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プロローグ
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今は、もうちょっとだけ、柴葉漬け色の空に、蛍が光り飛ぶ様に見惚れていたかった。
そやから、ちょっと皸が痛いけど、手のひらを目一杯に伸ばして、あとを追いかけた。
「綺麗や……」
見惚れながらも、それが、初夏に舞い飛ぶのとは違うことに気が付いていた。
何でかていうたら、いくら待っても、どんだけ待っても、そばまでは下りて来んかったからや。
それどころかみんな、空にユラユラと吸い込まれては消えていった。
とうちゃんが、向こうの方から凄い早さで走ってきた。
安威の村から帰ってきたとこらしく、一番上等なかすりの着物を着ていた。かなり慌ててるみたいで、土塀際の畦道におった僕には目もくれず、東山の門の中へと一目散に走り抜けていった。
(何やろ?)
そう思って、とうちゃんのあとをこっそり追って門をくぐった。
とうちゃんは母屋には入らず、築山の手前を抜けて、お庭門から庭に向かった。
ほんまやったら誰もおらん静かな東山のお庭に、今は村の人達がぎょうさんおって、皆が皆、怖い顔をしてた。
(こらぁ、誰かに見つかったら怒られるわ)
そやから急いで庭石の影に隠れた。
その庭石は、ほんまやったら高槻城の石垣になるはずやった選ばれた立派な石やけど、昔のお殿様がお礼にと東山家にあげた石やと、三千代ネェが言うてた。
蛍は、庭の向こうの納屋の屋根から飛んでいた。パチパチ、メラメラ。どんどん、どんどんと飛んでいく。
「おい、水や、水や。もっと、水持ってこんかい。母屋に火が回らんように水掛けるんや。はよ、持ってこい」
とうちゃんはそう叫びながら、自分が上等な着物を着てんのを忘れてるんか、寒いのに頭から桶をひっくり返して水浴びした。
すると凄い音がして、いきなり納屋が火に包まれると、隣に建っている離れ家の壁が燃えだした。
「おい。急いで中のもん運び出せ」
とうちゃんの一声で、納屋の火を消してた人が頭から水を被った。体から湯気をたてながら、離れ家の中に勢い良く入っていく。
さっきまで紫葉漬け色やった空は、もう黒くなっていて、舞い上がった蛍が一段と綺麗に輝き、ゆっくりと消えていく。消えていくクルス山の上には、いつものように蒼白い月がいて、その周りには、いつものようにいっぱいのお星さんが煌めいていた。
星はキラキラ、蛍はボーッと。綺麗で、なんか暖かい。
「コラ、ケン坊。こんなとこおったら危ないやんか。あっちいっとき」
隣のシゲおばちゃんの怒鳴り声が、いきなり頭の上で聞こえたから、いつもの癖で咄嗟に両手で頭を庇い、そこにしゃがみ込んだ。
けれども、ゴツンを落とすこともなくシゲおばちゃんは、チャプチャプ、ユラユラと、天秤棒を担いで離れ家の方に向かっていった。
ちょっと拍子抜けしたけれど、今は、シゲおばちゃんに怒鳴られようが、たまにとうちゃんのよりも滅茶苦茶痛いゴツンを落とされようが、意地でもこの場所から、絶対に離れたくないと思った。
大人達に見つからへん場所はないかと、辺りをよおく探した。
上手いことに、すぐそばの土塀の近くに、運び出された大きな長持があった。
急いでその蔭に隠れたら、ゴォーという大きな音がして、離れ家の屋根の上で火が大きく燃えた。
長持から顔を出すと、周りは昼間かと思えるほど明るくて、大人達が忙しそうに動き回ってる。
しばらく、離れ家の屋根の上で生き物のように動き回る火に見入っていた。
急に、何かが自分の身体に巻き付いていくみたいで怖くなった。
さっきよりも一段と大きくゴォーッと鳴って、茅葺屋根にいた火は、龍の様に天に昇って消えた。そんで、消えてった屋根の上に、いっぱいの龍の子供が生まれてた。
三千代ネェといっぱい遊んだ離れ家が、思い出と一緒に火に焼かれて無くなるって思った。
(火を消さなあかん)
そう思うのに怖さが増えていって、足が震えて、体は動かれへんかった。けれども、見てるだけしか出来ひん自分とは違って、とうちゃんは勇ましかった。
