鬼村という作家

篠崎マーティ

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十八話「トラックです」

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 鬼村の家で原稿の完成を待ちながら仮眠をとらせてもらっていた時の事だ。
 ふと目が覚めると時刻は午前三時を回っていた。慌てて布団から這い出し書斎に向かう。中を覗くと、電気もパソコンもついていたが鬼村の姿は見当たらなかった。
「先生ー……?」
 時刻が時刻なだけに、控えめに鬼村を呼んでみる。返事はない。二階を一部屋ずつ見て回る。どこにも居ない。一階に下りる。一階は深夜とも早朝ともつかない曖昧な闇の中にとっぷり沈み、生き物も、生き物でないモノの気配もない。
 不意に右手の奥から微かな音が聞こえた。
 近づいてみると居間から青白い光が漏れているのが見え、同時に耳鳴りに似た電子音が途切れることなく聞こえてきた。無機質で、不愉快で、ずっと聞いているとだんだん叫び声にさえ聞こえてくる、嫌な音。空襲のサイレンのような、原始的な恐怖に働きかける類の音。
「先生?」
 扉を開けた。テレビに映し出されたカラーバーが、暗い部屋の中を照らしている。今この場に満ちているのは、テレビの不健全な青白い光と、先ほどの私の呼び声とは正反対に無遠慮なテストトーンの音のみだ。鬼村の姿はない。
 鬼村がテレビを消し忘れたのだろう、そうに違いない。午前三時に暗い部屋で一人で見るカラーバー放送はあまりにも気味が悪く、氷の息吹き背筋を駆け上ってくる。なにか、自分がホラー映画の主人公に仕立て上げられたような気がした。恐ろしいのは、自分がそれを受け入れそうになっている事だった。
 この部屋の空気がおかしい。
「もー、電気代もったいないー」平静を装おうとわざと声を出して机の上のリモコンを手に取った。
 電子音が止まった。
 顔を上げる。テレビにニュースらしき番組が映し出されている。中央には女性のニュースキャスターが座っており、ちょうど深々としたお辞儀から顔を上げた所だった。朝のニュースにふさわしい柔和な笑みを浮かべる美人だが、見た事のないキャスターだ。
「一口さん」
 鈴を転がすような声で彼女は言った。
 私はテレビを消すことを忘れ、呆然とテレビを見つめた。
「トラックです」
 優しい声音でキャスターは続ける。
「一口さん、トラックです。一口さん、トラックです。一口さん、トラックです。一口さん、トラックです。一口さん、トラックです。一口さん、トラックです。一口さん、トラックです」
「はぁ……?」
 勝手に喉から漏れ出た息は恐ろしい程干からびて掠れ、今わの際の最期の一息を思わせた。何が起こっているのだ。テレビの中では依然として女性が嬉しそうに同じ言葉を繰り返し続けている。何度も、何度も、鼓膜に刷り込むように、私の思考を妨害するように、一口さんトラックです、一口さんトラックです……何故か動く事が出来ない。視界いっぱいにキャスターの笑顔が広がる。終わったはずの電子音が耳の奥から蘇り、彼女の声と共に耳を聾さんばかりにうるさくなっていく。
 もうなにもかんがえられない。
「よく一発でイモアライって読めたね」
 遠くで鬼村の声がした。
 肩をポンと叩かれた瞬間、耳鳴りが消え失せ呼吸が戻った。自分の役目を思い出した心臓が、遅れを取り戻そうといきなり物凄いスピードで鼓動を始める。私は水からあがった直後のように激しく喘いだ。
「せん、せ」
「国語得意ならアタシの小説読みなよ」
 私の手からひょいとリモコンを奪った鬼村は、銃口を定めるようにそれをテレビに向ける。その瞬間、今まであれだけ人のよさそうに笑っていたキャスターの顔からすっと表情が消えた。
「鬼ィ村ァ」
 全身総毛立つ程の恐ろしいしゃがれ声が彼女の口から放たれる。顔はマネキンのように無表情なのに、その声は聞くだけで人を殺せそうな憎悪に満ちていた。まるでその口の奥は地獄と繋がっているとでもいうように。
「あー、うるさいうるさいうるさい」
 それでも鬼村はマイペースにリモコンの電源ボタンを押し、テレビは音もなく消えた。いきなり耳が痛くなる程の静寂が垂れ込める。光源が失われた室内は途端に深海の底に沈んだように暗くなり、突然猛烈な恐怖に襲われた私は手探りで鬼村を求めた。
「先生、先生っ」
「はいはい」
 居間の電気がつき、今度はあまりの明るさに一瞬何も見えなくなった。目を瞬かせ、顔を上げる。鬼村が居る。
 鬼村が、ちゃんと、居る。
「トイレはここじゃないよ」
 人を小馬鹿にしたように言う鬼村の顔を見て、言いようのない激情と共にじわりと涙がせり上がってきた。目を覚ませば消えていく悪夢の影のように、私を支配していた恐怖が霧散していくのが自分でも手に取るように分かる。
 助かったんだ。胸中で呪文のように繰り返した。もう大丈夫なんだ。
「起きたら、先生が居なくて……」恥ずかしながら声が震えていた。
「ああ、ごめん。庭で煙草吸ってた」
「今の……」私は恐る恐るテレビに目をやった。消えたテレビ画面に私達が映っていて一瞬心臓が縮み上がった。「……トラックが、なんなんですか?」
「ん、大丈夫大丈夫。最後まで聞かなかったから。さ、上戻ろ」
 我々は二階に戻っていった。すっかり目も覚めた私は彼女と一緒に書斎に行こうとしたのだが、鬼村は私にそのまま布団に戻るようにと言ってきた。さっきの今ではとても眠れないと言ったが、彼女はどうしても私にまだ寝ていろと言う。
「原稿、もう少しかかるのよ。日が昇るまでには完成させるから」
 大前提として、鬼村悟は一人でないと執筆に集中できない作家だ。そう言われてしまうともう反論する事は出来ず、私はしぶしぶ布団に戻るしかなかった。私が横になったのを見て満足げに頷いた鬼村は、徐にポケットから煙草を一本取り出しその場で吸い始めた。ステンレスのシガレットケースに入ったその煙草は、市販のものではなく手巻き煙草のように見える。
 煙を肺いっぱいまで吸い込んだ後、鬼村がふうっと優しく紫煙を吐き出すと、部屋の中に甘いお香のようなにおいが満ちた。煙草にしては妙なかおりだ。甘さの奥に青臭い薬じみたにおいが混じっている。
 しかしにおいよりも奇妙なのは、彼女が吐き出した煙は消えることなくそのまま空中にゆらゆらととどまり続けている事だった。鬼村が煙を吐き出す度に消えない紫煙が部屋の中を曇らせていき、やがて一本吸い終える頃には、濃霧の中にでもいるような視界の悪さとなっていた。
「これで大丈夫だから」
 この煙はなんなのか聞こうと上半身を起こした時、不意に鬼村にそう言われ、途端に強烈な眠気に襲われた私はばったりと布団に倒れ込んでしまった。とてもじゃないが起き上がれない。どうにか瞼だけ持ち上げてドアの方を見やると、白くけぶる世界の向こうに、うっすらと鬼村のシルエットだけが見えた。
「おやすみ」
 鬼村は言って、ドアを開けたままで書斎に戻っていった。
 何故だか煙が廊下に出て行かない事に気づいたもののそこが活動限界で、そのまま私は健やかな眠りの中に落ちて行った。
 夢は見なかった。
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