【受賞作】鶴川橋暮れ六つ

筑前助広

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第五回 凶変

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 悲鳴は突然だった。
 長椅子に腰掛け、五文が投げ入れられる度に頷いていた覚平は、弾かれたように立ち上がっていた。
 万里眼。そうと呼ばれる覚平の眼力が及ぶ範囲では、何の異常もない。

(どこだ、この悲鳴は)

 悲鳴に気付いた通行人も、立ち止まって声の先を探している。
 次第に声が大きく、そして増えた。ひとりふたりと、駆け逃げてくる。その一人を捕まえようとした時、市太が息を切らして番小屋に駆け込んで来た。

「臼浦様、すぐに来てくださいまし」

 顔色は真っ青で、血の気が引いている。三人の抱非人の中で、腕っぷしも度胸もいい市太がこうなるのは珍しい。

「何があったのだ」
「人斬りでございやす。男が、やっとうを振り回して誰彼構わず斬りつけてんで」
「場所は何処だ」
夜肴町よざかなまちでございます。さっ、早く」
「わかった」

 市太が導いたのは、夜肴町は城下の場末、その名が示すように飲み屋が多い町だった。鶴川橋の番小屋のちょうど裏手に当たる。

「うっ……」

 覚平は思わず顔を顰めた。血臭である。しかも、その臭いの濃さは尋常ではなく、足を進める毎に強くなっていく。

「あれでございやす」

 市太が指差した先。そこには一人、男が立っていた。
 右手には血刀。左手には徳利。武士ではあるが、鈍色の着流しははだけ、返り血を全身に浴びている。

「なんたる事だ」

 通りには、骸が幾つも倒れていた。中には子供のものや、片腕や指、首も転がっている。
 覚平は息を呑んだ。剣を学び、腕を磨いてきた。結果的に逃亡を許したが、真剣での立ち合いも経験した。しかし、このような地獄は初めてだった。
 その男の顔が、こちらへ向いた。

(酔っているのか……)

 男の眼光は、常人が持つ光ではなかった。酩酊しているのは明らかだが、それだけではない狂気の色もある。

何者なにもんだ、貴様」
「拙者は、鶴川橋御橋御番役の臼浦覚平でござる。どこのどなたか存ぜぬが、今すぐ刀を納めなされ」
「ほう」

 男は鼻を鳴らすと、焦点の定まらぬ顔に冷笑を浮かべた。

「木っ端役人なんぞが、この俺に指図するとはな。世も末というものだ」

 やはり酒気は酷い。十歩ほどの距離だが、血臭に混じって鼻腔を突いてくる。

「斯様な所業、到底許されるものではございませぬぞ」
「貴様、俺に斬られたいようだな」

 男が刀の切っ先をこちらに向けた。背後の市太が、いつの間にか角材を手にしていた市太が前に出ようとしたが、覚平が後ろ手で押し止めた。

「斬られとうはございませぬが、……貴殿が無辜の民を斬る事も看過できませぬ」
「貴様の減らず口、そっ首もろとも叩き斬ってやる」

 男が前に出た。千鳥足。距離にして、十歩ほどか。
 肌に粟立つ殺気だった。人の生き血を浴びた男だ。酔っていても、この圧力。只者ではない。
 覚平は身構えた。相手は抜き身で、酒だけでなく血にも酔っている。中途半端な対応は命取りだ。

刀背打みねうちか、斬るか)

 男が迫って来た。覚平は一歩引いて腰を落とした

「やる気か?」

 陰惨な笑み。狂気に満ちている。このまま見過ごせば、武士の名折れになる。既に折れる名などは無いが、ここで逃げれば本当の卑怯者だ。
 その時、光が見えた。峻烈な斬光は、思った以上に伸びて来た。その軌道は、覚平の万里眼が正確に捉え鼻先で躱す事が出来た。

「何をなされるか」

 覚平は叫んだ。
 間一髪だった。無傷だとわかると、一気に汗が噴き出した。いくら万里眼で斬撃を見切ったとしても、それを躱し防ぐだけの技量と体力が無ければ無意味なのだ。

「やるではないか」
「最早、冗談では済まされませぬぞ」
「六人も斬っているんだ。今更、冗談で済まされるとは思うておらん」

 と、男が徳利を煽り、投げ捨てた。血臭に酒気が混じり、耐え難い悪臭が覚平の鼻腔を突いた。

「来いよ。でなきゃ、俺はどんどん人を斬るぜ」

 怪鳥のような気勢を挙げ、男が斬り込んできた。
 やはり酔っているとは思えない、鋭い斬撃である。一つ目を身を翻し、二つ目は跳び退いて躱した。
 相当な腕前だ。これ程の使い手を生け捕りなど無理だ。手加減をすれば、こっちが斬られる。

「お止めくだされ。でないと、私は貴殿を斬ってしまう」
「斬る? 俺を斬るだと?」

 男の殺気が爆発した。禍々しい、黒い憎悪の塊のような圧力。地を這うよう押し寄せ、覚平の両足を掴んでいる、そんな心地がした。
 覚平は、気勢を一つ挙げた。
 男の邪気を振り払う。脳裏には、無邪気な千歳の顔。やるしかない。

(……ここで死ぬわけにはいかんのだ)

 真剣の立ち合いは、かつて一度だけある。しかし、斬るまでには至っていない。そしてその時に失態を犯して、覚平は御橋御番役に役替えになったのだ。
 恐怖があった。しかし、それ以上に生き残らねばならないという気持ちの方が強い。

「もはや、遠慮はいたしませぬ」

 覚平は、意を決して腰の一刀を抜き払った。正眼。男は上段だった。
 潮合いを読むという真似はしなかった。抜き、対峙すると同時に、覚平は猛然と突進した。
 立信流は受けの剣である。徹底した防御から勝機を掴む。免許と共に、秘奥とされる〔絶甲剣ぜつこうけん〕も受け継いだ。立信流の祖である大関柳丹おおぜき りゅうたんが独自の経験から編み出した、絶対的な防御術である。
 が、相手は酔漢。そうした者には、通常の剣理で挑むものではない。
 覚平は一気に踏み込むと、無銘の一刀を振り上げた。男の顔。意外そうな顔をしていた。そして、これから何が起こるのか気付いたのか、慌てて剣で防ごうとする。

(遅い)

 そう思った時には、男の首筋を斬り下ろしていた。
 血が奔騰し、覚平は顔から浴びた。男の顔。恐ろしい形相でこちらを睨みつけたまま、膝から崩れ落ちた。覚平も残心のまま、動けなかった。
 市太が駆け寄ってきて、何かをしきりに言っている。役人も今頃になって現れたようだ。しかし身体は動かず、その声も遠くにしか感じなかった。
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