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堕ちた青春の残滓

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「待ってろ」

 そう言ってシャワー室に消えていく背中に手を伸ばせば。

「待ても出来ないのか、駄犬」

 心底苦々しい顔で今度は犬扱いされた。だからそれ以上声をかけることすら諦めて、太郎は大きなベッドに腰掛けている。

「やべぇ」

 ついにここまで来てしまった。
 けしかけたのはこちらなのに、いざとなったら怖気付く自分が情けなかった。
 だがうなだれながらも胸は痛いほどに鼓動を打っているのだからどうしようもない。

「俺、変態みてぇじゃん」

 年上の男。しかも恋人の兄貴に興奮してしまうなんて。
 そう、これはもういくら童貞である太郎でも認めるしかなかった。あれから毎晩、自分を慰める時には必ず彼の姿を妄想として登場させるくらいに。

「最低だろ」

 頭をかかえ、大きなため息をつく。目立つからせめて脱げと叱られて、手に持って歩いていた学ランを放り投げた。

 ……帰ってしまおうか。

 そっと心の内でつぶやく。
 今ならまだ間に合う。これ以上ここにいたらひどい泥沼になる、悪い予感。
 武道で学んだはずの高潔で硬派な精神など微塵も存在しない。不毛で薄汚い、人には言えぬ関係が始まってしまう。

 十代の少年にとって不安で後悔しか無いはずなのに、なぜかその下半身には熱が集まりはじめていた。

「あはは、いい気味だ」

 嘲る声で我に返る。顔をあげれば、白いバスローブを羽織った彼が立っていた。

「あ、天翔さん」
「お前もシャワー浴びれば?」
「えっ……」

 なんとも生々しい。思わず絶句する。

「その汚ねぇチンコ、綺麗にしとけってこと。それとも童貞は自分の身体すら洗えないのか」
「なっ!?」

 あけすけで下品な言葉に頭の中がカッとなる。しかし何も言い返せず、奥歯をきつく噛み締めて立ち上がった。

「あんたこそ――逃げんなよ」

 悔し紛れだとか負け犬の遠吠えだとか、自分を卑下する言葉に耳をふさぎながらバスルームに逃げ込む。

「っ、くそ!」

 投げ捨てるように服を脱いで外に放る。

「くそっ、くそっ」

 ホモの変態のくせに。セックスシンボルといいたげな白い肌がバスローブからのぞく胸元。
 
 少年誌のどのグラビア写真より平らで薄いはずなのに、なぜか目が離せなくなりそうだった。
 長い首と、ルージュでもひいたかと思う程の色付いた唇。
 痩せた身体がなおも目をひく、どこか退廃的な美に生唾を飲んだ。

「あんなのっ、反則だろ」

 悔しい。悔しくて仕方ない。そしてたまらなく苛立つ。
 同性にここまで欲情してしまって事実に。惑わされた、誘惑されたと思った。

「あの野郎」

 やっぱり罰してやらないといけない。だらしの無い雌猫。妹の恋人に肌を晒す、あんな淫売には解らせてやらねば。

「俺が……」

 彼が顔を歪めて苦しむ様を妄想するだけで、たまらない愉悦だった。
 それはもはや暴力衝動なのかもしれない。攻撃的な性的欲望リビドーに身を委ねてしまえばどれだけ楽になるか。

 シャワーの蛇口をひねって冷たい水に打たれる。
 そうでもしないと、今すぐ飛び出していって彼の首を絞めあげてしまいそうだったから。
 今度こそ殺してしまう。殺してから、きっとその遺体を凌辱して絶頂してしまうだろう。

 童貞であるのにも関わらず、そんな己が易々と想像できたのが恐ろしい。

「おい、いつまで――って、冷たっ!? 何してんだよ!」

 さすがに時間がかかりすぎると入ってきた天翔の声が浴室内に響く。
 
「バカっ、風邪ひくだろ!!」

 シャワーの冷水が止まり、同時に頭を軽く小突かれた。

「湯の出し方くらい分からなかったのか?」

 その言葉とともに、頭から注がれたのは適度に暖かい湯。まるで氷漬けにされた身体が溶けだすような錯覚をおぼえる。

「ほら、ゆっくり呼吸しろ。大丈夫だから」
「っ、俺……」
「いいから落ち着け。大丈夫だから」

 何が大丈夫なものか。
 バスローブを脱ぎ捨てて全裸の天翔が、後ろから抱きすくめてきたのだ。
 太郎は内心パニックを起こしつつあったが、なんとか唇を噛んで耐える。

「ゆっくり数を数えろ。出来れば素数がいいけど、お前バカっぽいからなぁ」
「は……ぁ……っ、ぁ……く……」

 どんどん溶けていく。溶かされていく。
 そのくせ心臓だけは激しく飛んで跳ねているものだから、苦しくて仕方ない。

「うぅっ……ぐ……ふ……ぅ゙」
「大丈夫だ。大丈夫だから」

 大丈夫と繰り返す男は優しく腕に力を込める。
 自分よりはるかに華奢な、でも確かに骨格のしっかりした男に抱きしめられて安堵している自分がいる。
 泣き出したくて。でもここで泣いたらおしまいだとも思う。

「ゆっくり息を吸って。吐くのもゆっくりり。そう、上手だ。うん、大丈夫だ。大丈夫」

 どこまでも優しい声色に、どこまでもすがってしまいたくなる。
 十代といえど、それなりにガタイのある男が。甘えさせられて涙が出るほどの感情に駆られる。
 理解不能な状況にどう足掻いても冷静になれない。
 だから必死で回された腕にすがるしかなかった。まるで溺れる寸前の者が、懸命に命綱につかまるように。
 
「太郎」

 耳元で囁くように名を呼ばれ、彼は喉の奥で呻く。
 
「大丈夫だから」

 結局そればかりだ、と思った。でもなぜか救われたような気分になっている自分もいるのも確かで。
 不毛な関係を求め足を踏み入れてしまう自分がひどく汚らわしく、それでいて初めて恋をするかのように胸を高鳴らせている。

「温まってきたな」

 後ろからぴったりと張り付いて、一緒に降り注ぐ湯を浴びていた彼が呟く。

「ベッドいこうか」

 そこには不思議と性的な色を感じなかった。ぽんぽん、と幼子をあやす優しい手のおかげかもしれない。

「あ……はい」

 そんな吐息のような返事にも、彼が小さく笑ったのを背中越しに感じた。

 

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