あの部屋

まお

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64.言葉の真意

朔は風呂場から出て近くに置かれていたバスタオルを手にした。服は相変わらず返してもらえず、ましてや水浸しで汚れを拭き取ったあのワイシャツは着て帰れそうも無いな、と思い出し少し暗い気持ちになる。

朔は脱衣場からタオル1枚を腰に巻き付けリビングへと向かった。床に引きずらないために首から垂れ下がるチェーンを自分の手で持ちながら歩く姿は傍から見たらさぞ滑稽に見えるだろうと可笑しくなり悲しくなった。

柏木に会いたくは無いが、拓人ことを確認すると決めたからには避けるわけにはいかなかった。リビングの扉をそっと開けると、ソファに腰掛ける柏木の背中が見えた。


「……風呂…ありがと……」

朔は柏木の背後に近づき遠慮がちに声をかける。聞こえていない筈はないが、柏木はそのまま振り向くことは無かった。
柏木の様子を窺っていると、足元に何かぶつかって朔は驚き肩が跳ね上がった。そして視線を下に向けると足元にシロがいた。


「……シロ…。本当に昔から甘えん坊だな…」

朔はシロに話しかけながらその場にしゃがみこみ頭を撫でた。
暫くシロを撫でていると、満足したのかシロはまた柏木の元へと戻って行った。朔はシロを目で追いかけまた自然と柏木の背中を見つめた。


「……あのさ、聞きたいことあるんだけど」

朔が問いかけると柏木はゆっくり朔の方を振り向いた。表情は冷たく全てを見透かすような睨むような視線を朔に向ける。その表情は明らかに苛立ちを募らせているのがわかり、反射的に朔は肩がすくむような気持ちにさせられる。それでも朔はおそるおそる本題を切り出した。


「……拓先生って…今何してるの…」

柏木は一瞬、呆気に取られた。まさか拓人のことをこのタイミングで聞かれると思っていなく、急に問われた内容にすぐに反応出来なかった。


「……」

柏木は朔に冷たい視線を向けたまま黙り込んだ。


「……過去のこと…ちゃんと思い出したいって思って…。お前の兄貴に会って話したい。責めるつもりは無いから…」

怯えを含んだ視線を返しつつもその目線は逸らされることなくまっすぐに柏木を捉えていた。
そのまっすぐな視線を朔に向けられ、柏木は心の中に渦巻くように現れたもやもやとした物に不快感を抱いた。
先程感じていた朔や自分自身に対する理解不能なものに対する不快感とはまた違う、もっとどす黒い感情だった。


「拓…先生は、優しかったし、勉強もスポーツも出来きて俺の為に色々してくれて…すごくいい人だった…。なのに、なんであんなこと……。何かがおかしいんだ…。何が本当か分からなくて、ちゃんと知りたいから…。このまま本当に拓先生だけを悪者にしていいのか……って、お前に被害者ヅラするなって言われて引っかかっていた。だから…本当のこと知るためにも、拓先生と話したい」

朔は柏木の焦燥など知る由もなく、ぽつりぽつりと言葉を発し訴えかけた。柏木にとって拓人の話題は地雷であることも理解できている。だから変に嘘をつき取り繕うことはせず朔はそのままの気持ちを伝えた。

朔の話を聞いていると柏木の中のそのどす黒い感情がどんどん大きくなっていくのが分かった。

昔から周りの人間はよく言っていた。
拓人は優しくて思いやりがあって優秀でいい子だと。柏木もそう思っていた。でも違った。お人好しの仮面を被り周りを欺いていた。何も分かっていない理解できていない意味のわからない自滅をした愚かな人間。

柏木はそんな拓人のことを褒める朔が気に入らなかった。何も分かっていない、だから分からせたい。拓人がいかに愚かで浅はかで賞賛に値しない男だったのか。そんな思いから苛立ちのまま柏木は口を開いた。


「アイツは、兄貴はただの大嘘付きだよ。実際にお前は被害に遭ってるんだから分かるだろ?アイツは犯罪者。要領も悪いし親の機嫌1つも取れない出来損ないの人間。馬鹿で哀れな奴。俺は絶対ああはならないって思った。兄貴は俺の反面教師だよ」

心底の嘲笑を含ませながら朔に話す柏木を見ながら、朔は余計だと思いつつも反論をしてしまう。

「……馬鹿…では無かったと思う…」

「はっ、馬鹿はお前だったか。被害者が加害者を庇うなんて頭沸いてるな。兄貴もお前も馬鹿同士類は友を呼ぶってやつか。…ああ、そうか。馬鹿のお前のせいで兄貴も馬鹿になったのか」

「……どういう意味…」

その言い方に引っ掛かりを感じ、朔が聞き返すと柏木は無表情で朔を見据えて一言呟いた。


「兄貴はお前のことを、好きだと言っていた」

「…は…?」

「兄貴は、お前を好きになったせいで、おかしくなった」

柏木の言葉に朔は疑心しか抱かなかった。確かにぼんやり残る記憶の中、好きだと言われていたことはあった。でもそれは、朔を辱めるために言っている言葉に過ぎないと思っていた。うっすら残る自己嫌悪を抱く、拓人に抱かれている時の記憶の中でしか好きだと言われたことは無かった。


