ぺトリコール

皓 气

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残暑は遠のき、街は露骨に秋らしくなった。バイト先に一週間ほどの休みをもらい施設に帰ってきていたのだ。久しぶりの皆との再会、懐かしの施設、十数年も見続けて飽きていたはずの景色に思いを馳せていると、インターホンが薫を呼んだ。
「はい、どちら様ですか」
「望月と言います。葵さんいらっしゃいますか?」
「少々お待ちください」
部屋にいる葵を小走りで呼びに行った。
「葵ーちょっといい?」
「どうしたの?」
ドアを開け隙間から顔を覗かせる。
「望月さんって人が葵を呼んでるんだけど」
弱りきった表情を見せる葵は一度ドアを閉め、外に出れるような服装に着替えた。
部屋の前で待っていた薫も葵と一緒に玄関に戻った。ついてこようとした倉本を薫は優しく封じる。
「てか望月さんって誰?」
「母の遺体を管理してくれてる担当医さん」
状況を把握したうえで恐る恐るドアを開けた。
「お久しぶりです、望月さん」
「久しぶり。今はここで暮らしてるんだね。それはさておき、さっそく本題に入ろう。やっと高崎さん、君の母親の解剖と研究は終わった。でもまだ君は子供だ。十五年前の手術費なんて今さら請求しようとも思わない。ただあの凄惨な姿だけはこのままだとこれからも残り続ける。だから母親のためにも早く火葬してあげよう。その費用は研究、解剖に協力してくれた感謝も込めて私が負担する」
マシンガンで撃ちまくるように話され火葬を促してきた望月に固まってしまった。
その様子を見た薫は助け舟を出す。
「いきなり決めるってのも難しいですし、とりあえず今日は考えて後日に返事するってのはどうですか?」
「あぁそうだね、わかった。けど出来るだけ早く決めてほしい。こっちには別の仕事も山ほどあるんでね。また明後日くるからそれまでには決めておいてくれ」
フリーズしていた葵は正常を取り戻していた。
「わ、わかりました」
腕にかかっている折り畳まれたベージュのコートをスーツの上から羽織って、鞄を持ち上げると足早に帰っていった。
望月の背中が少しずつ小さくなっていく。やがて姿は地面の下に沈み見えなくなるまで見送った。
頭の中に望月の顔と言葉が蘇る。でも完成前のパズル残り一ピースがどこかに行ってしまったように、形のない何かに囚われながら望月が去った方を漠然と見ていた。
「どうしたの?」
呆然として立ち尽くす薫に気付いて葵が聞いてきた。
「いや、なんであんなに望月さんは火葬を早く勧めたがるんだろう。なんか、そうまるで早く遺体を燃やさないと都合悪いみたいに・・・・・・」
考え過ぎだよーと言い丸められたが、彼女は彼女で引っかかることがある様子だった。

その夜、葵の心に詰まった正体の分からない異物を取り出そうと散歩に誘った。
「今日望月さんが帰ったあと冴えない顔してたけど、なんか気になることでもあるのか?」
地面に転がっている石ころを蹴り飛ばしながら歩を進める。
「気になることというか、私の名字って高崎だったんだと思って。今まで何年も私の前で母の名字を口にしたこと無かったのに」
ちょっと待てよ。なにか色も形もない違和感を覚えた。
「葵の母親の下の名前ってなんだっけ」
「美奈だけど」
その時、まるで雷に打たれたような衝撃が薫の身体に走っては痺れた。彼の頭に染みついて離れなかった幾つもの点同士が線で結ばれ一つに繋がったのだ。
「そういうことだったのか」
「何が?」
疑問そうに薫を見つめる。
「まだ葵がマザームーンにやってくる前の春の始まり、ニュースで俺の事件が今年も流れてた。その時に事故死した俺の母の妹も出てたんだ。俺からすれば叔母さんにあたる人の名前が高崎美奈だった。事故死したのも十五年前で当てはまる」
あんぐり開いた口に手で蓋をして目を見開いている。葵は驚いた様子だった。未だに薫自身も信じられない。
「え、ってことは・・・・・・」
「俺の母の妹が葵の母で、さらには俺と葵が従兄弟ってことになるな」
まさかの血縁関係が発覚し、肝を冷やした葵の口は未だ開いたまま塞がっていない。
「そ、そうだったんだ。知らなかったよ」
「俺も、まさかだったな」
ぎこちない肯定を見せた葵の顔は青かった。
「でもこれで全てが解決したわけじゃない。なぜ遺体が軽かったのかっていう疑問が未だ残ってる」
「そうなんだよね」
また行き止まりにぶつかってしまった。
とんでもなく巨大な迷路にはいりこんでしまったような気がする。それどころか、この迷路に出口はあるのだろうか。それすらも疑問に思い始めていた。
でも一つ大きな収穫はあった。
薫と葵は血縁者であり、お互いの母親は姉妹だったということ。
二兎追うものは一兎も得ず、そう思い今日のところはとりあえず踵を返して各自の部屋に戻った。

