アルファが僕を選ばない10の理由

田中 乃那加

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悲嘆とともに仕掛けられた賭け

 それからの伊織は文字通り廃人のような姿であった。

 常になにか点滴で注入され続ける薬。病室にあるトイレにさえ起きられなくなった。

「話が違うじゃないですか!!」

 伊織の姉、綾萌が叫ぶ。まさに悲痛に満ちていた。

「ご説明したはずです」

 医師は淡々と告げる。

「この治療は。いえ、番の解消はそもそもはこの国では未だ未承認であり我々も手探りでね」
「だからってあの子をあんな状態にするなんて……っ!」

 一日ほぼ眠り続け、よしんば目を開けても言葉すら発さない。薄く微笑むものの、その薄い色の瞳はどこも見つめてはいない。

 そんな人形のような弟を見て、彼女は深い哀しみと後悔で泣き崩れたものだ。

「ごめんね……ごめんなさい……」

 幾分か痩せた抱きしめてもなんの反応も返さない。
 それがまた痛々しくて胸が締め付けられる想いであった。

 しかし目の前の医師はこう口にする。

「バース性というのにはまだまだ解明されていない部分が大半なのですよ」

 それは確かにそうなのだ。
 ヒトの表皮から脳、臓器に至るまですべての仕組みが網羅されていないのと同じかそれ以上にオメガとアルファにはまだ謎が多すぎる。

「その中でも我々は手を尽くしています」

 そう言われてしまえばもう何も反論できまい。
 なぜならこの高額な治療費を必要とする病院に入院させると決めたのも自身だったから。

 ――だとしてもこんなの惨すぎるわ。

 言い返す気力もなく黙り込んだ彼女に対してもう話すことなどないとばかりに立ち上がり背を向けたが、ふと思い出したかのように振り返り。

「こちらとしましては、弟さんの症例と治療が今後の医学の発展に貢献することを誇るべきだと思いますがね」

 と慇懃無礼な笑みを浮かべた。
 するとその横であの目の細い看護師が付け加える。

「治療費や病室料金などすべては一ノ瀬様からすでにお支払い頂いているので、ご安心くださいね」
   
 そんな嫌味とも取れる言葉で締めくくられ、彼らは病室を出ていった。
 残された綾萌は弟に謝りながら自らの選択を悔い続ける。

「……」

 目に入れても痛くない、とはこういうことを言うのだと思ったのは途方に暮れたような顔をする弟を見た時だ。

 たしかに母を取られたような気分にはなったこともある。
 寂しくて妬ましくて、でもこんな小さな子に間違っても手をあげるなんて考えるのも怖かった。

 しかしそれは彼女らの母親が死んでから一変したのだ。

 ――あの時、本当はざまぁみろって思ったのよ。

 自分を優先してくれずついには最愛の息子を助けて命を落とした母親と、最愛の庇護者を失い父から恨まれる幼い弟に。

「私って最低よねぇ……」

 ぽたりぽたりと病室のベッドシーツに涙が落ちる。

「罰が当たったんだわ」

 打算と優越感でしか彼を愛せなかったから。
 結局は悲劇のヒロインぶりたかったのもと綾萌は自らを嘲った。

「綾萌」

 そこへ音もなくドアが開き、入ってきた男。

「透龍さん」

 振り返るよりも先にすがるように名前を呼んでしまう。
 透龍は彼女の気持ちを全てを知っていた。

 なぜなら初めて打ち明けたのが同僚であった彼だったからだ。

 ひょんなのことから二人で酒を飲む機会があり、そこで綾萌が酔いにまかせてぶちまけてしまったのだという。

「私、もうどうすればいいのか分からないの……」
 
 彼女は涙も枯れたとのうな呆然とした表情で呟いた。

 あの日、一時は命さえ危ういとされた少年とともに発見された弟。
 幸い彼に外傷こそなかったもののひどい錯乱状態と、そこで伊織がオメガであることとには深々と血と痣の滲む噛み傷があったことを知らされた。

