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第一章 闇の誓約

第三回 奥寺中老家①

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 相変わらず、追跡者の気配は付きまとっていた。
 肌を舐めるような感覚。殺気とも敵意とも取れない分、不快であり不気味でもある。
 まるで、獲物を虎視眈々と付け狙う狼。いつもは狩る方だが、狩られる獲物の気分とは、こんなものなのだろうか。
 長閑な田舎道である。昼過ぎに建花寺村を発った清記は、城下へと向かっていた。明日、奥寺家での初稽古だった。
 蒸し暑い、夏の午後である。どうせなら、払暁の涼しい時間に発ちたかったが、昨夜は遅くまで郡内の庄屋衆の寄り合いがあり、それから宴席になったので、ついつい朝が遅くなってしまった。
 身体が重い。酔いが抜けきれない上に、この暑さ。そして、得体の知れない気配ときている。泣きっ面に蜂とはこの事だ。
 清記は、たまらず一度振り向いた。期待はしていなかったが、案の定人っ子一人として姿は無かった。
 追跡者が、一定の距離を保って追ってきているのは確かだった。途中、幾つかの村を通過したが、不思議とそこでは追跡者の気配が消えた。そして一人になると、また感じるようになる。狡猾に圧を与え、追い詰めているのだ。
 自らの気配を自由に操れる者は、そうはいない。中々の手練れと見てよいだろう。

(まぁ、現れた時はその時だ)

 清記は、それぐらいの心持ちであった。刺客に付け狙われるのは初めてではない。そして、念真流を狙う者は多い。つまり、あれこれ考えた所できりが無いのだ。その都度、対処をしていくしかない。
 城下に入ったのは、夕闇で夜須城の天守櫓が見えなくなった頃であった。清記が向かったのは、百人町ひゃくにんちょう。無足組屋敷がひしめく地区であるが、平山家は代々この一角を藩庁から借り受け、ささやかな別宅を構えている。いわば、城下での宿所で、登城の際はこの別宅を使っている。
 清記を出迎えたのは、治作じさくとふゆの老夫婦だった。二人は平山家に長く仕えた下男・下女の夫婦で、父は隠居所を兼ねて二人をこの別宅に住まわせ、その管理を任せている。

「おお、これは清記様。ようお越しなさいました」

 二人は、そう言って清記を歓待した。父は二人の隠居所を兼ねて別宅の管理を任せたのだが、二人は決して居間や書斎を使おうとせず、台所脇の納戸で起居している。どこまでも奉公人の分を弁えているのだ。父はそういう二人の人柄を愛し、この別宅を任せたのだろう。清記も、二人に対しては好ましい印象しかない。

「話は聞いておるな?」
「へえ。何でも奥寺様の剣術指南の御役に就かれるとかで」
「御役ではないが、まぁ似たようなものだ。数日おきに泊まる事になる。面倒を掛けるが、宜しく頼む」

 すると治作は、

「何を仰られます。ここは平山家の、いずれは清記様のご別宅になる場所。遠慮は無用でごぜえます」

 と、歯の抜けた口を開けて笑った。
 居間に通された清記は、ゴロリと横になった。
 不気味な気配。あれは何だったのか。本当に刺客なのだろうか? あれこれ考えてもきりが無いと言っても、手持ち無沙汰になれば否が応でも考えてしまう。
 何度か、父が突然の刺客を相手にするのを見た事がある。特に二度目、お役目と称して陸奥へ旅した時の事は印象的だった。
 あの時、父は河合若鵬かわい じゃくほうという俳人と立ち合っていた。若鵬が何をしていたのか、どんな理由で斬らねばならなくなったのか清記はわからない。ただ、立ち合いの最中に刺客が乱入し、若鵬と組んで父を襲ったのだ。見ているだけだった清記も慌てて加勢に入ろうとしたが、その前に父が二人を葬っていた。
 兎も角、刺客はこちらの事情を汲んではくれない。そして、御手先役として働く度に憎悪を集め、命を狙う刺客は増えていく。生きているだけで、敵を生み出していくというのは、呪われた血脈としか言いようがない。
 ふゆが拵えた卵と味噌の雑炊で夕餉を済ませると、清記はふらりと外に出た。特に用事があるわけではないが、夏の夜風に当たりたくなったのだ。
 波瀬川なみせがわから引き込んだ、掘割に沿って歩く。夜半ともなれば行き交う人も少なく、路傍の屋台で町人が蕎麦を啜っているぐらいだ。追跡者の気配も無い。そのまま百人町を抜けると、向原橋むこうっぱらばしという比較的大きな橋に行きついた。この先は、上級藩士の居住区に入る。

(さぁ、帰るか)

