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逃亡教唆
伊織は長い長い悪夢を見ている。
『おはようございます、伊織さん』
目の細い看護師がいつも同じ貼り付けた笑顔で病室をノックと同時に入ってきた。
『検温と、あと点滴変えますね』
そんな言葉に返事なんてしない。する気力もないのだ。
針とチューブで繋がれロクにトイレも行けやしない。文字通りベッドに縛り付けられた状態で絶対安静のプレートがベッドの上に掲げられていた。
定期的に食事は与えられるが自分で食べるのも億劫で (身体を起こすことすらしたくない)ついにはこちらも点滴となってしまった。
それでも徐々に痩せていく身体はなんとなく自覚がある。
あと見舞いに来てくれる姉の綾萌が泣く姿もまた辛かった。
彼女は彼が無反応で廃人にでもなったと思っているようだが、これは薬の副作用で極度の倦怠感と精神的な問題の結果であろう。
別に声だって聞こえているし意識もないわけではないが (ところどころ飛ぶものの)喋ったり動いたりはどうも億劫だし、とにかく自暴自棄になっていたのだ。
そんな日々がしばらく続いた、のだが。
――っ、なんだよあれ。
いつもながら何を考えているか分からない透龍に、こともあろうに妙なところをまさぐられた挙句にキスまでされて困惑しつつも寝たフリ (動く気力もなく)するしかなくて。
――てかあの人、僕がいつも嫌な顔してる知ってたの!?
確かに多少胡散臭く思っていたものの、すっかりあの爽やかイケメンっぷりに騙されていたことにむしろ脱力する。
――絶対にあんな人を義兄なんて呼ばないぞ!
ざめざめと泣く姉を見たあとの反動か、こちらは怒りがふつふつ湧いてきた。
「っ、う……」
まずはあのセクハラ行為を今度こそ詰めて、ビンタのひとつやふたつも食らわせてやりたい。
そんなことを考えていると、透龍がそっと何かを枕元に置いて出ていった。
なにやらブツブツ言っていたがそこはよく聞き取れなかったからスルーするとして (変にカッコつけていた気がするので尚更)置かれたそれに最初に反応したのは彼自身の『嗅覚』だった。
「!?」
ふわりと鼻腔をくすぐる感覚に息をのむ。
たしかに覚えのある匂いに身体が震えた。
――これ……まさか。
数日前、稀美が自分の名前入りのハンカチを持ってきた時にした香り。そして息も絶え絶えになるほどの熱を思い出したのである。
「ぅ、あ」
掠れた声が漏れたがすでに立ち去ってしまった透龍の耳には入らない。
ただひたすら一人白いベッドの上で身悶えるだけ。
――これがフェロモン……。
すでに番持ちのオメガである伊織がこのような発情状態になるのは、その相手である恭弥の身につけていたものだからに他ならない。
「あ゙ぁ゙っ、あ、はぁ……っんぅ」
低かった体温が一気に上がり、心臓が痛いほど高鳴り始める。
そのせいか薄らとしていた意識はハッキリと輪郭を帯び始め、さらに大きく目を見開きながらもがいた。
「っ、これって」
元凶ともいえる枕元に置かれたそれを手繰り寄せてみる。
するとなんと一着の体操着。しかもよく見ると自分のもので、そこではじめて思い出した事。
――まさかあの時の!?
ずっと前に体操服を失くした (というが恐らく盗まれた)ことがあった。
中学の頃のイジメを彷彿させてトラウマを刺激されたが、実際はすぐに返ってきたのだ。
しかし今思えば返してきたのも恭弥で、渡されたものもどこか新品のようなものだったような。
というか。
――誰が返してくれたっけ……?
ぶっきらぼうに突っ返してきた手。その持ち主の記憶がやはりすっかり抜けている。
一生懸命に記憶の底を探り続けるも、ただ思い出せない気持ち悪さだけが残るだけで。
「くそっ」
頭を掻きむしりながら大きくため息をついた。
なぜかここ数ヶ月の記憶が虫食い状態だ。
まるで途中で席を立った映画のワンシーンのように断片的な映像は、辻褄さえ合っていない。
「ああもうっ!」
身体の疼きと共にそんな居心地の悪さに思わず声を荒らげた。
きっと一ノ瀬 恭弥となる人物のせいだと伊織は結論付ける。
普段あまり怒りをあらわにする事のない伊織だったが、今はなぜか感情が抑えられられなかった。
これは記憶の欠如が関係していたが、本人は知る由もない。
――文句のひとつでも言ってやらないと。
仮にも(記憶はなくとも)番相手なのだ。すべての事情を聞き出さないと納得も出来なければ、このまま廃人同然の病院生活するつもりもなかった。
「一ノ瀬 恭弥……」
その名前を口の中で転がす。
まったく記憶にないはずなのに、どこか落ち着きのない気分になるのはなぜだろう。
気付けば、体操着に顔を埋めながら息を荒らげていた。
「あぁ」
――本当に番なんだ、この人と。
フェロモンの香りにクラクラする。なぜ自分の名前入りの体操着に彼の匂いがついているのか考えたくもないけれど。
「あ……れ?」
本能的に脚をすり合わせると違和感。
少し躊躇った末にそこに手を差し混んでみると、冷たく硬い感触が指先に触れる。
「か、鍵……」
ご丁寧に鈴飾りまでついたそれは、固く閉ざされた病室の鍵。
透龍の言った賭けの意味はこれだったのだ。
番持ちオメガの本能で彼を目覚めさせること、そして逃亡に必要なモノをこんな所に隠すなんて。
まったく趣味の良い話ではない。
「……」
伊織の喉がごくりと鳴った。
『おはようございます、伊織さん』
目の細い看護師がいつも同じ貼り付けた笑顔で病室をノックと同時に入ってきた。
『検温と、あと点滴変えますね』
そんな言葉に返事なんてしない。する気力もないのだ。
針とチューブで繋がれロクにトイレも行けやしない。文字通りベッドに縛り付けられた状態で絶対安静のプレートがベッドの上に掲げられていた。
定期的に食事は与えられるが自分で食べるのも億劫で (身体を起こすことすらしたくない)ついにはこちらも点滴となってしまった。
それでも徐々に痩せていく身体はなんとなく自覚がある。
あと見舞いに来てくれる姉の綾萌が泣く姿もまた辛かった。
彼女は彼が無反応で廃人にでもなったと思っているようだが、これは薬の副作用で極度の倦怠感と精神的な問題の結果であろう。
別に声だって聞こえているし意識もないわけではないが (ところどころ飛ぶものの)喋ったり動いたりはどうも億劫だし、とにかく自暴自棄になっていたのだ。
そんな日々がしばらく続いた、のだが。
――っ、なんだよあれ。
いつもながら何を考えているか分からない透龍に、こともあろうに妙なところをまさぐられた挙句にキスまでされて困惑しつつも寝たフリ (動く気力もなく)するしかなくて。
――てかあの人、僕がいつも嫌な顔してる知ってたの!?
