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昨夜から近畿地方上空には強い寒気が下りてきていて、夕方から明日にかけて大雪が降り、平野部でも雪が積もると朝の天気予報では言っていた。
けれども、南校舎と北校舎の間にある下駄箱前から見上げた空は綺麗に晴れ渡り、もう少しすると大雪が降ってくるなんて、とても思えないほどに澄んでいた。
いい一日になりそうだ。そう浮かれ気分を自分に言い聞かせた西垣千鶴は、小走りに集合場所の正門前広場に向かった。
児童達はもう広場に出てきていて、クラスごとに、何となく二列に並び始めていた。
クラスの皆は普段より、明らかにテンションが上がっている様子で、いつもはダンマリの美恵子ちゃんも、楽しそうに周りとお喋りをしている。調子乗りコンビと言われている田中とゴッチャンは、テンションが上がり過ぎて何処かのスイッチが入ったみたいで、列の中ほどで元気に『伝承・ヲタ芸』を踊っている。いつの時代だ。親が要らぬ事を教えたが為の所業だった。
(こら、気を引き締めなあかんなぁ。事故でも起きたらエライ事や)
千鶴は褌を締め直し、「早く並んで下さい。そうやないと出発出来ませんよ」と、浮かれている児童達の気を引き締めた。
学年主任で三組の担任の渡辺がやって来て列の前に立った。
三組の皆は綺麗に列を作っているのに、四組ときたら列らしき形だけ作ると直ぐにお喋りに夢中になっている。田中とゴッチャンは、まだヲタ芸を小さく踊っている。
「ハイ、みんな静かに」
三組は一瞬で静かになった。それなのに、四組の何人かは、声が小さくなっただけでお喋りを止めない。
千鶴は、そぉっと列のうしろから前へと、お喋りを止めない児童達に小声で注意して歩いた。
やっと静かになると渡辺は、ニコリ顔を千鶴に投げた後すぐに話し出した。
「今から出発しますが、さっき教室で先生から聞いた注意事項を、くれぐれも守るようにね。移動中は二列で、なるべく列を乱さない。じゃあ、出発します」
その掛け声を合図に、歴史ハイクの一行は正門から出発した。
引率教諭は四人。先頭は渡辺。三組のクラスがいて教頭代理の北村と、養護教諭で生徒達からは「保健のエグッちゃん」と呼ばれ親しまれている江草女史。四組のクラスがいて、しんがりが四組担任の千鶴だ。
歴史ハイクは今日が二日目で五年三組と四組が参加するのだが、北村と江草の二人は昨日の一組・二組も引率している。行き先が小さい建物の為、4クラスの児童が一度に入るのは無理なのだそうだ。
一行は、通勤、登校の時間を過ぎて、静寂を取り戻した住宅街の中を、ワイワイ、ガヤガヤと練り歩いていく。
列の最後を任された千鶴からは、子供達の吐く楽しげな言葉が、白く舞い上がって宙に消えていくのが見える。単純に嬉しかった。
その先に見える北の遠くの空は、どんよりと曇っている。朝の天気予報は当たっているようだ。南の空とは、あきらかに天気が違って見える。
春になればバス通りを中心に、街中が桜色に染まる住宅街は、大阪府でも北の方、北摂と呼ばれる地域、茨木市の山手にある。
バブルの時代よりもっと以前に開発され、途切れ途切れに時間を掛けて、未だじわじわと、奥へ奥へと広がり続けているアメーバーのような街だ。
そんな住宅街の中程に、西垣千鶴が勤務する茨木市立北小学校はあった。
町がアメーバーのように北へと広がりを見せるので、いつの間にか北限から中央部へと取り残されたのだ。
毎年、茨木市立北小学校の五年生は、年が明けた三学期が始まると、
『わたしたちの街・茨木市の歴史を勉強する』
そう銘打った特別授業を週に一度、社会科の授業の中に組み込まれる。
そして、極寒と呼びたくなるような二月に入ると、その授業と体育の授業の両方を兼ねた、歴史ハイクなるものに参加する。
行き先は、千提寺にある茨木市立キリシタン遺物史料館。
学校から、もっと山深い忍頂寺方向に、子供の足で、歩いて一時間程の場所にある。
この特別授業の為に、例年、五年生を受け持つ担任と副担任は、夏休み明けの九月から月に一度、日々の激務の上に、特別授業カリキュラム講習勉強会に参加する。講師は、教頭が担当すると決まっていた。
テレビや映画でのイメージだと教頭は、ただ校長の側にいるだけの楽な仕事。だと、千鶴も実際教員になるまでは思い込んでいた。
実のところ教頭は、大変な重労働だ。校長の補佐は当然の事、毎日の学校中の鍵の開け閉めの為、朝一番に登校して来ては、一番最後に学校を去るのだ。職員室の清掃や校内にある草木の水やり、その他諸々、校内の一般雑務が主な仕事で、最近では近隣住民や父兄からの苦情受付係も教頭の仕事になっていて、校長の椅子に座る為には必要な通過点だとはいえ、身体的にも精神的にもかなり負担の大きい仕事だった。
だから、そんな重要な職務を全うしている教頭が突然いなくなったら、校内は大騒ぎだ。
前任の教頭・門脇は、二学期に入り、来週から勉強会が始まるという九月の初め、北校舎二階の消火栓検査の立ち合いの最中に倒れて緊急入院した。
今春、寝屋川から転校してきた三年生の児童が引き起こした数々の問題の後処理の所為か、その生徒の両親がどっからどう見てもモンスターペアレントだった所為か、酷暑だった夏休みに行われた南側校舎の内外装補修工事の立ち合いの為、ずっと学校に詰めていた所為か、何が直接の原因とは判別出来ないほど内臓にダメージを負っていたという。「脳味噌でなかったのがまだ幸いだ」と、二番目に古株の市川女史が言うと、最古参の畑山女史が「そうよねぇ」と頷いていた。
退院後も芳しく無い体調を考慮して、門脇は茨木市教育委員会に移動となった。
教頭が入院してからの校内の一般雑務は全て、次の教頭が配属されるまでの間、校長を含め全教職員で分担する事となった。勿論、モンスターペアレントとは、教職員全員が一丸となって対峙すると決めていたのだが、九月の終わり、運動会の前に、その問題児の両親が離婚して、三年生の児童は母親の実家のある神戸の小学校に転出していった。
千鶴は『子は親の鏡』という言葉の意味の一端を理解出来た。そして、私はどう見えて、どう思われているのだろうか?また嫌なことを考えた。
勉強会の講師の方は、何度も五年生を担任した経験のある学年主任の渡辺が臨時講師を務めた。
教員生活三年目で、初めて高学年のクラスを受け持った千鶴にとって、普段の業務だけでも目一杯なのに、勉強会に雑務とイレギュラー的な事が重なって、家に帰っても休まる暇が無かった。日々、溜息を洩らす度、胸中に不安という靄を深めていった。単なる肉体的な事だけではなく、自らの教師としての資質に対しての事もあった。
そんな状態の千鶴の気分が少し楽になったのは、二学期も終わろうとしている十二月半ばの事だった。やっと教頭代理がやってきたのだ。
こちらに来るまでは、茨木市教育委員会の郷土史編さんの主事で、地元の郷土史研究家としても名前が通っているという定年間近の北村だった。
普段から、いつもニコニコと笑顔を絶やさず、教員達や児童達に対する立ち振舞いも紳士的で、勉強会の講師としても知識が豊富で打って付けだった。北村の自信に満ちた話しぶりには厭味が無く、口から流れ出てくる言葉の帯は、まるで、壮大な映画のストーリーを聞いているようで、千鶴はとてもワクワクした。
一月の勉強会は、始業式の少し前に行われた。
「……秀吉より播磨国明石郡に六万石の新たな領地を与えられた右近は、高槻をあとにする時、『信仰を守り続けて欲しい』と直々に千提寺の地を訪れ……」
と、北村は名調子で、キリシタン大名の高山右近が高槻の地を離れる時の事を話していた。
その話の中で《アレ》が出てきた時、何故だか、興奮と懐かしさが入り混じった様な感情が、千鶴の胸の奥底で湧きあがった。とても不思議な感覚。けれども、北村の話が進んでいくと、その感覚も薄れていった。
(何だったのだろう?)
