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第一回 ファザー・ファッカー

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――殺す。父に抱かれている時、何度も考えた事だった――

<あらすじ>
版木彫り職人の娘である絹絵は、地獄の日々を過ごしていた。
そのきっかけは、母の失踪。絹絵は地獄から抜け出す為に、ある場所を訪れるのだった。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 その振動が途絶えた時、私は終わったと思った。
 そして、し掛かる男の重み。首筋に感じる荒い息遣い。汗ばんだ身体が、私を抱きしめてくる。

(早く、その身体を離して)

 緩慢な思考の中でも、それだけは思う。しかし、その意に反して、私は男の大きく逞しい身体に手を回していた。そうすれば、この男が悦ぶのだ。

(でも、離して。本当に嫌)

 しかし、口に出す事など出来ない。もしそんな事をすれば、私はこの男に殴られ、更なる凌辱を加えられるだろう。
 それは嫌だ。どうせ変わらないのなら、今のままでいい。

絹絵きぬえ……」

 男に名を呼ばれた。

「お前はいい。お前の身体は、具合がいい」

 私は何と言っていいか判らず、ただ頷いた。

「そうか、お前もそう思うか。そりゃ、そうだよな」
「うん」

 そう言うと、男は私の首筋に舌を這わせ、乳房に手を伸ばした。
 怒りも、憎しみも、悲しみも、何もない。ただ、この時間だけが早く終わればいい。それだけだった。
 地獄だ。この世は地獄でしかない。
 それを知ったのは、今から三年前。母だった女が消えて二年後。私が十一歳の時だった。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 目が覚めると、いつもと変わらない染みだらけの天井がそこにあった。
 黴臭いしとねの中、隣りには裸の父が寝息を立てている。まだ、夜が明けきらぬ時分である。
 私は、父の寝顔に目をやった。
 私の男。親子の縁が無ければ、そう思えたであろう。だが、現実は違う。この男は、けだもの以外の何物でもない。
 いっそ、寝ている隙に殺してやろうか、と何度思った事か。首に手を伸ばしたり、包丁を手に枕元に立った事もある。しかし、そうしただけだ。最後の最後で、決心が出来なかった。

(駄目だわ、こんな物騒な事を考えちゃ)

 私はそっと起き出して、外に出た。
 江戸、本所元町。吹けば飛んでいきそうな、木っ端な裏長屋である。秋も暮れで、朝の澄んだ空気には、冬の到来を匂わせる冷感が強かった。
 まだ、裏長屋の住人が起き出すには、かなりの時間がある。元より、此処に住まう人間の朝は遅い。早かったとしても、挨拶を交わす事は無かった。皆、他人に関わろうとしないのだ。だから、私が実の父にあんな仕打ちをされていても、誰も止めようとしない。いや、あのような事をされているとも気付かないのだ。
 私は、井戸へ行き顔を洗った。
 冷たい水に目が覚める。それは父にこの身を捧げる、地獄の一日の始まりを告げる合図でもある。
 だが、それは昨日までの話。今日からは違う。そうあって欲しい願うのも、毎朝の日課だ。
 そう思った時、私の脳裏には五日前に聞いた、ある男の言葉を思い出した。
 その言葉に、縋る価値はある。何故ならば、此処以上の地獄は無いのだから。貧乏で、実父の慰みもの以上の地獄は。

(行こう)

 私は振り返らずに、裏長屋を出た。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 父は、版木彫り職人だった。
 腕は良く、母が亡くなるまでは、雇われであるが、責任ある仕事を幾つも任されたという。
 しかし、母が茂吉という父の同僚と駆け落ちすると、父は怒りと悲嘆の末に酒に溺れ、職場でも遅刻や喧嘩を繰り返し、そして暇を出された。
 今は、知り合いの版木彫り職人の手伝いをしているそうだが、それは決まった仕事ではなく、故に収入も不安定だった。
 母への憎しみ、鬱屈が全て、母に似すぎる私に向けられたのだろう。
 始まりは、私が十一歳の時だった。

「お父ちゃん、酒は程々にしなきゃいけないよ」

 酔って帰ってきた父に、私は言った。
 すると、それが父の気に障ったのだろう。私の髪を掴んで、そのまま布団に投げ飛ばした。
 それから父は私の上に跨り、二発頬を殴った上で、

「させい」

 と、私の着物に手を掛けたのだ。
 十一歳の私でも、それが何を意味しているのか、すぐに悟った。
 悲鳴を挙げようとしたが、その口には手拭いが押し込まれ、無理矢理に実の父親である男のものを、捻じ込まれてしまった。
 それが、地獄の日々の始まりだった。

◆◇◆◇◆◇◆◇

「それは、さぞ辛かっただろうねぇ」

 目の前に座した男がそう言うと、私は小さく頷いた。

「そう簡単に言っちゃいけないのだろうけど」
「いえ……」

 男は、益屋淡雲ますや たんうんという。益屋という両国広小路での両替商を中心に、米問屋、材木商、薬種問屋、海運業と手広くやっている豪商で、この〔慈寿荘じじゅそう〕と名付けられた、この寮の主でもある。
 私は、その母屋にある客間に案内された。そこからは、大きな池と竹林を望む事が出来る。

「それで、此処に来た理由は?」

 淡雲の目が光った。歳は六十ほどだろう。小太りで中背。終始笑顔で人の善さそうな印象を受けるが、目の奥は笑ってはいない。

「それは……」
「話を聞いたのだね?」

 私は頷いた。
 その通りだった。本当に困った事があれば、根岸にある慈寿荘へ行くと良い、と。
 それを教えてくれたのは、元町で番太をしていた抱非人かかえひにんの老爺だった。その老爺は、ある日の夕方に私にそっと近寄って、