とうちゃんの放つ水は、龍の子供達を一匹づつ退治していく。
(そうや、ぼくはとうちゃんの子や。とうちゃんの子なんや)
そう思ったら、怖さがどんどん無くなってきて、ギュッと拳を握りしめた。そしたら足の震えがなくなって体が動いた。
それからずうっと、大人達が離れ家から荷物を運び出してくるたんびに、長持の蔭で息を潜め、ドスンという音がして、大人達の足音が向こうに行くんがわかってから、ひょっこりと長持の蔭から顔を出し、両手を組んで声を出して何度も唱えた。
「はよ、火が消えますように」
そして、何度目かに顔を出した時、そこには黒しかなかった。それやのに、パチパチ、ゴウゴウという炎の音と、大人達の張り上げる怒号だけは聞こえた。
何やと思って、ゆっくりと目の前の黒を見上げた。なんとなく見覚えがあった。ゆっくりと下へ見ていくと、下の方には特徴のある取手が二つ、三段に並んでた。
身震いがした。
それは間違いなく離れ家の奥の間で見た、あの立派な黒塗りの箪笥やった。
「ケン坊、うちとの約束守れる?」
「うん。三千代ネェとの約束やったら、ぜったい守るで」
「ほしたら、ケン坊にだけ見せてあげるわ。けど、ほんまに、誰にもゆうたらあかんで。ナイショやで」
三千代ネェは、芋虫みたいな僕の指とは違う、白くて細い小さな人差し指を可愛い桃色の唇の前に立てて言うと、大きく立派な黒塗り箪笥の一番下の引き出しに付いている、龍を模った金色の二つの取手を両手で引いた。
「うーん」と、三千代ネェは力一杯に引いたけど、引き出しはピクリとも動かへんかった。
「もう、ケン坊も見てんと手伝ってぇや」
三千代ネェは、真っ赤になった顔で言うた。
今度は二人で一つずつ、「せーの」と力任せに引っ張った。少しすると、スポッという音がして、引き出しが勢い良く飛び出してきた。
二人とも、ゴロリと後にひっくり返った。
けど、三千代ネエはすぐに起き上がると、
「見てみぃ。これ。これが宝物やねんで」
三千代ネェは、川の石をひっくり返して、水蛍を見つけた時のように、目をまん丸にしながら鼻息荒く、引き出しの中を指差して言うた。
宝物と聞いて、急いで床を這いながら引き出しまで辿り着いた。そして、三千代ネェが指差す引き出しの中を、興味津々と覗き込んでみた。
けど、そこには、古くて小汚い木の箱が、上等そうな紫色の布の上に並んでるだけやった。
「これなぁ、うちの家の宝物やねんで」
「えっ、これが?」
騙された気分やった。宝物というからには、もっとキラキラ輝く物やて思ってたから、「ただの箱やん」って言うてもうた。
「箱とちがうねん。中に入ってるねん」
「へぇ」
箱の中にお宝があると聞いて、さっき萎みかけた気持ちが戻ったら、手が勝手に箱に向かって伸びてた。
「あかんで。さわったら」
三千代ネェが大きな声で言うた。
「なんで?ええやん」
「あかんねん、さわったら。お父はんが、ゆうてはってん。箱は、かってにさわっても、かってに開けても、ぜったいにあかんって。なんやトクベツな時だけ開けるねんて。そういうむかしからの約束やねんて」
「えーっ、けど、開けて見んかったら、ほんまにお宝が入ってるか、入ってへんかわからんやん」
「そうやけど、お父はんが言わはるんやから、ほんまやねん」
「ほな、三千代ネェも見たことないんや」
「うちは……」
「あるん?」
興味津々に瞼をパチクリさせながら、三千代ネェに詰め寄った。
三千代ネェは下を向いた。
「なぁ、あるん?」
しつこく問い続けると、三千代ネェは下を向いたまま「うん」と頷いた。
「そうなんや。見たことあるんや」
そう言いながら、引き出しの中に身を乗り出して、「すごいなぁ。ええなぁ」って、なんべんも、なんべんも。呪文のごとく繰り返した。
(お願いしたら見せてくれるかも)
そう思ったから、くるりと三千代ネェに向き直り、
「お願いします。ぜったい、ないしょにするから、ちょっとだけ、お宝見せて。このとおりや」
両手で拝むようにして、何度も言うた。
「でも……」