「……大正八年、茨木市安元にある教誓寺の住職で、郷土史家で、教員でもあった藤波大超氏によりキリシタン墓石が発見された。近年では、新名神高速道路の建設によるクルス山の工事の際、十六から十七世紀のものとみられるキリシタンの墓が二基発掘され、その一基から上を向いて横たわった状態の遺骨も見つかっています。これは当時、座った状態で埋葬されるのが通常だった事から、キリシタンの遺体であると断定されました」
そこから残りの時間は、あっという間に過ぎていった。
かろうじて、ノートを取る事は出来たが、せっかくの北村の講義も、配られた資料が完璧だった所為か、後半部分はあまり頭に残っていなかった。
何がどうしてなのかもわからない疑問が、ずっと頭の隅っこに小さく居座ったまま三学期を迎えた千鶴だったが、三日も経たずにいつもの靄が胸の中を満たしていくと、疑問は何処かわからない所へ引っ越してしまった。
二月になって、『わたしたちの街・茨木市の歴史を勉強する』の授業で使う資料の点検を黙々とこなしていた時、何枚目かあるパネルの中に、再び《アレ》の姿を見つけた。
日本中の誰もが知っているであろう《アレ》のパネルを眺めていると、《アレ》の向こう側に、小学生時代の何でもないような出来事が、スライドショーみたいに次々と浮かんでは消えていく。
けれども、その中に登場してくる人物の名前が、誰一人として出てこない。
中学二年生の夏の終わりに、この街に落ち着くまで、千鶴には友達と呼べるほど親しくなれた人はいなかったのだ。
あの時の母は父の仕事の都合だと言っていたが、千鶴の中の記憶があるところまで遡ってみても、一所に半年も暮らす事などなかったのだから、至極当然の事なのだ。
それに、《アレ》に初めて出逢ったのが、何年生の時だったのかも思い出せなかった。なにせ、中学二年の夏の終わり以前の思い出は、あきらかに錯綜しているのだ。
(あれ?また、不思議な感覚。どうして?)
「テッペンハゲオヤジ」
突然、千鶴の口から子供じみたセリフが吐いて出た。
我に返って周りを見渡してみたが、職員室にいた誰にも聞かれなかったみたいで、ホッと胸を撫で下ろした。
そのセリフは、いつの頃だったかは当然思い出せないが、隣の席に座っていた生真面目くんが、キャラにはない、ボソッと放った一言だった。
勿論、生真面目くんは、生真面目という名字でも、名前でもないのだろう。生真面目くんは、眼鏡をかけていて、休み時間も一人、自分の席で勉強ばかりしていた。それだけならどこの学校にでも一人はいるキャラクターだ。生真面目くんが生真面目くんである所以は、その程度の事ではなかった。
生真面目くんの机の上は、いつも整然と物が並べられていた。なかでも机の右上角に、きっちりと寸分の狂いの無い様合わせて置かれた筆箱には、生真面目くんの、他とは相容れない主義か思想の表れだったのだろう。
何かの拍子に、筆箱が少しでもその位置からずれると、必ず一度、ピーンと指先を揃えた右手の中指で眼鏡のブリッジを押し上げてから、筆箱の位置を元に戻す。それも上下左右を目視でキッチリと測りながら。
だから、千鶴は心の中で勝手にそう呼んでいたのだ。
生真面目くんに「テッペンハゲオヤジ」と称された男の描かれた画は、現在、神戸市立博物館に所蔵されている。
『聖フランシスコ・ザビエル画像』
それが本当の名前。
胸元で両手をクロスさせた宣教師姿の男の心臓を貫いた十字架が左斜め上に伸びている。その伸びた十字架の先を男が見つめている画だ。
「昔の日本人は、強く、賢かったのでしょう。ザビエルが祖国の友人に宛てた手紙の中に、こう書かれているそうです。日本での布教には骨が折れる。神様がすべての人々を救って天国に導いてくれるなら、地獄にいる自分の父親を救って天国に導いて欲しいと言うのだ。それは出来ないと言うと、神様はすべての人々を救ってはくれないのかと言う。困ったものだ、と。……現代の迷える人々にも聞かせたい逸話です」
北村の笑顔と共にウンチクが蘇る。
不思議な感覚は続いている。
(そういえば、祖母はどうしているだろう?)
夜伽の為、会場から控室に移された母の遺体の前で一人、祖母は十字架を握り締めて、娘と最後の会話をしていた。
その姿を最後に、千鶴は祖母とは会っていない。
何かモヤモヤした気分を振り払う様に、ノートを見ながら、頭の中で北村の解説をリプレイする。ちゃんとクラスの皆に、理解してもらえる様に。トンスラの習慣のなかったイエズス会のザビエルは、こう見えていも禿ではなかったことも。
凍てつく冬が明けるとまた、この高台の街は桜色に染まる。そうなれば、千鶴が先生と呼ばれるようになって四年目を迎える。今はまだ冬眠状態でいる桜の樹の横を通るたびに、何度となく溜息が、千鶴の身体の奥底から自然に漏れて出る。
溜息も白く舞い上がると、すぐに消える。
生徒達の口から立ち昇るものの性質は、千鶴のものとは対照的というよりも、まったくの異質なものの筈なのに、どれも同じ様に白く舞い上がっては、すぐに消える。
視線を空から前方に移すと、目の前を歩く朱里亜ちゃんの能天気なツインテールが楽しげに揺れているその向こう、緩やかな下り坂の先、集団の先頭が右方向に曲がって行くのが見えた。ここから先は府道を右に出て、大岩を通り千提寺へと向かう。
途中、第二名神高速道路の茨木北インターチェンジがあるが、この道はインターに向かう他の道と比べれば交通量は少ない。とはいえ、歩き慣れた住宅街の中とは安全性が全く違う。生徒の安全を守る者としては気が抜けなかった。
「さぁ、頑張ろう」そう独り言を呟いて自分に喝を入れると、千鶴は歩く速度を速め、「そこ曲がるからね。離れずに前に付いて行ってね」と、順々に生徒達に声をかけていく。
「えらい張り切ってんなぁ。どこぞにエエ男でもおったんか」
千鶴が交代のために曲がり角に着いたところで、それまで誘導していた江草が千鶴の耳元に口を寄せて小声で言った。生徒に訊かれるとまずい事はわかっているらしい。
「さっき会うてから、まだ三十分も経ってませんやん。そんな短時間に出会えるんやったら、とっくの昔に、嫁にいってます」
千鶴が江草の耳元へ小声で返すと、二人は顔を見合わせて笑みを浮かべた。
江草が続けてしようもない事を言い出しそうだったので、
「今日は、エグッちゃんと一緒やから頑張らんと。ほらぁ、健悟。余所見ばっかりせんと、ちゃんと歩く」
千鶴は真顔で、ハキハキと誘導に努めた。
少し物足りない顔を見せたあと江草は、「ほな、あとは任せたで西垣先生」と元気良く言うと、いつものように自分から児童達にちょっかいを出しながら、持ち場である教頭のいる三組と四組の間に戻って行った。
千鶴は、嬉しそうに定位置に戻って行く江草に、目一杯の笑顔を作って送りだした。
江草に心配させまいと元気良く振舞ってみせる自分がいることに、ちょっとだけびっくりした。
千鶴にとって、一回りと少し年の離れた江草は、教職員の中でも唯一、心を許せるお姉さん的な存在で、赴任してきてからこちら、随分と助けてもらっている。
