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暁
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日常は変わりやしない、そう思っていた。
ぼんやり白み始めていた稜線は朝を呼ぼうとしている。そんな遠くに聳える山脈を車窓から眺めていると、薫を乗せた始発列車は湾岸線に差し掛かった。
「こんなにも海は煌めいて綺麗なのに、世界は壊れようとしてるなんて未だに信じられないや」
独り言を呟いたつもりだったが、隣に座る青谷は薫の言葉を優しく拾った。
「本当そうだよなぁ。施設が平和なように、もっと世界が平和だったらいいのに」
何か意味ありげな言い方だったが敢えてそこは流して、違う話を切り出した。
「もうすぐで青谷さん五十路じゃないですか」
「あぁ、言われてみればそうだな。自分のことなのに忘れてた。よく覚えてたもんだ」
「当たり前じゃないですか。僕にとって唯一の親みたいなもんなんですから。それより今年くらい何か祝いますよ」
そんなのいいよ、と言いながらも背ける顔は嬉しそうだった。
「でも青谷さんが五十路を迎えると同時に施設も十五年記念なんだと思うと、なんというか、漠然とした言い方だけど早いなって思いますよ」
「あぁ、そうだな。あっという間だったな」
「俺が物心ついた頃から世話になってるし、さっきは言葉を濁したけどもう青谷さんが俺の親ですね」
「そんなことねぇよ」
チラッと横目で青谷の顔を伺うと、今にも顔から火を噴き出しそうな顔をしていた。
「でも本当にお前を拾ってきた時のこと思い出すよ。何日も降りしきった雨が漸く止んだ日の高架下だっけ?」
「もうその話はやめましょうよ。どうせ帰ったら今日は散々テレビで聞くんですし」
「そうだな」
朝日に燃やされた海には列車の影が映ったまま、目的地の駅へ着いた。二人は改札を出て、燦燦と咲き乱れる桜並木を少しばかり歩く。
「よし、着いた」
そう呟いて海沿いの横断歩道に立ち止まった薫と青谷は、静かに献花を置いた。
時は二三〇〇年。
人類が住めなくなるほどにまで温暖化が進んだ地球では、数十年前から世界政府が極秘で企てていた月面コロニー移住計画の実行を目前に控えていた。
各国の首脳が長い年月をかけて計画を練り、宇宙飛行士の精鋭たちによる命懸けの苦労の末、人類が快適に住める環境下を月面コロニーに造り上げ整えてきた。
そこに人類を送り込むことで、これからの人類の存続と平和や安全を保証するというものだった。
しかし月は地球と比べて四分の一の大きさしかなく、さらにそんな月面上のほんの一部にしかコロニーは造られていない。今や九十億人を超える人類全員が月に移住するのはまさに不可能だった。そこで世界政府が下した苦渋の決断は、月面コロニーに移住出来るのは全人類の半分にするということ。そして誰が移住出来るかを決める運命の鍵は世界政府によるクジということ。アタリと書かれた月に移住する者と、ハズレと書かれた地球に残留する者、いずれかに二分される抽選結果は人類それぞれに通知される仕組みだ。
これが公表されたのは今から約三年前の初夏。当時は世界中がパニックに陥り、暴動やデモ、それらに関するテロや事件まで起きていたが、現在では時間が落ち着きを取り戻してくれた。そして例の計画の実行が一年後と迫った年の春、薫もまた、その日常という物語の一ページに住んでいた。
昼前には帰ってきた。
“NPO法人 マザームーン”
そう書かれている大きな看板があるだけで、そこには表札なんて物はない。
玄関で微温的に靴を脱ぎ捨てた薫は、弟のように可愛がっている年下の子たち六人に迎えられた。
「おかえりー!」
「おぉ、ただいま。良い子にしてたか?」
「当たり前じゃん、もう夜のトイレだって一人で行けるもん!」
「大きくなっても幽霊は出るかもしれないぞ?」
「や、やめてよ」
何気ない会話を笑い飛ばした薫の楽しみの一つが弟達を揶揄することなのだ。
帰ってくるやいなや青谷が指揮を執った。
「さぁて、昼食の準備だ。部屋を片付けたら手を洗って」
はーいと口を揃えて言う従順な子達と血は繋がってはいないが、可愛くて仕方がなかった。
そそくさと手を洗ってリビングに戻ってきた薫はテレビのリモコンに手を伸ばした。電源ボタンを押して点けると、昼の報道番組がやっていた。
「続いてのニュースです。今日であの事件から十八年が経ちました」
女性アナウンサーのその言葉で薫の身体に稲妻が走った。
「十八年前の今日、東京都内で発生した育児放棄問題で、高崎真依子さん当時二十六歳とその夫である高崎慎一さん当時二十八歳は、生後一ヶ月の赤子を育児放棄し高架下にダンボールに入れて捨てた問題で、警察は二人を保護責任者遺棄罪の容疑で捜索していましたが時効により事件発生から三年後、事件解決が打ち切りとなりました」
「あの事件から今日で十八年が経つもんな」
魚が煮詰まるのを待ちながら、お茶を飲み干した青谷がテレビを見て言った。
「ここまで大々的にしなくても」
薫は他人事のように言うが、当時ではこのような生殖補助医療は発展しておらず、凍結保存された受精卵から産まれた子をマスコミや世間が物珍しさに騒ぎ立てたうえに両親共に育児放棄したために、ここまで話題となっているのだ。
「しかしこのような無責任かつ命を軽視した行動を野放しにいているわけにもいかず、警察は十八年経った今も二人を捜索し続けています」
「はぁ、もう捜索は諦めてくれてもいいんだけどなぁ」
