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第二話
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ある日。せっせと朝のお供えをしていたら、悠真がぽつりと呟いた。
「お前、ほんと遠慮が無くなったな」
「だって中に入らなきゃ、お水もお米も代えられないでしょ?」
そうだけどよ、拗ねたような声でぼやく彼に、つい笑ってしまう。
悠真に触れないようにと、おっかなびっくり注連縄を潜っていた頃を言っているのだろう。
もう何ヶ月も前の事だというのに。
「心配しなくても、悠真には触らないから大丈夫だよ?」
「あ? 何言ってんだ?」
「何って……悠真は福をくれるけど、触ったら祟るんでしょ?」
「……どうしてそうなった?」
ぐう、と唸る彼に狼狽える。
家人はおろか、親類まで口を揃えて言っているのだ。椎名の家が大きくなったのも全て、人形様を祀っているからなのだと。
「お、お父さんのお仕事が上手くいってるのも、悠真のお蔭だって……」
「待て待て。俺は何もしてねえぞ」
「え? でも……」
「でももだってもねえよ。親父さんの仕事が上手く行ってんなら、そりゃあ手腕が高いんだろうよ。俺はただのお飾りだからな」
「……お飾り……」
ぐわん、と後頭部を殴られたような痛みと眩暈が走る。
恩恵を受けていない事などどうでもいい。
それよりも、本人の口から“お飾り”という言葉が出て来た事が、何より嫌で——ショックだった。
悠真は『もの』じゃないでしょう、と言いかけた口を、意地で噤む。
それでも、この世の何処に意思を持って喋る道具があると言うのだ、と反論したい気持ちが、胸の奥で暴れてしまう。
悠真は無言で睨め上げる俺へ、ばつが悪そうな声で告げた。
「材料が足りてねえんだよ……俺は不完全なんだ」
「材料?」
小首を傾げる俺に向かって、瞬きすらしない土人形は鷹揚に語り出す。
「人形神は本来、七つの村の七つの墓地から運んできた土に、持ち主の血を混ぜ込んで作るんだ。形が出来た後は人通りの多い場所に置いて、千人の人々に踏ませる。……はっ、狂った事しやがるよな」
嘲笑う声に、賛同は出来なかった。
今こうして悠真と会話を楽しめるのは、トチ狂ったご先祖様のお蔭と言っても過言ではないからだ。
その狂気があったから、俺は悠真に会えたのだ。
批難など、出来るはずがない。
黙す俺をそのままに、彼の説明は続く。
「気味悪がって止したのか、時代と共に廃れたのかは知らねえが、俺に血は使われてねえ。不完全な俺は誰の人形でもねえからな、持ち主がいなきゃ欲望すら聞けやしねえ」
こうして会話するのが精一杯だ、と嘯く彼を、じっと見つめる。
てっきり父の人形様だと思っていたが、彼の持ち主はいないらしい。
つまり——悠真は誰の人形様でもないのだ。
胸の奥で暴れていた感情は、確かな欲へと変貌し、自分でも驚くほど自然に口から零れた。
「なら、俺の血をあげたら、俺の人形様になってくれるの?」
「まあ、そうなるな。でも止めとけよ」
「なんで?」
「……人形神なんか、良いもんじゃねえ」
「んぅ……そうじゃ、なくって……」
「ん?」
良いとか悪いとか、善だ悪だ、白だ黒だの問題ではない。
もっと根本的な欲求。
単純で、原始的な欲望。
「悠真が欲しいって言ったら、怒る?」
「………」
土人形はむすりと黙り込み、返事すらしてくれなくなった。
怒らせてしまったのだろうか。だが、本心である。
俺は彼の眼の前にぺたりと座り、じっと顔を見合わせた。
応えてくれるまで動かないという意思表示。我慢比べのようなものだ。
しんと静まり返った蔵に、裏庭の木から雀や鳩、郭公の鳴き声が聞こえてくる。
こんなに静かな朝は久し振りかもしれない。それこそつい先程まで、悠真と喋ってばかりいたのだから。
耳で鳥の鳴き声を追っていたら、無言を貫いていた人形が、ぽそりと零した。
「お前さ」
「なあに?」
「悪趣味にも程があるぞ」
「……悪趣味じゃないもん」
趣味が悪いなど、俺にも悠真自身にも失礼である。
口を尖らせ拗ねて見せると、重い息をついた彼が、止む無しとばかりに口を開いた。
「一滴」
「ふぇ?」
