彼女の兄との不適切な関係

田中 乃那加

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酸いも甘いも感傷の味

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 足を踏み入れた瞬間。鼻先をくすぐる香ばしさに太郎は丸くした。

「か、カフェ?」
「なに馬鹿面してんだ、マヌケめ」

 相変わらずの毒舌でさっさと店内を先に行く天翔の背を、慌てて追いかける太郎。

「いらっしゃい、天翔ちゃん」

 カウンターの中から弾むような声がする。
 
「ん」

 ぶっきらぼうで素っ気はないがどこか優しげに返される言葉、その視線の先をたどると。

「あら珍しい、天翔ちゃんがお友達連れてくるなんて」
「そんなことないだろ」

 三十半ばくらいの女性が、シックなベスト風エプロンカマーエプロンを身につけ微笑んでいた。

「ふふ、照れなくたっていいのよ。今日は初めてのボックス席ね」

 そうからかわれ、天翔は苦々しい顔で舌打ちをする。
 しかしこの女性は特に怒るわけもなく、むしろ嬉しそうに笑うのだ。まるで年の離れた弟が可愛くてたまらない、という様子で。
 そしてその顔のまま、こちらに視線をむけた。

「はじめまして、ゆっくりしていってね」
「は、はぁ」

 温かい言葉と笑顔をむけられ、太郎は曖昧に返事をする。
 どうやらこの女性はこの喫茶店の店長らしい。そこで初めて店内を見渡した。

 一言で言えばレトロな雰囲気と言えばいいのだろうか。
 歴史を感じさせ、しかし丁寧に手入れされた温もりを感じさせるアンティーク達に囲まれた空間。
 明るすぎず程よい照明に、会話を邪魔することはないBGMは洒落たジャズだろうか。
 学ランの高校生が入るには多少気後れするような、しかしどこまでも温かみのある店。

 それがここ、喫茶ラクリマである。

「なんかこの店すごいですね」
「あ?」
「ゴージャスっていうか……ええっと」
「それを言うならレトロだろ」
「そう、それです」

 もう元々乏しい語彙力も飛んでしまうくらいに、太郎は物珍しくて仕方なかった。以前やったオンラインゲームでこんな世界観があったかもしれない、いやアニメだっただろうか。
 大正ロマンが現代にあるとすれば、こんなイメージ。

「なんかすげぇな」
「ふっ」

 辺りをキョロキョロと見ていたら、目の前の男が小さく吹き出した。

「ほんっとバカだな。お前」
「!」

 ちゃんと笑った顔を見たのは初めてだった。それもそうだろう。数回しか顔を合わせておらず、ろくな会話もしていない。ただ恋人の身内であるというだけの関係なのだから。
 しかしせせら笑うようなものであっても、新鮮でひどくまぶしく感じてしまった。

「なんだよ」
「い、いえ」

 ポカンとしていたらすぐに睨みつけられる。
 太郎は慌てて視線を外すと。

「なんかいい感じだなぁって」
「あ?」

 また間違えた。ただようやく見れた笑顔を褒めようと思ったのに。いや、それもおかしいか。懸命に頭を巡らすも取り繕う言葉も思いつかず。
 アタフタしていると天翔は『やっぱりバカだな』と小さくつぶやいた。