江草が去ると、無理矢理上げたテンションは一気に下がった。何故かは千鶴自身、充分にわかっている。原因はプライベートを含め色々とあるけれども、今は、今学年になって浮き彫りになってきた仕事への不安、それが一番だった。
こんな時こそ素直に甘えて江草に相談すれば良いのだが、一人っ子育ちの千鶴にはその甘え方が良くわからなかった。
「ほらぁ、萩本。列を乱さない」
ツインテールの朱里亜ちゃんが角を曲がる頃、先頭を行く渡辺の大きな声が千鶴の所まで聞こえてきた。
学年主任の渡辺は、剛と書いてゴウと読む。教諭歴二十三年。明るくて真面目で、頼りがいのあるベテラン教諭だ。
父兄からの評判も良く、他の教諭達からも絶大なる信頼があった。
五年一組の担任でサッカークラブの顧問をしている藤田は、サッカー好きの二組担任の竹ノ内との会話の中で、
「渡辺先生は凄い。教師の鑑やわ。身体の中に無尽蔵の情熱を持ち合わせてるダイナモやな。元オランダ代表のダービッツみたいや」
と、千鶴にはよく意味のわからない、ちんぷんかんぷんな表現で、渡辺のことを褒め称えていた。勿論、千鶴だって、渡辺は凄いと思う。千鶴のようなぺーぺーからすれば、子供の頃見たTVドラマの先生みたいで、とても立派な先生だなぁと思う。
だが、ごく稀に言うダジャレ。それだけは千鶴の中で、すこぶる評判が良くなかった。
歩き始めて約四十五分、難関だったインターチェンジも通り越して、やっと今日の目的地『茨木市立キリシタン遺物史料館』の指示看板が見えてきた。ここから先は、道幅も狭く、交通量も少なくなる。
近代的なインターチェンジの風景の手前に、取り残されたように残る棚田の中を細い農道といえるような下り道を、今は、教頭先生を先頭に、五年三組と四組の児童が歩いていく。
一番後ろを歩いている千鶴の目にはその様が、すごく長閑で癒される風景に映った。が、その先に見える、千提寺の集落へ続く急な上り坂が、千鶴の心を少しだけ重くさせた。
あと少しで目的地だ。そう気持ちを入れ替えた途端、タッキンが振り返って、「先生おしっこしたい」と、大声で言った。
「あと少しで着くけど、我慢出来ひん?」千鶴はそう言ったのだが、タッキンは「我慢できひんから、俺、立ちションしてくるわ」と、千鶴が止める間もなく、棚田へ下りる畦道を勢い良く駆け下りていった。
慌てた千鶴は目の前を歩いていたツインテールの朱里亜ちゃんに、「タッキンと列離れるからって、江草先生に言うてきて」と言い残し、急いでタッキンのあとを追った。喧々諤々、堂々巡りの責任追及の保護者会の画が、千鶴の脳裏に過ったのだ。
タッキンの背中を追いかけながら、託を頼んだのが、クラス一頼りない朱里亜ちゃんだったことを少し悔やんだ。だが、そんな思いを振り払うほど、タッキンの脚は予想以上に速かった。
砂利で整備された畦道は、ゆるやかな棚田の真ん中に真っ直ぐ延びていて、他の生徒達から身を隠す場所は、棚田の終わりに立っている一本の樹しかなかった。
その樹まで残り二十メートルほどの所で、タッキンに限界が近付いてきた様子だった。手で前を押さえ、膝を少しガニ股気味に走っていく。
「転ばないようにね」
そう声を張り上げながら千鶴は、タッキンの背中を夢中で追った。久しぶりに本気で走った。自分自身も転ばない様に気を付けながら懸命に足を動かした。思うように脚が動かない。進まない。タッキンが樹の蔭に隠れる頃にはまだ、畦道の半分も走れていなかった。
さっき、タッキンの走り方が変わったあたりまで来ると、樹の蔭に隠れて見えなくなっていたタッキンの無事な後姿がやっと確認出来た。何故だか気持ち良さ気な背中だった。
千鶴は走るのを止めて、溜息を吐いたと思ったのに、かわりに出てきたのは、ゴフォゴフォという咳と、ハアハアという息切れだった。運動不足とはこういうことなのだろうか。肺や脚だけでは済まず、身体全体が小さな悲鳴を上げている。
これは運動不足ではなく、もしや老化という現象の一端なのでは?そう思うと千鶴の頭の片隅で、去年、定年退職された女性教員と、未来の自分の姿がオーバーラップしていく。千鶴はゾッとした。彼女は、結婚もせず子供も産まず、教師一徹で定年を迎えた。去り際の言葉では、悔いのない教育者人生をこれからも歩んでいきたい。そう話していた。
タッキンの姿越しに見える景色は、緑色の幕のように杉が密集して立っている。幹は見えず、葉の生え茂っている部分が見えている。おそらくタッキンは、高い崖のような場所で用をたしている。今度は違う意味でゾッとした。
千鶴が、「落ちないように気をつけて」と言おうとした瞬間、タッキンは上体を傾けて、ゆっくりと、下を覗き込む動作をした。
そのまま落ちるのではないかと驚いた千鶴は、慌てて、「落ちないでね」と、息切れで声にならない叫び声を吐きながら、タッキンの傍まで駆け寄った。
奇声を上げながら駆け寄ってくる千鶴に気付いたタッキンは、慌てて前を収めろと、くるりと千鶴の方を見ながら、右手の人差し指を土手下に向けて指差した。男の子は手を洗わないんだ。そう思ったのは余計だった。
「先生。川に、川に誰かおる」
やっとタッキンの横に並んだ千鶴は、タッキンの指さす方向を、荒い息を吐きながらも注意深く見下ろした。
小川までは三メートルぐらいの高さ、急な角度の土手一面は伸びきった枯れ草で覆い尽くされていて、下を流れる小川の水面がわずかに見えるだけだった。
千鶴には、タッキンの言う“誰か”を見つける事は出来なかった。
「どこ?」
「ほら、そこ」
「そこって、どこ?」
「そこやん」
「だから、どこよ」
「ほら、草がボーってしてるところの向こう。川のところやん」
「ボーっとしてるところの……、川のところ……。あっ」
確かにタッキンの言葉通り、“誰か”が、おった。せせらぎの中でうつ伏せに倒れている様子だった。
「あんた、渡辺先生か教頭先生を呼んで来て。こけんようにな」
千鶴が、そう真顔で言うと、タッキンにも千鶴の緊張が伝わったのか、ただ、うんと大きく頷いて、来た道を夢中で走っていった。
千鶴は、比較的枯れ草の少ない所を見つけて、急斜面の土手をゆっくりと転げ落ちないように注意しながら下りていった。
手袋をはめてきて良かった。指に絡みつく枯れ草が、下りるスピードを緩めてくれた。
あっ、エグッちゃんを呼んだ方が良かったのに……。そんな事が一瞬頭によぎった。
小川に流れる水は、とても清らかで、かつ、とても冷たいものに見えた。
一歩足を踏み入れようとした瞬間、(アッ、この靴まだおろしたばっかりやのに……)そんな思いが一瞬頭に過ぎったが、早く助けなあかんという使命感が足を動かした。
まだ新品に近い防水のきいたハイキングシューズなので、この深さの水も冷たさも染みてはこない。
なるべく浅い所を選びながら、転ばないように注意して歩いていった。
少しいくと、倒れているのは紺色のビニール製のジャンバーを着た中年の男性だとわかった。