「俺の身体に一滴落とせば、お前のもんだよ」
「!」
望んだ答えを受けた俺は、きっちりと並べられたお供え物を素早く眼で探る。
ご機嫌取りの為に持ち込まれた、大量の玩具やお菓子。毎朝手入れをしているその中に、プラスチック製の風車を見つけた。
これならば、指先を刺すには十分だろう。
躊躇いなく掴み上げたその先端に指を押し当てた時、
「ちょっと待て、本気か?!」
珍しく慌てる声が蔵に木霊す。
「ん? 聞いちゃったもん、本気だよぉ~…っつう……!」
「うわ、馬鹿! 刺し過ぎだ!」
「……ふふ、悠真の方が痛そうな声してる。変なの」
「うるせえ、さっさと消毒しろ!」
「はぁい、後でね」
「後じゃねえ、今だ今!」
「それじゃ刺した意味無いでしょ、えいっ」
少々心配が過ぎる人形様の手の甲に、ぷくりと球になった血を押し当てる。
冷たい土塊の奥へ、じわり……血が染み込んでゆく。どんどん小さくなって行き、遂に跡すら無くなってしまった其処に不安を覚え、彼に尋ねた。
「ねえ……これで、悠真は俺の人形様?」
「……ああ、アヤだけのもんだ。アヤの望みは何でも叶えてやる。欲しいものも、要らないものも、いくらでも」
「なんでも……?」
「おう。俺は業突く張りの人形だからな」
胸の奥から、感じた事の無い愉悦が溢れて来る。
俺の望みを、俺だけの悠真が叶えてくれると言う。
それはなんて魅力的な甘露なのだろう。
「教えてくれ。お前は何を望む?」
「のぞみ……」
何でも良いと彼は言っていた。
強く望むもの。今、一番欲しいもの——。
「ぎゅってして」
「抱き締めて欲しいのか?」
「うん……あったかいのが、欲しい」
愛されてないわけではないと思う。だが、フィルターが掛かってる。
本家の跡継ぎ。それが第一。俺個人ではない。
俺はまだまだ幼い子供だが、それくらい感じ取れる。
贅沢なのかもしれない。しかし、誉め言葉より、もっと別のものが欲しい。
「……ふはっ、」
「悠真……?」
くつくつと愉快そうに喉を鳴らす土人形に小首を傾げれば、悪ぃ、と気持ちの篭っていない謝罪を寄越して来る。
「随分可愛い欲だなと思ってさ」
「なっ……馬鹿にしてるでしょ!」
「してねえよ、人間らしいっちゃらしいしな」
「人らしい? ——ひゃっ!」
厚みのある、暖かなものが俺の右手を握った。
驚愕から反射的に顔を向ければ、健康的な肌を持つ人間の手が、俺のそれを包んでいる。
誰のもの——など、愚問だ。
大きく節張った手の続く先をそろりと窺い、息を飲む。
切れ長の金眼が、口の端を上げて笑う男性が、愉快そうに俺を見下ろしている。
生身の人間が、俺の手を握っている。
「な、んで……」
「こっちの方が良いだろ?」
人に、成った。
土で出来た人形様が、精悍な男性に成った。
目の前で起きた不思議に瞠目していると、繋いだ手がするりと解けて、
「アヤ」
呼ばれた名前に、ひくりと肩が震える。
優しい声。
家族や縁者、教師に学友——俺を囲む人々とは違う、俺自身を見て、ただのアヤとして呼んでくれる声。
頬がじわじわと熱を帯びてゆく。鼻の奥がつんと痛み、込み上げる涙に唇を噛む。
そんな俺へ、静かな微笑を浮かべた彼は、
「おいで」
柔らかい動きで諸腕を広げた。
堪らず彼の胸に飛び込み、大きな身体に身を預けた。
壊れ物や貴重品を扱うように、丁寧に。
まるで俺を隠すように包み込んでくれる体温が嬉しくて。
彼の着物を握り締めたまま、声を押し殺して泣いた。
これなのだ。
賞状も花丸も要らない。一番など欲しくない。
この温もりが欲しかったのだ。
人形様に触れてはいけないなど、ご先祖様たちは損である。
こんなにも多幸感を得られるというのに。
「知ってっから」
「ん……」
「アヤが色々我慢して、頑張ってるってさ」
「……うんっ、」
「いくらでも甘えればいい。俺の前で我慢なんかすんな」
「ふ……ぅっ、……ゆうまぁ……」
何故、俺の欲しい言葉が解るのだろう。
人形様だからか。否、違う。
悠真だから、解るのだ。
不意に、ぽんぽんと背中を叩かれる。顔を上げれば、優しい笑みが目の前に広がっていた。
初めて見る彼の瞳が、ゆらりと揺れる。
他の人形様がどうかは知らぬが、彼の欲は恐らく、俺の願いを叶える事で満たされるのだろう。