ため息を一つ零した薫は後頭部を掻いた。
「現在は育児放棄された子を、とあるNPO法人が譲り受け幸せな生活を送っているそうです。今年で十九歳となるその少年の母である真依子さんは行方が分かっておらず、父親の慎一さんは生死すら分かっておりません。高崎真依子さんの妹である高崎美奈さんは、十四年前に交通事故により他界しています。もうすぐで二十年が経とうとしている今でも謎が多く残ったまままです。以上、ニュースでした」
女性アナウンサーが台本を読み終わり頭を下げると、薫はテレビの電源をオフにした。
気がつけば弟六人もリビングに集結していた。空気を察していたのか大人しく椅子に座って昼食がテーブルに並ぶのを待っている。
能天気なだけなのか空気を変えようとしたのか分からないが、そのうちの一人が口を開いた。
「お腹空いたー」
「はいはい、もう煮詰め終わるから出来るよ。自分たちでお皿とかコップ用意してお米ついで」
「はーい」
やっと重たくて止まった時間が動き出したような感覚だった。薫自身も忘れようと食事の準備を始めた。
間もなくして美味しそうな煮魚が湯気を立てて並んだ。
「いただきまーす」
声を揃えて昼食は始まった。いつもの見慣れた光景だ。このようにして皆で食卓を囲んで食べる。当たり前のことだが、普通は皆この幸せに気付いだりしない。薫もそうだった。
一番早くに食べ終わったのは青谷だった。
ごちそうさまでしたと一言、台所に皿を下げては洗った。
戻ってくると姿勢を正し改まって話し始めた。
「実は皆にお知らせがあります」
「なになに」
薫たちはお互いの顔を見合って話の続きを促した。
「明日の昼、このマザームーンに新しい仲間が増えます!」
「えーーー!」
降って湧いたような話だが弟達は久しぶりの新メンバーに興奮している様子だ。
火に油を注ぐように青谷は続けた。
「しかもマザームーン初の女の子です!」
「本当に!」
株価が青天井になったように弟達のボルテージは上がる一方だが、青谷は追加情報を挟んだ。
「歳は十七のお姉ちゃんだぞー」
遊んで貰えると思って喜ぶ弟達だが、薫にとってはほぼ同級生だし、初めて女の子と一つ屋根の下の生活が始まると思うと、深い霧がかかったせいで一気に見晴らしが悪くなった。
「皆とにかく仲良くやってくれよ」
「はーい!」
複雑な気持ちのまま昼食を終えて夜を迎えた。
弟達が寝静まった頃、自分の部屋にいた薫は二階のベランダでコーヒーを嗜んでいた青谷さんをリビングに呼んだ。
「どうした?」
「いや、あの俺来年の春で十九じゃないですか」
「あぁそうだな」
「そろそろ巣立って一人暮らし始めたいと思ってるんですけど。バイトもしてるお陰でそこそこ貯まってきてますし、十八を迎えたら二十歳までに自立して一人暮らしを始めるっていうここのルール的にも丁度当てはまりますし」
「なるほどな、もう住居の目星はつけてるのか?」
「はい。色々と探したんですけど、一人暮らしなんで狭くて安い所にしようと思いまして。ここの最寄り駅から六つ隣の駅を降りたアパートに住もうかなと」
幾つもの物件の見取り図が書かれたチラシを広げて説明していった。
「いいんじゃないか、いつ頃引っ越すつもりなんだ?」
「四ヶ月後くらいになると思います」
「わかった。皆にも良いタイミングで伝えておくよ」
「ありがとうございます、じゃあおやすみなさい」
「はい、おやすみ」
そう言い残して階段を上がろうとした時、後にしたリビングから啜り泣く音が聞こえた。薫は立ち止まることなく部屋に戻り、布団を深く被った。
翌朝、鳥の囀りと差し込む朝日で目が覚めた。
「おはよー」
目を擦りながらリビングに行くと、弟達はまだ降りていないようだ。
「おはよう」
青谷さんの目は若干腫れぼったい。普段しない眼鏡を掛けて昨夜一人で泣いたことを気づかれまいとしているのだろうが、正直バレバレだった。
「新しい女の子、近くの駅で待ってるらしいから迎えに行くのついてきてくれないか?」
誘われた薫はコクリと頷いて、そっと片笑んだ薫は暖かいお茶を注いでいると、弟達もとぼけ眼を擦りながら降りてきた。
「おはよー」
「おはよう。昨日言ってた女の子、昼頃に連れてくるから一応パジャマじゃなく外向きの服に着替えといてくれよ」
はーいと声を揃えて歯磨きへと向かう弟達をよそに、薫は家を出る準備を整えた。
「そこに朝食もう置いてるから大人しく食べて、食べ終わったら皿洗っとけよー」
つま先で地面をつつきながら中々入らない踵を靴に押し込んだ。
白いワゴン車に乗り込むと、青谷は助手席に薫を乗せて爽快に走り始めた。
近くの駅と言っても三十分近くはかかるだろうか。
窓に頬杖をついて外の景色を愉しむ。
点滅する信号は命が消えかかっているようだ。それは徒に流れていくばっかりで役割を果たしているとは思えない。
このタイミングで携帯の重低音が車内に響いた。
青谷は運転中なので無視をする。
薫は気になって頬杖で忙しい反対の手で面倒くさそうに携帯の画面を開くと、通知欄にはこう書いてあった。
「新着一件 重要政府通達 抽選結果」
不安と希望の両方の色を目に滲ませた。
「あ、このタイミングてま抽選結果が届いた」
ちょうど今が抽選結果通達期間中の一ヶ月間だということを忘れていた。
そこには居心地と平和が保証されているアタリ«月へ移住»か、廃れゆく世界で余生を過ごすハズレ«地球に残留»のどっちかが自分の未来として載っているのだろう。
メールを開く、運命の瞬間だった。
「どうだった?」