「大丈夫ですか」
声を掛けながら次の一歩を踏み出した途端、千鶴は焦りから足元への注意を怠ってしまった。バランスを崩して、見事に前のめりに倒れ込んだ。
「うわっ」
自分ではうまく両手で支え切れたと思ったのに、無残にも全身が水に浸かった。さっきまでは感じなかった刺す様な水の冷たさに、自分が今、どこで、何をやっているのか、千鶴は一瞬わからなくなった。
「もう、最悪」
そう言いながら千鶴が起き上がろうとした時、目の前に、蝋人形のような色をした中年男性の顔が飛び込んできた。眠っているように目を瞑ってはいるが、明らかに生きてはいない。そんな色をしていた。
驚いてその場から後ろ向きに、千鶴は四つん這いで後退りすると、一メートルほどの所で、腰が抜けてへたり込んでしまった。そして、水の冷たさによるものなのか、恐怖によるものなのかわからないが、全身がブルブルと震えだし、倒れている男性にかける「大丈夫ですか?」の一言の言葉の重さ自体が、無意味である状況を実感した。
「西垣先生、大丈夫ですか」
さっき、タッキンが呼びにいった渡辺が、土手の上から覗き込んで言った。
千鶴は酷く冷た過ぎる状況の中、渡辺に顔を向けるのが精一杯で、問い掛けに返事する余裕は無かった。
渡辺が上から確認したところ、倒れているのが男性である事が見て取れた。そして、千鶴の様子からみると、その男性はすでに亡くなっていると推測出来た。
「死んでるんですか?」
遅れてやってきた教頭の北村が、少し興奮気味に、渡辺に問いかけた。
「たぶん……」
渡辺の答えに、北村は一息吐くと、普段の冷静さを取り戻した様子で、
「では、渡辺先生は、学校に連絡して平田先生に至急来てもらって下さい。警察と校長には、私の方から連絡をしておきます。それが終わったら、江草先生と一緒に、生徒達を遺物史料館へ引率して下さい。そして、学芸員の守野さんに解説をお願いして下さい。くれぐれも。くれぐれも、生徒達を刺激しない様に。お願いしますね」
と、いつも通りの冷静さで渡辺に的確な指示を与えた。
渡辺は、流石という表情を見せたあと、駆け足で生徒達の元へ戻っていった。
「西垣先生、大丈夫ですか?今、私も下りていきますから」
そう千鶴に声をかけながら、北村は急いで急斜面の土手を下りていった。年齢の割には動きが軽やかだ。冷たい水にも怯む事なく、小川の中ほどに座り込んでいる千鶴の元にあっという間に辿り着き、「西垣先生、大丈夫ですか?」と、繰返し呼び掛ける。
何度目かの呼び掛けに反応した千鶴は、震える右手人差し指を前方に差した。
「死んでる……」
そう言った途端、千鶴の意識はスーっと何処かへ遠退いていった。
何だろう?白い部屋にいる。
「気がついたみたいです」そう誰かが言ったあと、左耳から優しい女性の声が入ってきた。
「西垣さん、いかがですか?」
千鶴が声の方向に目を向けると、そこには、とても綺麗な大人の女性がいた。
「大阪府警の神村です」
テレビのドラマで見た事のある、黒茶色のパスケースを開いて、顔写真入りの証票を示した。警部補・神村美咲。白くて細い指が動く。羨ましい。
「同じく、久保ですわ」
今度は右側から男の声がした。慌てて声の方を向くと、スーツ姿の冴えない中年の男が立っていた。巡査部長・久保……。そこまで読めた時に男は、素早くパタンとパスケースを閉じた。
顔写真も実物も、千鶴には苦手なタイプだ。
千鶴は、慌てて上体を起こそうとした。少し頭痛がした。すると、神村という女性の刑事が手で制して、「無理しないでいいですよ。今、ベッドを上げますね」と言ってベッドのリモコンを操作した。寝たままの千鶴の上半身だけがゆっくりと、話しやすい楽な角度まで持ち上がった。
(このベッド、家にあると楽チンやな……)
ボーっとした頭で、千鶴は呑気に思っていた。
「ご気分はいかがですか?」
「あっ、大丈夫やと思います。けど、なんで、私はここに?」
「濡れたまま気を失っていらっしゃったので、救急車で病院まで運んだのです。両肘付近と右膝に打撲と擦り傷がありましたが、他は大丈夫だとお医者様は仰っていました。ただ、水に濡れていたせいか、少し熱があるので大事を取って一晩入院してもらい様子を見るようです」
「すみません。ご迷惑をおかけして」
そう言いながらピョコンと頭を下げながらもまだ、千鶴は、何がどうなって、目の前に警察がいるのか、あまり理解出来ていなかった。
「今から少し西垣さんに、今回の件について、二、三、お聞きしたいのですが、よろしいでしょうか?」
千鶴は、女刑事の口から流暢に流れ出る言葉が、大阪弁では無い事に身体を固くした。標準語の冷たそうな響きに、あの、身を切るような水の冷たさを思い出した。
そうだ、男の人が死んでいたのだ。千鶴はあの冷たい水の流れを思い出すのと同時に、四組の皆は大丈夫なのだろうか?と思った。
控えめなピンク色をひいた女刑事の口元から、優しげな鳶色の瞳に視線を移した千鶴は、少し緊張を覚えながらもコクンと頷いた。
二人の刑事が質問する事に正直に答えていく。しかし、応答を繰り返していくうちに、何か嫌な気分が込み上げてきて、千鶴の気力と体力を徐々に奪っていった。
「ほな、こういう事ですな。転んで起き上った時に、はじめて、その男性が死んでいるとわかったと」
久保がそこまで言った時、千鶴の脳裏にはっきりと浮かんだ。このまま一生、動く事の無い真っ白な男の顔が。
「で、それに驚いて……」
「久保さん、今は、その辺で」
俊敏に千鶴の変調を感じとった神村が、久保の言葉を遮り、
「西垣さん、ごめんなさい。今日は、大変な目に遭われたのに。また、日を改めて伺います。久保さん、いきましょうか」
そう言って神村と久保の両刑事は、ベッドの上の千鶴に一礼すると、「お大事に」と一言言ってから、病室から出ていこうとした。
「あの……」
千鶴は、出ていこうとしていた神村の背中に、震えながら声をかけた。
神村は、何か?という表情のまま、振り返った。
「あのう、四組の皆は?」
「大丈夫です。無事に日程を終えて学校に戻りました。今回の件に関して、それほどの混乱はない様子です」
「そうですか。良かった」
生徒達の顔が次々に浮かんでくると、千鶴は急に、疲れている自分に気が付いた。瞼が重く、自然に閉じていく。
けれども、南校舎と北校舎の間にある下駄箱前から見上げた空は綺麗に晴れ渡り、もう少しすると大雪が降ってくるなんて、とても思えないほどに澄んでいた。
いい一日になりそうだ。そう浮かれ気分を自分に言い聞かせた西垣千鶴は、小走りに集合場所の正門前広場に向かった。
児童達はもう広場に出てきていて、クラスごとに、何となく二列に並び始めていた。
クラスの皆は普段より、明らかにテンションが上がっている様子で、いつもはダンマリの美恵子ちゃんも、楽しそうに周りとお喋りをしている。調子乗りコンビと言われている田中とゴッチャンは、テンションが上がり過ぎて何処かのスイッチが入ったみたいで、列の中ほどで元気に『伝承・ヲタ芸』を踊っている。いつの時代だ。親が要らぬ事を教えたが為の所業だった。