三千代ネェは、足元をもじもじとさせながら、困った顔で見てた。
「お願いします。お願いします」
何度も何度も、手を合わせながら頭を下げた。そやけど、三千代ネェは、下唇を噛んで下を向いたまま、無言で首を横に振るだけやった。
「もう、ええわ。三千代ネェは、ケチや。ケチなんや。見せてくれてもええのに、ケチや」
そう怒って言うて立ち上がったら、顔を上げた三千代ネェの大きな瞳に、みるみるうちに涙が湧き出てきて、それが大きな珠になると、笑うと可愛いえくぼができる真っ赤な頬を伝って流れ落ちた。
そんで、その涙を見たら、何故そうなるのかわからへんけど、いつでも胸が張り裂けそうになる。
(今日もまた、いつものように、三千代ネェが泣き止むまで何度も何度も謝ろう)
そう思った。
けども、宝の入った木箱がそこにあると思った途端、三千代ネェへの思いよりも、木箱の中身への好奇心が勝りそうになった。
その時、母屋の方から三千代ネェの父親、東山のおじさんの声が聞こえてきた。
急に怖くなって、早くその場からいなくならんとあかん気がして、三千代ネェをそのままに、裏口に向かって走って逃げだした。
「うちは、ケチやないもん。見たらあかんねんもん。ケチやないもん」
そう泣きながらも声を大にして言う三千代ネェを背に、夢中で走った。
何でかわからんけど、自分も涙が流れ出てた。
やっぱり心配になって、裏口を出る前に立ち止まって振り返ってみたけど、三千代ネェのすすり泣く声は、もう耳には聞こえてこんかった。
それ以来、三千代ネェとは顔を合わせてない。
顔を合わせるのが気まずくて、わざと避けてたんやなかった。その日の夕方から、おじさんとおばさんとトメさんと三千代ネェで、急な用事で遠くへ出掛けていって、ずっと帰ってきてなかったからやった。
あかん。あかん。そう思いながらも、あの時に生まれた気持ちは少しも変わらず、むしろ、日に日に大きく膨らんでいった。
気持ちを押さえられずに、毎日こっそりと、東山の離れ家の裏口まで行って、三千代ネェに教えてもらった掛け金を外す道具を隠してある穴に手を入れた。今なら、怖い東山のおじさんはいない。こっそり中に入って、ハコの中のお宝を見る事が出来ると思って。
けど、右手が道具を握った途端、三千代ネェの泣き顔が頭に浮かんできて、道具から手を放してしまう。毎度これの繰り返しやった。
見覚えのある黒い箪笥を前にして、喉から手が出るとはこの事やったんかと思った。
「あと二、三日したら、孝蔵さん達、帰って来るらしいぞ」
東山のおじちゃんが帰って来るらしい。今朝、朝飯の時に、とうちゃんが、かあちゃんに話してた事も思い出した。
今しかない。お宝は今、目の前にある。しかも、運んできて置いた拍子に開いたんか、お宝の入ってる一番下の重い引き出しが、少し内の黒い闇を見せてた。
ごくりと飲み込む唾の音が、騒がしい中に凄く大きく響いた気がした。
周りを注意深く見渡す。近くに大人はいなかった。途端、身体の中で、あの時覚えた気持ちが急に膨らんで、そしてパァーンって破裂した。
その音は、はっきりと自分の耳に聞こえた。
引き出しの取手に手を掛けて思いっきり引っ張った。思いのほか軽く開いて、三千代ネェと開けた時と同じように、後にゴロリと転がり、同じように引き出しまで這っていく。今度はちゃんとお宝を見る事が出来るんや。
そうやのに、さっきまで空におった月が雲に隠れてしまったらしく、辿り着いて引き出しの中を覗き込んでみても、そこにあるはずの古惚けた箱は、薄ぼんやりとしか見えへんかった。
それでも我慢出来ずに、引き出しの中に両手を突っ込んで、手に触れたその一つを取り出した。
箱は、思っていたよりも随分と軽かった。
両手で落とさんように振ってみると、何か入っているらしく、カタカタと音が鳴った。
(これはあんまりやな)
そう思って、手に持っていた箱を手探りで戻すと、そのまま隣に並んでいるはずの箱を探した。
雲に隠れていた月がゆっくりと顔を出し始めると、それまではぼんやりとしか見えなかった引き出しの中をハッキリと照らしだした。
(あれ?)