口を噤む薫の隣で、焦れったいぞと言わんばかりに彼の抽選結果を引き出す。
「アタリだ」
「おー!良かったじゃないか。もっと喜べよ、ハズレ引いた人に失礼だぞ?」
「どっちにしろ長生きするつもりはなかったし、どっちでも良かったかなって感じなんだよ」
「そんな寂しいこと言うなって」
泣けてくるじゃねぇか、と哀愁漂う青谷の目が続けて叫びたがっている。
淡い青の下、車は駅まで止まることなくタイヤを回し続けた。
駅に着くと第二パーキングに車を停めた。ギアを変え鍵を回し抜くと、車内は静寂に包まれる。青谷は何も言わずにドアを開け外に出た。携帯を耳に当てている。おそらくその女の子と待ち合わせるための連絡だろう。薫は目を瞑って待つことにした。すると数分後、コンコンと乾いた窓の音が聞こえた。薄目で様子を見ると、青谷が窓を開けろと人差し指を縦に振っている。助手席から身を乗り出し運転席のドアについてあるボタンを長押しした。
「もうそろそろ来るから軽く挨拶しなよ」
「わかった」
冷静を装ってはいるが内心は緊張していた。痩せても枯れても同級生の女の子と関わるのは久しぶりのことだからだ。心臓が慌ただしくリズムを刻んでいるのが分かる。
深呼吸に忙しかったためか、その女の子は夏の夕立ちのようにやってきた。パーキングは吹き抜けのため、麗らかな風が駆け巡る。
「久しぶりだね、元気だったかい?」
青谷は契約や説明などで何度か顔を合わせ済みらしい。
「はい、お陰様で」
純白のワンピースを着こなし、えらくお嬢様の上品な言葉遣いで僕とは真反対だけど可愛い、これが薫から見たその女の子の第一印象だった。
「初めまして、薫です」
挨拶しながら顔が引きつっているのが自分でも分かった。
「あ、初めまして。葵です」
柔らかに微笑みながら、葵はサラッと長い黒髪を揺らして軽く頭を下げた。
どこか懐かしさを感じる。一度も会ったことなど無いはずなのに。
「じゃあ早速だけど皆の家に行こっか。まだ六人のチビ達が心踊らせて待ってるよ」
はい、と小声で返事した葵は青谷の合図で、小さなカバンを両手で持ち車の後部座席のドアの前に立った。
ロックが解除され三人乗り込んだ車は駅のパーキングを徐ろに出て施設へと走っていった。
「ただいまー」
薫は草臥れていた。車内はずっと沈黙を貫き通し、緊張と妙な落ち着かなさで気疲れしたようだ。
「おかえり!」
弟達みんな玄関まで迎えに来てくれた。
青谷の後ろをピッタリと尾き、施設に足を踏み入れた葵は小声で呟めいた。
「お邪魔しまーす」
すると薫に群がっていた弟達は、目の色変えて葵に移った。
「お姉ちゃんだー!」
「まだ早い待て待て。ほら、とりあえずリビング行くぞ」
いきなり知らない年下たちに寄ってこられる困る葵を守ろうと警備員のようになっている薫を見て、葵は薄ら笑い、薫は含羞む。
「では皆が座ったところで我がマザームーンの新メンバーを紹介したいと思います」
青谷は慣れた手つきで仕切り始めた。
みんなの前で一人だけ立っている葵の背中に優しく手を当てて続けた。
「こちらが葵ちゃん。十七歳だね?皆にとってはお姉ちゃんになるから言うこと聞くようにね」
「はーい」
「じゃあ葵ちゃんに質問ある人ー」
「はい!」
「じゃあ駿!」
「誕生日と好きな食べ物は?」
「誕生日はね十月九日で、好きな食べ物はー、お寿司かな?」
「じゃあ次は蒼介!」
「何て呼べばいいの?」
「葵でいいよー」
聞き逃すまいと青谷が割って入る。
「皆は葵姉ちゃんって呼びな。薫は葵でいいけど」
「葵姉ちゃん!」
「そうだね、よく出来ました」
名前を呼んだ蒼介の頭を、葵は笑顔で優しく撫でた。
端で見てた薫は、葵の馴染む早さに些か驚いた。
「じゃあ次が最後の質問にするぞー聞きたいことある人?じゃあー冬斗!」
「葵姉ちゃん、名字は何て言うの?」
「あぁそれはね、分からないの」
振る舞う笑顔に困惑が混ざっているのは、弟達以外の誰が見ても明らかだった。
「そうなんだー」
不思議そうにしている冬斗と、助け舟を出している葵を見て青谷は進めた。
「さ、さぁ後の聞きたいことは個人的に聞いてくれよ。いっぱい話して仲良くなるんだぞー。次なんだけど葵は俺についてきてくれ。この施設と軽いルールのようなものを端的に話すから」
「分かりました」
じゃあね、そう弟達に言い残して青谷と葵は廊下の奥に消えていった。
薫はソファに倒れ込む。今頃どっと疲れが出たのか、忽ち眠気に襲われた。目が覚めたのは夕食の直前だった。
夕食を済ませた薫は少し夜道で散歩をしようと施設を出た。東の方には薄い雲がかかった朧月が力なく浮かんでいる。鼻歌を歌いながらマイペースに歩いていると、やがて近くの公園に着いた。誰一人としていない。少し休もうと寂しそうにしているブランコに腰掛けた。揺れるたび錆びた音が響く。
その時だった。
後ろから砂を踏みにじられる音が聞こえた。次第に近寄ってくる。大袈裟に弾む心臓に蓋をして振り向くと、そこには葵が立っていた。
「ごめんね?仲良くなるために話そうと思って後を追いかけて、脅かすつもりは無かったんだけど」
手を合わせて片目を閉じている葵に、別にいいけどと軽くあしらった。
「隣お邪魔しまーす」
「どうぞー」
ここに向かう途中の自動販売機で買った缶コーヒーを右手に持ちながら、薫は話を切り出した。
「言いたくなかったら言わなくていんだけど名字知らないのか?」
「・・・・・・」
思い煩う葵を見かねた薫は語り始めた。
「俺さ、捨て子でさ親がいないんだよ。どんな顔かも生きてるのかも知らない。最近のニュースで聞いたことないか?十八年前に凍結保存された受精卵から産まれた子が捨てられて両親は行方不明ってニュース」