「さっきから俺の事バカバカ言い過ぎじゃないですか」
「だって仕方ないだろ。バカなんだから」
「うっ」

 微妙に否定しきれないのが悔しい。だが、太郎もまた負けじと彼を睨みつけた。

「年下をいじめるのは性格悪い」
「ふん、性格悪くて結構だね。バカよりよっぽどマシさ」
「ひどい」

 結局負けて、鼻の頭にしわをよせて黙るしかない。すると。

「――あら仲良しのお友達が出来て良かったわねぇ、天翔ちゃん」

 お盆にのせた水差しとグラスを手に、先程の女性がやってきた。

「彼とは仲良しでも友達でもないよ、和香わかさん」

 むっつりと返す天翔だが、和香と呼ばれた彼女はころころと笑いながらグラスをテーブルに置く。

「うふふ。そんなこと言って。天翔ちゃん、今日はすごく機嫌良さそうじゃないの」
「え、これがですか!?」
「……おい。バカ」
「あっ」

 ついつい横から口を挟めば、彼にキッと睨まれた。
 
「す、すんません」

 しかしこれで機嫌か良いとは。普段この男はどんな顔をしているんだろう。
 そんな表情を読んだかのように和香は肩をすくめて言った。

「この子ね、ご機嫌ななめだと一言も喋らないのよ。だから今日はすごく機嫌がいいなって」
「違うって言ってるだろ。和香さんはほんと人の話を聞かないんだから」
「またそんな事言って。でも私はちゃあんと分かってるんですからね」
「分かってないから言ってるんだけどな」
「素直じゃないのねぇ」
「あーもう。わかってないな、まったく」
「うふふ」

 嫌そうに顔をしかめる天翔と対照的に、嬉しげな彼女。なんだかかなり親しい間がらのようだ。
 多少の居心地の悪さを感じつつ、太郎はおずおずと声をかけた。

「あの」
「まぁ! ごめんなさい。ご注文聞きいてないわね」

 今度は申し訳なさそうに眉を下げる。
 ころころと表情の変わる和香は、まるで太陽のような女性だと思った。明るく、その笑みすら温かい。
 初対面であるはずなのに傍にいるだけでこちらまで笑顔になる、そんな女性だと。

「天翔ちゃんはいつものでいいわよね?」
「違うのがいい」
「もしかして?」
「ああ」
「大丈夫?」
「いいから」

 少し長めのやり取りをするも、鬱陶しげにこたえた彼の視線は気まずそうにさまよっていた。

「はい、かしこまりました」

 二人分の注文を聞き終えてカウンターへ去っていく彼女を後ろ姿を、太郎はそっと見送る。

「……浮気者」
「え゙」

 やぶにらみで言われドキッとした。

「妹と付き合ってる分際で、ほかの女の尻を追いかけてるんじゃない」
「し、尻って」

 別にそんなつもりはない。確かに月乃とはまったく違うタイプの魅力のある女性だ。
 しかし心臓が一瞬はねたのは、それが理由ではなかった。

「一途でいろよ、少年」

 反論する前に、今度は口元だけで笑った彼と目が合う。
 まるで心の底を丸ごとのぞき込まれたようなバツの悪さに唇を噛む。
 そんなはずはないのに。

「そういえば、天翔さんはここの常連なんですか」

 話題を変えようと水を飲んでから、口を開く。

「常連……まあ、よく来るね」
「和香さんっていうのは」
「ふん、耳ざとい奴め。まあいい、教えてやる。黒音 和香くろね わかさんはここの店長だよ」
「へぇ」

 若そうに見えたが女手でここを切り盛りしているとは。何となく、すごいと思った。
 しかし同時に。

「恋人かなんかですか」
「は?」
「和香さんと天翔さんですよ。えらく親しげだから」

 言ってしまってからため息をつく。まるで嫉妬しているようだ。確かに面白くなかった。それが何故か、とか誰に対してかなんてまるで考えることもなく。
 しかし彼は小さく鼻を鳴らすと。

「彼女はやめとけ」

 と軽くウィンクした。それにまた目を伏せた自分が嫌になる。

「お前、年上好きかよ」
「……そうかもしれないですね」

 これはもうヤケだった。
 少し戸惑っているだけ。むしろドン引きレベルだから自分は悪くない。
 非常識なのはむこうで、振り回された被害者はこちらだ。
 なんて意味のわからないことをぐるぐる考える。

 とどのつまり、この男がこなれた様子であの女店主と会話するのが気に食わなかっただけ。仲間はずれにされたような疎外感と単純に嫉妬心だろうが、今の太郎にその感情の矛盾を正しく読み解く余裕はないだろう。