瞳孔の細い、猫のような金眼が言っている。
今、満足していると——そう言っているのだから。
「お前、ほんと遠慮が無くなったな」
「だって中に入らなきゃ、お水もお米も代えられないでしょ?」
そうだけどよ、拗ねたような声でぼやく彼に、つい笑ってしまう。
悠真に触れないようにと、おっかなびっくり注連縄を潜っていた頃を言っているのだろう。
もう何ヶ月も前の事だというのに。
「心配しなくても、悠真には触らないから大丈夫だよ?」
「あ? 何言ってんだ?」
「何って……悠真は福をくれるけど、触ったら祟るんでしょ?」
「……どうしてそうなった?」
ぐう、と唸る彼に狼狽える。
家人はおろか、親類まで口を揃えて言っているのだ。椎名の家が大きくなったのも全て、人形様を祀っているからなのだと。
「お、お父さんのお仕事が上手くいってるのも、悠真のお蔭だって……」
「待て待て。俺は何もしてねえぞ」
「え? でも……」
「でももだってもねえよ。親父さんの仕事が上手く行ってんなら、そりゃあ手腕が高いんだろうよ。俺はただのお飾りだからな」
「……お飾り……」
ぐわん、と後頭部を殴られたような痛みと眩暈が走る。
恩恵を受けていない事などどうでもいい。
それよりも、本人の口から“お飾り”という言葉が出て来た事が、何より嫌で——ショックだった。
悠真は『もの』じゃないでしょう、と言いかけた口を、意地で噤む。
それでも、この世の何処に意思を持って喋る道具があると言うのだ、と反論したい気持ちが、胸の奥で暴れてしまう。
悠真は無言で睨め上げる俺へ、ばつが悪そうな声で告げた。
「材料が足りてねえんだよ……俺は不完全なんだ」
「材料?」
小首を傾げる俺に向かって、瞬きすらしない土人形は鷹揚に語り出す。
「人形神は本来、七つの村の七つの墓地から運んできた土に、持ち主の血を混ぜ込んで作るんだ。形が出来た後は人通りの多い場所に置いて、千人の人々に踏ませる。……はっ、狂った事しやがるよな」
嘲笑う声に、賛同は出来なかった。
今こうして悠真と会話を楽しめるのは、トチ狂ったご先祖様のお蔭と言っても過言ではないからだ。
その狂気があったから、俺は悠真に会えたのだ。
批難など、出来るはずがない。
黙す俺をそのままに、彼の説明は続く。
「気味悪がって止したのか、時代と共に廃れたのかは知らねえが、俺に血は使われてねえ。不完全な俺は誰の人形でもねえからな、持ち主がいなきゃ欲望すら聞けやしねえ」
こうして会話するのが精一杯だ、と嘯く彼を、じっと見つめる。
てっきり父の人形様だと思っていたが、彼の持ち主はいないらしい。
つまり——悠真は誰の人形様でもないのだ。
胸の奥で暴れていた感情は、確かな欲へと変貌し、自分でも驚くほど自然に口から零れた。
「なら、俺の血をあげたら、俺の人形様になってくれるの?」
「まあ、そうなるな。でも止めとけよ」
「なんで?」
「……人形神なんか、良いもんじゃねえ」
「んぅ……そうじゃ、なくって……」
「ん?」
良いとか悪いとか、善だ悪だ、白だ黒だの問題ではない。
もっと根本的な欲求。
単純で、原始的な欲望。
「悠真が欲しいって言ったら、怒る?」
「………」
土人形はむすりと黙り込み、返事すらしてくれなくなった。
怒らせてしまったのだろうか。だが、本心である。
俺は彼の眼の前にぺたりと座り、じっと顔を見合わせた。
応えてくれるまで動かないという意思表示。我慢比べのようなものだ。
しんと静まり返った蔵に、裏庭の木から雀や鳩、郭公の鳴き声が聞こえてくる。
こんなに静かな朝は久し振りかもしれない。それこそつい先程まで、悠真と喋ってばかりいたのだから。
耳で鳥の鳴き声を追っていたら、無言を貫いていた人形が、ぽそりと零した。
「お前さ」
「なあに?」
「悪趣味にも程があるぞ」
「……悪趣味じゃないもん」
趣味が悪いなど、俺にも悠真自身にも失礼である。
口を尖らせ拗ねて見せると、重い息をついた彼が、止む無しとばかりに口を開いた。
「一滴」
「ふぇ?」
「俺の身体に一滴落とせば、お前のもんだよ」
「!」
望んだ答えを受けた俺は、きっちりと並べられたお供え物を素早く眼で探る。
ご機嫌取りの為に持ち込まれた、大量の玩具やお菓子。毎朝手入れをしているその中に、プラスチック製の風車を見つけた。
