アルファが僕を選ばない10の理由

田中 乃那加

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脱出の動機

 出来るだけ音を立てずに鍵をあける。扉を恐る恐る開くと、そこはごく普通の病棟のようで。

 息を殺しながらゆっくりと廊下に出る。

「……っ、はぁ」

 堪えようのない吐息は、恐らく着ている体操着 のせいだ。
 
 ――病衣だと目立つかと思ったけどやめた方がよかった、かも。

 今更後悔するも遅い。
 というのも顔を埋めるだけでたまらなく身体が疼くようなシロモノを、こともあろうに身につけて歩くなんて自殺行為なのだがテンパった頭では考えつきもしなかった。

 幸い、病棟内は水を打ったかのように静かでむしろ足音が響いてしまうのではないかという不安すらある。

 そんな廊下をゆっくり歩いていると、向こうにナースステーションが見えてきた。

 ――やばい。

 ここを通らなければ脱出はできないように見える。
 もちろんナースステーションには数人の看護師が引き継ぎやら書類仕事やらで忙しくしているのが遠くからでもわかった。

 ――でも。

 ここで固まっていても仕方ない、と決意を固めた時。

「っ、わ!?」

 いきなり後ろから手を引かれ声をあげる暇もなく抱きつかれ、そのまま近くの個室へ引きずり込まれたのだ。

「ひ……ッ!」
「静かにして。伊織ちゃん」
「!?」

 これ以上ないというくらい鮮やかな手腕で空室に拉致しててきたのは、なんと稀美であった。

 目深に帽子をかぶり、服装も身体のラインを隠すようなダボついたものであったもののその表情は満面の笑みだ。

「会いたかった」
「稀美さん……どうしてここに」

 驚きのあまり口をパクパクさせながら問いかけると、彼女は少し悲しげに目を伏せてから。

「面会禁止、っていうか出禁食らってたけど来ちゃった♡」

 なんて舌を出すものだから伊織はなんだかよく分からなくなっていた。

「出禁って……」
「伊織ちゃんのお姉さんに怒られちゃったからね。あ、反省も後悔もしてないけど!」

 あんな場面を見られてしまったのだから仕方ないと言う。

 姉にとっては騙されて番にされた可哀想な弟にその相手のフェロモンを嗅がせて強制的に発情させる加害者側の人間、つまり敵認定されてるのも無理はなかった。

「でも伊織ちゃんが思い出してくれてよかった」
「へ?」
「恭弥のこと、愛してるんだよね」
「……いや」

 伊織は気まずそうに視線を泳がせる。

「その恭弥って人のことは知らない、っていうか覚えてないけど」
「ふぁっ!?」

 今度は彼女の方が驚く番だった。

「でもその…………一発くらい殴りたいな、と」
「殴る? 伊織ちゃんが?? 恭弥を???」
 
 鳩が豆鉄砲食らったようなとはまさにこの様子なのだろう。
 呆気にとられた稀美に伊織はモゴモゴと口を開く。

「だって僕は覚えてないけどその……番、だし……でも僕のところに会いにこないし……連絡だって……僕だけが、こんな体操着にモヤモヤして……っていうか! なんで他の人が僕の体操着持ってんの!? やっぱり盗難されてたんだよね!! それもなんか嫌っていうか……ええっと……」

 そんな要領を得ない長文を最初はポカン顔で、最後には少し涙ぐみながら彼女は聞いていた。

「伊織ちゃん゙ん゙ん!!!」
「えっ!? ま、稀美さん!?」

 なぜか感極まった様子で抱きついてきた彼女に困る。

「伊織゙ちゃんっ、少し見ないうちに強くなったねぇ゙ぇ!!!」
「強く……?」
「よし今から殴り込みに行こう!」
「え?」
恭弥あのバカをボコボコにぶちのめしに行こうねッ!」
「ぼ、ボコボコはちょっと……」
「いいっていいって、治療費はあたしが出すから!」
「いやそういう問題じゃなくて……」

 タジタジとする伊織とは反対に、俄然ヤル気が出てきたと拳を固める稀美。

 まずはこれ着て! とどこからだしてしたのか紙袋を押し付けてくる。

「え?」
「さすがにその格好で外に出られないでしょ」
「あっ……」

 胸にきっちり名前の印刷された体操着に病衣のズボン姿。足元はスリッパさえなく裸足だし、無理矢理抜いてきた点滴針のあとのせいで白い腕には血が滲んでいる。

「もし外に出られても保護されちゃうかもね」
「そ、それは困る」
「じゃあ着替えよ?」

 なんと用意がいいのだと感心半分、なんか手のひらで転がされているような面白くなさ半分で紙袋を受け取った。

「ほら早く着替えて」
「あのちょっと外に……」
「いやだよ。あたしが看護師に見つかっちゃうじゃん」

 たしかにそうだ。しかしいくら伊織でも女子の前で堂々と着替えるのも気が引ける。
 だから部屋のすみに行くと彼女が一言。

「ふふ、目ぇつぶっていてあげるからね」
「……そうしてくれると助かる」

 彼女がわざとらしく両手で顔をおおっているのを確認してから、そそくさと服を脱ぐ。
 
「み、見ないでね!?」
「見てない見てなーい」
「稀美さん!」
「あはは、バレた」

 指の間からバッチリ目があって思わず叱ったら笑われた。

 そんなことをしつつ、伊織は着替えたのだが。

「こ、これは」
「変装も兼ねてるからね~。お、かわいい♡」
 
 それはなんと黒を貴重としたワンピース。胸元こそさほど開いてないものの、さり気なくあしらわれたレースやフリル。そしてなによりミモレ丈 (ふくらはぎの真ん中くらいの着丈)の清楚なデザインはどこぞのお嬢様かと見まごうばかりのもので。

「なんで女装……」
「だから言ったじゃん、変装だって」

 そのわりには心の底から楽しそうなのはなぜか。
 そして彼女は仕上げとばかりにワンピース姿の伊織に近づいてくる。

「あとは簡単なメイクとウィッグでオンナノコにしていきまーす♡」
「ひぇっ!?」

 もうそこからは抵抗さえ出来なかった。ものの数十分も経たず、伊織は黒髪ロングなお嬢様となった。

「満足満足。いいねぇ、またやろうね!!」
「えぇ……」

 なにか今までのどんな治療より疲れた気がするが、彼はもう何も言わなかった。
 その代わり、もう一度静かに覚悟を決めた。

 ――ここを出て恭弥って人のところに行かなきゃ。

 なんのために、とか会ってどうしたいだなんて何一つ考えていない。
 ただこのまま漫然とあの豪華な監獄のような病室で過ごしたくはなかった、それだけである。



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