(こら、気を引き締めなあかんなぁ。事故でも起きたらエライ事や)
千鶴は褌を締め直し、「早く並んで下さい。そうやないと出発出来ませんよ」と、浮かれている児童達の気を引き締めた。
学年主任で三組の担任の渡辺がやって来て列の前に立った。
三組の皆は綺麗に列を作っているのに、四組ときたら列らしき形だけ作ると直ぐにお喋りに夢中になっている。田中とゴッチャンは、まだヲタ芸を小さく踊っている。
「ハイ、みんな静かに」
三組は一瞬で静かになった。それなのに、四組の何人かは、声が小さくなっただけでお喋りを止めない。
千鶴は、そぉっと列のうしろから前へと、お喋りを止めない児童達に小声で注意して歩いた。
やっと静かになると渡辺は、ニコリ顔を千鶴に投げた後すぐに話し出した。
「今から出発しますが、さっき教室で先生から聞いた注意事項を、くれぐれも守るようにね。移動中は二列で、なるべく列を乱さない。じゃあ、出発します」
その掛け声を合図に、歴史ハイクの一行は正門から出発した。
引率教諭は四人。先頭は渡辺。三組のクラスがいて教頭代理の北村と、養護教諭で生徒達からは「保健のエグッちゃん」と呼ばれ親しまれている江草女史。四組のクラスがいて、しんがりが四組担任の千鶴だ。
歴史ハイクは今日が二日目で五年三組と四組が参加するのだが、北村と江草の二人は昨日の一組・二組も引率している。行き先が小さい建物の為、4クラスの児童が一度に入るのは無理なのだそうだ。
一行は、通勤、登校の時間を過ぎて、静寂を取り戻した住宅街の中を、ワイワイ、ガヤガヤと練り歩いていく。
列の最後を任された千鶴からは、子供達の吐く楽しげな言葉が、白く舞い上がって宙に消えていくのが見える。単純に嬉しかった。
その先に見える北の遠くの空は、どんよりと曇っている。朝の天気予報は当たっているようだ。南の空とは、あきらかに天気が違って見える。
春になればバス通りを中心に、街中が桜色に染まる住宅街は、大阪府でも北の方、北摂と呼ばれる地域、茨木市の山手にある。
バブルの時代よりもっと以前に開発され、途切れ途切れに時間を掛けて、未だじわじわと、奥へ奥へと広がり続けているアメーバーのような街だ。
そんな住宅街の中程に、西垣千鶴が勤務する茨木市立北小学校はあった。
町がアメーバーのように北へと広がりを見せるので、いつの間にか北限から中央部へと取り残されたのだ。
毎年、茨木市立北小学校の五年生は、年が明けた三学期が始まると、
『わたしたちの街・茨木市の歴史を勉強する』
そう銘打った特別授業を週に一度、社会科の授業の中に組み込まれる。
そして、極寒と呼びたくなるような二月に入ると、その授業と体育の授業の両方を兼ねた、歴史ハイクなるものに参加する。
行き先は、千提寺にある茨木市立キリシタン遺物史料館。
学校から、もっと山深い忍頂寺方向に、子供の足で、歩いて一時間程の場所にある。
この特別授業の為に、例年、五年生を受け持つ担任と副担任は、夏休み明けの九月から月に一度、日々の激務の上に、特別授業カリキュラム講習勉強会に参加する。講師は、教頭が担当すると決まっていた。
テレビや映画でのイメージだと教頭は、ただ校長の側にいるだけの楽な仕事。だと、千鶴も実際教員になるまでは思い込んでいた。
実のところ教頭は、大変な重労働だ。校長の補佐は当然の事、毎日の学校中の鍵の開け閉めの為、朝一番に登校して来ては、一番最後に学校を去るのだ。職員室の清掃や校内にある草木の水やり、その他諸々、校内の一般雑務が主な仕事で、最近では近隣住民や父兄からの苦情受付係も教頭の仕事になっていて、校長の椅子に座る為には必要な通過点だとはいえ、身体的にも精神的にもかなり負担の大きい仕事だった。
だから、そんな重要な職務を全うしている教頭が突然いなくなったら、校内は大騒ぎだ。
前任の教頭・門脇は、二学期に入り、来週から勉強会が始まるという九月の初め、北校舎二階の消火栓検査の立ち合いの最中に倒れて緊急入院した。
今春、寝屋川から転校してきた三年生の児童が引き起こした数々の問題の後処理の所為か、その生徒の両親がどっからどう見てもモンスターペアレントだった所為か、酷暑だった夏休みに行われた南側校舎の内外装補修工事の立ち合いの為、ずっと学校に詰めていた所為か、何が直接の原因とは判別出来ないほど内臓にダメージを負っていたという。「脳味噌でなかったのがまだ幸いだ」と、二番目に古株の市川女史が言うと、最古参の畑山女史が「そうよねぇ」と頷いていた。
退院後も芳しく無い体調を考慮して、門脇は茨木市教育委員会に移動となった。
教頭が入院してからの校内の一般雑務は全て、次の教頭が配属されるまでの間、校長を含め全教職員で分担する事となった。勿論、モンスターペアレントとは、教職員全員が一丸となって対峙すると決めていたのだが、九月の終わり、運動会の前に、その問題児の両親が離婚して、三年生の児童は母親の実家のある神戸の小学校に転出していった。
千鶴は『子は親の鏡』という言葉の意味の一端を理解出来た。そして、私はどう見えて、どう思われているのだろうか?また嫌なことを考えた。
勉強会の講師の方は、何度も五年生を担任した経験のある学年主任の渡辺が臨時講師を務めた。
教員生活三年目で、初めて高学年のクラスを受け持った千鶴にとって、普段の業務だけでも目一杯なのに、勉強会に雑務とイレギュラー的な事が重なって、家に帰っても休まる暇が無かった。日々、溜息を洩らす度、胸中に不安という靄を深めていった。単なる肉体的な事だけではなく、自らの教師としての資質に対しての事もあった。
そんな状態の千鶴の気分が少し楽になったのは、二学期も終わろうとしている十二月半ばの事だった。やっと教頭代理がやってきたのだ。
こちらに来るまでは、茨木市教育委員会の郷土史編さんの主事で、地元の郷土史研究家としても名前が通っているという定年間近の北村だった。
普段から、いつもニコニコと笑顔を絶やさず、教員達や児童達に対する立ち振舞いも紳士的で、勉強会の講師としても知識が豊富で打って付けだった。北村の自信に満ちた話しぶりには厭味が無く、口から流れ出てくる言葉の帯は、まるで、壮大な映画のストーリーを聞いているようで、千鶴はとてもワクワクした。
一月の勉強会は、始業式の少し前に行われた。
「……秀吉より播磨国明石郡に六万石の新たな領地を与えられた右近は、高槻をあとにする時、『信仰を守り続けて欲しい』と直々に千提寺の地を訪れ……」
と、北村は名調子で、キリシタン大名の高山右近が高槻の地を離れる時の事を話していた。
その話の中で《アレ》が出てきた時、何故だか、興奮と懐かしさが入り混じった様な感情が、千鶴の胸の奥底で湧きあがった。とても不思議な感覚。けれども、北村の話が進んでいくと、その感覚も薄れていった。
(何だったのだろう?)
