もが少しばかり退屈ながらも平穏な毎日を享受していた。

しかし、今ルーリ村から聞こえるのは子供たちの笑い声ではなく、怒号と悲鳴、そしてあちこちで響き渡る金属が打ち鳴らされる音…剣戟であった。

「相談役!もう中央が破られそうだ!早く次の…いや、もう間に合わねぇ…な。」

粗末な革鎧に身を包んだ村人から「相談役」と呼ばれた青年、いや、少年は村の南端に立つ物見櫓から村全体の様子を俯瞰していた。
村人は、呼び掛けた少年がなんの反応も示さないことに、この村の行く末を感じ取り、それでもその未来に抗うため、物見櫓を素早く降りて、いよいよ戦線が維持できなくなった村の中央へと走って行った。

「僕は…どうすればいい?どうすればよかった…?」

少年は、自問自答しながら、火の手が上がる村の北側を見つめ続ける。
村の北端にある出入口からは揃いの甲冑を身に纏った兵士が大挙して村の内側へなだれ込んできている。
兵士たちが身につけているのは、重歩兵、軽歩兵で違いはあるものの、いずれも白色地に水色の縁取りが施されている。
この大陸に生きる人間であれば誰もが知っている。
それは、大陸の面積の6割以上を占める大陸一の強国、アストリア王国の国旗と同じデザインであり、すなわち王国正規軍が纏う甲冑である。
つまり、今ルーリ村はアストリア王国の正規軍からの攻勢を受けており、村人で結成している自警団が何とか踏みとどまっているものの、自警団の防衛戦も瓦解しつつある。

しかし、少年は戦場の観察をやめない。

その少年は、年の頃およそ16歳。
やや小柄で細身の体躯であるものの、しなやかな肉体には無駄がない。
わずかに癖のついた髪の毛は月を思わせる銀色だが、今は村のあちこちから上がる黒煙によって煤だらけだ。
瞳は、髪の毛の色と同じ銀色に淡いブルーが溶け込んでいる。

【ノイエ】

尚も戦場を見渡す少年の耳に、いや、直接頭の中に、囁くような、無機質で中性的なささやきが届いた。

ただ、このとき少年の周囲には人影はなく、ましてささやき声が聞こえるような範囲には誰も存在しなかった。
その声は、抑揚に乏しく感情が極力抑えられたものだったが、今に限っては少年を案じているようにも感じられた。
突然聞こえてきた声に、少年は驚くことも不審に思うこともなく、知り合って2年になる相棒に対して、頭の中で言葉をイメージする要領で返事をした。

『フィー。どうしたんだ?また僕のことを心配しているのかい?』

少年は、自分に呼び掛けてきた声の主を安心させるため、努めて柔らかいトーンで応じた。

【戦況は絶望的です。勝敗は決したと言っていいでしょう。いえ、勝敗など最初から決まっていたようなものです。】

『確かに、そうかもしれない。でも、それは僕の責任だ。』

少年は続ける。

『野盗や魔獣の襲撃から村を守るために、村のみんなに協力してもらって、近隣の集落を巡回して…。
自警団を組織してからは、何とか被害を最小限に食い止めることができたと思う。しかし…。』

少年は、一度イメージの言葉を止め、戦端が開かれてから初めて戦場から視線を切り、俯いて目を伏せた。

『僕がもっとしっかりしていれば、この戦闘を回避したり、せめて村のみんなを逃したりすることができたかもしれないのに!』

【ノイエ。あなたは精一杯のことをやってきました。そのことは、傍で貴方を見てきた私が一番よく知っています。
そして、この状況はいくら貴方でも予測して避けることなどできなかったし、今からこの戦況を覆すこともできません。】

少年は、 次にフィーが自分に何を言おうとしているかわかっていたし、フィーも今から自分が言う内容を少年が予想していることは承知していた。
それでもフィーは言う。
静かに、しかし、今までの少年との会話の中で、一番強い感情を込めて。

【撤退してください。】

予想していたとはいえ、その言葉を聞いて、少年は歯を食いしばり、拳を強く握りしめる。

【貴方だけでも。まだ村全体が完全に包囲されたわけではありません。貴方の身体能力なら、兵の薄い場所を突破できます。いえ、むしろ貴方単身でなければ突破は叶わないでしょう。】

『それは…できない。』

【何故ですか?この村に恩を感じているからですか?それとも、彼のことが気がかりですか?】

『…そうだよ。この村のみんなは、他所から流れてきた僕を排除しなかった。迎え入れてくれた。そして…』

【…そうかもしれません。しかし、それは貴方が力を示して、それが村にとって有用であると認められたからでは?】

『それは…』

【はっきりと申し上げます。貴方は村に住む対価以上の働きをしてきました。十分すぎるほど。そして、村人たちも困難で危険な役目を貴方に任せきりにした。
彼のことが気がかりなのは理解できますが、これ以上、この村に固執することもないでしょう。
貴方はこのようなところで命を落として良い存在ではありません。】

『…違う!こうなった以上、僕が逃げることなんて…責任を放棄することなんてできない。』

【本当にそう思いますか?貴方に責任があると?
もう一度申し上げますが、貴方はこの村のためにできる限りのことをしてきました。よく思い出してください…。】
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