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旦
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光陰矢の如し、灰になってしまうくらいに燃えそうな夏の日差しは棘でも混じっているようだった。
蝉の鳴き声や回る扇風機、風鈴の涼し気な音が夏を演出している。
そんな炎暑の中、薫は退館の準備に追われていた。
「知らなかったよ。薫が一人暮らし始めるなんて」
「あれ、言ってなかったっけ?」
とぼけて見せると葵は肩を落とした。
「聞いてないよ」
そこに青谷が割って入ってきた。
「あれだよ、その話を最初してきたのが確か葵を我がマザームーンに迎える前夜だったぞ」
「ほらー」
破れかぶれになった葵をよそに、薫は部屋の片付けに暮れる。丸々二時間かけて約半分の片付けが終わった。左腕で汗を拭いながら自らの腰を右手の拳で解す。
「まだまだだねー」
あからさま他人事のように言う葵に助けを求めた。
「ちょっと手伝ってくれないか」
「まぁ暇だし、ちょっくら猫の手になって手伝ってやるか」
そう言って葵は得意げに袖をまくった。綺麗すぎの葵の活躍もあり部屋は一時間余りで片付いた。
手で持てる荷物はリュックサックにまとめ、他の必要なものはワゴン車の後部座席に乗せた。
「よし、これで全部詰め込んだね」
「そうだな、助かったよ」
感謝されて顔を火照らせたのか、すぐに話題を逸らした。
「また近い内そっち顔出していい?」
「いいよ、散らかってるかもだけど」
「その時までは綺麗にしといてよ」
「分かった分かった」
「じゃあ一人暮らし頑張ってね」
「任せろって」
「夜な夜な泣くんじゃないよ?」
「あのな、赤ん坊じゃないんだから」
葵らしく最後も笑顔で見送ってくれた。皆と別れを告げ、ワゴン車は薫の新しい住まいへと走り始めた。
一人暮らしのため借りた部屋は、施設から三駅いった所にあるため、帰ってこようと思えばいつでも帰ってこれる距離だ。しかし薫は十八年間も世話になって一人暮らしするのだから、出来るだけ青谷には甘えないようにしようと強く決めていた。
一人暮らしのため借りたアパートに着くと、休む暇もなく荷降ろしを始めた。
「なんか施設で荷物を乗せる時よりも重たく感じますね」
「言われてみればそうだな」
青谷は笑っていたが顔が引きつっている。相当キツそうだ。そうか、青谷は今年で五十、しんどいはずだ。
「休み休みでお願いしますよ」
「あぁそうさせてもらうよ」
それぞれのペースで荷物を降ろして部屋に入れていると四時間強もかかってしまった。
全て終わったあと玄関から中を覗くと、それなりに環境の整った一人暮らしの生活が始まるんだなと、やっと実感が湧いた。
「ありがとうございます」
「そんな、いいって。そんなことよりもう夕方だし疲れたろ。何か簡単に晩飯でも作ってやる。引越し祝いだ!俺ら二人だけだが」
そう言ってくれた青谷に最後の甘えで料理を作ってもらっている間に、これからの新しい拠点となるこの街を散歩することにした。
三十分ほど歩いて行き着いたのは河川敷だった。
夕暮れと燃える川に沿って走る中年男性や忙しなく走り抜ける電車、汗を垂らしながら声を出す野球少年たち。皆いて全部あるのに、この静かな世界に自分一人だけが取り残されたような感覚に陥っていた。この数ヶ月間、葵と生活していたせいで一人になるのが痛いと感じるほど寂しい。
コバルトブルーの空に何本もの濡れた廃線が架かっており、その上には鳥たちが囀りながら留まっている。まるでピアノの楽譜みたいだ。葵のことを考えるだけで胸が美しい旋律を奏でていた。
カラスが飛び回りながら夜の訪れを知らせていた。これ以上黄昏ていると感情が込み上げてきそうだから、今日のところは青谷の料理が並んだ新居に帰ることにした。
アパートに着き鉄製の階段を乾いた音を立てながら上がる。まだ部屋にも入ってないのにいい匂いがする。これが最後の青谷の手料理だと思うと余計に寂しくなった。