「……大正八年、茨木市安元にある教誓寺の住職で、郷土史家で、教員でもあった藤波大超氏によりキリシタン墓石が発見された。近年では、新名神高速道路の建設によるクルス山の工事の際、十六から十七世紀のものとみられるキリシタンの墓が二基発掘され、その一基から上を向いて横たわった状態の遺骨も見つかっています。これは当時、座った状態で埋葬されるのが通常だった事から、キリシタンの遺体であると断定されました」
そこから残りの時間は、あっという間に過ぎていった。
かろうじて、ノートを取る事は出来たが、せっかくの北村の講義も、配られた資料が完璧だった所為か、後半部分はあまり頭に残っていなかった。
何がどうしてなのかもわからない疑問が、ずっと頭の隅っこに小さく居座ったまま三学期を迎えた千鶴だったが、三日も経たずにいつもの靄が胸の中を満たしていくと、疑問は何処かわからない所へ引っ越してしまった。
二月になって、『わたしたちの街・茨木市の歴史を勉強する』の授業で使う資料の点検を黙々とこなしていた時、何枚目かあるパネルの中に、再び《アレ》の姿を見つけた。
日本中の誰もが知っているであろう《アレ》のパネルを眺めていると、《アレ》の向こう側に、小学生時代の何でもないような出来事が、スライドショーみたいに次々と浮かんでは消えていく。
けれども、その中に登場してくる人物の名前が、誰一人として出てこない。
中学二年生の夏の終わりに、この街に落ち着くまで、千鶴には友達と呼べるほど親しくなれた人はいなかったのだ。
あの時の母は父の仕事の都合だと言っていたが、千鶴の中の記憶があるところまで遡ってみても、一所に半年も暮らす事などなかったのだから、至極当然の事なのだ。
それに、《アレ》に初めて出逢ったのが、何年生の時だったのかも思い出せなかった。なにせ、中学二年の夏の終わり以前の思い出は、あきらかに錯綜しているのだ。
(あれ?また、不思議な感覚。どうして?)
「テッペンハゲオヤジ」
突然、千鶴の口から子供じみたセリフが吐いて出た。
我に返って周りを見渡してみたが、職員室にいた誰にも聞かれなかったみたいで、ホッと胸を撫で下ろした。
そのセリフは、いつの頃だったかは当然思い出せないが、隣の席に座っていた生真面目くんが、キャラにはない、ボソッと放った一言だった。
勿論、生真面目くんは、生真面目という名字でも、名前でもないのだろう。生真面目くんは、眼鏡をかけていて、休み時間も一人、自分の席で勉強ばかりしていた。それだけならどこの学校にでも一人はいるキャラクターだ。生真面目くんが生真面目くんである所以は、その程度の事ではなかった。
生真面目くんの机の上は、いつも整然と物が並べられていた。なかでも机の右上角に、きっちりと寸分の狂いの無い様合わせて置かれた筆箱には、生真面目くんの、他とは相容れない主義か思想の表れだったのだろう。
何かの拍子に、筆箱が少しでもその位置からずれると、必ず一度、ピーンと指先を揃えた右手の中指で眼鏡のブリッジを押し上げてから、筆箱の位置を元に戻す。それも上下左右を目視でキッチリと測りながら。
だから、千鶴は心の中で勝手にそう呼んでいたのだ。
生真面目くんに「テッペンハゲオヤジ」と称された男の描かれた画は、現在、神戸市立博物館に所蔵されている。
『聖フランシスコ・ザビエル画像』
それが本当の名前。
胸元で両手をクロスさせた宣教師姿の男の心臓を貫いた十字架が左斜め上に伸びている。その伸びた十字架の先を男が見つめている画だ。
「昔の日本人は、強く、賢かったのでしょう。ザビエルが祖国の友人に宛てた手紙の中に、こう書かれているそうです。日本での布教には骨が折れる。神様がすべての人々を救って天国に導いてくれるなら、地獄にいる自分の父親を救って天国に導いて欲しいと言うのだ。それは出来ないと言うと、神様はすべての人々を救ってはくれないのかと言う。困ったものだ、と。……現代の迷える人々にも聞かせたい逸話です」
北村の笑顔と共にウンチクが蘇る。
不思議な感覚は続いている。
(そういえば、祖母はどうしているだろう?)
夜伽の為、会場から控室に移された母の遺体の前で一人、祖母は十字架を握り締めて、娘と最後の会話をしていた。
その姿を最後に、千鶴は祖母とは会っていない。
何かモヤモヤした気分を振り払う様に、ノートを見ながら、頭の中で北村の解説をリプレイする。ちゃんとクラスの皆に、理解してもらえる様に。トンスラの習慣のなかったイエズス会のザビエルは、こう見えていも禿ではなかったことも。
凍てつく冬が明けるとまた、この高台の街は桜色に染まる。そうなれば、千鶴が先生と呼ばれるようになって四年目を迎える。今はまだ冬眠状態でいる桜の樹の横を通るたびに、何度となく溜息が、千鶴の身体の奥底から自然に漏れて出る。
溜息も白く舞い上がると、すぐに消える。
生徒達の口から立ち昇るものの性質は、千鶴のものとは対照的というよりも、まったくの異質なものの筈なのに、どれも同じ様に白く舞い上がっては、すぐに消える。
視線を空から前方に移すと、目の前を歩く朱里亜ちゃんの能天気なツインテールが楽しげに揺れているその向こう、緩やかな下り坂の先、集団の先頭が右方向に曲がって行くのが見えた。ここから先は府道を右に出て、大岩を通り千提寺へと向かう。
途中、第二名神高速道路の茨木北インターチェンジがあるが、この道はインターに向かう他の道と比べれば交通量は少ない。とはいえ、歩き慣れた住宅街の中とは安全性が全く違う。生徒の安全を守る者としては気が抜けなかった。
「さぁ、頑張ろう」そう独り言を呟いて自分に喝を入れると、千鶴は歩く速度を速め、「そこ曲がるからね。離れずに前に付いて行ってね」と、順々に生徒達に声をかけていく。
「えらい張り切ってんなぁ。どこぞにエエ男でもおったんか」
千鶴が交代のために曲がり角に着いたところで、それまで誘導していた江草が千鶴の耳元に口を寄せて小声で言った。生徒に訊かれるとまずい事はわかっているらしい。
「さっき会うてから、まだ三十分も経ってませんやん。そんな短時間に出会えるんやったら、とっくの昔に、嫁にいってます」
千鶴が江草の耳元へ小声で返すと、二人は顔を見合わせて笑みを浮かべた。
江草が続けてしようもない事を言い出しそうだったので、
「今日は、エグッちゃんと一緒やから頑張らんと。ほらぁ、健悟。余所見ばっかりせんと、ちゃんと歩く」
千鶴は真顔で、ハキハキと誘導に努めた。
少し物足りない顔を見せたあと江草は、「ほな、あとは任せたで西垣先生」と元気良く言うと、いつものように自分から児童達にちょっかいを出しながら、持ち場である教頭のいる三組と四組の間に戻って行った。
千鶴は、嬉しそうに定位置に戻って行く江草に、目一杯の笑顔を作って送りだした。
江草に心配させまいと元気良く振舞ってみせる自分がいることに、ちょっとだけびっくりした。