「あぁ、あれね」
「そうそう、その捨てられた子ってのが実は俺なんだよ」
「え、そうだったんだ」
深刻そうな顔でブランコの下にある人工芝を見つめている。
「この時期になると毎年流れるあのニュースもそろそろやめていただきたいよ。こっちの身にもなってほしいもんだね」
そう笑い飛ばした薫とは対照的に葵は俯いていた。
すると薫が自分の話をしたのが心のドアをノックしたのか、次は葵が口を開いた。
「私ね、物心つく前に女手一人で育ててくれてた母親が轢き逃げに遭って亡くなったの。しかも事故当時の状況から考えて故意の可能性が高いって警察の方から最近になって言われた」
相槌を打つも突然の話に困惑する薫。
「だから私も親の顔は知らなくて。こんなこと言うと不謹慎かもしれないけど、薫くんの話を聞いてて、親近感が湧いた」
「そうなんだ」
「うん、下の名前で呼ばれ続けるもんだから今も自分の名前は葵しか知らない。名字を教えてくれる人もいなかったし、別に名字無くても不便に感じたことなかったから、私もさほど興味は無かった」
「そっか、そういうことがあったんだね」
「ありがとね、重たい話を正面から聞いてくれて」
「ううん、俺も聞けて良かったよ」
そういえば葵とちゃんと話すのは初めてなのになぜか居心地が良いというか、話していると薫の心は落ち着きを取り戻している。
公園に設けられた時計の針は午後八時半を過ぎていた。
「じゃあそろそろ帰ろっか」
「うん」
「あ、あと俺のこと呼ぶとき薫でいいから」
「あーわかった」
少し肌寒いくらいが今の自分にはちょうど良かった
まだ揺れ残るブランコを置いて、二人は隣を並んで帰っていった。
あっという間に一週間が過ぎ、まるで最初からここにいたかのように葵は馴染んでいた。
ある日のこと、葵に呼び出された薫は施設の庭にいた。
「ごめんね、急に呼び出して」
「全然いいけど、どうしたの?」
いつもと違って前面に重々しい色を浮かべている。
「ちょっと相談があって・・・・・・」
「あぁ、聞くよ」
「ありがとう。実は施設に引っ越す前に母親の遺体の火葬の件を担当医の人に持ち出されたの」
「え、なんで十四年も前の遺体を今頃火葬に?」
「あぁ、それは単に医療発達のために遺体を解剖して研究したかったらしいの。だから遺体を特殊な冷凍保存しながら長年かけて調べてたらしい」
なるほど、という言葉を混じえながら続きを煽る。
「それでね、火葬の話が出たから最後に顔を見たいってお願いしたら許してくれたんだけど」
「けど?」
「つい母親を見たら遺体なうえに思い出とかないけど、どうしても感じてくるものがあって。それで軽くギュッて抱きしめたんだけど」
「うん」
「そしたら異常に遺体が軽く感じたの。遺体を触ったこともなかったし、長い年月冷凍保存されてたから軽くなることもあるのかなってその時は思ってたんだけど、どうしても引っかかってて」
「んーなるほどね」
「最近はしつこいほど火葬どうするかの話を持ち出される。そろそろ解剖も研究も終わるから母親のためにも早くしてあげようって。まぁこれを話したところでって感じなんだけど」
「聞くことしか俺には出来ないから全然いいんだけど、それは確かに気になるね」
結局その晩、自らの顎を摘み思考に暮れる薫はあまり眠れなかった。
翌日、まるで喉に刺さった骨を取るように残り続ける蟠りを解消すべく、薫は都内の図書館に足を運んだ。
何万冊とある中から吟味するように本を指先で選んでは戻す。
冷凍保存し解凍すると物体の質量が軽くなる、人体は死ぬと軽くなる、などの分野の本を取り憑かれたように読み漁った。
しかしそんなこと書いてる専門書など一冊も見つからなかった。
「ってことはやっぱり有り得ないってことか?」
けど確信するにはあまりにも証拠が無く決定打も弱過ぎた。それに間違っていたら冤罪のようなもの、それだけは避けたい。
この疑問は今日も迷宮入りすることとなった。
数日が経ち、春の日差しが桜の蕾を開かせる頃、皆をリビングに招集した青谷の隣には知らない男性が立っていた。スタイリッシュにスーツを着こなし、黒縁メガネで七三分けの髪をワックスで爆発しないよう固めている。
「皆聞いてくれ。監視員というか世話係というか、だいぶマザームーンも人数が増えて賑やかになってきた。他に仕事もしてる俺はここにいない時も増えてきてる。だからそういう時にも任せれるような人を雇った。紹介する。倉本悟さんだ」
「よろしくお願いします」
律儀に頭を下げる倉本に対し、薫や葵含め弟達も戸惑っていた。
「みんな倉本さんって呼ぶようにな」
「はーい」
「君が薫くん?話は聞いてるよ、この中じゃ一番長くここにいるって」
「あぁ、まぁそうですね」
「僕よりは薫くんの方がここのことはよく知ってると思うから、分からなかったら君に聞いてもいいかい?」
「それは全然構いませんけど」
「ありがとう」
いえいえ、と返すも正直まだ距離感が分からず警戒していた。
それからというものの、夕食や洗濯、掃除やゴミ出しまで勢力的に手伝ってもらう日々が続いた。
しかし違和感を覚えたのが出会って二週間が経ったある日のこと。
思い返せば最近一人になった覚えがなく、そばにはずっと倉本がいることに薫は気がついた。でも何か被害を被ったわけでもなく、ただただずっと見られているような気がした。
出来るだけ飄々とした態度で距離を取ろうと瀬踏みしたら、前よりはマシになった。