三千代ネェが言うた宝物の入っている古惚けた箱は、あの時に見た紫色の布の上に並んでいた。いたけれど……。
(なんか違う)
そう感じた時、遠くの方から声がした。
驚いて反射的に引き出しを足で閉めると、さっきまで隠れていた長持の蔭に急いで逃げ込んだ。
「これで最後やな。シゲやん、あとは、この辺もう少し片付けて、火の粉が飛んできてもええように、ここの布団を、上に掛けといてくれるか」
「へえ」
最初の声が三軒隣の佐久蔵さんで、「へぇ」と言ったのが、シゲやんと呼ばれている無口な人やった。シゲやんは、安威の秋祭りが終わった頃から東山家に手伝いに来ている。なんや、遠い遠い、すごく雪深い所から来た人間やと、大人達は話していた。
「ほな、行ってくるわ。頼んだで」
佐久蔵さんがそう言うて離れると、シゲやんは、離れ家から持ち出した品を、言われた通りに片付けだした。
まずいことになったと思ったけど、どうやってここから逃げ出したらええもんかわからず、ただ、長持を背にキョロキョロと周りを見渡すだけやった。
「これか……」
長持の向こうからシゲやんの声が聞こえた。初めてちゃんと聞くシゲやんの声は、思っていたよりも、低くしわがれていて、何故だか恐ろしく聞こえた。
そして、カタンという何かが合わさった音が聞こえた。
シゲやんが、何かよからぬ事をしている。そんな気がしてならなかった。
恐ろしくなった。けども、じっと息を潜めてるしか出来んかった。
そやから、ちょっと皸が痛いけど、手のひらを目一杯に伸ばして、あとを追いかけた。
「綺麗や……」
見惚れながらも、それが、初夏に舞い飛ぶのとは違うことに気が付いていた。
何でかていうたら、いくら待っても、どんだけ待っても、そばまでは下りて来んかったからや。
それどころかみんな、空にユラユラと吸い込まれては消えていった。
とうちゃんが、向こうの方から凄い早さで走ってきた。
安威の村から帰ってきたとこらしく、一番上等なかすりの着物を着ていた。かなり慌ててるみたいで、土塀際の畦道におった僕には目もくれず、東山の門の中へと一目散に走り抜けていった。
(何やろ?)
そう思って、とうちゃんのあとをこっそり追って門をくぐった。
とうちゃんは母屋には入らず、築山の手前を抜けて、お庭門から庭に向かった。
ほんまやったら誰もおらん静かな東山のお庭に、今は村の人達がぎょうさんおって、皆が皆、怖い顔をしてた。
(こらぁ、誰かに見つかったら怒られるわ)
そやから急いで庭石の影に隠れた。
その庭石は、ほんまやったら高槻城の石垣になるはずやった選ばれた立派な石やけど、昔のお殿様がお礼にと東山家にあげた石やと、三千代ネェが言うてた。
蛍は、庭の向こうの納屋の屋根から飛んでいた。パチパチ、メラメラ。どんどん、どんどんと飛んでいく。
「おい、水や、水や。もっと、水持ってこんかい。母屋に火が回らんように水掛けるんや。はよ、持ってこい」
とうちゃんはそう叫びながら、自分が上等な着物を着てんのを忘れてるんか、寒いのに頭から桶をひっくり返して水浴びした。
すると凄い音がして、いきなり納屋が火に包まれると、隣に建っている離れ家の壁が燃えだした。
「おい。急いで中のもん運び出せ」
とうちゃんの一声で、納屋の火を消してた人が頭から水を被った。体から湯気をたてながら、離れ家の中に勢い良く入っていく。
さっきまで紫葉漬け色やった空は、もう黒くなっていて、舞い上がった蛍が一段と綺麗に輝き、ゆっくりと消えていく。消えていくクルス山の上には、いつものように蒼白い月がいて、その周りには、いつものようにいっぱいのお星さんが煌めいていた。
星はキラキラ、蛍はボーッと。綺麗で、なんか暖かい。
「コラ、ケン坊。こんなとこおったら危ないやんか。あっちいっとき」