目が覚めたのは正午の五分前だった。
こんなに深く眠るほど昨日は疲れてたんだな、そう思い返して一人で納得する。
今にもよろけて転びそうな鈍い足を交互に前へと出す。とてつもなく体が重たかった。
「おはよう」
「遅ようだな」
青谷は笑いながら揚げ足を取る。
「おそよー!」
相変わらずは元気で健やかな弟達の奥には紅茶を嗜む葵が座っていた。
「珍しく爆睡だったね」
「起きて時計を見た時、自分でも驚いたよ」
席について用意されていた朝ごはん、いや昼ごはんの青谷特製カレーを食べ始めると、ふと思いついた質問を葵に尋ねた。
「そういえば葵って月か地球どっちだったんだよ」
「私はハズレ、こんな廃れた星で余生を過ごすことになっちゃった。参ったよーまだまだ先は長いのにね」
あまりに危機感に欠ける態度で話す葵だったが、薫の目には強がっているようにしか映らなかった。
「そんなこと聞いてくる薫の方こそどうなったのよ」
出来るだけ直接的な言い方は避けたかった。
「この流れだと言いにくいよ」
「それ、結局言ったようなもんじゃん」
そういうことかーと表情を崩しながら言って葵は椅子の背もたれに身を任せる。
あまり昨日のことは気にしていない様子だ。若しくは気を遣って触れないようにしているのかもしれない。
気分を変えようとラジオの電源を入れると、天気予報のコーナーが終わろうとしていた。
「明日は全国的にあいにくの天気となるでしょう。以上、天気予報でした。続いてはお昼のニュースです」
清楚な美人の女性アナウンサーがバトンをパスすると、映像が切り替わり身成りが堅苦しく重々しい顔つきの男性が映る。
素早く頭を下げ一礼すると原稿を読み始めた。
「それでは正午のニュースをお伝えします」
特に興味のない政治家の発言や、どこか遠い町の民家で起きた火事などのニュースは耳に入っても右から左に受け流されていく。
「最後のニュースです。今から十五年前に発生した轢き逃げ事件に新たな動きがありました」
葵の耳が敏感に反応して、一旦箸を置いた。それにつられて薫もテレビを睨む。
「謎のままとされていた今年で十五年目を迎える高崎美奈さんの轢き逃げ事件ですが、街に設置された防犯カメラや多数の目撃情報の様々な証言をもとに一人の容疑者がようやく浮上しました。その男の名は望月稔三十八歳」
公開された顔写真と読み上げられた容疑者の名前を聞いて、嫌な寒気が葵の全身を走った。
「え・・・・・・嘘でしょ。も、望月さん?」
「望月って、葵の世話になってる望月さんのことか?」
確認しても葵は青ざめたままで薫の言葉など、どこ吹く風のようだ。
容赦なくニュースは続く。
「男は中肉中背で、白髪混じりの長髪を垂らし、普段はメガネを掛けている模様。また情報が入り次第お伝えします。以上、昼のニュースでした」
窓から差し込む陽だまりが、どことなく沈澱しているリビングで、テレビは児戯に類した昼のバラエティー番組が始まった。
まるで昼食のカレーが喉を通らないどころか味すらしない。
明らかに同様している葵は小さくご馳走様と言い残して自分の部屋に逃げるように戻った。
この日は誰もその事に触れようとしなかった、というよりはこの話に触れることが恐ろしくて誰も口にしなかったのだ。

