彼は政略結婚を受け入れた

黒猫子猫

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痴話げんか

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 ジャックスは湖の方を向いたまま黙っている彼女を見つめ、更に続けた。

「探したぞ。昨夜、王宮に来たそうじゃないか。なんで俺に会わずに帰ったんだ?」
「⋯⋯ごめんね」

 ようやくぽつりと呟いたアネットに、ジャックスは言葉を失った。一か月、ずっと会いたくてたまらなかった彼女が黙って帰ってしまった事に苦々しく思わなかったわけではない。それでも、まだ留まっていてくれただけでも嬉しかったから、強く責めたつもりはなかった。
 彼女の謝罪に心が騒めく。まるで自分がここに存在していること自体が、悪だと言っているかのように思えたからだ。

「おい⋯⋯?」
「昨夜、クローディア様に会ったよ」

「あぁ。お前の事を彼女から聞いたんだ」
「とても良い方だね。初対面の私にも優しくしてくれたの」

「そうだな。それに見かけによらず、芯もかなり強い。王宮に来た時、周囲の男を蹴散らして圧倒していた。だから、結婚もすんなり決まったんだ。まぁ⋯⋯一生尻に敷かれそうだが、仕方ないな」
「⋯⋯そう。良かったね」

 ずきりと、アネットの心が痛む。せめて清々しく別れようと思っていた。泣き出してしまいそうになる自分を懸命に抑えたつもりだった。ジャックスはアネットがちっとも自分を見ようとしない上、どこか余所余所しい事に気づき、怪訝そうな顔になった。

「⋯⋯彼女はお前が喜んでくれていたと言っていたが、違ったのか?」
「そんなことない。赤ちゃんが産まれるのは素晴らしい事だし、貴方は私の⋯⋯だもの。嬉しいよ」

「何を言っているんだ、お前は」

 不満そうな彼の声に、アネットの瞳は不安で揺れる。唯一、心の拠り所であった事も、消えてしまいそうな気がして、恐る恐る訊ねた。

「⋯⋯違った?」
「いや、確かにお前は俺の戦友だが――――普段、友達だと思った事は一度もない」

 きっぱりと言い切られて、アネットは唇を噛み締める。泣いちゃだめだ、と何度も堪えようとしたが、どうしても苦しい。

「⋯⋯でも、キスをしてくれた⋯⋯」
「あれは、そういう意味じゃない。お前も分かっているんじゃなかったのか?」

 彼にとってのキスは、愛でも、友情でもなかった。なんとも思っていない相手にも――――できるのだ。
 アネットの目は潤み、母竜が見合い相手を告げた時、一緒に言われた事も頭を過った。

『よいか。我らは、交わりに恋愛感情を持つ必要はない。会ったばかりの相手でも、雌は発情していれば身体が受け入れる事もあるのだ。見合い相手に触れられて、まあ許せると思えたなら、それで十分だと心得よ。子さえ宿せば、雄に用はない』

 結局、触れられるどころか、近寄られるのも嫌で、アネットの見合いは破談になった。

 ただ、自分に何の感情も持たなかったジャックスからのキスを、喜んで受け止められていた。別の見合い相手では受け入れられるのかもしれない。

「⋯⋯ごめん。ちょっと勘違いしていたみたい」

 戦時中は、頼もしい戦友だったが、今はもう平穏な日々だ。人と水竜、本来は相いれない存在だという母の言葉は的を射ている。彼は人としての幸福を追い求めようとしているから、自分も竜として責務を果たそう。間違っても、彼をつがいにしてはいけない。

「なに?」
「でも、安心して。もう大丈夫」

 そう呟いて、アネットはようやく立ち上がったが、やはり背を向けたままだ。言いながら涙目になっているせいだが、彼は訳が分からない。

「一人で納得するな。嫌な予感がするから、はっきり言え」
「クローディアさんと、どうぞお幸せに!」

「お前、何言って――――」

 戦場で誰よりも冷静だった男は珍しく声を荒げたが、アネットは勢いのままに言った方がいいと、彼の言葉を遮った。

「私も頑張ってお見合いを続けて、子供を産むからね!」

 ジャックスは再び凍りつき、大きく息を吐いた。二度目であるにも関わらず、受けた衝撃は強烈である。しかも一か月も離れていたこともあって、今度は我慢できなかった。

「⋯⋯強引に見合いをしやがったか。アネット⋯⋯俺をあまり怒らせるなよ?」

 苛立ちのあまり、彼女の腕を掴み、強引に振り向かせた。そして、泣き腫れた目をしたアネットに絶句し、次いで彼女が顔を真っ赤にして睨んできて、混乱に拍車がかかる。

「いいから離して。貴方はもう私に触らないで!」

 ジャックスに抱き締められて、懸命に身をよじって逃れようとしたが、びくともしない。
 挙句にアネットはその瞬間凄まじい覇気を感じた。腕は頑なでびくともしないが、彼を纏う空気が、それこそ周囲の木々を吹き飛ばしてしまいそうだった。恐る恐る見上げてみれば、見たこともないほど激怒した青の瞳が見据えてくる。