「ただいま」
「おかえり、もうすぐ出来るから机の準備しといてくれ」
そう指南された薫は施設から持ってきた折りたたみ式の小さい机と皿を並べ、夕食の準備を整えた。
「今日はスパゲティーだ」
最後の、とは敢えて青谷は言わなかった。
いつも通り美味しい夕食を満腹とともに終えて、青谷は茶封筒を机に残し施設に帰った。
その茶封筒の口を開け中を恐る恐る覗くと、そこには折り畳まれた白い紙と封筒によく似た色の紙が何枚か寝そべっている。
手のひらに弾ませ中身を出してみた。白い紙が出てくる前に一万円札が幾らか出てきた。
「え、お金?」
数えてみると十万円も同封されていた。
少しまごつきながらも白い紙をつまみ出して開いてみると、そこには罫線に沿った文字がつらつらと記されていた。
「薫へ。今日から一人暮らしだね。心配や不安に襲われて眠れない夜も来ると思う。そういう時は俺やチビ達の顔を思い出してみろ。きっと心は鎮まるはずだ。それでも辛くなって泣きたい時があれば、いつでもマザームーンに帰って来ればいい。皆笑顔で歓迎してくれると思う。その新しい住居が家じゃない、マザームーンが帰るべき場所で家だからな」
薫の頬には一本の濡れた轍が出来ていた。
手紙は追伸と書かれ続いている。
「ちょっとした応援の証も同封しておいた。勿論返さなくていいから。また会う日までは元気にやれよ」
そっと潤けた手紙をたたみ封筒に閉まった。
夜風にあたり涼むため窓から外を眺めることにした。街灯やビルの明かりは滲み、月は波打っている。
「ありがとう」
震える言葉を漏らし右腕に埋もれて、暫くは泣き止むことが出来なかった。
翌朝、腫れぼったい目を覚ました。
おはようと言っても返してくれる人なんて誰もいない。
抜け殻のように静まり返った部屋で、薫は嫋(しな)やかに淹れたての珈琲を喉に流し込んだ。枯れた身体の隅々まで届いていくのが分かる。寝癖だった髪を押さえつけながら昨日の残りを頬張る。冷めてはいたが、今の薫には変わらず美味しいと思えた。
蝉の鳴き声や回る扇風機、風鈴の涼し気な音が夏を演出している。
そんな炎暑の中、薫は退館の準備に追われていた。
「知らなかったよ。薫が一人暮らし始めるなんて」
「あれ、言ってなかったっけ?」
とぼけて見せると葵は肩を落とした。
「聞いてないよ」
そこに青谷が割って入ってきた。
「あれだよ、その話を最初してきたのが確か葵を我がマザームーンに迎える前夜だったぞ」
「ほらー」
破れかぶれになった葵をよそに、薫は部屋の片付けに暮れる。丸々二時間かけて約半分の片付けが終わった。左腕で汗を拭いながら自らの腰を右手の拳で解す。
「まだまだだねー」
あからさま他人事のように言う葵に助けを求めた。
「ちょっと手伝ってくれないか」
「まぁ暇だし、ちょっくら猫の手になって手伝ってやるか」
そう言って葵は得意げに袖をまくった。綺麗すぎの葵の活躍もあり部屋は一時間余りで片付いた。
手で持てる荷物はリュックサックにまとめ、他の必要なものはワゴン車の後部座席に乗せた。
「よし、これで全部詰め込んだね」
「そうだな、助かったよ」
感謝されて顔を火照らせたのか、すぐに話題を逸らした。
「また近い内そっち顔出していい?」
「いいよ、散らかってるかもだけど」
「その時までは綺麗にしといてよ」
「分かった分かった」
「じゃあ一人暮らし頑張ってね」
「任せろって」
「夜な夜な泣くんじゃないよ?」
「あのな、赤ん坊じゃないんだから」
葵らしく最後も笑顔で見送ってくれた。皆と別れを告げ、ワゴン車は薫の新しい住まいへと走り始めた。
一人暮らしのため借りた部屋は、施設から三駅いった所にあるため、帰ってこようと思えばいつでも帰ってこれる距離だ。しかし薫は十八年間も世話になって一人暮らしするのだから、出来るだけ青谷には甘えないようにしようと強く決めていた。
