彼は政略結婚を受け入れた

黒猫子猫

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いなくなった彼女

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 アネットは朦朧もうろうとしていた。

 ジャックスに彼の寝室へと連れていかれた時までは、まだ自分もしっかりしていた、と思う。しかし、彼に寝台へ押し倒された後、繰り返された甘いキスに堕ちて、頭がまともに働かない。
 頬を真っ赤に染めて、潤んだ瞳で自分を見つめる彼女を見つめ、ジャックスは笑みを深める。

「これから俺に何をされるか、分かるな?」
「⋯⋯うん。でも、人がこんな事をするなんて⋯⋯思ってなかった⋯⋯っ!」
「でも、良いだろう? お前はキスをされるのが好きそうだな」
「知らない⋯⋯!」

 頬を赤く染めて、アネットは意地を張ったが、すぐにジャックスに唇を奪われる。それだけで、アネットの心はとろけそうになった。

「⋯⋯アネット。俺だけを見ていろ。人間だろうが、竜族だろうが⋯⋯他の誰よりも、お前だけを愛してやる」

 情熱を孕んだその声は、彼に翻弄され続けているアネットの耳にも確かに届いた。アネットは勇気を振り絞り、彼の背に腕を回して抱き着く。

「ジャックス⋯⋯ずっと⋯⋯一緒に⋯⋯」
「あぁ。⋯⋯お前と出会えて、良かった」
ジャックスはまるで宝物に触れるように大切に、そして激しくアネットを愛した。


 夕方になって、アネットは一人目を覚まし、体を起こした。
 傍らに目を落とせば、ジャックスが静かな寝息を立てていた。激しい気性を垣間見せることもある彼の寝顔は穏やかで、アネットはしばらく魅入ってしまう。

 そして、意を決して彼の身体にかかっていた毛布をそっとずらし、両手を確かめる。

 竜のつがいである人間は、手の甲に竜の紋章が現われる。
 想いが深まり絆が強くなれば、色濃くなって消えなくなる。身体を重ねれば、更に効果的だという。逆に人が竜に応えなければ次第に薄れて無くなり、二度と現れなくなる。

 まるで、愛の証のような印だ。

 竜の番であれば、共に長い月日を生きられる。戦場に立つ彼に万が一の事があっても、彼を護り転生させる事ができるかもしれない。
 だが⋯⋯。

「⋯⋯ない⋯⋯」

 アネットは震える声で呟いた。ジャックスの手の甲のどちらにも、何も見当たらなかった。長く見つめていても、現れる兆しがない。

 ――ジャックスは⋯⋯私の番じゃない。

 頬に涙が伝い、母竜の言葉が頭を過った。
『相手に、すでにそなたに想いがなければ、もしくは番ではなかったのならば――今度こそ、海に戻れ。我ら水竜と人の共存は不可能だ』
 
 どんなに彼が愛してくれても。
 私が彼を愛しても。
 ずっと一緒にいたいと願っても。
 出会えた奇跡が尊いと思っても。

 人と竜の深い絆の証が、彼には無い。あっという間に彼は老いて、逝ってしまうだろう。
 アネットの胸を絶望が占める。
 耐えられない、と思った。




 その日の夜、ジャックスは昔の夢をみた。
 家族と過ごした、穏やかな日々。同じ志を持った戦友たちとの出会い。
 そして、別れの日だ。

 打ち寄せる波に部下たちの亡骸が揺れ、やがて海にのまれて見えなくなった。生き残った者たちは、ただ黙って見送るしかない。

「お前の両親も⋯⋯よく頑張ったぞ、チビ」

 ジャックスは自分の足にしがみつき、親を失って泣きじゃくる幼子にそう呟いて、慰めた。

 激戦をくぐり抜けた上での死、それであれば、まだ覚悟の上でもあっただろう。だが、彼らの死因となったのは、戦後に起こった権力争いに巻き込まれたせいだ。かつて仲間だった者達は、いつしか憎しみあい、殺し合うようになった。

 ジャックスは何度も仲裁に入ったが、争いは止まらず、大勢の死傷者を出した。
 部下たちも割れた。それぞれ親好のあった者たちに誘われ、彼らを見捨てられないと、去っていた。
 そして、望まぬまま敵対し、互いに傷つけ合い、死んで海に還ったのだ。

「⋯⋯俺は二度と奴らに手を貸さない」

 隣に立った戦友の一人が、激怒と憎悪を滲ませながら呟いた。ジャックスは彼に視線を向け、その瞳が深く傷ついているのに気づく。

「そうか」
「お前はどうするつもりだ」

「⋯⋯放ってはおけない。俺が見捨てて去ったら、罪のない者がさらに巻き込まれて被害をこうむる」
「相変わらず甘い奴だ。また利用されるのが分かっていて、お前まで手を貸す気か」

 冷ややかに告げた彼は、ジャックスがその場にいる誰よりも深手を負っているのを見抜いていた。そして、彼自身もまた全身を朱に染めている。別の地で裏切りにあって、仲間達を庇ったために受けた傷だ。