こっちが離れたら無理に来ないということは自分の気にしすぎだったのでは?と何某自らを責めた。
ぼんやり白み始めていた稜線は朝を呼ぼうとしている。そんな遠くに聳える山脈を車窓から眺めていると、薫を乗せた始発列車は湾岸線に差し掛かった。
「こんなにも海は煌めいて綺麗なのに、世界は壊れようとしてるなんて未だに信じられないや」
独り言を呟いたつもりだったが、隣に座る青谷は薫の言葉を優しく拾った。
「本当そうだよなぁ。施設が平和なように、もっと世界が平和だったらいいのに」
何か意味ありげな言い方だったが敢えてそこは流して、違う話を切り出した。
「もうすぐで青谷さん五十路じゃないですか」
「あぁ、言われてみればそうだな。自分のことなのに忘れてた。よく覚えてたもんだ」
「当たり前じゃないですか。僕にとって唯一の親みたいなもんなんですから。それより今年くらい何か祝いますよ」
そんなのいいよ、と言いながらも背ける顔は嬉しそうだった。
「でも青谷さんが五十路を迎えると同時に施設も十五年記念なんだと思うと、なんというか、漠然とした言い方だけど早いなって思いますよ」
「あぁ、そうだな。あっという間だったな」
「俺が物心ついた頃から世話になってるし、さっきは言葉を濁したけどもう青谷さんが俺の親ですね」
「そんなことねぇよ」
チラッと横目で青谷の顔を伺うと、今にも顔から火を噴き出しそうな顔をしていた。
「でも本当にお前を拾ってきた時のこと思い出すよ。何日も降りしきった雨が漸く止んだ日の高架下だっけ?」
「もうその話はやめましょうよ。どうせ帰ったら今日は散々テレビで聞くんですし」
「そうだな」
朝日に燃やされた海には列車の影が映ったまま、目的地の駅へ着いた。二人は改札を出て、燦燦と咲き乱れる桜並木を少しばかり歩く。
「よし、着いた」
そう呟いて海沿いの横断歩道に立ち止まった薫と青谷は、静かに献花を置いた。
時は二三〇〇年。
人類が住めなくなるほどにまで温暖化が進んだ地球では、数十年前から世界政府が極秘で企てていた月面コロニー移住計画の実行を目前に控えていた。
各国の首脳が長い年月をかけて計画を練り、宇宙飛行士の精鋭たちによる命懸けの苦労の末、人類が快適に住める環境下を月面コロニーに造り上げ整えてきた。
そこに人類を送り込むことで、これからの人類の存続と平和や安全を保証するというものだった。
しかし月は地球と比べて四分の一の大きさしかなく、さらにそんな月面上のほんの一部にしかコロニーは造られていない。今や九十億人を超える人類全員が月に移住するのはまさに不可能だった。そこで世界政府が下した苦渋の決断は、月面コロニーに移住出来るのは全人類の半分にするということ。そして誰が移住出来るかを決める運命の鍵は世界政府によるクジということ。アタリと書かれた月に移住する者と、ハズレと書かれた地球に残留する者、いずれかに二分される抽選結果は人類それぞれに通知される仕組みだ。
これが公表されたのは今から約三年前の初夏。当時は世界中がパニックに陥り、暴動やデモ、それらに関するテロや事件まで起きていたが、現在では時間が落ち着きを取り戻してくれた。そして例の計画の実行が一年後と迫った年の春、薫もまた、その日常という物語の一ページに住んでいた。
昼前には帰ってきた。
“NPO法人 マザームーン”
そう書かれている大きな看板があるだけで、そこには表札なんて物はない。
玄関で微温的に靴を脱ぎ捨てた薫は、弟のように可愛がっている年下の子たち六人に迎えられた。
「おかえりー!」
「おぉ、ただいま。良い子にしてたか?」
「当たり前じゃん、もう夜のトイレだって一人で行けるもん!」
「大きくなっても幽霊は出るかもしれないぞ?」
「や、やめてよ」
何気ない会話を笑い飛ばした薫の楽しみの一つが弟達を揶揄することなのだ。
帰ってくるやいなや青谷が指揮を執った。
「さぁて、昼食の準備だ。部屋を片付けたら手を洗って」
はーいと口を揃えて言う従順な子達と血は繋がってはいないが、可愛くて仕方がなかった。
そそくさと手を洗ってリビングに戻ってきた薫はテレビのリモコンに手を伸ばした。電源ボタンを押して点けると、昼の報道番組がやっていた。
「続いてのニュースです。今日であの事件から十八年が経ちました」
女性アナウンサーのその言葉で薫の身体に稲妻が走った。
「十八年前の今日、東京都内で発生した育児放棄問題で、高崎真依子さん当時二十六歳とその夫である高崎慎一さん当時二十八歳は、生後一ヶ月の赤子を育児放棄し高架下にダンボールに入れて捨てた問題で、警察は二人を保護責任者遺棄罪の容疑で捜索していましたが時効により事件発生から三年後、事件解決が打ち切りとなりました」
「あの事件から今日で十八年が経つもんな」
魚が煮詰まるのを待ちながら、お茶を飲み干した青谷がテレビを見て言った。
「ここまで大々的にしなくても」
薫は他人事のように言うが、当時ではこのような生殖補助医療は発展しておらず、凍結保存された受精卵から産まれた子をマスコミや世間が物珍しさに騒ぎ立てたうえに両親共に育児放棄したために、ここまで話題となっているのだ。
「しかしこのような無責任かつ命を軽視した行動を野放しにいているわけにもいかず、警察は十八年経った今も二人を捜索し続けています」
「はぁ、もう捜索は諦めてくれてもいいんだけどなぁ」
ため息を一つ零した薫は後頭部を掻いた。