 そう思った矢先、向原橋を渡ってくる男の姿が見えた。
 清記は、踵を返す足を止めた。男は風に揺れる柳のように、ゆらりゆらりと歩きながら橋を渡ってくる。
 圧を感じたのは、橋を半分まで通り過ぎた頃合いだった。肌に粟が立つ。それは、明確な殺意を含んでいる証拠だった。
 鳩羽色はとばいろの着流しに、一振りの刀を落とし差しにしている。顔は深編笠をしているので見えない。
 刺客か。清記は、腰の扶桑正宗に意識を集中した。
 男。近付いてくる。足取りを緩める素振りはない。清記は息を呑んだ。横を通り過ぎる。このまま離れるのか。と、思った刹那、男の剣気が炸裂した。
 抜き打ち、振り向き様の斬撃だった。清記もほぼ同時に振り向き、扶桑正宗を横薙ぎに一閃させた。
 手応えは無かった。両者の一撃は、そのまま空を斬ったのだ。
 三歩の距離で向かい合った。男は深編笠を僅かに上げると、緩めた口許と白い歯だけが見えた。

「名を聞こう」

 清記がそう問うが、男は薄ら笑みを浮かべたまま、背を向けて歩き出した。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 翌朝。目覚めは、良いものではなかった。
 昨日、鳩羽色の着流し男の襲撃を受けて戻った清記は、中々寝付けなかったのだ。
 あの殺気と、巧妙な追跡。そして、抜き打ちの斬撃。どれを取っても、只者ではない。

(もし東馬ならば、どう返したのだろうか)

 そんな事も考えてしまう。四年前、清記は東馬に敗れた。どう敗れたのか、わからないほどの完敗だった。故に、ついつい比較してしまうのだ。

(しかし、無理もない。これが敗者の宿命さだめというものだ)

 以前、清記は三根勘助みね かんすけという男から、執拗に狙われた事がある。三根は和州わしゅう柳本藩やなぎもとはんの出身で、武者修行で建花寺流の道場に現れた。所謂、道場破りであったが、清記は歯牙にもかけずに三根を下した。まるで赤子の手をひねるが如き相手であったが、三根はそれ以降、何度か清記を真剣で襲い、最後は斬られて死んだ。
 その三根の骸を前にして、父はこう言ったのだ。

「清記や。剣客というものはな、自らを破った相手に勝たぬ事には、安心して眠れぬものよ。特に一剣を以て世に出ようとする者はな」

 今の心持ちは、まさにこの事なのだろう。東馬を倒さぬ限りは、ずっと比較をしてしまい、安眠は出来ない。

「お目覚めでございますか?」

 起きた気配を察してか、治作が顔を覗かせた。

「ああ」
「その様子では、あまり眠れなかったようですね」
「わかるのか?」
「清記様の表情は、旦那様によう似ております。その旦那様が若い時分、眠れなかったご様子と瓜二つなもので」
「凄いな。そんなにも他人に詳しくなれるものなのか。私は私自身に対しても、わからないというのに」
「ずっとお傍におりましたから。こう言うのは過ぎた物言いかもしれませぬが、旦那様がまるで自分自身のようにわかってくるのでございます」
「そんなものなのか」
「ずっとお世話をしていますと。さっ、朝餉をご用意しますので、起きてくださいまし。今日はよう晴れておりますよ」

 そう言われ、清記は開け放たれた雨戸の外に目をやった。どこまでも青い空に、入道雲が浮かんでいる。それに聴こえるだけで暑くなる、けたたましい蝉の声が重なってくる。
 居間に移ると、朝餉の膳がすぐに用意された。朝餉は、丼に盛られた白粥である。平山家の朝は、白粥と決まっているのだ。この別宅でも、その伝統は変わらない。その白粥にほぐした梅肉を乗せて胃に流し込むと、清記はふゆの手伝いで衣服を改め別宅を出た。
 中老・奥寺大和の屋敷は、三の丸の手前、城前町じょうぜんまちにある。別宅がある百人町とは夜須城を挟んで反対側の北にあり、歩くと多少の距離がある。治作に猪牙舟ちょきぶねを使う事を勧められたが、それでは返って早く着くので歩く事にした。
 普段は建花寺村に住んでいる清記であるが、城下の地理は大体頭に入っている。そうしろと、父に常々言われているからだ。その理由は、十分に理解している。お役目の中で、土地勘が無いのでは話にならない。
 清記は、掘割に沿って歩いた。そうする方が、幾分か涼しく感じるのだ。きっと川面を揺らす風が、朝から照り付ける暑気を凪いでいくからだろう。
 夜須城下は、波瀬川から水を引き込んだ掘割が多く、複雑に入り組んでいる町割りをしている。それが水運で活かされるだけでなく、戦では防御にもなるように工夫さているという。また、この水路は今年になって更に手を加えられていた。二年前に京都で竹内式部一件たけのうちしきぶいっけんが起き、時勢が妙に慌ただしくなった事を受けての事であろうが、その普請を指揮しているのが、奥寺大和。これから会う男である。
 清記は、改めて掘割に目をやった。

(泣く子も黙る、奥寺大和か)

 そう思うと、会うのが楽しみだった。東馬が廻国修行かいこくしゅぎょうでいないのが残念であるが。
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