「それが、俺たちの選んだ道だ」
「俺は違う。馬鹿らしい」

 吐き捨てるように言って去っていった男を、ジャックスは無言で見送った。
 その後、友と会う事はなかった。

 ――⋯⋯今頃、どこで何をしているんだか。

 ジャックスはそんな事を心の中で呟いて、わずかに口元を緩めた。

 一つ、また一つと、時間と共にゆっくりと思い出していたことが、ようやく全て繋がったからだ。大事なものたちを失った苦しい過去もあったが、苦痛ばかりではなかった。
 満たされた思いも感じたのは――生きてきた中で、初めて惹かれた少女を愛せたからだろう。
 自分の中で曖昧で不安定だった事が消え、彼女にありのままの姿で向き合える。



 ジャックスは、ゆっくりと目を開けた。
 だが、腕の中に抱きしめていたアネットの感触がない。さぁっと血の気が引いていく。

「アネット⋯⋯?」

 返事もない。一気に目が覚めて、ジャックスは跳ね起きた。

「どこに行った⋯⋯っ!」

 身体にかかっていた毛布を跳ねのけ、飛び起きた彼の心臓は早鐘を打つ。静まり返った室内を見つめ、額と手から嫌な汗が滲んだ。

 行動派のアネットは目を離すと、本当に危なっかしい。真面目で、それでいて頑固で。戦が終わったら帰るという約束も、きっちりと果たし、自分の元を去っていった。

 王を失ったままの都を離れる訳にいかず、理解を示したが。
 その後は、地獄でしかなかった。

 アネットは一族の竜と見合いをすると言っていた。初心うぶな彼女の事だから、すんなりと話はまとまらないはずだろうと思っていても、どうにも落ち着かない。もしも、自分が使った『非常手段』が通じず、運命の相手に出会ってしまったら――。

 そんな悶々とした日々を送ってきただけに、再会できた時は喜びも大きかったが、彼女はまだ見合いを諦めていなかった。寝室に連れ込んで手管てくだで堕とし、彼女に愛をささやいて、応えてくれたようにも思えた。

 それでも、彼女はいなくなった。

 ――――俺は、どうすれば良かった⋯⋯?

 かつて戦友たちが全て去り、孤独と虚しさが心を占めた時と同じ思いがこみ上げる。

 今回も、王都奪還のために挙兵した際、水竜たちは関与を拒絶した。しかし、彼女は陸では非力になることも構わず、故郷を捨てて、助力したいと名乗り出てくれた。人として生きてきたことが無かった彼女が、どれほど勇気を振り絞ってくれたか、分からぬジャックスではない。

 まずは周りの人間とうまく関わりを持ち、戦場で生き抜く術を教えなければならない。アネットは純粋で、いつだって勉強熱心だった。プライドばかり高くなった水竜の一族であるにも関わらず、人間達を見下しもせず、敬意をもって接していた。
 そんな彼女に、ジャックスは日を追うごとに惹かれた。
 可愛くて、愛おしくて、仕方がない。
 ザッフィーロをルーフスの手から守らなければならないと思って始めた戦は、いつしか彼女のために、という思いが強くなっていった。
 だが、戦時中に自分の思慕を伝える事は、戦いに集中する彼女の邪魔になりかねず、後回しにした。断片的に蘇ってくる過去を話すことも、彼女を混乱させるだけだろうと、口を閉ざしてきた。

 ようやく想いが届く――――と思った時、いつもアネットは去っていく。

 今度はどうしたらいい。また追いかけて、さらなる強硬手段を使うか。それとも説き伏せればいいか。逆にあえて静観してみるべきか。分からない。

 いつものような冷静な思考ができず、そうしている間にも彼女が遠のいていく気がした。あまりの喪失感に吐き気を覚える。額から冷や汗が吹き出し、手が小刻みに震えた。

 戦が終われば、彼女の身も心も捕える。自分ならば捕えられる。
 そんなおごりのような自信を、彼女は見抜いていたのかもしれない。

 ジャックスは顔を歪め、大きく息を吐いた。
 ――⋯⋯また、誰もいなくなったな⋯⋯。
 静まり返った寝室を、ジャックスがぼんやりと空虚な目で見つめていた時。

「んー⋯⋯」

 足元から寝ぼけた声が聞こえてきて、ジャックスは息をのむ。すぐに目を落とした彼は、泣き笑いの顔を浮かべた。

「あぁ⋯⋯そこにいたのか」
 ――そこにいてくれたのか。

 アネットは身体を丸めて、穏やかな顔をして眠っていた。竜族はとぐろを巻いて眠る事が多い。彼女は人の姿になってもその癖は抜けきらないらしく、戦場の夜営時にも、丸まり小さくなって寝ていたものだった。

「寝相が悪いぞ」

 そう呟きながらも心から安堵して、体をずらしてアネットの横に寝転ぶと、彼女の体に毛布を掛け、額にキスをした。
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