次の日、薫は近くにある大学の図書館に足を運んでいた。この大学の図書館は学生証を持つ者しか入れないため、今朝すぐに図書館の方に問い合わせ事情を説明し、入館許可を貰った。
ここで調べることは一つ、過失運転致死における死亡事故の時効は何年なのか。まだ警察が犯人を追っている今は大丈夫なのかもしれないが、もし時効が明日だとすると知っておくべきだったと後悔しそうな気がしたからだ。
今にも倒れてきそうに高く積み上がった本棚の間を歩く。法律関係のコーナーに来ると、分厚くて難しそうな本がずらっと並んでいた。
「これか」
その本に人差し指を引っ掛けては摘んで差し抜く。ページをめくっていくと刑事訴訟法のところに道路交通法が記載されていた。
「故意の過失運転致死における・・・・・・死亡事故の時効は・・・・・・十五年」
顔を前に突き出して眉間に皺を寄せる。
いつの日か葵が事故は十五年前の十月って言っていたことを思い出した。
「え、ってことは今九月だから、残り一ヶ月・・・・・・」
簡単な計算にも関わらず混乱していて長い時間を費やしたが、ようやく弾き出した時効までの時間に思わず言葉を失った。
長年の間ずっと解決に至らなかった事件の時効まで二ヶ月しかないことを知った薫は、慌てて施設へと向かった。
その電車の中、車窓から覗く景色はひたすら青くて、空と海が鬩ぎ合っているように見えた。試しに人差し指で切り分けてみる。当然だかま何も変わらない。宝石のようにキラキラした海面に反射する陽射しも、今の薫には眩しすぎた。

昼下がりには施設に着いた。
「ただいま」
「おーおかえり。どうしたんだ、珍しく何の連絡もせず急に帰ってきて」
いつも通り出迎えてくれたのは青谷さんだった。
「ちょっと葵と話したいことがあって」
「あの事か」
察しのいい青谷さんはすぐに気付いた。
「そう、葵は部屋?」
「さっき散歩に出掛けたよ」
ありがとうと一言置いて、再び玄関を勢いよく出ていった。

葵が散歩する時のコースは決まって西海岸だ。薫が施設を出た後も二人で何度か行ったこともある。小さな町を抜け西海岸に出ると、遠くで淡い色のワンピースを風になびかせながら少女は裸足で波打ち際を歩いていた。
「葵!」
潮風に流されまいと叫んで葵を呼んだ薫は、小走りで葵のもとへ急いだ。
「帰ってきてたんだ。珍しいじゃん、何の連絡もせず突然来るなんて」
話は薫の口によって突然切り出された。
「葵の一連の事件、時効まで残り二ヶ月しかない。間に合わなかったら全てが水の泡だ」
「そんなの分かってるよ」
予想だにしない葵の返事に、薫は呆気にとられた。じゃあなんで急がないんだ、そう今にも漏れてしまいそうなのを我慢して、その理由を彼なりに頭の中で探した。数秒の沈黙のあと、重ねて葵が口を開いた。
「もう事件から十五年が経つのに事件は解決されてない。十五年間ずっと解決どころか動きすら無かった事件が、残り一ヶ月で全て終わるとは思えない。万が一犯人が捕まって私の納得する裁きが下されたところで、あの頃の生活もお母さんも時間もどれ一つ返ってはこないの。もう私が事実と立ち向かって引き受けるしかないって思わないといけない。だから仕方ないよ」
水平線を望みながら話し終えた葵がこちらを向くと、海を感じるようなその瞳を細めて微笑んだ。
葵がそう言うんだったら良いのかもしれない。けど自分も親がいない立場から言えば葵と同じである。葵の話を聞いても、やっぱりどこか腑に落ちなかった。
「それでも今やっと容疑者が浮かんだ。それに今の警察は昔と比べて優秀だって聞く。指紋認証の精度だって上がったし、防犯カメラとか色々あるじゃないか!この事件が解決されない限り、ずっと葵は宙に浮いたままの過去を背負ったまま生きていくんだぞ。仕方ないで済ますことじゃないって・・・・・・まだ諦めるなよ!葵のお母さんのためにも」
返事の声は打ち寄せる波の音に掻き消されたのか聞こえなかったが、砂浜に浮かび上がる足跡を見つめながら頭を縦に振る葵の顔は濡れていた。それが海からの飛沫なのか涙なのかは分からなかった。
「俺もう少しだけ黄昏とくから先に帰ってなよ」
こくりと小さく頷いた葵は海に背を向けると、やがて帰路についた。
一人残った薫は薫は影を伸ばして海沿いを漫ろ歩く。もうすぐ日が落ちそうな空は琥珀色に染まっている。その景色に圧倒されていると、気がつけば辺りは火点し(ひとぼし)頃となって、自分も砂浜の上に座っていた。
「そろそろ帰るか」
掌についた砂を払い落とした薫は、秋の夜風に当たり過ぎて小刻みに震える身体を持ち上げた。
その帰り道はやけに静かに感じる。点滅する街灯が孤独を演出しているようだ。
必死の説得の末、とりあえずは葵も頷いてはくれたが、結局のところ事件を解決しようと前を向くかどうかは分からないし、第一容疑者である望月の件をどうすればいいのか分からない。積み残している問題があまりにも多かった。路頭に迷う少年の拳は冷えた壁を打つ。
「くそっ、どうすればいいんだよ」
見上げる夕空には漠然と月が張り付いていた。