隣のシゲおばちゃんの怒鳴り声が、いきなり頭の上で聞こえたから、いつもの癖で咄嗟に両手で頭を庇い、そこにしゃがみ込んだ。
けれども、ゴツンを落とすこともなくシゲおばちゃんは、チャプチャプ、ユラユラと、天秤棒を担いで離れ家の方に向かっていった。
ちょっと拍子抜けしたけれど、今は、シゲおばちゃんに怒鳴られようが、たまにとうちゃんのよりも滅茶苦茶痛いゴツンを落とされようが、意地でもこの場所から、絶対に離れたくないと思った。
大人達に見つからへん場所はないかと、辺りをよおく探した。
上手いことに、すぐそばの土塀の近くに、運び出された大きな長持があった。
急いでその蔭に隠れたら、ゴォーという大きな音がして、離れ家の屋根の上で火が大きく燃えた。
長持から顔を出すと、周りは昼間かと思えるほど明るくて、大人達が忙しそうに動き回ってる。
しばらく、離れ家の屋根の上で生き物のように動き回る火に見入っていた。
急に、何かが自分の身体に巻き付いていくみたいで怖くなった。
さっきよりも一段と大きくゴォーッと鳴って、茅葺屋根にいた火は、龍の様に天に昇って消えた。そんで、消えてった屋根の上に、いっぱいの龍の子供が生まれてた。
三千代ネェといっぱい遊んだ離れ家が、思い出と一緒に火に焼かれて無くなるって思った。
(火を消さなあかん)
そう思うのに怖さが増えていって、足が震えて、体は動かれへんかった。けれども、見てるだけしか出来ひん自分とは違って、とうちゃんは勇ましかった。
とうちゃんの放つ水は、龍の子供達を一匹づつ退治していく。
(そうや、ぼくはとうちゃんの子や。とうちゃんの子なんや)
そう思ったら、怖さがどんどん無くなってきて、ギュッと拳を握りしめた。そしたら足の震えがなくなって体が動いた。
それからずうっと、大人達が離れ家から荷物を運び出してくるたんびに、長持の蔭で息を潜め、ドスンという音がして、大人達の足音が向こうに行くんがわかってから、ひょっこりと長持の蔭から顔を出し、両手を組んで声を出して何度も唱えた。
「はよ、火が消えますように」
そして、何度目かに顔を出した時、そこには黒しかなかった。それやのに、パチパチ、ゴウゴウという炎の音と、大人達の張り上げる怒号だけは聞こえた。
何やと思って、ゆっくりと目の前の黒を見上げた。なんとなく見覚えがあった。ゆっくりと下へ見ていくと、下の方には特徴のある取手が二つ、三段に並んでた。
身震いがした。
それは間違いなく離れ家の奥の間で見た、あの立派な黒塗りの箪笥やった。
「ケン坊、うちとの約束守れる?」
「うん。三千代ネェとの約束やったら、ぜったい守るで」
「ほしたら、ケン坊にだけ見せてあげるわ。けど、ほんまに、誰にもゆうたらあかんで。ナイショやで」
三千代ネェは、芋虫みたいな僕の指とは違う、白くて細い小さな人差し指を可愛い桃色の唇の前に立てて言うと、大きく立派な黒塗り箪笥の一番下の引き出しに付いている、龍を模った金色の二つの取手を両手で引いた。
「うーん」と、三千代ネェは力一杯に引いたけど、引き出しはピクリとも動かへんかった。
「もう、ケン坊も見てんと手伝ってぇや」
三千代ネェは、真っ赤になった顔で言うた。
今度は二人で一つずつ、「せーの」と力任せに引っ張った。少しすると、スポッという音がして、引き出しが勢い良く飛び出してきた。
二人とも、ゴロリと後にひっくり返った。
けど、三千代ネエはすぐに起き上がると、
「見てみぃ。これ。これが宝物やねんで」
三千代ネェは、川の石をひっくり返して、水蛍を見つけた時のように、目をまん丸にしながら鼻息荒く、引き出しの中を指差して言うた。
宝物と聞いて、急いで床を這いながら引き出しまで辿り着いた。そして、三千代ネェが指差す引き出しの中を、興味津々と覗き込んでみた。