千鶴にとって、一回りと少し年の離れた江草は、教職員の中でも唯一、心を許せるお姉さん的な存在で、赴任してきてからこちら、随分と助けてもらっている。
江草が去ると、無理矢理上げたテンションは一気に下がった。何故かは千鶴自身、充分にわかっている。原因はプライベートを含め色々とあるけれども、今は、今学年になって浮き彫りになってきた仕事への不安、それが一番だった。
こんな時こそ素直に甘えて江草に相談すれば良いのだが、一人っ子育ちの千鶴にはその甘え方が良くわからなかった。
「ほらぁ、萩本。列を乱さない」
ツインテールの朱里亜ちゃんが角を曲がる頃、先頭を行く渡辺の大きな声が千鶴の所まで聞こえてきた。
学年主任の渡辺は、剛と書いてゴウと読む。教諭歴二十三年。明るくて真面目で、頼りがいのあるベテラン教諭だ。
父兄からの評判も良く、他の教諭達からも絶大なる信頼があった。
五年一組の担任でサッカークラブの顧問をしている藤田は、サッカー好きの二組担任の竹ノ内との会話の中で、
「渡辺先生は凄い。教師の鑑やわ。身体の中に無尽蔵の情熱を持ち合わせてるダイナモやな。元オランダ代表のダービッツみたいや」
と、千鶴にはよく意味のわからない、ちんぷんかんぷんな表現で、渡辺のことを褒め称えていた。勿論、千鶴だって、渡辺は凄いと思う。千鶴のようなぺーぺーからすれば、子供の頃見たTVドラマの先生みたいで、とても立派な先生だなぁと思う。
だが、ごく稀に言うダジャレ。それだけは千鶴の中で、すこぶる評判が良くなかった。
歩き始めて約四十五分、難関だったインターチェンジも通り越して、やっと今日の目的地『茨木市立キリシタン遺物史料館』の指示看板が見えてきた。ここから先は、道幅も狭く、交通量も少なくなる。
近代的なインターチェンジの風景の手前に、取り残されたように残る棚田の中を細い農道といえるような下り道を、今は、教頭先生を先頭に、五年三組と四組の児童が歩いていく。
一番後ろを歩いている千鶴の目にはその様が、すごく長閑で癒される風景に映った。が、その先に見える、千提寺の集落へ続く急な上り坂が、千鶴の心を少しだけ重くさせた。
あと少しで目的地だ。そう気持ちを入れ替えた途端、タッキンが振り返って、「先生おしっこしたい」と、大声で言った。
「あと少しで着くけど、我慢出来ひん?」千鶴はそう言ったのだが、タッキンは「我慢できひんから、俺、立ちションしてくるわ」と、千鶴が止める間もなく、棚田へ下りる畦道を勢い良く駆け下りていった。
慌てた千鶴は目の前を歩いていたツインテールの朱里亜ちゃんに、「タッキンと列離れるからって、江草先生に言うてきて」と言い残し、急いでタッキンのあとを追った。喧々諤々、堂々巡りの責任追及の保護者会の画が、千鶴の脳裏に過ったのだ。
タッキンの背中を追いかけながら、託を頼んだのが、クラス一頼りない朱里亜ちゃんだったことを少し悔やんだ。だが、そんな思いを振り払うほど、タッキンの脚は予想以上に速かった。
砂利で整備された畦道は、ゆるやかな棚田の真ん中に真っ直ぐ延びていて、他の生徒達から身を隠す場所は、棚田の終わりに立っている一本の樹しかなかった。
その樹まで残り二十メートルほどの所で、タッキンに限界が近付いてきた様子だった。手で前を押さえ、膝を少しガニ股気味に走っていく。
「転ばないようにね」
そう声を張り上げながら千鶴は、タッキンの背中を夢中で追った。久しぶりに本気で走った。自分自身も転ばない様に気を付けながら懸命に足を動かした。思うように脚が動かない。進まない。タッキンが樹の蔭に隠れる頃にはまだ、畦道の半分も走れていなかった。
さっき、タッキンの走り方が変わったあたりまで来ると、樹の蔭に隠れて見えなくなっていたタッキンの無事な後姿がやっと確認出来た。何故だか気持ち良さ気な背中だった。
千鶴は走るのを止めて、溜息を吐いたと思ったのに、かわりに出てきたのは、ゴフォゴフォという咳と、ハアハアという息切れだった。運動不足とはこういうことなのだろうか。肺や脚だけでは済まず、身体全体が小さな悲鳴を上げている。
これは運動不足ではなく、もしや老化という現象の一端なのでは?そう思うと千鶴の頭の片隅で、去年、定年退職された女性教員と、未来の自分の姿がオーバーラップしていく。千鶴はゾッとした。彼女は、結婚もせず子供も産まず、教師一徹で定年を迎えた。去り際の言葉では、悔いのない教育者人生をこれからも歩んでいきたい。そう話していた。
タッキンの姿越しに見える景色は、緑色の幕のように杉が密集して立っている。幹は見えず、葉の生え茂っている部分が見えている。おそらくタッキンは、高い崖のような場所で用をたしている。今度は違う意味でゾッとした。
千鶴が、「落ちないように気をつけて」と言おうとした瞬間、タッキンは上体を傾けて、ゆっくりと、下を覗き込む動作をした。
そのまま落ちるのではないかと驚いた千鶴は、慌てて、「落ちないでね」と、息切れで声にならない叫び声を吐きながら、タッキンの傍まで駆け寄った。
奇声を上げながら駆け寄ってくる千鶴に気付いたタッキンは、慌てて前を収めろと、くるりと千鶴の方を見ながら、右手の人差し指を土手下に向けて指差した。男の子は手を洗わないんだ。そう思ったのは余計だった。
「先生。川に、川に誰かおる」
やっとタッキンの横に並んだ千鶴は、タッキンの指さす方向を、荒い息を吐きながらも注意深く見下ろした。
小川までは三メートルぐらいの高さ、急な角度の土手一面は伸びきった枯れ草で覆い尽くされていて、下を流れる小川の水面がわずかに見えるだけだった。
千鶴には、タッキンの言う“誰か”を見つける事は出来なかった。
「どこ?」
「ほら、そこ」
「そこって、どこ?」
「そこやん」
「だから、どこよ」
「ほら、草がボーってしてるところの向こう。川のところやん」
「ボーっとしてるところの……、川のところ……。あっ」
確かにタッキンの言葉通り、“誰か”が、おった。せせらぎの中でうつ伏せに倒れている様子だった。
「あんた、渡辺先生か教頭先生を呼んで来て。こけんようにな」
千鶴が、そう真顔で言うと、タッキンにも千鶴の緊張が伝わったのか、ただ、うんと大きく頷いて、来た道を夢中で走っていった。
千鶴は、比較的枯れ草の少ない所を見つけて、急斜面の土手をゆっくりと転げ落ちないように注意しながら下りていった。
手袋をはめてきて良かった。指に絡みつく枯れ草が、下りるスピードを緩めてくれた。
あっ、エグッちゃんを呼んだ方が良かったのに……。そんな事が一瞬頭によぎった。
小川に流れる水は、とても清らかで、かつ、とても冷たいものに見えた。
一歩足を踏み入れようとした瞬間、(アッ、この靴まだおろしたばっかりやのに……)そんな思いが一瞬頭に過ぎったが、早く助けなあかんという使命感が足を動かした。
まだ新品に近い防水のきいたハイキングシューズなので、この深さの水も冷たさも染みてはこない。
