もうどうにでもなあれ

だいたい石田

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1話

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もうどうにでもなれ。
工藤あかりは何もかもが嫌になっていた。

たまたま悪いことが重なっただけ。
朝のごみ出しにほんのちょっと――時間にすれば30秒ほど――間に合わずゴミ袋を手にとぼとぼと家に戻ったこと。

ごみ出しの時間のロスが響いて、いつも乗るバスを逃し1本遅いバスにしたらものすごく込み合っていた。座席なんて選べるくらいに空いている1本前のにくらべ、立つ場所にもこまるぐらいの込み具合。なれない満員バスでいつもの5倍くらい朝から疲れたこと。

いつも尻ぬぐいをしてあげている先輩に、こちらのミスで先輩の処理が増えることを話し謝罪すると、鬼の首でもとったかのように攻め立てられたこと。
もちろん、ミスはよくないことだ。けれども、人間である以上何かしらのミスはする。あかりもそう思っているからこそ、先輩のミスは責めずに尻ぬぐいをしていたのに。

昼は、作っていたお弁当を家に忘れたことで、昼休みに近くのコンビニにお弁当を買いに行くも考えることはみな一緒なのとタイミングが悪かったせいか、好きなお弁当が売り切れておりさらにはレジに長蛇の列。
会社にもどると昼休み終了まであと15分でかきこんでたべていると、そういうときに限って、件の先輩からどうでも仕事をいますぐにしろとおしつけられて……。
それでもなんとかお弁当をかきこんで午後の業務へ。
と思っていたら急な来客や電話応対などの雑務に時間をとられる。本来しないといけない仕事が進まず、残業確定してしまった。
――今日は疲れていたから定時で帰りたかったのに。

小さなことから大きなことまでよくないことというのはとかく重なってしまう。
いいことはあまり重ならないというのに。

はあ。
大きなため息をつきつつ、会社を後にした。一番最後になってしまったので、戸締りの確認と火の元をみたあとで、守衛さんに「お疲れ様です。私で最後です。」と空元気で声を出して重い足取りで帰路につく。

こんなに疲れているけれど、いや、こんなに疲れているからか。
家には帰りたくない。
ふとそんな気持ちになった。
帰り道の途中にあるバーが目に付いた。前から気になってはいた。お酒とちょっとした食事をだすお店。
――いってみようかな。
ささいな思いつきで、バーのドアを押した。

夜の9時はバーにしてはまだ早い時間のようでマスターと店員さん以外には人はいなかった。
「いらっしゃいませ。」
ひさしぶりのバー。それも一人で、初めてのところ。
社会人3年目だけれど、こんなちょっとした冒険をするのは初めてだ。

「あの、初めてなんですけど、一人です。」
ちょっと緊張して震える声になってしまう。
そんなあかりに対しマスターは「でしたらカウンターへどうぞ。」と優しく答えて温かいおしぼりを渡してくれた。
まだ何も注文していないのに、このお店はあたりかもしれない。

あかりはそう思った。
それから1時間。
適当につまみと、カクテルをつまみつつ、マスターや店員さんと雑談をしていた。
やや人見知りはするけれど、客あしらいになれたマスターさんの話は面白く時折、笑い声もたててしまうほどだった。
平日の真っただ中のせいか、まだだれもこない。そろそろ、帰ろうかな、と思ったとき。

ドアのベルがカランとなった。
「マスター、いつものちょうだい。」
あかりから一席離れたところに座ったのは、あかりよりも2,3ほど年の離れた男だった。会社帰りなのかスーツをきている。
慣れた様子で頼むと、あかりに目をやった。
「はじめまして、かな?」
「はい、そうです。よく前を通ってたんですけど入ったのは初めてなんです。」
「そうなんだ。俺はよくきてるんだ。……マスターこの方に何か飲み物をお願い。」
「え、でもそんな……」
「この1杯だけ。お近づきの証に、おごらせてよ。」
人好きのする笑顔で言われては断れなかった。
そろそろ帰ろうと思ってグラスが空だったのも悪かった。
「なら、1杯だけ。マスター、さっきのと同じのをお願いします。」
この1杯だけで帰るつもりだったのだ。

でも。
気がつくとあかりは、朝からのできごとを全部男にぶちまけていた。
男もあかりのとりとめもない話に「それから?」「それは大変だったね。」などと見事な相槌をうってくれた。
最後の最後まで愚痴りきると、
「でも、こうして愚痴を全部聞いてくださる方と出会えてよかったです。」と笑った。
そのとき。ふいに店のなかがぐらりと揺れた。

やばい、のみすぎた。遅ればせながら気付くがどうしようもない。
のみすぎたことは大学のときに何度かある。とにかく水を飲んで、吐き気があるなら吐いて、それから寝るしかない。
大学のときならば友達が家まで付き添ってくれた。でもここには友達がいない。それでも帰らなければならない。

「マスター、お会計をお願いします。そろそろ、帰ります。」
そのとき、くらっと視界がゆれてふらついた。べつに一人でもなんとかそのゆれに耐えきれるはずだった。
でも。
「大丈夫?」
しっかりと、でもあかりが痛くないように加減して掴まれた腕は温かかった。

いつの間にか、男が会計を済ませていた。あわててお礼を言いお金を差し出しても「次、返してくれたらいいから。」と受け取ってくれない。
近くのタクシー乗り場まで送ってくれ、あかりをタクシーに乗せるのを見届けるとそのまま帰ろうとした。
まって、まだ連絡先すら交換してない。

「あの、待ってください。連絡先、教えてください。……お礼もしたいですし。」

男の計略にはまったことにあかりは気付かなかった。
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