次の日、薫は葵に連れられて東京天文科学館を訪れていた。あと〇ヶ月で月に移住することが決まっている薫に月のことを勉強してほしいと、都内で開かれていたイベントを調べて連れてきたのだ。
「時効まで時間がないって話をしたこと忘れたのか?」
「それもそうだけど、今日だけはそのこと忘れて」
薫にとっては特に月など興味が無いため泣く泣く連れてこられた形になっている一方で、元々葵は宇宙の話が好きだったらしい。そのせいか二人のテンションに雲泥の差はあるが、薫は葵に手を引かれて館内に吸い込まれていった。
「ねぇ見て!月の石だって!凄くない?」
これが巷で噂の月の石らしい。
「いっぱい穴が開いただけの単なる石にしか見えないんだけど」
ぶっきらぼうに言う薫に葵は頬を膨らます。
「何も分かってないんだから」
「だって興味すら無かったし、無理やり連れてきたのは葵だろ?」
薄暗い照明の館内には、実際に宇宙飛行士が着て宇宙に行った時の宇宙服や、宇宙船の模型が展示されており、太陽系や月の詳細が書かれたボード、またアームストロング船長率いる精鋭たちを乗せたアポロ十一号が月面に降り立つ映像なども流れていた。
そして薫の気を最もひいたのが月の地図だ。そこには色々と興味深いことが書かれていた。
ホイヘンス山が月で最も高い山であること。月には当然水なんて無いが、海や沼、入江や湖などと呼ばれる地形が存在すること。
「月にも地球みたいに地形の名前があるんだ」
「お、珍しく食い付いてるじゃん」
「ちょっと説明を読んでただけだ」
ふーん、とニヤけながら葵は別のディスプレイを見に行った。
葵の的を得た絡みに参った薫は、再度しろがねの月を眺める。ここまで何かに魅了されたのは初めてだ。まだ薫が幼い頃、テレビで放送されていたヒーローやアニメなど一切興味を示さなかった。
じっと月の地図を見ていると、そこで自分たちが実際に生活している姿が現れた。とても笑顔で活気はあるが、どこか物足りなさそうな表情を浮かべている。自分を目で追っていると、その姿は徐々にフェードアウトされた。おそらく幻だったのだろう。
ハッと平静に戻った頃には、外は斜陽の残像と顕れ始めた暗闇でグラデーションがかっていた。
「そろそろ帰ろうよ、皆心配するよ」
「あぁそうだな。帰ろう」
薫の魂は月面に置いてけぼりにされていた。
「今日はありがとう。楽しかったよ」
薫は自分でも驚くくらい充実した時間を過ごせて、葵は何しろ薫に楽しんでもらえたことに、二人は自身それぞれ違う形で満足した。
科学館を出て駅に向かう。濡れた駅に人たちが群がっている。掻き分けながら駅の奥に進んでいった葵と薫の紅い手は強く繋がれていた。
電車の中、薫のメールが鳴った。
「青谷さんからメール来てた」
「メールが来てるのに気付かないほど月の世界に夢中だったんだぁ」
嬉しそうに揶揄してきた葵を、うるさいなぁの一言で一蹴した薫はボックスを開いて読んだ。
「青谷さん、皆を連れて横浜に行ったんだって。夕食は作って置いてあるから家のことは頼んだよだってさ。よりによって望月さんが来る夜に青谷さんいないのか」
「まぁ仕方ないよ。青谷さんには伝えてなかったし」
そう、今夜は望月が施設に再度訪れる日。電車を降りて施設までの帰り道、二人は望月に言うことを話し合って決めた。
二人が施設に帰ったのは空がナスビ色した芳醇な時刻だった。
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