一人暮らしのため借りたアパートに着くと、休む暇もなく荷降ろしを始めた。
「なんか施設で荷物を乗せる時よりも重たく感じますね」
「言われてみればそうだな」
青谷は笑っていたが顔が引きつっている。相当キツそうだ。そうか、青谷は今年で五十、しんどいはずだ。
「休み休みでお願いしますよ」
「あぁそうさせてもらうよ」
それぞれのペースで荷物を降ろして部屋に入れていると四時間強もかかってしまった。
全て終わったあと玄関から中を覗くと、それなりに環境の整った一人暮らしの生活が始まるんだなと、やっと実感が湧いた。
「ありがとうございます」
「そんな、いいって。そんなことよりもう夕方だし疲れたろ。何か簡単に晩飯でも作ってやる。引越し祝いだ!俺ら二人だけだが」
そう言ってくれた青谷に最後の甘えで料理を作ってもらっている間に、これからの新しい拠点となるこの街を散歩することにした。
三十分ほど歩いて行き着いたのは河川敷だった。
夕暮れと燃える川に沿って走る中年男性や忙しなく走り抜ける電車、汗を垂らしながら声を出す野球少年たち。皆いて全部あるのに、この静かな世界に自分一人だけが取り残されたような感覚に陥っていた。この数ヶ月間、葵と生活していたせいで一人になるのが痛いと感じるほど寂しい。
コバルトブルーの空に何本もの濡れた廃線が架かっており、その上には鳥たちが囀りながら留まっている。まるでピアノの楽譜みたいだ。葵のことを考えるだけで胸が美しい旋律を奏でていた。
カラスが飛び回りながら夜の訪れを知らせていた。これ以上黄昏ていると感情が込み上げてきそうだから、今日のところは青谷の料理が並んだ新居に帰ることにした。
アパートに着き鉄製の階段を乾いた音を立てながら上がる。まだ部屋にも入ってないのにいい匂いがする。これが最後の青谷の手料理だと思うと余計に寂しくなった。
「ただいま」
「おかえり、もうすぐ出来るから机の準備しといてくれ」
そう指南された薫は施設から持ってきた折りたたみ式の小さい机と皿を並べ、夕食の準備を整えた。
「今日はスパゲティーだ」
最後の、とは敢えて青谷は言わなかった。
いつも通り美味しい夕食を満腹とともに終えて、青谷は茶封筒を机に残し施設に帰った。
その茶封筒の口を開け中を恐る恐る覗くと、そこには折り畳まれた白い紙と封筒によく似た色の紙が何枚か寝そべっている。
手のひらに弾ませ中身を出してみた。白い紙が出てくる前に一万円札が幾らか出てきた。
「え、お金?」
数えてみると十万円も同封されていた。
少しまごつきながらも白い紙をつまみ出して開いてみると、そこには罫線に沿った文字がつらつらと記されていた。
「薫へ。今日から一人暮らしだね。心配や不安に襲われて眠れない夜も来ると思う。そういう時は俺やチビ達の顔を思い出してみろ。きっと心は鎮まるはずだ。それでも辛くなって泣きたい時があれば、いつでもマザームーンに帰って来ればいい。皆笑顔で歓迎してくれると思う。その新しい住居が家じゃない、マザームーンが帰るべき場所で家だからな」
薫の頬には一本の濡れた轍が出来ていた。
手紙は追伸と書かれ続いている。
「ちょっとした応援の証も同封しておいた。勿論返さなくていいから。また会う日までは元気にやれよ」
そっと潤けた手紙をたたみ封筒に閉まった。
夜風にあたり涼むため窓から外を眺めることにした。街灯やビルの明かりは滲み、月は波打っている。
「ありがとう」
震える言葉を漏らし右腕に埋もれて、暫くは泣き止むことが出来なかった。
翌朝、腫れぼったい目を覚ました。
おはようと言っても返してくれる人なんて誰もいない。
抜け殻のように静まり返った部屋で、薫は嫋(しな)やかに淹れたての珈琲を喉に流し込んだ。枯れた身体の隅々まで届いていくのが分かる。寝癖だった髪を押さえつけながら昨日の残りを頬張る。冷めてはいたが、今の薫には変わらず美味しいと思えた。
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