「現在は育児放棄された子を、とあるNPO法人が譲り受け幸せな生活を送っているそうです。今年で十九歳となるその少年の母である真依子さんは行方が分かっておらず、父親の慎一さんは生死すら分かっておりません。高崎真依子さんの妹である高崎美奈さんは、十四年前に交通事故により他界しています。もうすぐで二十年が経とうとしている今でも謎が多く残ったまままです。以上、ニュースでした」
女性アナウンサーが台本を読み終わり頭を下げると、薫はテレビの電源をオフにした。
気がつけば弟六人もリビングに集結していた。空気を察していたのか大人しく椅子に座って昼食がテーブルに並ぶのを待っている。
能天気なだけなのか空気を変えようとしたのか分からないが、そのうちの一人が口を開いた。
「お腹空いたー」
「はいはい、もう煮詰め終わるから出来るよ。自分たちでお皿とかコップ用意してお米ついで」
「はーい」
やっと重たくて止まった時間が動き出したような感覚だった。薫自身も忘れようと食事の準備を始めた。
間もなくして美味しそうな煮魚が湯気を立てて並んだ。
「いただきまーす」
声を揃えて昼食は始まった。いつもの見慣れた光景だ。このようにして皆で食卓を囲んで食べる。当たり前のことだが、普通は皆この幸せに気付いだりしない。薫もそうだった。
一番早くに食べ終わったのは青谷だった。
ごちそうさまでしたと一言、台所に皿を下げては洗った。
戻ってくると姿勢を正し改まって話し始めた。
「実は皆にお知らせがあります」
「なになに」
薫たちはお互いの顔を見合って話の続きを促した。
「明日の昼、このマザームーンに新しい仲間が増えます!」
「えーーー!」
降って湧いたような話だが弟達は久しぶりの新メンバーに興奮している様子だ。
火に油を注ぐように青谷は続けた。
「しかもマザームーン初の女の子です!」
「本当に!」
株価が青天井になったように弟達のボルテージは上がる一方だが、青谷は追加情報を挟んだ。
「歳は十七のお姉ちゃんだぞー」
遊んで貰えると思って喜ぶ弟達だが、薫にとってはほぼ同級生だし、初めて女の子と一つ屋根の下の生活が始まると思うと、深い霧がかかったせいで一気に見晴らしが悪くなった。
「皆とにかく仲良くやってくれよ」
「はーい!」
複雑な気持ちのまま昼食を終えて夜を迎えた。
弟達が寝静まった頃、自分の部屋にいた薫は二階のベランダでコーヒーを嗜んでいた青谷さんをリビングに呼んだ。
「どうした?」
「いや、あの俺来年の春で十九じゃないですか」
「あぁそうだな」
「そろそろ巣立って一人暮らし始めたいと思ってるんですけど。バイトもしてるお陰でそこそこ貯まってきてますし、十八を迎えたら二十歳までに自立して一人暮らしを始めるっていうここのルール的にも丁度当てはまりますし」
「なるほどな、もう住居の目星はつけてるのか?」
「はい。色々と探したんですけど、一人暮らしなんで狭くて安い所にしようと思いまして。ここの最寄り駅から六つ隣の駅を降りたアパートに住もうかなと」
幾つもの物件の見取り図が書かれたチラシを広げて説明していった。
「いいんじゃないか、いつ頃引っ越すつもりなんだ?」
「四ヶ月後くらいになると思います」
「わかった。皆にも良いタイミングで伝えておくよ」
「ありがとうございます、じゃあおやすみなさい」
「はい、おやすみ」
そう言い残して階段を上がろうとした時、後にしたリビングから啜り泣く音が聞こえた。薫は立ち止まることなく部屋に戻り、布団を深く被った。
翌朝、鳥の囀りと差し込む朝日で目が覚めた。
「おはよー」
目を擦りながらリビングに行くと、弟達はまだ降りていないようだ。
「おはよう」
青谷さんの目は若干腫れぼったい。普段しない眼鏡を掛けて昨夜一人で泣いたことを気づかれまいとしているのだろうが、正直バレバレだった。
「新しい女の子、近くの駅で待ってるらしいから迎えに行くのついてきてくれないか?」
誘われた薫はコクリと頷いて、そっと片笑んだ薫は暖かいお茶を注いでいると、弟達もとぼけ眼を擦りながら降りてきた。
「おはよー」
「おはよう。昨日言ってた女の子、昼頃に連れてくるから一応パジャマじゃなく外向きの服に着替えといてくれよ」
はーいと声を揃えて歯磨きへと向かう弟達をよそに、薫は家を出る準備を整えた。
「そこに朝食もう置いてるから大人しく食べて、食べ終わったら皿洗っとけよー」
つま先で地面をつつきながら中々入らない踵を靴に押し込んだ。
白いワゴン車に乗り込むと、青谷は助手席に薫を乗せて爽快に走り始めた。
近くの駅と言っても三十分近くはかかるだろうか。
窓に頬杖をついて外の景色を愉しむ。
点滅する信号は命が消えかかっているようだ。それは徒に流れていくばっかりで役割を果たしているとは思えない。
このタイミングで携帯の重低音が車内に響いた。
青谷は運転中なので無視をする。
薫は気になって頬杖で忙しい反対の手で面倒くさそうに携帯の画面を開くと、通知欄にはこう書いてあった。
「新着一件 重要政府通達 抽選結果」
不安と希望の両方の色を目に滲ませた。
「あ、このタイミングてま抽選結果が届いた」
ちょうど今が抽選結果通達期間中の一ヶ月間だということを忘れていた。
そこには居心地と平和が保証されているアタリ«月へ移住»か、廃れゆく世界で余生を過ごすハズレ«地球に残留»のどっちかが自分の未来として載っているのだろう。
メールを開く、運命の瞬間だった。
「どうだった?」
口を噤む薫の隣で、焦れったいぞと言わんばかりに彼の抽選結果を引き出す。
「アタリだ」
「おー!良かったじゃないか。もっと喜べよ、ハズレ引いた人に失礼だぞ?」
「どっちにしろ長生きするつもりはなかったし、どっちでも良かったかなって感じなんだよ」