「私は伊織を守ってあげられなかった」

 ――お母さんと違って。

「それはオレもだよ、綾萌」

 ひたすら自身を責める言葉を吐く彼女に、透龍は優しいが少し硬い声で言う。

「正直すべてが許せないさ。でも今は何が一番優先すべきか考えなきゃいけないんじゃないかな」
「でも……でも……」

 こんな廃人同然となってしまった原因の治療はきっとまだ続くだろう。
 もしかしたら一ノ瀬家としてはこのままずっと、伊織が回復しない方が都合がいいさえしてきた。

 それは病院に駆けつけた彼女の前に現れたと名乗る男が言った言葉にある。

『治療にかかるすべての金銭的負担はこちらで追いましょう。その代わり今後一切、恭弥様とは接触なさいませんようにお約束ください』

 その言い草に腹が立ったのは綾萌で、逆に一ノ瀬 恭弥が伊織に近づかないようにしろと怒鳴りつけたのだ。

「最初からおかしいと思ってたの。あの男、伊織を弄ぶつもりだったんだわ」

 警戒こそしていたが、弟の嬉しそうな顔を見たらあれ以上なにも言えなかった。
 しかしこうなるのならもっと厳しく説得すべきだったとまたもや後悔の念が広がっていく。

「タラレバはこの際、言っても仕方ない」
「貴方にはわかんないわよ!」

 彼女はどうしようもなくなった感情を透龍にぶつけてしまう。

「私が守ってあげないとダメだった……お母さんみたいに……なのに……」

 冷遇する父から、心無いイジメをする中学の同級生たちから。そして恭弥から。

「綾萌、もう帰って休んだ方がいい」

 取り乱し泣く彼女に透龍が静かに言った。

「今の君は冷静になにも出来ない。でもそれは仕方ないよ」

 涙でメイクの崩れた目元を彼の指が触れる。

「これまでずっと頑張ってきたから。だから伊織君はあんなに幸せだったし、優しくて可愛い子に育ったんじゃないか」
「……」
「あまり自分を責めないでくれ。君はオレにとって愛する人だし、それに伊織君だって大好きなお姉さんがこうやって泣いてるなんて知ったら悲しむよ」

 真摯な口調と言葉。そして心の底から心配する眼差しに彼女の頬から涙がまた溢れた。

「ごめんなさい……私……」
「いいよ。泣きたい時は泣いた方がいい、でも今日は帰ってしっかり寝よう」
「ありがとう、透龍」

 綾萌は彼に肩を優しくさすられながら立ち上がる。
 ゆっくりとした足取りで二人で病院を出た。







「――おっと忘れてた」

 その数分後、なにやら手にした透龍が一人で病室に戻る。

「伊織君」

 彼はジッとベッドを見下ろした。

「可愛い寝顔だけどそろそろ起きてる時の君を見たいな」

 しかし応えない。彼は小さくため息をついて。

「本当に許せねぇなァ、あのクソガキ」

 と半笑いで毒づく。

「ま、でも今はいいか」

 そこで透龍はやおらに跪いて、眠っている伊織の布団に手を入れた。

「ええっとここでいいかな」

 彼のと満足そうに手を抜く。
 
「あーあ、オレにこんなことされても起きないなんてなぁ」

 もっと色々しても起きないんじゃねぇの、とイタズラ心が湧くが反応しない相手にやっても面白くないかと思いとどまる。

「いつもみたいに嫌そうな顔してくれないとなァ」

 本人は隠しているつもりだろうが、少しでも距離を詰めると小さく眉を寄せて視線を泳がす姿もまた透龍は密かに気に入っていた。

「……早く帰っておいで、伊織」

 ちゅ、と小さな音を立てて彼のこめかみにキスを落とした後に枕元にを置いておく。

 これは一種の賭けだなんだぞ、と心の中で彼に語りかけながら透龍は立ち上がった。

 
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