「…そんなの……好き……なんかじゃない……」

朔は震えそうになる声を振り絞り一言そう吐き捨てた。


「あの男、お前のこと好きだ、本気で愛してるって親の前で言ってたよ。寒気がするよな。あんな真面目だった兄貴がそんな妄言を吐くなんて、その好きとやらの感情に侵されておかしくなったとしか考えられない。あの時の兄貴は尋常じゃなかった。好きってなんだよ、キモイよな。笑える」

「好きじゃない…!あんなの…好きな訳ない…。だって……苦しかった……恐かった…。本当に好きな相手にはあんなこと…しない…」

朔は拓人に抱かれ周りにバレないように沢山我慢して泣いて苦しんだ記憶が頭の中に思い浮かび顔を歪めた。

同時に柏木の言葉が朔をじわじわ苦しめた。拓人が好きだと言っていたということを信じることは出来ない。
でも拓人をおかしくさせたのが自分だとしたら…そう考えるとやはり言い知れぬ罪悪感に苛まれ、それとは別に暗闇に引きずり込まれるような得体の知れない恐怖に襲われた。朔は小さく震え始めた身体を隠すように左腕を右手で掴みその震えを抑えようとした。言われた言葉が頭の中に反芻して響き渡る。理解を阻むように頭の中が軽く混乱していた。


「……どうでもいいんだよ。お前のことなんて知るかよ。俺は兄貴みたいに意味のわからない感情に振り回されて人生棒に振る程愚かじゃない。俺の好きは野坂に伝えている通り、苦しめて壊すこと。だから野坂のこと好きだよ。兄貴の言うキモイ好きとは違うけどね」

柏木はソファから立ち上がり朔の方へと一歩近づいた。朔は慌てて柏木と距離を取るように後ろへ足を引いた。その顔色は青白く表情は恐怖の色に染まっていて、どこか悲しそうにも見えた。

まただ。

柏木は表情に出さず苦々しい思いを胸の内に隠した。
身体の奥の方が痛かった。またあの痛みだ。朔の笑顔を見たり、怯えられると感じるようになった謎の痛みに柏木は戸惑っていた。この不快な痛みを掻き消したかった。
柏木は少し沈黙を置いた後、自身の中に沸き起こる全ての不快感を笑顔に変えた。


「兄貴のこと、教えてあげるよ」

朔はその向けられた優しい笑顔に本能的に危機感を抱いた。柏木はそのままソファの前から身体の向きを変え朔の前を横切りキッチンの方へと向かった。朔は柏木の一挙手一投足が気になり警戒したまま柏木の行動を見届けた。


「兄貴はこの家に今は居ないよ」

キッチンの方に向かった柏木の声だけが聞こえてきた。そして、その内容を聞き朔はやはりと納得した。じゃあ……


「…今…どこに…?」

朔は姿が見えない柏木に向かって小さく問いかけた。


「会いたい?」

相変わらず声だけが聞こえてくる。


「………会って………話したい。…本当のこと知りたい」


朔は俯きながら小さく返答した。記憶を取り戻すこと、あの時の真相を確認すること、あとは…先の柏木の言葉の真意を直接本人から聞きたかった。朔はぼんやり床を見つめながらまた記憶を遡っていた。

どうしてもあの優しかった拓人と無理矢理関係を迫ってきた拓人が同一人物に思えなかった。好きだからあんなことをした?でもそれは柏木が言っていただけで全てをそのまま信じることが出来ない。ただ、その感情が拓人を変えてしまったとしたら別人格のようになってしまった辻褄が合う。それでも好きならなんであんなことをしたのか……。

朔はどんどん分からなくなっていく。ぼんやり考え込んでいると、すぐ傍に人の気配を感じ朔は我に返り慌ててそちらに目を向ける。笑顔の柏木が朔のすぐ近くに立っていた。朔は想定よりも近くにいた柏木に驚き後ずさる。


「要望叶えて欲しいなら、いつも通り交換条件が必要だよね」

「…なに……を………ッ─────」

朔は言葉を続けようとして、すぐ違和感を感じた。そして同時に背筋が凍るような寒気に全身が硬直する。
朔は近くに立つ柏木の手元を見て顔が青ざめ言葉が出なかった。

笑顔の柏木の右手には、刃が顕になっている果物ナイフが握られていた。

朔が恐怖で一拍遅れて逃げ出そうとすると、その前に柏木はナイフを持つ手とは逆の手で朔の右手を捻りあげる程の強さで掴んだ。


「やッ!くそ、離せっ!!痛いッ!」

「交換条件は、野坂の悲鳴と血でいいよ」

柏木は乱れる心の内を悟られないように完璧に作り上げられた偽りの笑顔で、青ざめる朔の顔を眺めた。

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