1 / 9
1.離縁して
フィオナは夫を見つめ、決別の言葉を告げた。
「離縁して」
夫婦関係の終焉を告げる言葉を口にするのは、もう何度目か分からなかったが、相変わらず胸の奥が疼くように痛む。
だが、彼は今日もぴくりとも表情を変えなかった。悠然とフィオナを見返し、琥珀色の瞳をすっと細め、濡れた唇の合間から洩れていた息を少し整えたくらいだ。
ただ、真っ直ぐに見返してきたから、今日は話を聞いてくれるようだとフィオナは思った。
フィオナは期待をこめて、もう一度言った。
「離縁してください」
「聞こえている。何度も繰り返すな。子どもか?」
淡々とした彼の声に、フィオナは火照っていた身体が少し冷えると同時に、心の中でぷつ、と何かが切れそうになる。
数多の女性たちに絶賛されているという美声だが、こんな冷淡な声音は誰も聞かないに違いない。聞かないほうがいい。きっと恋も冷めてしまうだろう。
彼に盲目的な初恋をした馬鹿な小娘も、今頃になってようやく目が覚めたのだ。当時に戻れるなら、声を振り絞って止めておきなさいと自分を叱れる。あのときの自分の目が覚めるかどうかは、怪しいが。
「貴方こそ不貞腐れた子どものような顔ばかりしていないで、ちゃんと返事をして」
フィオナにしてみれば精一杯の皮肉を言ったつもりだったが、彼は鼻で笑った。
そんな笑みさえも、端正な顔立ちをしているだけに何だか魅力的だ。フィオナはつい見惚れてしまいそうになり、慌てて視線を外す。彼の魅力に惹きこまれ、黙らされてきたという痛い経験もある。
――いい加減に学習しなければ……。
自省するフィオナに、まったく反省の色が見えない夫の冷淡な返答があった。
「俺は呆れているだけだ。お前が飽きもせずに駄々をこねているものだからな」
――駄々じゃないわ!
そう叫びたくなるのを、フィオナはぐっと堪えた。
彼は多忙になったとかで、結婚して日が経つにつれて、不在がちになった。一週間近く、顔を合わせなかったこともある。次に会えるのはいつか分からないし、フィオナの元に来てくれたとしても、話が長続きするかどうか定かではない。ひどい時には自分の顔を見ただけで、無言で引き返されてしまったときもあった。
話が成立しているのに、機嫌を損ねるのは賢明ではない。
口約束でもいいから、返事をもらえるまで粘ってみていいはずだ。
フィオナは意気込み、改めて夫を見つめた。
「…………」
喉元まで出かかっていた言葉が、ごくりと息を呑んだと同時に一瞬流れた。
夫の深緋色の短髪は少し長めで、今は絹のシーツの上へ僅かに広がっている。額から汗が伝い落ち、精悍な顔をより扇情的に見せた。
鍛えぬかれた男の身体の熱さは、上に跨っているフィオナも、肌から十二分に感じていた。何とか上半身を起こして夫に離縁を迫ってはいたが、ずっと腰を撫でている彼の大きな手が気になって仕方がなかったのも事実だ。
体を重ねた後で離縁を求めるなど滑稽だが、彼は宮を訪れるとすぐにフィオナを求めてくるので、順序はいつも逆になる。先に話をしようとしても、遮られるのが常だった。
ようやくというときになって、今度は夫の美貌が邪魔をする。
天界に暮らす『天界人』と呼ばれる者の中でも、彼の美は突出していた。むしろフィオナが彼に嫁いだときに比べて、艶やかさは増す一方だ。
――見惚れている場合じゃないのに……。
必死で思考を取り戻そうとしたが。
「フィオナ、もう一度だ」
夫の微笑はいつしか魅惑的な眼差しへと変わっていた。
「あ……だ、め……っ!」
そう訴えたのは、濡れた太腿を撫でていた彼の手がさらに上へと這ったためだ。
既に彼は全裸の姿を晒していたが、フィオナはまだ夜着を羽織っていた。とはいえ、胸元は大きく肌蹴られて口づけの痕が幾つも刻まれている。
全裸を彼に晒すよりはと思っていたが、激しく交わったために汗をかいて身体に張りつき、非常に恥ずかしい。
ただ、彼は冷静そのものだ。
「確かにだめだな。自分で俺に跨っておいて、あの程度か? もっといい声で啼けるだろう」
言葉を混ぜっ返されたことは分かっても、フィオナはもう彼を詰れなかった。抱き寄せられて、言葉を発しようとする口を、唇で塞がれたからだ。
散々抱かれたあとで離婚を切り出しても、およそ戯言にしか聞こえないであろうことくらいは分かっている。
だが、彼はここでしか話を聞いてくれないのだ。
自ら率先して動き、早く済ませてしまうほうがいいと思ったが、浅慮だったと思い知る。