なるべく浅い所を選びながら、転ばないように注意して歩いていった。
少しいくと、倒れているのは紺色のビニール製のジャンバーを着た中年の男性だとわかった。
「大丈夫ですか」
声を掛けながら次の一歩を踏み出した途端、千鶴は焦りから足元への注意を怠ってしまった。バランスを崩して、見事に前のめりに倒れ込んだ。
「うわっ」
自分ではうまく両手で支え切れたと思ったのに、無残にも全身が水に浸かった。さっきまでは感じなかった刺す様な水の冷たさに、自分が今、どこで、何をやっているのか、千鶴は一瞬わからなくなった。
「もう、最悪」
そう言いながら千鶴が起き上がろうとした時、目の前に、蝋人形のような色をした中年男性の顔が飛び込んできた。眠っているように目を瞑ってはいるが、明らかに生きてはいない。そんな色をしていた。
驚いてその場から後ろ向きに、千鶴は四つん這いで後退りすると、一メートルほどの所で、腰が抜けてへたり込んでしまった。そして、水の冷たさによるものなのか、恐怖によるものなのかわからないが、全身がブルブルと震えだし、倒れている男性にかける「大丈夫ですか?」の一言の言葉の重さ自体が、無意味である状況を実感した。
「西垣先生、大丈夫ですか」
さっき、タッキンが呼びにいった渡辺が、土手の上から覗き込んで言った。
千鶴は酷く冷た過ぎる状況の中、渡辺に顔を向けるのが精一杯で、問い掛けに返事する余裕は無かった。
渡辺が上から確認したところ、倒れているのが男性である事が見て取れた。そして、千鶴の様子からみると、その男性はすでに亡くなっていると推測出来た。
「死んでるんですか?」
遅れてやってきた教頭の北村が、少し興奮気味に、渡辺に問いかけた。
「たぶん……」
渡辺の答えに、北村は一息吐くと、普段の冷静さを取り戻した様子で、
「では、渡辺先生は、学校に連絡して平田先生に至急来てもらって下さい。警察と校長には、私の方から連絡をしておきます。それが終わったら、江草先生と一緒に、生徒達を遺物史料館へ引率して下さい。そして、学芸員の守野さんに解説をお願いして下さい。くれぐれも。くれぐれも、生徒達を刺激しない様に。お願いしますね」
と、いつも通りの冷静さで渡辺に的確な指示を与えた。
渡辺は、流石という表情を見せたあと、駆け足で生徒達の元へ戻っていった。
「西垣先生、大丈夫ですか?今、私も下りていきますから」
そう千鶴に声をかけながら、北村は急いで急斜面の土手を下りていった。年齢の割には動きが軽やかだ。冷たい水にも怯む事なく、小川の中ほどに座り込んでいる千鶴の元にあっという間に辿り着き、「西垣先生、大丈夫ですか?」と、繰返し呼び掛ける。
何度目かの呼び掛けに反応した千鶴は、震える右手人差し指を前方に差した。
「死んでる……」
そう言った途端、千鶴の意識はスーっと何処かへ遠退いていった。
何だろう?白い部屋にいる。
「気がついたみたいです」そう誰かが言ったあと、左耳から優しい女性の声が入ってきた。
「西垣さん、いかがですか?」
千鶴が声の方向に目を向けると、そこには、とても綺麗な大人の女性がいた。
「大阪府警の神村です」
テレビのドラマで見た事のある、黒茶色のパスケースを開いて、顔写真入りの証票を示した。警部補・神村美咲。白くて細い指が動く。羨ましい。
「同じく、久保ですわ」
今度は右側から男の声がした。慌てて声の方を向くと、スーツ姿の冴えない中年の男が立っていた。巡査部長・久保……。そこまで読めた時に男は、素早くパタンとパスケースを閉じた。
顔写真も実物も、千鶴には苦手なタイプだ。
千鶴は、慌てて上体を起こそうとした。少し頭痛がした。すると、神村という女性の刑事が手で制して、「無理しないでいいですよ。今、ベッドを上げますね」と言ってベッドのリモコンを操作した。寝たままの千鶴の上半身だけがゆっくりと、話しやすい楽な角度まで持ち上がった。
(このベッド、家にあると楽チンやな……)
ボーっとした頭で、千鶴は呑気に思っていた。
「ご気分はいかがですか?」
「あっ、大丈夫やと思います。けど、なんで、私はここに?」
「濡れたまま気を失っていらっしゃったので、救急車で病院まで運んだのです。両肘付近と右膝に打撲と擦り傷がありましたが、他は大丈夫だとお医者様は仰っていました。ただ、水に濡れていたせいか、少し熱があるので大事を取って一晩入院してもらい様子を見るようです」
「すみません。ご迷惑をおかけして」
そう言いながらピョコンと頭を下げながらもまだ、千鶴は、何がどうなって、目の前に警察がいるのか、あまり理解出来ていなかった。
「今から少し西垣さんに、今回の件について、二、三、お聞きしたいのですが、よろしいでしょうか?」
千鶴は、女刑事の口から流暢に流れ出る言葉が、大阪弁では無い事に身体を固くした。標準語の冷たそうな響きに、あの、身を切るような水の冷たさを思い出した。
そうだ、男の人が死んでいたのだ。千鶴はあの冷たい水の流れを思い出すのと同時に、四組の皆は大丈夫なのだろうか?と思った。
控えめなピンク色をひいた女刑事の口元から、優しげな鳶色の瞳に視線を移した千鶴は、少し緊張を覚えながらもコクンと頷いた。
二人の刑事が質問する事に正直に答えていく。しかし、応答を繰り返していくうちに、何か嫌な気分が込み上げてきて、千鶴の気力と体力を徐々に奪っていった。
「ほな、こういう事ですな。転んで起き上った時に、はじめて、その男性が死んでいるとわかったと」
久保がそこまで言った時、千鶴の脳裏にはっきりと浮かんだ。このまま一生、動く事の無い真っ白な男の顔が。
「で、それに驚いて……」
「久保さん、今は、その辺で」
俊敏に千鶴の変調を感じとった神村が、久保の言葉を遮り、
「西垣さん、ごめんなさい。今日は、大変な目に遭われたのに。また、日を改めて伺います。久保さん、いきましょうか」
そう言って神村と久保の両刑事は、ベッドの上の千鶴に一礼すると、「お大事に」と一言言ってから、病室から出ていこうとした。
「あの……」
千鶴は、出ていこうとしていた神村の背中に、震えながら声をかけた。
神村は、何か?という表情のまま、振り返った。
「あのう、四組の皆は?」
「大丈夫です。無事に日程を終えて学校に戻りました。今回の件に関して、それほどの混乱はない様子です」
「そうですか。良かった」
生徒達の顔が次々に浮かんでくると、千鶴は急に、疲れている自分に気が付いた。瞼が重く、自然に閉じていく。
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静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
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