けど、そこには、古くて小汚い木の箱が、上等そうな紫色の布の上に並んでるだけやった。
「これなぁ、うちの家の宝物やねんで」
「えっ、これが?」
騙された気分やった。宝物というからには、もっとキラキラ輝く物やて思ってたから、「ただの箱やん」って言うてもうた。
「箱とちがうねん。中に入ってるねん」
「へぇ」
箱の中にお宝があると聞いて、さっき萎みかけた気持ちが戻ったら、手が勝手に箱に向かって伸びてた。
「あかんで。さわったら」
三千代ネェが大きな声で言うた。
「なんで?ええやん」
「あかんねん、さわったら。お父はんが、ゆうてはってん。箱は、かってにさわっても、かってに開けても、ぜったいにあかんって。なんやトクベツな時だけ開けるねんて。そういうむかしからの約束やねんて」
「えーっ、けど、開けて見んかったら、ほんまにお宝が入ってるか、入ってへんかわからんやん」
「そうやけど、お父はんが言わはるんやから、ほんまやねん」
「ほな、三千代ネェも見たことないんや」
「うちは……」
「あるん?」
興味津々に瞼をパチクリさせながら、三千代ネェに詰め寄った。
三千代ネェは下を向いた。
「なぁ、あるん?」
しつこく問い続けると、三千代ネェは下を向いたまま「うん」と頷いた。
「そうなんや。見たことあるんや」
そう言いながら、引き出しの中に身を乗り出して、「すごいなぁ。ええなぁ」って、なんべんも、なんべんも。呪文のごとく繰り返した。
(お願いしたら見せてくれるかも)
そう思ったから、くるりと三千代ネェに向き直り、
「お願いします。ぜったい、ないしょにするから、ちょっとだけ、お宝見せて。このとおりや」
両手で拝むようにして、何度も言うた。
「でも……」
三千代ネェは、足元をもじもじとさせながら、困った顔で見てた。
「お願いします。お願いします」
何度も何度も、手を合わせながら頭を下げた。そやけど、三千代ネェは、下唇を噛んで下を向いたまま、無言で首を横に振るだけやった。
「もう、ええわ。三千代ネェは、ケチや。ケチなんや。見せてくれてもええのに、ケチや」
そう怒って言うて立ち上がったら、顔を上げた三千代ネェの大きな瞳に、みるみるうちに涙が湧き出てきて、それが大きな珠になると、笑うと可愛いえくぼができる真っ赤な頬を伝って流れ落ちた。
そんで、その涙を見たら、何故そうなるのかわからへんけど、いつでも胸が張り裂けそうになる。
(今日もまた、いつものように、三千代ネェが泣き止むまで何度も何度も謝ろう)
そう思った。
けども、宝の入った木箱がそこにあると思った途端、三千代ネェへの思いよりも、木箱の中身への好奇心が勝りそうになった。
その時、母屋の方から三千代ネェの父親、東山のおじさんの声が聞こえてきた。
急に怖くなって、早くその場からいなくならんとあかん気がして、三千代ネェをそのままに、裏口に向かって走って逃げだした。
「うちは、ケチやないもん。見たらあかんねんもん。ケチやないもん」
そう泣きながらも声を大にして言う三千代ネェを背に、夢中で走った。
何でかわからんけど、自分も涙が流れ出てた。
やっぱり心配になって、裏口を出る前に立ち止まって振り返ってみたけど、三千代ネェのすすり泣く声は、もう耳には聞こえてこんかった。
それ以来、三千代ネェとは顔を合わせてない。
顔を合わせるのが気まずくて、わざと避けてたんやなかった。その日の夕方から、おじさんとおばさんとトメさんと三千代ネェで、急な用事で遠くへ出掛けていって、ずっと帰ってきてなかったからやった。
あかん。あかん。そう思いながらも、あの時に生まれた気持ちは少しも変わらず、むしろ、日に日に大きく膨らんでいった。