「ルティアス……」
話を聞いてほしいと夫の名を呼んだ声は、すぐにすすり泣きに変わった。
困るのは――自分の身体は篭絡されていて、抱かれている時はおよそ抗えないことだった。
「離縁して」
夫婦関係の終焉を告げる言葉を口にするのは、もう何度目か分からなかったが、相変わらず胸の奥が疼くように痛む。
だが、彼は今日もぴくりとも表情を変えなかった。悠然とフィオナを見返し、琥珀色の瞳をすっと細め、濡れた唇の合間から洩れていた息を少し整えたくらいだ。
ただ、真っ直ぐに見返してきたから、今日は話を聞いてくれるようだとフィオナは思った。
フィオナは期待をこめて、もう一度言った。
「離縁してください」
「聞こえている。何度も繰り返すな。子どもか?」
淡々とした彼の声に、フィオナは火照っていた身体が少し冷えると同時に、心の中でぷつ、と何かが切れそうになる。
数多の女性たちに絶賛されているという美声だが、こんな冷淡な声音は誰も聞かないに違いない。聞かないほうがいい。きっと恋も冷めてしまうだろう。
彼に盲目的な初恋をした馬鹿な小娘も、今頃になってようやく目が覚めたのだ。当時に戻れるなら、声を振り絞って止めておきなさいと自分を叱れる。あのときの自分の目が覚めるかどうかは、怪しいが。
「貴方こそ不貞腐れた子どものような顔ばかりしていないで、ちゃんと返事をして」
フィオナにしてみれば精一杯の皮肉を言ったつもりだったが、彼は鼻で笑った。
そんな笑みさえも、端正な顔立ちをしているだけに何だか魅力的だ。フィオナはつい見惚れてしまいそうになり、慌てて視線を外す。彼の魅力に惹きこまれ、黙らされてきたという痛い経験もある。
――いい加減に学習しなければ……。
自省するフィオナに、まったく反省の色が見えない夫の冷淡な返答があった。
「俺は呆れているだけだ。お前が飽きもせずに駄々をこねているものだからな」
――駄々じゃないわ!
そう叫びたくなるのを、フィオナはぐっと堪えた。
彼は多忙になったとかで、結婚して日が経つにつれて、不在がちになった。一週間近く、顔を合わせなかったこともある。次に会えるのはいつか分からないし、フィオナの元に来てくれたとしても、話が長続きするかどうか定かではない。ひどい時には自分の顔を見ただけで、無言で引き返されてしまったときもあった。
話が成立しているのに、機嫌を損ねるのは賢明ではない。
口約束でもいいから、返事をもらえるまで粘ってみていいはずだ。
フィオナは意気込み、改めて夫を見つめた。
「…………」
喉元まで出かかっていた言葉が、ごくりと息を呑んだと同時に一瞬流れた。
夫の深緋色の短髪は少し長めで、今は絹のシーツの上へ僅かに広がっている。額から汗が伝い落ち、精悍な顔をより扇情的に見せた。
鍛えぬかれた男の身体の熱さは、上に跨っているフィオナも、肌から十二分に感じていた。何とか上半身を起こして夫に離縁を迫ってはいたが、ずっと腰を撫でている彼の大きな手が気になって仕方がなかったのも事実だ。
体を重ねた後で離縁を求めるなど滑稽だが、彼は宮を訪れるとすぐにフィオナを求めてくるので、順序はいつも逆になる。先に話をしようとしても、遮られるのが常だった。
ようやくというときになって、今度は夫の美貌が邪魔をする。
天界に暮らす『天界人』と呼ばれる者の中でも、彼の美は突出していた。むしろフィオナが彼に嫁いだときに比べて、艶やかさは増す一方だ。
――見惚れている場合じゃないのに……。
必死で思考を取り戻そうとしたが。
「フィオナ、もう一度だ」
夫の微笑はいつしか魅惑的な眼差しへと変わっていた。
「あ……だ、め……っ!」
そう訴えたのは、濡れた太腿を撫でていた彼の手がさらに上へと這ったためだ。
既に彼は全裸の姿を晒していたが、フィオナはまだ夜着を羽織っていた。とはいえ、胸元は大きく肌蹴られて口づけの痕が幾つも刻まれている。
全裸を彼に晒すよりはと思っていたが、激しく交わったために汗をかいて身体に張りつき、非常に恥ずかしい。
ただ、彼は冷静そのものだ。
「確かにだめだな。自分で俺に跨っておいて、あの程度か? もっといい声で啼けるだろう」
言葉を混ぜっ返されたことは分かっても、フィオナはもう彼を詰れなかった。抱き寄せられて、言葉を発しようとする口を、唇で塞がれたからだ。
散々抱かれたあとで離婚を切り出しても、およそ戯言にしか聞こえないであろうことくらいは分かっている。