「そんな寂しいこと言うなって」
泣けてくるじゃねぇか、と哀愁漂う青谷の目が続けて叫びたがっている。
淡い青の下、車は駅まで止まることなくタイヤを回し続けた。
駅に着くと第二パーキングに車を停めた。ギアを変え鍵を回し抜くと、車内は静寂に包まれる。青谷は何も言わずにドアを開け外に出た。携帯を耳に当てている。おそらくその女の子と待ち合わせるための連絡だろう。薫は目を瞑って待つことにした。すると数分後、コンコンと乾いた窓の音が聞こえた。薄目で様子を見ると、青谷が窓を開けろと人差し指を縦に振っている。助手席から身を乗り出し運転席のドアについてあるボタンを長押しした。
「もうそろそろ来るから軽く挨拶しなよ」
「わかった」
冷静を装ってはいるが内心は緊張していた。痩せても枯れても同級生の女の子と関わるのは久しぶりのことだからだ。心臓が慌ただしくリズムを刻んでいるのが分かる。
深呼吸に忙しかったためか、その女の子は夏の夕立ちのようにやってきた。パーキングは吹き抜けのため、麗らかな風が駆け巡る。
「久しぶりだね、元気だったかい?」
青谷は契約や説明などで何度か顔を合わせ済みらしい。
「はい、お陰様で」
純白のワンピースを着こなし、えらくお嬢様の上品な言葉遣いで僕とは真反対だけど可愛い、これが薫から見たその女の子の第一印象だった。
「初めまして、薫です」
挨拶しながら顔が引きつっているのが自分でも分かった。
「あ、初めまして。葵です」
柔らかに微笑みながら、葵はサラッと長い黒髪を揺らして軽く頭を下げた。
どこか懐かしさを感じる。一度も会ったことなど無いはずなのに。
「じゃあ早速だけど皆の家に行こっか。まだ六人のチビ達が心踊らせて待ってるよ」
はい、と小声で返事した葵は青谷の合図で、小さなカバンを両手で持ち車の後部座席のドアの前に立った。
ロックが解除され三人乗り込んだ車は駅のパーキングを徐ろに出て施設へと走っていった。
「ただいまー」
薫は草臥れていた。車内はずっと沈黙を貫き通し、緊張と妙な落ち着かなさで気疲れしたようだ。
「おかえり!」
弟達みんな玄関まで迎えに来てくれた。
青谷の後ろをピッタリと尾き、施設に足を踏み入れた葵は小声で呟めいた。
「お邪魔しまーす」
すると薫に群がっていた弟達は、目の色変えて葵に移った。
「お姉ちゃんだー!」
「まだ早い待て待て。ほら、とりあえずリビング行くぞ」
いきなり知らない年下たちに寄ってこられる困る葵を守ろうと警備員のようになっている薫を見て、葵は薄ら笑い、薫は含羞む。
「では皆が座ったところで我がマザームーンの新メンバーを紹介したいと思います」
青谷は慣れた手つきで仕切り始めた。
みんなの前で一人だけ立っている葵の背中に優しく手を当てて続けた。
「こちらが葵ちゃん。十七歳だね?皆にとってはお姉ちゃんになるから言うこと聞くようにね」
「はーい」
「じゃあ葵ちゃんに質問ある人ー」
「はい!」
「じゃあ駿!」
「誕生日と好きな食べ物は?」
「誕生日はね十月九日で、好きな食べ物はー、お寿司かな?」
「じゃあ次は蒼介!」
「何て呼べばいいの?」
「葵でいいよー」
聞き逃すまいと青谷が割って入る。
「皆は葵姉ちゃんって呼びな。薫は葵でいいけど」
「葵姉ちゃん!」
「そうだね、よく出来ました」
名前を呼んだ蒼介の頭を、葵は笑顔で優しく撫でた。
端で見てた薫は、葵の馴染む早さに些か驚いた。
「じゃあ次が最後の質問にするぞー聞きたいことある人?じゃあー冬斗!」
「葵姉ちゃん、名字は何て言うの?」
「あぁそれはね、分からないの」
振る舞う笑顔に困惑が混ざっているのは、弟達以外の誰が見ても明らかだった。
「そうなんだー」
不思議そうにしている冬斗と、助け舟を出している葵を見て青谷は進めた。
「さ、さぁ後の聞きたいことは個人的に聞いてくれよ。いっぱい話して仲良くなるんだぞー。次なんだけど葵は俺についてきてくれ。この施設と軽いルールのようなものを端的に話すから」
「分かりました」
じゃあね、そう弟達に言い残して青谷と葵は廊下の奥に消えていった。
薫はソファに倒れ込む。今頃どっと疲れが出たのか、忽ち眠気に襲われた。目が覚めたのは夕食の直前だった。
夕食を済ませた薫は少し夜道で散歩をしようと施設を出た。東の方には薄い雲がかかった朧月が力なく浮かんでいる。鼻歌を歌いながらマイペースに歩いていると、やがて近くの公園に着いた。誰一人としていない。少し休もうと寂しそうにしているブランコに腰掛けた。揺れるたび錆びた音が響く。
その時だった。
後ろから砂を踏みにじられる音が聞こえた。次第に近寄ってくる。大袈裟に弾む心臓に蓋をして振り向くと、そこには葵が立っていた。
「ごめんね?仲良くなるために話そうと思って後を追いかけて、脅かすつもりは無かったんだけど」
手を合わせて片目を閉じている葵に、別にいいけどと軽くあしらった。
「隣お邪魔しまーす」
「どうぞー」
ここに向かう途中の自動販売機で買った缶コーヒーを右手に持ちながら、薫は話を切り出した。
「言いたくなかったら言わなくていんだけど名字知らないのか?」
「・・・・・・」
思い煩う葵を見かねた薫は語り始めた。
「俺さ、捨て子でさ親がいないんだよ。どんな顔かも生きてるのかも知らない。最近のニュースで聞いたことないか?十八年前に凍結保存された受精卵から産まれた子が捨てられて両親は行方不明ってニュース」
「あぁ、あれね」
「そうそう、その捨てられた子ってのが実は俺なんだよ」
「え、そうだったんだ」