「とにかく」

 視線を合わせることなく、女のように少し長い髪をかきあげる仕草で彼が口を開いた。

「月乃を泣かせたら許さないからな」

 こいつもか、という失望。というか苛立ちに近い。
 どうしてどいつもこいつもこうお節介なのか、そんに浮気者に見えるのか。

 太郎は渋面でグラスの水に手を伸ばす。

「あんたが言っても説得力がない」

 さぞ攻撃的な物言いだっただろう。一瞬、天翔の瞳が戸惑うように揺れた。

「たしかに」

 ため息のような言葉がその美しい唇からすべりおちる。

「僕が言うなって話だな」

 謝って欲しかったわけじゃないのに、なぜかひどく溜飲がさがった。
 同時にやはり苛立つ。

「天翔さんは、後悔してるんですか」
「当たり前だろう。未成年淫行だぞ」

 高校生をラブホテルに連れ込んで誘惑した男。実際にはキスくらいでみだらな行為をしたわけじゃないのに、なぜか喉を鳴らすほどに欲情していた。

「俺はあんたを殺しかけました」
「そうだったかな」
 
 忘れたよ、とつれなく答える彼にまた失望。同時に湧き上がる哀しみと怒りに、必死で恋人の顔を思い出す。

 似てないのに似ていた、この美しく退廃的な男の妹。
 
「僕はもう忘れた」
「そんな……」

 自分勝手すぎると責め立てたかった。誘ったのはそっちなのに。蜘蛛の糸に獲物がかかり狂喜する毒蜘蛛のような反応であったじゃないか。

 それをこんなに悟りきったような諦めたような顔で切り捨てられてしまっては、この感情をどこへ持っていけというのだ。

 哀れな獲物であることは不名誉ではあるが、ほの暗い期待すらあったのに。理不尽さに文句のひとつでもいいたくなったが、それでも口にすれば負けた気もする。

 ――そっちがその気なら。

 眉間に深いしわを刻む少年は、注がれる視線に気づかない。

「……」
「……」

 沈黙が二人の間にながれる。
 間を埋めるかのようなBGMはあの時の陳腐なものとは段違いに洗練されたものであった。
 しかし太郎にはどうにも耳障りでならない。
 呆れたようなため息ひとつ、聞き取れないではないか。

「はあい、お待たせいたしました」
「!」

 突然近づいてきた足音と、元気な声に肩がびくつく。顔をあげれば二人分のコーヒーカップなどを盆にのせた和香が穏やかな微笑みと共に立っていた。

「あ、はい」
「うふふ。二人ともすごく楽しそうだったから、声かけるの迷っちゃったわ」
「ハァ?」

 なにいってんだと言いたげな様子の天翔だが、やはり彼女は気にしないらしい。
 
「はい。あなたにはサービス」
「え?」

 頼んだのはアメリカンコーヒー。しかしもうひとつ、銀色で光を柔らかく返すステンレス製の器に盛られた

「ぷ、プリン」
「プリンアラモードよ。若い子は知らないかしら」

 純白のクリームとバナナや苺、メロンに黄桃やさくらんぼをたずさえたカラメル色のプリン。
 正しくレトロ喫茶にはおあつらえ向きの昔ながらのデザートであった。

「すげぇ……」
「うふふ、サプライズ。初めましてのご挨拶よ」
「でも俺注文してな――」
「いったでしょう、サービスだって。あ、もしかしてプリン嫌いだった?」

 ハッとした顔をした彼女に太郎は首をふる。
 特にアレルギーもなければ、実を言うと甘いものは好きだ。
 柔道をやめてからは太るのを多少気にしてひかえていたが、目の前に出てきたら別というもので。

「どうやら喜んでくれたみたいね」
「あ、はい。ありがとうございます」
 
 スプーンをにぎった彼の口の端はすでに期待にひくついている。
 
「ガキめ」

 目の前から鼻白むような声。
 頬杖ついた天翔が、肩をすくめた。

「あら、天翔ちゃんも欲しい?」
「僕は甘いものが苦手」
「そうだったかしらねぇ」

 じゃあごゆっくりと軽やかに微笑み立ち去る彼女に、もう一度軽く頭を下げる。
 
「親切な人ですね、和香さんって」
「お節介なだけだよ」
「そんなこと言って……」
「黙って食べろ、ガキ」
「はいはい。じゃあいただきます」

 面白くないと顔に書いてあるような表情を見ながら、太郎は固めのプリンにスプーンを刺した。
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