これならば、指先を刺すには十分だろう。
躊躇いなく掴み上げたその先端に指を押し当てた時、
「ちょっと待て、本気か?!」
珍しく慌てる声が蔵に木霊す。
「ん? 聞いちゃったもん、本気だよぉ~…っつう……!」
「うわ、馬鹿! 刺し過ぎだ!」
「……ふふ、悠真の方が痛そうな声してる。変なの」
「うるせえ、さっさと消毒しろ!」
「はぁい、後でね」
「後じゃねえ、今だ今!」
「それじゃ刺した意味無いでしょ、えいっ」
少々心配が過ぎる人形様の手の甲に、ぷくりと球になった血を押し当てる。
冷たい土塊の奥へ、じわり……血が染み込んでゆく。どんどん小さくなって行き、遂に跡すら無くなってしまった其処に不安を覚え、彼に尋ねた。
「ねえ……これで、悠真は俺の人形様?」
「……ああ、アヤだけのもんだ。アヤの望みは何でも叶えてやる。欲しいものも、要らないものも、いくらでも」
「なんでも……?」
「おう。俺は業突く張りの人形だからな」
胸の奥から、感じた事の無い愉悦が溢れて来る。
俺の望みを、俺だけの悠真が叶えてくれると言う。
それはなんて魅力的な甘露なのだろう。
「教えてくれ。お前は何を望む?」
「のぞみ……」
何でも良いと彼は言っていた。
強く望むもの。今、一番欲しいもの——。
「ぎゅってして」
「抱き締めて欲しいのか?」
「うん……あったかいのが、欲しい」
愛されてないわけではないと思う。だが、フィルターが掛かってる。
本家の跡継ぎ。それが第一。俺個人ではない。
俺はまだまだ幼い子供だが、それくらい感じ取れる。
贅沢なのかもしれない。しかし、誉め言葉より、もっと別のものが欲しい。
「……ふはっ、」
「悠真……?」
くつくつと愉快そうに喉を鳴らす土人形に小首を傾げれば、悪ぃ、と気持ちの篭っていない謝罪を寄越して来る。
「随分可愛い欲だなと思ってさ」
「なっ……馬鹿にしてるでしょ!」
「してねえよ、人間らしいっちゃらしいしな」
「人らしい? ——ひゃっ!」
厚みのある、暖かなものが俺の右手を握った。
驚愕から反射的に顔を向ければ、健康的な肌を持つ人間の手が、俺のそれを包んでいる。
誰のもの——など、愚問だ。
大きく節張った手の続く先をそろりと窺い、息を飲む。
切れ長の金眼が、口の端を上げて笑う男性が、愉快そうに俺を見下ろしている。
生身の人間が、俺の手を握っている。
「な、んで……」
「こっちの方が良いだろ?」
人に、成った。
土で出来た人形様が、精悍な男性に成った。
目の前で起きた不思議に瞠目していると、繋いだ手がするりと解けて、
「アヤ」
呼ばれた名前に、ひくりと肩が震える。
優しい声。
家族や縁者、教師に学友——俺を囲む人々とは違う、俺自身を見て、ただのアヤとして呼んでくれる声。
頬がじわじわと熱を帯びてゆく。鼻の奥がつんと痛み、込み上げる涙に唇を噛む。
そんな俺へ、静かな微笑を浮かべた彼は、
「おいで」
柔らかい動きで諸腕を広げた。
堪らず彼の胸に飛び込み、大きな身体に身を預けた。
壊れ物や貴重品を扱うように、丁寧に。
まるで俺を隠すように包み込んでくれる体温が嬉しくて。
彼の着物を握り締めたまま、声を押し殺して泣いた。
これなのだ。
賞状も花丸も要らない。一番など欲しくない。
この温もりが欲しかったのだ。
人形様に触れてはいけないなど、ご先祖様たちは損である。
こんなにも多幸感を得られるというのに。
「知ってっから」
「ん……」
「アヤが色々我慢して、頑張ってるってさ」
「……うんっ、」
「いくらでも甘えればいい。俺の前で我慢なんかすんな」
「ふ……ぅっ、……ゆうまぁ……」
何故、俺の欲しい言葉が解るのだろう。
人形様だからか。否、違う。
悠真だから、解るのだ。
不意に、ぽんぽんと背中を叩かれる。顔を上げれば、優しい笑みが目の前に広がっていた。
初めて見る彼の瞳が、ゆらりと揺れる。
他の人形様がどうかは知らぬが、彼の欲は恐らく、俺の願いを叶える事で満たされるのだろう。
瞳孔の細い、猫のような金眼が言っている。
今、満足していると——そう言っているのだから。
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