「だったら⋯⋯他の誰にさせる気だ。見合い相手か? もう交尾した後か」

 アネットは何故か彼の逆鱗に触れたことは分った。
 しかし、どうしたらいいかはわからない。

「ま、まだ、触れられてないけど⋯⋯」
「そうか、良かったな。相手を俺に殺されるところだったぞ」

 目を丸くするアネットを軽々と肩に担ぐと、彼は馬に向かって歩き出す。

「ちょ⋯⋯っ降ろして!離してーっ」

 アネットの叫びをまるで無視したジャックスは、そのまま彼女を王都へと連行した。



 クローディアは昨夜と同様に、侍女たちと共にのんびりと王宮の庭を散策していた。その表情は穏やかなものだったが、ジャックスがアネットを肩に担いできたのには目を見張る。
 呆気にとられる彼女達の前で、ジャックスはアネットをやっと降ろしたが、すかさず逃げようとした彼女の頭に容赦なくドスッと肘を乗せた。

「つ、潰れる⋯⋯」
「逃げようとするからだ」

 苦情を言ったアネットに、彼は冷笑する。なんと言えばいいか困ったクローディアは、昨夜あっという間に去っていったアネットに対して、
「お、お帰りなさい⋯⋯?」
と、声をかけた。
 途端にアネットが情けない顔になって黙り込み、ジャックスはそんな彼女を見て怪訝そうに眉を顰める。

「どうやら貴女に気を回して、色々と遠慮したようだ」
「あの⋯⋯ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」

「貴女にも謝られる事じゃない。大本の原因はあのバカだ。重ねて、責任を取らせる。殴るだけではすまさん」

 クローディアとしてはそれが一番困るのだが、殺気立っているジャックスに何も言えない。

「貴女からもアネットに説明してほしい。何やら勘違いしているようでな。拗ねて、ここに来る間も俺の話に聞く耳をもたないんだ」
「いいえ、分かってる! 貴方の方が分からず屋だ!」

 アネットは必死で抗議する。子供みたいな扱いをしないでほしいと憤慨するが、ジャックスの鋭い眼光に、うっと詰まってしまう小心者である。

「俺の話をまともに聞こうともせず、また見合いをしてやると叫ぶ奴の、どこが分かっているというんだ」
「いいから、離して。貴方を頑張って忘れてみるから、私は大丈夫!」

「ふざけるな。だから、それのどこが大丈夫だ!?」
「じゃあ、貴方の事を考えないようにする!」

「一日中でも考えろ! 俺がどれだけ⋯⋯っこら、耳を塞ぐな!」

 両者の喧嘩を呆気に取られて見ていたクローディアは、とうとう吹き出した。

「沈着冷静なジャックス様も、アネット様の前では違うのですね。私が王家の姫というだけの立場だったとしても、結果は同じでしたわ」

 我に返ったジャックスは苦い顔をして、完全に膨れているアネットにため息をついた。

「俺は最初から、彼女以外考えられない」
「えぇ、噂でもよく聞き及んでいました。ですが、これ程とは思いませんでしたわ」

 和やかに話す二人に、アネットはいたたまれなくなってくる。散々泣いたはずなのに、やはり目の当たりにすると違うのか、目じりに涙が滲み、雑に拭った。それに気づいたジャックスが、血相を変える。

「⋯⋯おい⋯⋯アネット。泣くのだけは止めろ」

 ぽろぽろと大粒の涙を零し始めた彼女を、ジャックスは慌てて抱き締める。彼女がまた逃れようとしたのが分かる。しかも、力で敵わないと理解したのか、今度は身を強張らせてしまった。
 もどかしく、すすり泣いているアネットが小刻みに震えている姿が痛ましい。ジャックスは天を仰いだ。

 そこに騒ぎを聞きつけてやって来たのは、宰相とラグナである。二人は目を丸くした後、宰相は冷ややかにラグナに告げた。

「状況がよく分かりませんが⋯⋯貴方に責任の一端がある事は間違いありませんね」
「えっ、これもですか!?」

「ジャックス様のおっしゃる通り、貴方は去勢きょせいした方がよい」
「か、か、勘弁してください⋯⋯」

 呻いたラグナは、クローディアと目が合った。にっこりと笑ってくれた彼女に、ラグナは半泣きになって首を横に振る。

 そうしている間にも、ようやくアネットは泣き止んだので、ジャックスも腕から離れることを許した。うつむいた彼女を見て、これ以上泣かせまいと静かに尋ねる。

「お前、一体どうした? 昨夜ここに来た時も、様子がおかしかったそうだが」
「⋯⋯クローディア様が、身籠られていて⋯⋯少し驚いたの」

「あぁ⋯⋯知らなかったのか」
「⋯⋯うん。でも、おめでたいことだから⋯⋯」

「そうだな。お前の言う通り、彼女はとても賢明で芯の強い女性だ。良い子が産まれるだろう――――」

 ジャックスは穏やかに微笑む。彼は幸せなのだと、アネットは理解し、二人に祝いの言葉をかけようとしたが。

「――――父親はアレだが、それは影響しないと信じている」
「⋯⋯ん?」

 宰相は強く頷き、クローディアはやはり微笑んで。アネットは目を真ん丸にして、ジャックスを見あげた。

「どうした?」
「あれって⋯⋯?」

「だから、アレだ。あのバカだ」

 ジャックスが指さしたのは、なんとも気まずげな顔をしていたラグナだった。
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