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6.お菓子の家と獣の森③

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 それは白銀の狼、ではなかった。
 
 黒い炎のように逆立つ毛並み。
 異様な咆哮。
 ……そして双頭。

 二つの頭を持つ、黒い怪物。

「な、なんだこれは……」

 小屋を出て、そいつが暴れている様を見上げた。
 その答えを口にしたのは、小さな魔女。

って知ってる?」

 冥界の番犬。
 言わずと知れた魔犬である。

 でもそれが何故ここに……この生き物は、地獄の冥府にいるはずだ。
 地上の、しかも人間の多く足の踏み入れる森になど居て良いはずがない。

「もちろん、本物じゃないわ。でも、極めて近いモノだと思う。だって」

 グレーテルは、口の端をニヤリと歪めた。

「……私が改造した創ったモノだから」

 うっとりと言葉を紡ぐ瞳。
 それは紫水晶アメジストより、幾分も暗い色だ。

 ―――彼女が、呪文をとなえる。
 その腕の紋章が、青白く輝いた。

 刹那。
 一層大きく咆哮する闇色の獣。
 赤く炎のような瞳をギラつかせ、僕のゆっくり見据えた。

「さぁ。魔王を呼びなさい」
「君は勘違いをしている。僕には魔王は呼べないし、その記憶すらない」
「下手な嘘ね。大人はいつも嘘ばかり」

 グレーテルは僕を睨み付ける。

「大人達は、そうやって私達を殺そうとする……子供を森に捨てたり、食べようとしたり」

 怒りと恨みの言葉を紡ぎながら、彼女は腕をかかげる。
 
「もう、大人達に騙されたりしない!」

『ギャォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ン』

 森に響き渡る獣の声は、まるで幼子の泣き声のようだった。
 
 それは大人達に人生を翻弄された、悲しき姉妹の末路なのだろう。
 木々をなぎ倒し、獣は双頭を振り乱して暴れ回る。

「そこを見なさい」
「!?」

 うっそり笑って、指し示された場所。
 獣の足元。
 踏みつけられた、見覚えのある背中を。

「マト……っ!」

 呼べど、ぐったりとして動かない。
 さらに駆け寄ろうとするが。

「くそ、近寄る事も出来ない……っ」

 ビリビリと震える空気。
 獣が暴れ回る事により、木々の破片が飛ぶ。
 風すら、まるで嵐のように吹き荒れる。

「もう遅いわ。仲間は死んだのよ……あんたは誰一人守れない。救うことなんて、出来ない……め!」
「!」

 その言葉は、脳に真っ直ぐ差し込んだ雷のようだった。

 ……悪魔? この僕が。悪魔か。
 今まで救ってきたこの両手。
 血にまみれた、忌まわしき肉体。

 魔物や魔獣、神獣たち。
 全てこの手と知識で、助けてきた。
 時に命懸けで。全てを投げ打って。

 信じていたんだ。
 人間達に忌み子と恐れられ、蔑まれてきた自身。
 それでもだけは、僕を畏れなかったはずなのに。

 ……あの日も。
 僕は、後悔なんかしていない。
 守るべき者を守る為に、この身が穢されても。全てを奪われても。

「悪魔だと、が言うならば……そうなのだろう」

 ぞわり、と身体中の毛が逆立つ感覚。
 
 周囲が薄く、蒼い炎に包まれた。
 右手をかざせば。

 ……パキッ。

 小さな割音。
 腕に巣食っていた、黒い小さな封印が爆ぜる。

「な、何故っ!?」
「こんなちっぽけな封印……効かない」

 悔しさに唇を噛む少女。
 憐憫の情さえ感じる。

 でもきっとそれは救済では、ない。

「ねぇ……僕の大切なモノ、返して」

 あぁ。
 大切なモノって、なんだろう。

 自問しても、答えなど見つからない。
 少なくても

「君ハ、ダレだ」

 自身に問う。
 答えはきっとこの腹を切り裂き、探り回っても見つけることは出来ない。
 
 ……ならば。

 僕は瞳を閉じた。
 腹の底から這い上がる、感情のおり
 大きく、息を吐く。

「ッ!」
 
 声無き慟哭。
 絶望の色に、両腕が染まる。

 ―――ゴゥォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ッ。

 業火の燃える音。
 闇色のそれは、双方の手に。
 己の腕にまで食い込む柄は、鎖の如し。

「あ゙あ゙あ゙ア゙ァ゙ア゙あ゙ぁ゙ッ゙!!」

 痛み。
 苦しみ。
 怒り。
 憎しみ。
 ……咆哮を上げた。


「もう、誰も、救えない」

 絶望を呟き、僕は右手を振り上げる。

 ―――ザシュゥゥッ。

「!?」

 一太刀で跳ねた。
 少女の愛らしい瞳。
 小さな魔女の、首。

 どさり、と柔らかい草原に落ちる。
 紅い果実、ように。
 不思議そうな、眼差しで。
 
 数秒遅れで吹き出した血飛沫と、ゆっくりと倒れた幼い身体。
 ……僕はそれを、無表情で見下ろしていた。

「次は、君だ。ヘンゼル」

 振り向いて呟く。
 
 叫ぶ獣。
 その紅い瞳には、妹の死が映ったのだろうか。
 それとも、内側は暗く曇ったままか……今の僕のように。

「楽に、してあげる」

 あの咆哮は、苦しみの声だ。
 同じく幼い魂は、狼の死体に縛られて。その上、こんな怪物になってしまった。

 苦しくないわけが無い。

―――双剣を構え、走る。

 本能で剥いた牙を、巧みに避けた。
 飛び退いてかわし、その大きな身体を駆ける。
 
『ガァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァッ』

 悲鳴のような吼え声は、まるで慟哭だ。

 その度に血が揺れ、木々がしなる。
 舞い落ちる葉が、僕の頬を叩く。

永遠とわの、眠りを」

 祈る。
 祈るしか、できない。
 ……あぁ、でも誰に。
 穢れた悪魔の身で、神に縋るのか。

 そう、

「っ、くそ……ッ」

 そんな姿無き声を、振り払うように僕は。

「ああああああああぁぁぁっ!!」

 振り上げる。
 双剣を、獣の喉に。
 そして。

『ガグル゙ル゙ル゙ル゙……ギァ゙ァア゙ッ!』

  ―――まず一つ、落とす。
 
『ヴギァ゙ァ゙ァア゙アア゙』

 断末魔の雄叫び。
 同時に、散らされる飛沫。
 噴水のように降りかかる。

 自身の血染めなど、どうでも良い。
 ……僕は再び魔剣を構えた。

 一つの頭を切り落とされた獣。
 創られし番犬、魔犬ケロベロス
 
 ……その瞳に、一抹の知性と記憶を見た。

「救済を」

 僕は、闇色の剣を振り下ろす―――。
 
 
 


 




 


 




 

 

 
 

 

 

 

 

 
 
 
 

 

 

 
 



 

 
 

 




 

 

 
 
 
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