深刻そうな顔でブランコの下にある人工芝を見つめている。
「この時期になると毎年流れるあのニュースもそろそろやめていただきたいよ。こっちの身にもなってほしいもんだね」
そう笑い飛ばした薫とは対照的に葵は俯いていた。
すると薫が自分の話をしたのが心のドアをノックしたのか、次は葵が口を開いた。
「私ね、物心つく前に女手一人で育ててくれてた母親が轢き逃げに遭って亡くなったの。しかも事故当時の状況から考えて故意の可能性が高いって警察の方から最近になって言われた」
相槌を打つも突然の話に困惑する薫。
「だから私も親の顔は知らなくて。こんなこと言うと不謹慎かもしれないけど、薫くんの話を聞いてて、親近感が湧いた」
「そうなんだ」
「うん、下の名前で呼ばれ続けるもんだから今も自分の名前は葵しか知らない。名字を教えてくれる人もいなかったし、別に名字無くても不便に感じたことなかったから、私もさほど興味は無かった」
「そっか、そういうことがあったんだね」
「ありがとね、重たい話を正面から聞いてくれて」
「ううん、俺も聞けて良かったよ」
そういえば葵とちゃんと話すのは初めてなのになぜか居心地が良いというか、話していると薫の心は落ち着きを取り戻している。
公園に設けられた時計の針は午後八時半を過ぎていた。
「じゃあそろそろ帰ろっか」
「うん」
「あ、あと俺のこと呼ぶとき薫でいいから」
「あーわかった」
少し肌寒いくらいが今の自分にはちょうど良かった
まだ揺れ残るブランコを置いて、二人は隣を並んで帰っていった。
あっという間に一週間が過ぎ、まるで最初からここにいたかのように葵は馴染んでいた。
ある日のこと、葵に呼び出された薫は施設の庭にいた。
「ごめんね、急に呼び出して」
「全然いいけど、どうしたの?」
いつもと違って前面に重々しい色を浮かべている。
「ちょっと相談があって・・・・・・」
「あぁ、聞くよ」
「ありがとう。実は施設に引っ越す前に母親の遺体の火葬の件を担当医の人に持ち出されたの」
「え、なんで十四年も前の遺体を今頃火葬に?」
「あぁ、それは単に医療発達のために遺体を解剖して研究したかったらしいの。だから遺体を特殊な冷凍保存しながら長年かけて調べてたらしい」
なるほど、という言葉を混じえながら続きを煽る。
「それでね、火葬の話が出たから最後に顔を見たいってお願いしたら許してくれたんだけど」
「けど?」
「つい母親を見たら遺体なうえに思い出とかないけど、どうしても感じてくるものがあって。それで軽くギュッて抱きしめたんだけど」
「うん」
「そしたら異常に遺体が軽く感じたの。遺体を触ったこともなかったし、長い年月冷凍保存されてたから軽くなることもあるのかなってその時は思ってたんだけど、どうしても引っかかってて」
「んーなるほどね」
「最近はしつこいほど火葬どうするかの話を持ち出される。そろそろ解剖も研究も終わるから母親のためにも早くしてあげようって。まぁこれを話したところでって感じなんだけど」
「聞くことしか俺には出来ないから全然いいんだけど、それは確かに気になるね」
結局その晩、自らの顎を摘み思考に暮れる薫はあまり眠れなかった。
翌日、まるで喉に刺さった骨を取るように残り続ける蟠りを解消すべく、薫は都内の図書館に足を運んだ。
何万冊とある中から吟味するように本を指先で選んでは戻す。
冷凍保存し解凍すると物体の質量が軽くなる、人体は死ぬと軽くなる、などの分野の本を取り憑かれたように読み漁った。
しかしそんなこと書いてる専門書など一冊も見つからなかった。
「ってことはやっぱり有り得ないってことか?」
けど確信するにはあまりにも証拠が無く決定打も弱過ぎた。それに間違っていたら冤罪のようなもの、それだけは避けたい。
この疑問は今日も迷宮入りすることとなった。
数日が経ち、春の日差しが桜の蕾を開かせる頃、皆をリビングに招集した青谷の隣には知らない男性が立っていた。スタイリッシュにスーツを着こなし、黒縁メガネで七三分けの髪をワックスで爆発しないよう固めている。
「皆聞いてくれ。監視員というか世話係というか、だいぶマザームーンも人数が増えて賑やかになってきた。他に仕事もしてる俺はここにいない時も増えてきてる。だからそういう時にも任せれるような人を雇った。紹介する。倉本悟さんだ」
「よろしくお願いします」
律儀に頭を下げる倉本に対し、薫や葵含め弟達も戸惑っていた。
「みんな倉本さんって呼ぶようにな」
「はーい」
「君が薫くん?話は聞いてるよ、この中じゃ一番長くここにいるって」
「あぁ、まぁそうですね」
「僕よりは薫くんの方がここのことはよく知ってると思うから、分からなかったら君に聞いてもいいかい?」
「それは全然構いませんけど」
「ありがとう」
いえいえ、と返すも正直まだ距離感が分からず警戒していた。
それからというものの、夕食や洗濯、掃除やゴミ出しまで勢力的に手伝ってもらう日々が続いた。
しかし違和感を覚えたのが出会って二週間が経ったある日のこと。
思い返せば最近一人になった覚えがなく、そばにはずっと倉本がいることに薫は気がついた。でも何か被害を被ったわけでもなく、ただただずっと見られているような気がした。
出来るだけ飄々とした態度で距離を取ろうと瀬踏みしたら、前よりはマシになった。
こっちが離れたら無理に来ないということは自分の気にしすぎだったのでは?と何某自らを責めた。
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