確かに多少胡散臭く思っていたものの、すっかりあの爽やかイケメンっぷりに騙されていたことにむしろ脱力する。
――絶対にあんな人を義兄なんて呼ばないぞ!
ざめざめと泣く姉を見たあとの反動か、こちらは怒りがふつふつ湧いてきた。
「っ、う……」
まずはあのセクハラ行為を今度こそ詰めて、ビンタのひとつやふたつも食らわせてやりたい。
そんなことを考えていると、透龍がそっと何かを枕元に置いて出ていった。
なにやらブツブツ言っていたがそこはよく聞き取れなかったからスルーするとして (変にカッコつけていた気がするので尚更)置かれたそれに最初に反応したのは彼自身の『嗅覚』だった。
「!?」
ふわりと鼻腔をくすぐる感覚に息をのむ。
たしかに覚えのある匂いに身体が震えた。
――これ……まさか。
数日前、稀美が自分の名前入りのハンカチを持ってきた時にした香り。そして息も絶え絶えになるほどの熱を思い出したのである。
「ぅ、あ」
掠れた声が漏れたがすでに立ち去ってしまった透龍の耳には入らない。
ただひたすら一人白いベッドの上で身悶えるだけ。
――これがフェロモン……。
すでに番持ちのオメガである伊織がこのような発情状態になるのは、その相手である恭弥の身につけていたものだからに他ならない。
「あ゙ぁ゙っ、あ、はぁ……っんぅ」
低かった体温が一気に上がり、心臓が痛いほど高鳴り始める。
そのせいか薄らとしていた意識はハッキリと輪郭を帯び始め、さらに大きく目を見開きながらもがいた。
「っ、これって」
元凶ともいえる枕元に置かれたそれを手繰り寄せてみる。
するとなんと一着の体操着。しかもよく見ると自分のもので、そこではじめて思い出した事。
――まさかあの時の!?
ずっと前に体操服を失くした (というが恐らく盗まれた)ことがあった。
中学の頃のイジメを彷彿させてトラウマを刺激されたが、実際はすぐに返ってきたのだ。
しかし今思えば返してきたのも恭弥で、渡されたものもどこか新品のようなものだったような。
というか。
――誰が返してくれたっけ……?
ぶっきらぼうに突っ返してきた手。その持ち主の記憶がやはりすっかり抜けている。
一生懸命に記憶の底を探り続けるも、ただ思い出せない気持ち悪さだけが残るだけで。
「くそっ」
頭を掻きむしりながら大きくため息をついた。
なぜかここ数ヶ月の記憶が虫食い状態だ。
まるで途中で席を立った映画のワンシーンのように断片的な映像は、辻褄さえ合っていない。
「ああもうっ!」
身体の疼きと共にそんな居心地の悪さに思わず声を荒らげた。
きっと一ノ瀬 恭弥となる人物のせいだと伊織は結論付ける。
普段あまり怒りをあらわにする事のない伊織だったが、今はなぜか感情が抑えられられなかった。
これは記憶の欠如が関係していたが、本人は知る由もない。
――文句のひとつでも言ってやらないと。
仮にも(記憶はなくとも)番相手なのだ。すべての事情を聞き出さないと納得も出来なければ、このまま廃人同然の病院生活するつもりもなかった。
「一ノ瀬 恭弥……」
その名前を口の中で転がす。
まったく記憶にないはずなのに、どこか落ち着きのない気分になるのはなぜだろう。
気付けば、体操着に顔を埋めながら息を荒らげていた。
「あぁ」
――本当に番なんだ、この人と。
フェロモンの香りにクラクラする。なぜ自分の名前入りの体操着に彼の匂いがついているのか考えたくもないけれど。
「あ……れ?」
本能的に脚をすり合わせると違和感。
少し躊躇った末にそこに手を差し混んでみると、冷たく硬い感触が指先に触れる。
「か、鍵……」
ご丁寧に鈴飾りまでついたそれは、固く閉ざされた病室の鍵。
透龍の言った賭けの意味はこれだったのだ。
番持ちオメガの本能で彼を目覚めさせること、そして逃亡に必要なモノをこんな所に隠すなんて。
まったく趣味の良い話ではない。
「……」
伊織の喉がごくりと鳴った。
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