気持ちを押さえられずに、毎日こっそりと、東山の離れ家の裏口まで行って、三千代ネェに教えてもらった掛け金を外す道具を隠してある穴に手を入れた。今なら、怖い東山のおじさんはいない。こっそり中に入って、ハコの中のお宝を見る事が出来ると思って。
けど、右手が道具を握った途端、三千代ネェの泣き顔が頭に浮かんできて、道具から手を放してしまう。毎度これの繰り返しやった。
見覚えのある黒い箪笥を前にして、喉から手が出るとはこの事やったんかと思った。
「あと二、三日したら、孝蔵さん達、帰って来るらしいぞ」
東山のおじちゃんが帰って来るらしい。今朝、朝飯の時に、とうちゃんが、かあちゃんに話してた事も思い出した。
今しかない。お宝は今、目の前にある。しかも、運んできて置いた拍子に開いたんか、お宝の入ってる一番下の重い引き出しが、少し内の黒い闇を見せてた。
ごくりと飲み込む唾の音が、騒がしい中に凄く大きく響いた気がした。
周りを注意深く見渡す。近くに大人はいなかった。途端、身体の中で、あの時覚えた気持ちが急に膨らんで、そしてパァーンって破裂した。
その音は、はっきりと自分の耳に聞こえた。
引き出しの取手に手を掛けて思いっきり引っ張った。思いのほか軽く開いて、三千代ネェと開けた時と同じように、後にゴロリと転がり、同じように引き出しまで這っていく。今度はちゃんとお宝を見る事が出来るんや。
そうやのに、さっきまで空におった月が雲に隠れてしまったらしく、辿り着いて引き出しの中を覗き込んでみても、そこにあるはずの古惚けた箱は、薄ぼんやりとしか見えへんかった。
それでも我慢出来ずに、引き出しの中に両手を突っ込んで、手に触れたその一つを取り出した。
箱は、思っていたよりも随分と軽かった。
両手で落とさんように振ってみると、何か入っているらしく、カタカタと音が鳴った。
(これはあんまりやな)
そう思って、手に持っていた箱を手探りで戻すと、そのまま隣に並んでいるはずの箱を探した。
雲に隠れていた月がゆっくりと顔を出し始めると、それまではぼんやりとしか見えなかった引き出しの中をハッキリと照らしだした。
(あれ?)
三千代ネェが言うた宝物の入っている古惚けた箱は、あの時に見た紫色の布の上に並んでいた。いたけれど……。
(なんか違う)
そう感じた時、遠くの方から声がした。
驚いて反射的に引き出しを足で閉めると、さっきまで隠れていた長持の蔭に急いで逃げ込んだ。
「これで最後やな。シゲやん、あとは、この辺もう少し片付けて、火の粉が飛んできてもええように、ここの布団を、上に掛けといてくれるか」
「へえ」
最初の声が三軒隣の佐久蔵さんで、「へぇ」と言ったのが、シゲやんと呼ばれている無口な人やった。シゲやんは、安威の秋祭りが終わった頃から東山家に手伝いに来ている。なんや、遠い遠い、すごく雪深い所から来た人間やと、大人達は話していた。
「ほな、行ってくるわ。頼んだで」
佐久蔵さんがそう言うて離れると、シゲやんは、離れ家から持ち出した品を、言われた通りに片付けだした。
まずいことになったと思ったけど、どうやってここから逃げ出したらええもんかわからず、ただ、長持を背にキョロキョロと周りを見渡すだけやった。
「これか……」
長持の向こうからシゲやんの声が聞こえた。初めてちゃんと聞くシゲやんの声は、思っていたよりも、低くしわがれていて、何故だか恐ろしく聞こえた。
そして、カタンという何かが合わさった音が聞こえた。
シゲやんが、何かよからぬ事をしている。そんな気がしてならなかった。
恐ろしくなった。けども、じっと息を潜めてるしか出来んかった。
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