だが、彼はここでしか話を聞いてくれないのだ。
自ら率先して動き、早く済ませてしまうほうがいいと思ったが、浅慮だったと思い知る。
「ルティアス……」
話を聞いてほしいと夫の名を呼んだ声は、すぐにすすり泣きに変わった。
困るのは――自分の身体は篭絡されていて、抱かれている時はおよそ抗えないことだった。
あなたにおすすめの小説
皇太子殿下は、幼なじみに触れていないと落ち着かない
由香
ファンタジー
幼い頃から一緒に育った皇子は、なぜか距離が近すぎる。
後ろから抱きしめられ、手を取られ、頬に触れられるのが当たり前の日常。
やがて彼は皇太子となるが――その距離は変わらないどころか、むしろ深まっていき。
「触れていないと、落ち着かない」
公の場でも離してくれない彼の執着に、周囲は騒然。
けれどその腕の中は、どうしようもなく安心してしまう。
これは、幼なじみの距離のまま始まる、逃げ場のない溺愛の物語。
虚弱姫はコワモテ将軍の筋肉に触りたい
隙間ちほ
恋愛
◼︎無骨な英雄×病弱な筋肉フェチ姫
◼︎辺境伯の末娘エルナは、領軍の英雄マテウスとの結婚が決まった。政略結婚――のはずが、実は姫は将軍の熱烈なファン。姫がノリノリで嫁ぐ一方、当のマテウスは「か弱い姫君に嫌われている」と思い込み、距離を取ってしまう……。
◼︎筋肉と鼻血とすれ違いラブコメ。
◼︎超高速展開、サクッと読めます。
警察官は今日も宴会ではっちゃける
饕餮
恋愛
居酒屋に勤める私に降りかかった災難。普段はとても真面目なのに、酔うと変態になる警察官に絡まれることだった。
そんな彼に告白されて――。
居酒屋の店員と捜査一課の警察官の、とある日常を切り取った恋になるかも知れない(?)お話。
★下品な言葉が出てきます。苦手な方はご注意ください。
★この物語はフィクションです。実在の団体及び登場人物とは一切関係ありません。
今さら遅いと言われる側になったのは、あなたです
阿里
恋愛
夜会で婚約破棄された私は、すべてを失った――はずだった。
けれど、人生は思いもよらない方向へ転がる。
助けた騎士は、王の右腕。
見下されてきた私の中にある価値を、彼だけが見抜いた。
王城で評価され、居場所を得ていく私。
その頃、私を捨てた元婚約者は、転落の一途をたどる。
「間違いだった」と言われても、もう心は揺れない。
選ばれるのを待つ時代は、終わった。
触れられないはずの私が、ただ一人の彼にだけ心も体も許してしまいました
由香
恋愛
男性に触れられると体調を崩す令嬢リリア。
そんな彼女にとって唯一“触れられる”存在は――幼なじみの公爵令息レオンだけだった。
手を取られ、抱き寄せられ、当たり前のように触れられる日々。
それがどれほど特別なことなのか、彼女はまだ知らない。
やがて政略結婚の話が持ち上がり、“触れられない相手との結婚”か、“彼に触れられる人生”かを選ぶことに。
「お前に触れていいのは俺だけだ」
逃げ場のない独占と、甘すぎる溺愛。
これは、触れられないはずの少女が、ただ一人にだけすべてを許していく物語。
片想いの相手と二人、深夜、狭い部屋。何も起きないはずはなく
おりの まるる
恋愛
ユディットは片想いしている室長が、再婚すると言う噂を聞いて、情緒不安定な日々を過ごしていた。
そんなある日、怖い噂話が尽きない古い教会を改装して使っている書庫で、仕事を終えるとすっかり夜になっていた。
夕方からの大雨で研究棟へ帰れなくなり、途方に暮れていた。
そんな彼女を室長が迎えに来てくれたのだが、トラブルに見舞われ、二人っきりで夜を過ごすことになる。
全4話です。
田舎の幼馴染に囲い込まれた
兎角
恋愛
25.10/21 殴り書きの続き更新
都会に飛び出した田舎娘が渋々帰郷した田舎のムチムチ幼馴染に囲い込まれてズブズブになる予定 ※殴り書きなので改行などない状態です…そのうち直します。
【完結】 君を愛せないと言われたので「あーそーですか」とやり過ごしてみたら執着されたんですが!?
紬あおい
恋愛
誰が見ても家格の釣り合わない婚約者同士。
「君を愛せない」と宣言されたので、適当に「あーそーですか」とやり過ごしてみたら…?
眉目秀麗な筈のレリウスが、実は執着溺愛男子で、あまりのギャップに気持ちが追い付かない平凡なリリンス。
そんな2人が心を通わせ、無事に結婚出来るのか?