「いよいよって時は、慈寿荘に行くといい。儂には助けられないが、そこならお前さんを救ってくれるだろう。だから決して、自分の綺麗な手を穢す真似はしちゃいけねぇよ」

 と、耳打ちしたのだ。

「そうか。そうなのだな」

 淡雲は腕を組んで頷いた。

「それで、どうしたいんだい?」
「どう……って」
「有り体に言えば、二つ。お前さんを此処で匿うか、その外道を殺すか」

 殺す。父に抱かれている時、何度も考えた事だった。しかし、それがいざ現実味を帯びた言葉になった時、怯む自分がそこにいた。

「あ、当然だが、お代なんていらないよ。私は銭でこんな事をしているんじゃないんでねぇ」
「でも」
「それに、払うものも無いだろう。で、どうするか決めておくれ」
「殺してください」

 私は、意を決して言った。

「うん、それがいい。そうした外道は殺すに限る」

 と、淡雲は笑みを浮かべて二度頷いた。

「でもね、お前さんは気に病む事は無いのだよ。殺すのは私達なのだからね」

 それは考えていなかった。父が死んだ後、私が罪悪感を覚えるのか。それは判らなかった。幼い頃は、可愛がられた記憶がある。しかし、この二年の間に募った憎悪が、全てを塗り潰している。

「お父っちゃんの事は承知したが、おっ母さんはどうなんだい?」
「おっ母さん?」

 思わぬ質問に、声が上ずってしまった。それに気付いた淡雲は苦笑して、言葉を続けた。

「そうさ。お前さんの話を聞くに、全てはおっ母さんが、男をこしらえて出て行った事が発端じゃないのかね?」
「……」

 私は答えに窮して俯いた。
 確かに、母は憎い。母が男と逃げた事で、父は凌辱されたと言ってもいい。父に抱かれながら、母を呪った事など、一度や二度ではないのだ。

「でも、母はいいです」
「ほう」
「母は親である事より、女である事を選びました。それは憎いですが、母はもう他人なので」

 そう言っても、許したつもりはなかった。許すというより、興味がないと言うべきで、父の魔手から逃れられると思えば、もうどうでもよかった。

「そうか。お前さんがそう言うのなら、ね」

 淡雲はそう言うと、茶に手を伸ばした。猫舌なのか恐る恐る啜っている。

「よろしいでしょう。この依頼、お引き受けいたします」
「本当ですか?」
「ええ。ただ、こっちで調べはさせてもらうよ。お前さんを疑うわけじゃないが、人をひとりほふるわけだからね」

 淡雲の表情が、一瞬だけ真顔になった気がした。その凄みがある眼光に、私は息を飲んだ。

「あと、こうなっては長屋には戻れまい」

 私は頷いた。今頃、父は怒り狂って私を探しているはずだ。

「お前さんさえよければ、此処で働いてくれんだろうか?」
「私がですか?」
「そうそう。ちょうど、下女が一人嫁に行ってねぇ。人手不足なのだよ。それに、お前さんを信用していないわけじゃないが、こうした事をしてるなんて、世間に知れちゃまずいですし」

 側に置いて、監視するという事なのだろう。それでもいい、と私は思った。今の地獄に比べたら、極楽ではないか。

「当然、毎月決まったものは渡すよ。私が雇うのだからね」
「判りました。此処に来た時に、何でもすると決めていましたので」
「それじゃ、決まりだね。今からこの話を進めさせてもらうよ? 次に呼ぶ時は、全てが片付いた後になるだろう」

 そう言うと、淡雲は手を二つ叩いた。
 襖が開き、現れたのは若い女だった。歳は二十ほど。陽に焼けて浅黒いが、目鼻立ちがはっきりとした美形だった。

「おとう、この子を世話してくれんかね。今日から奉公する事になったのだ」
「旦那様ったら、またですか?」
「なぁに、人手は多い方がいいんだよ。この娘は絹絵さんという」

 お陶は呆れたような表情ではあったが、何処か嬉しそうな表情もしていた。

「お絹さんね。私は陶子よ。お陶と呼んでね。色々教えるから、ちゃんと覚えてね」

◆◇◆◇◆◇◆◇

 それから私は、陶子に広い寮内を案内された。
 母屋があり、幾つかの離れ、そして奉公人に長屋、他にも剣術の道場や何をするのか判らない工房がある。それらを竹林が囲み、その道を抜けた先には畑もあった。こうした畑は、淡雲が手慰みで土弄りをする為だという。

「さて、帰ろうかね」

 一通り見た後、母屋へ通じる竹林の小道を歩いていると、向かいから一人の男が歩いてきていた。
 それまで陽気に話していた陶子が、急に押し黙る。聞こえるのは、風に揺られて騒ぐ竹籟の音だけである。
 男は、塗笠に黒羅紗洋套くろらしゃようとうを纏っている。塗笠ぬりがさを目深に被り、かつ伏し目がちに歩いているので、その顔は見えない。

「脇に」

 陶子が耳打ちして路傍に逸れたので、私もそれに続いた。
 男が、私達の目の前で歩みを止めた。そして振り向き、塗笠の庇を摘み上げた。
 色白で、頬が豊かな若い男がそこにいた。美形であるが、その左眼には黒い眼帯が当てられている。
 不釣り合いだ。女形のようであるのに、眼帯とその雰囲気に、只者ではない禍々しさがある。
 陶子が黙礼すると、男は軽く頷いた。
 私は、男の残った右眼に吸い込まれそうな心地がした。狐目の鋭い眼光であるが、その瞳の奥には何人も立ち寄らせぬ、諦めに似た深い翳りがある。

(この男が、父を殺すのだ)

 それを確信した私は、遠ざかっていく男の背を眺めながら、もう戻れぬのだと思った。

<了>
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